【旧】銀英伝 異伝、フロル・リシャール
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歯車の軋み
歯車の軋み
「前方、γ宙域2光秒の位置にレーザー砲の発射光を確認との報告です!」
先行していた偵察艦艇から、連絡が来た。通信兵の声がリオ・グランテ艦橋に上がる。ブリッジに緊張が走った。第5艦隊は現在、味方輸送船団を探していたのだ。その輸送船団はほとんどが民間船で、護衛艦は巡航艦グランド・カナル一隻。もし帝国軍の偵察部隊と鉢合わせしたら、グランド・カナルは沈むだろう。それを理解しているがための、緊張だった。
「その宙域に一番近いのは!?」
「本隊です。分艦隊はいずれも我が本隊より遠い位置にいます」
「提督」
フロルはビュコック提督に話しかけた。ビュコックも、フロルに重々しく頷く。一刻を争う事態なのだ。本隊を動かすにもやぶさかではなかった。そもそも敵戦力は第5艦隊本隊5000隻に比べれば微小だ。
「本隊、前へ! 有効射程まであとどれくらいだ!?」
「あと20秒」
「敵巡航艦2隻を確認! スクリーンに出します!」
スクリーンに映し出される望遠映像。その距離のせいで画像は粗かったが、1隻の同盟巡航艦が、帝国の巡航艦2隻に袋だたきに遭っている様子が見て取れた。フロルは拳を握る。自分が誘導したとはいえ、ここまで見つけられなかったのは自分の誤算だった。
「敵艦に攻撃を仕掛ける! 一撃で決めろ! 攻撃は本艦リオ・グランテと、近くにいる巡航艦10隻のみで行う! 絶対に味方に当てるな! 砲塔、砲撃用意!」
フロルは手を高く挙げた。自分の腕に力が入るのがわかった。一撃で決めなければ、グランド・カナルは沈む。
「有効射程まで、あと7秒! 5…4…3…2……」
その瞬間、光がスクリーンを疾った。
グランド・カナルが爆沈した、光だった。
「……グランド・カナルが、沈んだ?」
フロルは挙げていた手を下ろした。だが、それは攻撃のためのサインではない。
膝をつく。
右手で顔を覆った。
「イヴリン……イヴリンが……死んだ……?」
それはフロルにとって最悪の事態だった。心臓の鼓動が早まるのを自覚する。冷や汗が溢れ、顔から血が引くのがわかった。絶望が彼を包む。激痛が心臓を締め付けた。
「イヴリンが……イヴリ——」
「そうだ、おまえのせいでイヴリンは死んだんだ、フロル」
フロルが振り向くと、そこにはシェーンコップがいた。操作卓《コンソール》に寄りかかって腕を組み、こちらを見ていた。その顔にはなんの表情も浮かんでいなかった。いつもの、あの皮肉げな表情も、浮かんでいなかった。
「お、俺は……」
「策士、策に溺れるという奴だな」
「違う! 俺が殺したんじゃない! 帝国の奴らが!」
「おまえには彼女を助ける手段も、時間も、すべてがあった。それをおまえは詰まらん策のせいで彼女を失ったんだ」
「違う、そうじゃない。そうじゃないんだ……」
フロルは拳を床に叩き付けた。鋼鉄の床は、硬く、そして冷たかった。
「じゃあ、私の目を見ながらでもそう言える?」
俯いていたフロルにも、その声が誰かはわかった。
「イヴリ——!」
振り返った先にはイヴリンがいた。
右腕が千切れ、頭が半分潰れて、左足が炭化していた。どう見ても、死んでいる。
「あなたが、私を殺したのね」
かつてイヴリンだったものは、動くはずのない口を動かして、そう言った。
「違う、違うんだイヴリン!」
