アドリアーナ=ルクヴルール
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第三幕その七
第三幕その七
場が引き締まる。アドリアーナの口が開いた。
「天は常に正しく我々を見ている。それなのに私は何という事をしてしまったのだろう」
彼女は言った。それはまさしくラシーヌの悲劇からの台詞であった。
「もうすぐ帰って来る夫と息子。夫は私の淫らな恋の証を見るだろう、そして愛しいあの子の父の前で身を震わせ卑しく慄く私の胸は同時に虚しい溜息に充ちて波打つ。そして嘲りに私の目は涙に閉ざされるのだ」
こう言ったところで公爵夫人を見る。彼女はアドリアーナをしかと見据えている。その隣にはマウリツィオがいる。これはおそらく政治的な話をする為だろう。しかしアドリアーナにとってそれはどうでもよかった。憎い女の横に彼がいる事が一層彼女の炎を燃え上がらせた。
それは公爵夫人も同じである。この台詞が自分を指し示している事はよくわかっている。身体をワナワナと震わせながらアドリアーナを見据えている。
「英雄テセウスの行いを信じてくれるだろうか?誇り高く情けを知る彼なら私の事をあえて冒涜したりはしないだろう。そして彼なら父と夫である王を欺く私を許してくれるだろう。そして私の為に私の果てしない、心の底から湧き上がるこの恐怖を和らげてくれるのでないだろうか?」
テセウス、と言ったところでマウリツィオを見る。
「彼は沈黙を守り私は自分の忌まわしい欺瞞の行為を知っている。しかし自分が何をするべきかは知らない。私は何をどうすればいいのだろう」
公爵夫人は黙っている。心の中も黙っているが落ち着いてはいない。憤怒と憎悪で満たされているのだ。
「大胆で不純な心は裏切りに快感さえ覚えて。頑なに、決して恥を知ろうとはしない」
そう言うと公爵夫人の方を見た。そして指を少し拡げた手を上から下に、ゆっくりと、あえて優雅に手を振った。そしてその手を腰の高さで止め暫くそのままの姿勢でいた。客人達は暫し沈黙していたがやがて起立し拍手を送った。公爵や僧院長、マウリツィオも同じであった。
公爵夫人は暫く椅子に座っていた。アドリアーナの攻撃に唇を噛み顔を真っ赤にし身体を震わせていたが気を何とか鎮め立ち上がり拍手を送った。
「素晴らしい!」
皆口々に賛辞を送った。アドリアーナはそのままの姿勢でそれを受ける。目は公爵夫人を見たままである。
その目は笑っていた。目元が笑っていたのではない。瞳が笑っていたのである。
公爵夫人はその瞳を見ていた。彼女の瞳は怒りで猛け狂っていた。
拍手は長い間続いていたがようやく終わった。アドリアーナは姿勢を戻し客人達に一礼すると席に戻った。
その横にはミショネがいる。彼はそっとアドリアーナに囁いた。
「大胆な事をしたね。また気が強い」
「あら、何の事ですか?」
アドリアーナはとぼけて見せた。その顔は勝利で誇らしげに輝いていた。
公爵夫人はまだ怒りで震えている。そしてようやく心の中で呟いた。
(この怒り、必ず晴らしてやるわ・・・・・・)
そう呟くと隣にいるマウリツィオを見た。
(そして彼を必ず・・・・・・)
彼に声を掛けた。
「伯爵」
怒りを必死に覆い隠して彼に言った。
「はい」
彼も公爵夫人の怒りは知っている。それをあえて知らないふりをして答えた。
「宴の後こちらに残って下さいますか。お話したい事がありまして」
「わかりました」
彼はそれを承諾した。彼女の怒りを抑えなければならないのと政治的な理由からだ。やはり彼にとっては政治は常にその心を占めているものであった。
アドリアーナはもうこれ以上ここにいる気はなかった。公爵の方へ行くと頭を垂れ申し出た。
「用件がありますのでこれで」
「私も」
ミショネもそれに従った。公爵はそれを承諾すると彼女に腕を貸した。
アドリアーナは客人達の挨拶を受けその場を去った。広間を出る時彼女はマウリツィオの方を振り向いた。
「・・・・・・・・・」
彼と目が合った。彼は何も言わない。だがその心はわかった。
彼女は寂しげな目をして前へ向き直った。そして広間を後にした。
公爵夫人はそれを黙って見送っていた。その瞳は怒りに燃えた憎しみの眼差しであった。
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