アドリアーナ=ルクヴルール
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第四幕その一
第四幕その一
第四幕 アドリアーナ邸
アドリアーナの家は意外と質素である。演劇と恋の事のみを想う彼女は贅沢というものにあまり興味を持ってはいないのだ。
三月のある日のことである。アドリアーナはその質素な自宅で休んでいた。この日は舞台も無くゆっくりと束の間の休みでその身体を休めていた。
ここは客室である。数個の椅子と机が置かれている。椅子は安楽椅子や肘掛け椅子もある。そしてかざり棚には彼女が今まで貰った記念品やトロフィが飾られている。
もう夕方になっている。赤い日が窓から差し込めている。まだ寒いが暖炉に火は無い。
そこへミショネがやって来た。この家の使用人に案内され部屋に入って来た。
「アドリアーナさんは?」
彼は尋ねた。
「奥様でしたら寝室におられますよ」
彼女は謹んで彼に答えた。
「そうか、彼女は休んでいるのか。それはいいことだ。休んでいる時位はせめて演劇の事を忘れた方がいい。さもないと疲れきり倒れてしまうからな」
彼は使用人の言葉を聞き満足気に心の中で呟いた。
「起きていれば否が応でも騒がしいこの世の中だ。女優に戻り演劇を考えなければならなくなる。しかし」
彼は寝室を見た。
「起きたら言って欲しいな。私を待っていた、と。儚い夢だが」
力無く微笑んでそう呟いた。その時寝室の中から鈴の音が聞こえて来た。
「はい」
使用人は寝室のドアの前へ行きノックした。そして中に入り後ろ手でそのドアを閉めた。
「起きていたのか。何だか嬉しいな」
彼は使用人が入って行くのを見届けて言った。
「心臓が激しく鳴っているな。年甲斐も無く」
彼は胸を押さえて独白した。
「鎮まるんだ。今さらどうにでもなるものではないしな」
そしてチョッキのポケットから懐中時計を取り出した。
「時計みたいに大人しく動くんだ。そして何時までもその想いを秘めておくんだ、いいね」
そう言って時計をポケットに戻した。
「しかし彼女が出て来るのが少し遅いような。着替えているのかな」
その時ふと気が付いた。
「いや、違ったな。彼女は今病気だった」
彼はそう言うと表情を暗くさせた。
「それも恋の病だ」
彼は顔を俯けた。
「心の病気はじわじわと苛む、それにもっと早く気が着いていればな」
彼の顔はさらに暗くなっていく。机の前に腰掛けた。ふとそこに紙とペンがあることに気付く。何か書きものをした。そこに使用人が戻って来た。
「マダムが今こちらに来られます」
彼女は微笑んでそう言った。しかし何処か事務的な声である。
「教えてくれて有り難う」
ミショネは彼女に対し礼を言った。そして立ち上がり彼女に今書いたものを手渡した。
「済まないがこれを買って来てくれないか。お金は渡すから」
そう言ってお金も手渡した。
「薬だよ」
「わかりました」
使用人は紙とお金を受け取るとその場を後にした。彼女はどうやら字が読めるらしい。
「ふう、これで良し。彼女が字を読めるのが幸いしたな」
彼はそう言って席に戻った。そこへアドリアーナが入って来た。
白い部屋着を着ている。顔色は良くない。表情も暗い。ミショネの言葉通りやはり何かしら心に悩みを持っているようだ。
ドアの端のところで立っている。動かない。それはまるで額縁の中の肖像画のようであった。
「ミショネさん、よく来て下さいました」
彼女は微笑んで言った。
「ええ。たまには顔を見せようと思いまして」
ミショネは席を立ち一礼して言った。
「あまり気分が優れないようですね。何故そのように顔を暗くさせているのです?」
その訳はよくわかっている。だがあえてそれを尋ねた。それは彼女の事が心配でならなかったからだ。
「眠れなかったもので」
彼女は答えた。力無い声であった。あの公爵夫人に見せた気丈さは何処にも無い。
「まだ忘れられませんか?」
マウリツィオが政治的事情で故郷に帰ってしまったのだ。彼女にとってそれは大きな痛手だったのだ。
健康を害した。そして舞台も休演し今こうして床に着いていたのだ。
「はい。忘れられるものではありません」
彼女は青い顔でそう言った。ミショネはその顔を見て言った。
「それはよくありません。早くふっ切れた方がいいです」
「それはわかっているのですが・・・・・・」
そうは出来ないのだ。それが人の心というものの難しさだ。
アドリアーナも忘れてしまいたかった。そうすれば楽になれるのだから。だがそれは忘れられる程想いの弱いものではなかったのだ。
想いが強ければ強い程人はそれを忘れられない。そしてその想いに悩まされ苦しめられるのだ。それも又人が人である由縁なのだ。アドリアーナはそういう意味でもあまりにも人間的であった。
「劇の事は?」
ミショネは話題を変えた。彼女が命を捧げるもう一つのものに。
「考えられません」
アドリアーナは頭を振って答えた。
「名声は?女優としての」
「そんなもの・・・・・・。砂上の楼閣ですわ」
事実であろう。この世にあるありとあらゆるものはそうである、という人もいる。
「芸術家としての・・・・・・」
ミショネはまだ言おうとする。どうしても彼女を振るい立たせてあげたかった。もう一度、あの女優として。
「自覚、ですか?それももう・・・・・・」
彼女はそう言って力無く笑った。彼女の沈んだ心はやはり起きなかった。
「・・・・・・・・・」
ミショネは沈黙した。どうしてもアドリアーナを起き上がらせたい、最後の手段に出た。
「もう一度舞台に戻って下さい。貴女を愛する人達もそれを待ち望んでいますよ」
「私を愛する人ですか?そんな人達が一体何処に・・・・・・」
「それは・・・・・・」
ミショネは次の言葉を言おうとする。だが中々言えない。口ごもってしまう。だが言った。
「今この場に」
「貴方がですか?」
「はい」
彼はここで先程の言葉を後悔した。言うべきではなかった、と思った。
「父親の様な、その暖かい気持ちで」
無難な言葉だった。そうとしか言えなかった。だがこの言葉こそ自分が言うに相応しい言葉だと思った。
「有り難うございます。貴方はいつも私の味方をしてくれます。けれどもう私はあの時から一時も動けないのです」
「あの時?それは何時ですか?」
ミショネは尋ねた。
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