「いいえ、違わないわ、フロル。フロルは私がこうなるかもしれないことを知って、それでもあんなことをしたのよ。フェーガン艦長だって、まだお子さんは幼稚園なのよ? 死んだ100人の乗員だって、みんな家族がいて、恋人がいて、死を悲しむ人がいたのよ? あなたはそれを見殺しにしたのよ」
フロルはよろめきながら立ち上がった。イヴリンに歩み寄る。
「違う、将というものは、いかに兵を殺すかなんだ、イヴリン。ヤンだって言っていた。用兵とはいかに犠牲を出すかだって。俺はもう准将だ。同盟が勝つためには、絶対に——」
「私はそんなことのために殺されたのね」
イヴリンは半分だけの顔で、嘲笑を浮かべた。
「そんなこと……?」
「私は、あなたを信じていた。あなた、私が最期の一瞬に、何を考えていたのか、わかる? 助けて、フロルって、そう願ってたのよ?」
フロルは言葉を紡ごうとして、口を開いたが、言葉が出なかった。
「信じてたのに、私はあなたを信じてたのに。あなたもサローニとなんにも変わらないのね」
それはイヴリンからすれば最大の侮辱だったろう。フロルにとっても、最大の侮辱だった。
「違う、俺はサローニのようなクソ野郎とは——」
「違わないわ。女を自分のために使い捨てたんでしょ?」
「そうじゃない! 俺は本気でイヴリンを愛して——」
「触らないで」
フロルがイヴリンに差し伸ばした手は、その言葉で止まった。
「俺は、本気でおまえのことを——」
「フロル」
イヴリンは崩れ切った顔でこちらを見た。
「あなたは、誰を救いたいの?」
覚醒。
呼吸。
冷や汗。
呼吸。
拳が痛いほど握られていた。
涙。
心臓。
鼓動。
目から涙が止まらない。
口を開く。
声。
心臓が痛い。
首。
声が出ない。
呼吸が乱れている。
強ばった首。
フロルは、両足を床につけた。ひんやりとした鋼鉄の床。
頭を抱える。
「イヴリン……」
ようやく声が出て、フロルは手を口に当てた。嗚咽が漏れる。だが、空っぽの胃は、キリキリと痛むばかりで、何も吐き出すものはなかった。
悪夢だった。
だが、荒唐無稽の悪夢ではなかった。
そして過去最低の悪夢だった。
「俺はサローニと変わらない……?」
フロルは天井を見た。
真っ暗闇の部屋。
そこには何も見えなかった。
夢は強烈な現実感を伴っていた。
イヴリンの姿。
思い起こすだけで、眼球の奥が痛むようだった。
握りしめられていた拳を、ゆっくり開いた。自分の右手を見つめる。
ソファ横の時計を見た。時刻は午前4時だった。仕事をして、そのまま部屋のソファで仮眠を取っていたのだ。そして悪夢を見た。
この世界では、あの夢のようなことにはなっていない。イヴリンは生きている。グランド・カナルどうにか助けた。フェーガンも生きている。
だが、あれは嘘じゃなかった。
少なからず、フロルはイヴリンの死の可能性も、理解した上であれを行ったのだ。自分は、イヴリンと結婚しようと、そう考えていたのに、この窮地を自分の切り札にしようと利用したのだ。
フロルはヤンやその愛すべき一党が生きてこの戦争を終わらせるため、そしてヤンを殺させないためにこの世界を生きてきた。フロルも自分が転生したのは、そのためなのだと信じている。それを信じてフロルは赤ん坊の頃から数十年間生きてきたのだ。
それが今揺らぎ始めていた。
前世でもいなかった、最愛の女性が出来て、彼女との生活が幸せで、そんな人生に未練ができてしまい、フロルは迷い始めていた。
——俺は、何がしたいんだ?
フロルは立ち上がって、部屋を出た。
艦はまだひっそりとしていたが、今すぐ会いたい人がいたのだ。
***
帝国宇宙艦隊司令長官グレゴール・フォン・ミュッケンベルガー元帥は作戦会議を前にして、考えていた。彼の手にあったのは、情報士官から取り寄せた敵艦隊の偵察報告書であった。敵の輸送船団をに遭遇した偵察部隊が深追いをし、逆に艦隊に消し飛ばされた旨も書かれていた。ミュッケンベルガーはその記述に一瞬眉を顰めたが、ただそれだけだった。敵艦隊を兵糧攻めできたかもしれなかったが、彼にとってみればそのような姑息な手段は取りたいとは思えないものだったのだ。
それよりも、彼が考えているのは、敵艦隊の陣容であった。
敵防衛部隊は三個艦隊。数の上では帝国軍の侵攻部隊とほぼ同数の艦数であった。敵の総司令官であるラザール・ロボス元帥は前線に姿を現せてはおらず、敵艦隊の指揮はその三艦隊のいずれかの艦隊司令が代理に務めるであろう、と記述されている。
問題は、その三個艦隊の司令官なのだ。
アレクサンドル・ビュコック中将。ウランフ中将。ラウロ・パストーレ中将。この中で一番若いのはパストーレ中将。目立った功績もなく、コネで成り上がった者であるという噂は、帝国の軍偵によって報告されていた。恐らく、このパストーレなる者が三個艦隊の中心を担うことはないだろう。恐らく、ビュコック中将かウランフ中将のいずれかがその任を務めるであろう。この二人は脅威だった。ビュコック中将は民主主義国家の軍隊ならではの二等兵から叩き上げの将である。その老練さは、帝国のメルカッツ中将と並ぶとも称される。ミュッケンベルガーも、先のヴァンフリート会戦で相対し、手強いと感じた老将であった。対してウランフ中将も、騎馬民族の末裔としてその勇猛さと巧みな艦隊指揮によって勇将の名を欲しいままにする同盟の優れた将だった。
そもそもミュッケンベルガー自身も、今回の出兵には思うところが大きかった。
オーディンの軍務省で軍務尚書エーレンベルク元帥や統帥本部総長シュタインホフ元帥の口から、この出兵案を聞いた時からはっきりせぬ不満を抱いていたのである。
それは今回の出兵の目的、戦略上の遂行目標がどこにあるのか、それがまったく示されていなかったからである。恐らく今回の出兵は皇帝フリードリヒ4世の側近、国務尚書のリヒテンラーデ侯あたりから出てきた案であろうことは、ミュッケンベルガーにも容易に察せられた。まさに軍の人間でない者が発案したであろう非生産的な出兵計画なのだ。つまるところ、今回の出兵は軍事的成功によって皇帝の在位30周年に花を添えんというだけのものであった。無論、ミュッケンベルガーほどの男ならそのことは理解している。
そもそも帝国軍における軍事行動には大きく分けて二つの種類があった。
一つは、同盟軍の積極的な出兵、あるいは挑発行動に掣肘を加えんとする純軍事的な撃滅作戦。
そしてもう一つは、帝国という国家が求める儀礼的な軍事作戦である。
ゴールデンバウム朝銀河帝国で出世するには、その両方を取り違うことなく執り行う忍耐と正確さが要求された。つまり軍事的に強いだけではなく、戦争という演劇を見事に華やかに執り行う演出家としての技能も必要とされたのである。
ミュッケンベルガーにしてみれば、自らの姿態もまたその演出の一つだった。半白の眉と半白の頬ひげ、堂々たる体躯《たいく》、非の打ちどころのない正しい姿勢は、彼を|管弦楽団《オーケストラ》の指揮者としてふさわしいものにするためのものなのだ。強ければ良いというものではない。華麗であれば良いというものでもない。銀河帝国の宇宙艦隊司令長官という職が、この容姿を要求したのである。
ミュッケンベルガーにしてみれば、メルカッツ中将などが後者をこなせるようになれれば、すぐに後継に足りると見ていた。だが、メルカッツはよくも悪くも無骨な軍人。そこだけがメルカッツの欠点なのである。
ミュッケンベルガーはだが、儀礼的軍事行動が嫌いであった。彼は自分が軍人であることに矜持を抱いているのだ。こなすべき義務とわかっていても、それを愉快にできるわけはない。大規模な会戦がここ数年ないから、この辺りで攻めろ、というのならばまだ理解はできても、近頃のように頻繁に大規模会戦がある時期に余分な戦闘をしたくはなかったのだ。
ヴァンフリート会戦でも第六次イゼルローン要塞防衛戦でもミュッケンベルガーは快勝できなかった。だが、彼は自分が大きく間違ったからであるとは思っていなかった。
同盟が強かったのである。
このことは誰にも言っていなかった。それは当然である。宇宙艦隊司令長官たる者が叛乱軍ごときの力を評価しているとしれれば、彼の反対勢力が彼を放ってはなかっただろう。だが、それでも彼は言い知れぬ不安を抱いていた。ここ数年の同盟は、明らかに今までとは違う。そして帝国も。
彼はこの時期、自らの日記にこう書き記していた。
『同盟が、いや帝国が、いや時代が変わろうとしている』
これは、彼がいかに明敏な男であったかを証明するものだったろう。
だが既に、彼の不安は形となって姿を現している。
——ラインハルト・フォン・ミューゼル。
皇帝の寵姫の弟。
金髪の孺子。
スカートの中の中将。
成り上がり者。
ミュッケンベルガーはそのいくつもの蔑称を知っていた。自身も他の貴族の前ではそう呼んでいるものさえある。だが、その反面、その実力を軽視はしていなかった。
あるいはかの者であれば、今回の出兵の愚かさ、無意味さを理解しているであろうとも考えていた。それだけの能力があの男にはあるのだ。逆を言えば、これだけのことを理解する能力がない者が多すぎる。
今回の出兵に際して連れてきた幕僚のいったいどれだけが、今回の作戦行動の不条理さに気付いているだろう。恐らく、大半は『皇帝陛下の栄誉』という大義名分だけですべてが上手く行くと思っている。だが軍事とはそんなに生易しいものではなかった。
正しい行動方針の下、情報、補給、人事、通信・電子といった各種の分析を経て、軍事行動計画、作戦計画、補給計画、基地建設検討、不測事態対応計画といったいくつもの計画を発案し、更に細かい後詰めの作戦命令をも出すのだ。消費される金額、エネルギー、労力に至るまで仔細に計算し、それをもって艦艇35400隻を動かす。
にも関わらず、今回の戦いに目的はないのだ。
適当に戦い、適当な勝ちを得る。
ミュッケンベルガーに若さがあれば、不平不満を零さずにはいられなかったろう。
——つまりは、ミューゼル中将は若いだけなのだ。
ミュッケンベルガーはそう思っていた。だが、そのミューゼルも、第6次イゼルローン要塞防衛戦から様子が変わった。恐らく、一度負けを経験したからだろう。彼は生きているが、気鋭極まるミューゼルならば、自らが一度は負けたことを理解し、受け止めているだろう。だからだろうか、彼の瞳に、深慮の光を見るようになっていた。
ミュッケンベルガーは内心、それに感心した。
若いうちは、負ければそれに反発してより偏屈になるのが普通である。それに比べて、負けを認めて自らの糧としようとするミューゼルの姿勢は立派であった。だからこそ、かの者は普通ではないのだろう。
日記にある。
『あの金髪の青年が、これからいかような人生を歩むか……。万人が羨む宇宙艦隊司令長官たる我が人生であっても、彼の者は満足するまい。あれは虎の目だ。それも英才で獰猛で勇猛で覇気に溢れた虎の目だ』
だから、情報分析レポートを読みながら、ミュッケンベルガーが思い浮かべている顔もまた、ミューゼルの顔であった。
情報分析から読み取れるのは、今回の戦いが凡庸に進めば、まず勝ちを得られないことである。
叛乱軍の老将ビュコック中将率いる三個艦隊は、老練の名にふさわしい強固な防御陣を引くだろう。彼らの作戦目的は帝国の軍隊を撤退に追い込む、という明解極まるものなのだ。
それに対して、帝国軍ままともな軍事目的すら持たず、ただ漠然と攻めるばかり。防御を固めた叛乱軍に、遠征の疲れも癒えぬまま対することになるのだ。
このような場合、帝国軍がとりうる戦略は奇襲によって敵の防衛陣を破壊するか、なんらかの奇計で敵を崩すかであった。それには自らの艦隊を手足のごとく扱えるだけの優秀な艦隊司令官が必要だった。
そして思い浮かぶのは、金髪の孺子だったのだ。
ミュッケンベルガーはミューゼルが嫌いだった。だが、傲慢さと強情さが薄れて、その感情も薄れてきた。ともに同じ軍事組織にいるのなら、その手腕を利用しようと思えるくらいには評価が上がったのである。
そこで、ミュッケンベルガーは作戦会議を前にして、副官にミューゼルを呼ぶように指示をした。
ラインハルト・フォン・ミューゼル中将は3分後、その部屋に姿を現した。
***
イヴリンは酸素マスクを口にあてがわれ、ベッド横には心電図のモニターが確かなグラフを刻んでいた。美しい褐色の肌にはそれでも多少の疲れが見えて、フロルは彼女の頬を軽く撫でた。
「ごめんな、イヴリン」
フロルはそっと囁いた。聴こえてないことを承知で、彼は言葉を紡ぐ。
「俺がもっと早くやって来られたら、イヴリンは怪我をしなくて済んだんだ」
フロルはベット横の椅子に座る。かつてイヴリンがしてくれたように、イヴリンの右手を握る。
「本当に、ごめん……」
フロルはその右手に額を当てた。部屋はイヴリンの士官用の個室である。ひっそりとした中、フロルは胸の痛みを感じていた。
「私は大丈夫よ」
そのフロルの頭に、そっと手が置かれた。
フロルが顔を上げると、こちらに微笑みかけているイヴリンの顔が見えた。
「イヴリン……もう大丈夫なのか?」
「ええ、鎮静剤も切れたみたいね」
イヴリンは優しく笑っていたが、どこか空虚な疲れが見えたのは、フロルの錯覚ではなかっただろう。彼女は数時間前、あわや死を迎えようとしたのだ。そのストレスが、衝撃が、プレッシャーが、彼女の精神にどれだけの負担を強いたか、考えが及ばぬはずがなかった。
「ごめん、イヴリン」
「私ね、死ぬかもしれない、って思った時、助けて、フロル、って祈ったの。そしたらあなたが、第5艦隊が駆けつけてくれた。どんなに嬉しかったか、フロル、あなたにわかる?」
「俺は……」
フロルは絶句した。
「でもね、私知ってるのよ? あなたがギリギリに駆けつけたのは、わざとだったってことも」
イヴリンは表情を暗くした。
「第5艦隊に移ってから、すぐに艦隊行動記録を見たわ。普通の人が見れば、なんの疑いも抱かなかったでしょうね。でもフロルを知ってる私ならわかる。ねぇ、フロル、なんであんな遠回りをしたの?」
その問いは、恐れていた問いだった。
そしてこんなにも早くそれに気付くイヴリンは、無能とはかけはなれた軍人だったのだ。フロルは視線をイヴリンから落とす。言葉は口から出ない。喉が、まるで詰まっているように、息苦しく、そして胸の痛みは広がるばかりだった。
「それがわからなくってね、戦闘後の躁も重なったのね、混乱しちゃって、私、もうどうすればいいのかわからなくなったわ。でも、今ならわかる」
フロルは顔を上げた。
「あなたは軍人なのね。私も同じ。だから、きっと勝つためには情を捨てられるのよ。私はあなたの戦闘記録を全部覚えている。あなたが何人の敵兵をその手で葬ってきたか。あなたの艦隊指揮で、いったいどれだけの敵兵が死んでいったか。そして、私も軍人。その責任は私も負っているのよ」
イヴリンの右目には、涙があった。それは、星の煌めきのように白く、光って、ゆっくり流れ落ちた。
「だからわかる。あなたは勝つために、あれをしたんだって。あなたほどの優秀な人なら、きっとそうしたんだって。だから私の命も、グランド・カナルの乗員の命も、運命の天秤にかけたんだって」
「……許してくれ」
それはようやく捻り出した言葉だった。
「許さないわ」
イヴリンの答えは簡潔だった。
「だけど、それでもいいと思ったの」
イヴリンはそっと体をベットから起こした。フロルの握った右手はそのまま引き寄せられ、フロルはイヴリンに抱きしめられた。
「私、あなたのためなら死ねるわ。ええ、あなたのためなら、いくらでも死んであげる。昔はあんなに可愛かった自分のことよりも、あなたのことが愛しいのよ。不思議よね。誰よりも私が不思議だわ。でも、きっとこれが愛しているってことなのかもしれない」
フロルは既に泣いていた。声もなく、イヴリンの懐で泣いていた。そして、そっと体をイヴリンから離した。イヴリンを見れば、彼女も泣いていた。
二人とも、泣いていた。
「いいや、もう死なせるようなことはしない」
「私は別に——」
「違う、イヴリンがそれでよくても、俺はもう無理だ」
フロルは必死に涙を抑えようとした。それがいったい何に対する涙かも、彼には理解できていなかった。ただ、涙だけが溢れてきた。
「たった一度、失いそうになっただけで、俺はもうボロボロなんだ。もう心が苦しくて、夢にまで見て、耐えられない」
フロルは、そっとイヴリンを抱きしめた。今度はイヴリンの頭が彼の胸に収まった。
「もう決してこんなことはしない。今わかったんだ。俺が守りたいのは、誰よりもイヴリンだって。わかった、イヴリンが死ぬくらいなら、俺が死ぬよ」
「私は嫌よ」
イヴリンは彼の胸に囁いた。
「ああ、だからお互いがお互いのために死ねると思ってるんだ。救われないよ。だから、お互いがお互いのために生きよう。だからイヴリン——」
——結婚しよう。
「え?」
「都合がいいだろう。俺もなんて非道いことかわかってる。だけど、もうやめだ。俺は君のために生きるよ。君の言葉で、そう思えた。こんな屑みたいな俺のために、そう言ってくれる女性なんて——」
「——私しかいないわ」
「ああ、だからもう——」
「ねぇ、じゃあ一つだけお願い」
「なに?」
「私が生きている間、あなたと人生を歩む最期の時まで、私を愛して。私は嫉妬深いの。殺されてもいいけど、愛されないのは耐えられない。だから、私が死ぬまで、ずっと愛して。おばあちゃんになっても、愛して。誓える?」
フロルは右手でそっとイヴリンの顔を上げた。目は赤く、涙に濡れていた。
だが綺麗だった。
窓の外の、星の光で照らされたその顔は、
美しかった。
接近。
接触。
接吻。
口づけ。
「誓おう、俺の全身全霊をかけて」
フロルは涙をこらえて、イヴリンの顔を見つめた。
その絵を、決して忘れないように。
イヴリンは笑った。先ほどまでとはまた少し違う、笑みだった。
「私も、あなたを愛するわ。私が死ぬ最期の時まで、ずっと」
「ああ、俺も」
「ずっとよ」
「わかってる。もう絶対に離さない」
「誓って?」
「この世の全てに誓って」
「本当に?」
「本当に」
「私も本気よ」
「わかってる」
「私もあなたのために生きるわ」
「俺も、君のために生きる」
そう、誰よりも——ヤンよりも——君のために。
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