【旧】銀英伝 異伝、フロル・リシャール
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
グランド・カナル(下)
グランド・カナル(下)
マティアス・フェーガン少佐は、額に浮かんだ汗を拭った。それはどちらかというと冷や汗の類だったろう。そもそもフェーガンは気が強い人間ではない。準エリート、とも言うべき出世の仕方で、現在37歳。少佐にまで昇進し、息子と娘はごく健康に育っている。妻には文句もなく愛しているし、軍務において艦隊勤務年数が長く、単艦レベルでは名人級の操舵技術であったし、公正公平な人格は部下からの信任に繋がっていた。
だが、元々は小心者なのである。
彼が若い頃、艦隊部門の軍専科学校に入学したのは自らの気性の弱さをどうにかしたい、鍛え直したいと思ったからである。そこである程度鍛えられた、と自信は自覚していたが、かといって生来の気質は治りようがなかった。
だが彼は自らが軍人として歩んで来て、軍人としての誇りを獲得するに至っていた。己は軍人である。軍人とは、民間人を——力を持たぬ者を、守る者である。専科学校の手帳の裏に書かれていた標語を思い出す時、今のフェーガンは妻子の顔を思い浮かべるようになっていた。
その彼にとって、今回の任務は最適のものだったろう。そこに軍務の意向は関係ない。ただ偶然、民間輸送船団の護衛艦に手の空いていた駆逐艦、巡航艦が無作為に選ばれただけである。軍人にとって上からの命令は絶対だったし、任務内容自体もフェーガンにはやりがいのあるものだった。
——だからこそ、納得がいかなかった。
ラザール・ロボス元帥は、フェーガンなどから見れば雲の上の人間だった。例えフェーガンが退役まで勤め上げても、決して望むことの出来ぬ地位にいる軍人だった。そのロボス元帥が出した訓令、それに従い、危険宙域手前で引き返していった同僚の艦艇。
その中でフェーガンは任務遂行を宣言した。部下たちも、肩を竦めて苦笑しながらも、皆従ってくれた。自分たちの艦長がどんな人間なのか、理解していたのだ。そして、この任務がいったいどういうものなのかも。軍人の誇りある者であれば、投げ出すのを躊躇する任務なのだ。
「大尉は、途中で降りてもよかったでしょうに」
だから、フェーガンは輸送船団の手続きを寝る間を惜しんでやっていたイヴリン・ドールトン大尉に、他の艦艇が離れる時に離艦を進めたのである。
「いえ、今回の民間輸送船団の責任者は私です。途中で任務を投げ出すわけにはいきません」
イヴリンは緊張を隠せていなかったが、フェーガンの目を見ながら言い切った。その様子はフェーガンに更なる好感を抱かせた。今回の件で派遣されて来たドールトンは若いながらフェーガンも感心する手際の良さと熱心さで職務を果たしていたのだ。
イヴリンには彼女の事情がある。彼女は現在、後方勤務本部でキャゼルヌの部下となっている。キャゼルヌが過労で倒れた時も、彼女は奔走してその穴を埋めんとした。だが、それでも物資調達が間に合わなかったことに少なからず責任を感じていたのである。もっとも、すべての軍務がキャゼルヌに来ていたわけではなく、本来ならば違う中将がその職責を問われるはずだった。だが、イヴリンはその筋を通すために自ら処理を買って出たのである。
——なんだか、後片付けばかりしてる気がするわ。
キャゼルヌはそれに大層恐縮していて、実際病院で一緒に仕事を処理してくれていたのだが、もう一つ、イヴリンは目的がある。
これはあくまでついで、の類だったが、自分の男であるフロル・リシャールが前線にいることを知っていたのだ。既に半月以上会っていないことに、イヴリンは不安を感じていた。電話こそしていたが、やはり実際に会いたかったのである。それはイヴリンがかつて男に捨てられたことで形成されたトラウマのせいだったかもしれない。
だが俄に情勢が危うくなって来たのは出発直前だった。キャゼルヌなどには強く引き止められたが、それは彼女の軍人としての矜持が許さなかった。与えられた職責を途中で投げ出すことは、耐えられなかったのである。
そして現状に至る。今、約千隻の輸送艦を率いた駆逐艦グランド・カナルは、通常航路をわざと外れながら、可能な限りの速度で進んでいた。既に他の護衛艦と離れて4日が経っている。日付は2月6日になっている。敵との遭遇が史実より遅くなっていた。それにはイヴリン・ドールトン大尉の存在が関係ある。彼女は一級航海士の免許を有しており、その技量と頭脳は大いに役立って遭遇を免れていたのだ。
だが味方との合流にはまだ三日弱かかるだろう。
敵艦と、いつぶつかっても、おかしくはなかった。
「ドールトン大尉、あと数日だ」
「はい」
イヴリンは手すりを握る手に力を込めた。汗が滲む。明らかに巡航艦のクルーの緊張が高まっていることに気付いていた。警戒空域に入っているのだ。タンクベットで睡眠をとっても、緊張はとれない。彼女の疲労は限界に近づきつつあった。
「大尉」
フェーガンはイヴリンに声をかけた。フェーガンも緊張していたが、自分より緊張しているイヴリンを見て、いくらか冷静さを取り戻したのである。人は自分より過剰な感情を抱いている者を見て、冷静になる。フェーガンは、この美人士官に格好付けようと思ったのだ。
「私は家族がいる。息子は今度プライマル・スクールでね、娘は幼稚園だ。私は軍に入ってもうすぐ30年になる。だが、こんな私でも、今まで生き残って来た。大丈夫だよ、ドールトン大尉」
イヴリンは人の良さそうなフェーガンが自分を励ましてくれていることに気付いていた。彼女はその親切が嬉しかった。笑みを浮かべる。
「ありがとうございます」
「ドールトン大尉は、お相手がいるのかな」
「……実は、第5艦隊に」
「そうか、では会えるな」
「はい」
——大丈夫。
——私は大丈夫。
イヴリンがそう念じた時だった。
レーダーを見つめていた通信兵が、声を上げたのだ。
「前方に未確認艦影! 数ひと……二つ!」
「敵か、味方かッ!?」
フェーガンがすぐに叫ぶ。イヴリンも前方のスクリーンを見つめる。最大望遠されたディスプレイには、光の粒が見えた。
「て、敵ですッ! 巡航艦2隻!」
それはほとんど悲鳴だった。恐れていた事態、想定され得た事態、そして軍部が招いた事態。
フェーガンは即座に判断を下した。同等の性能を持つ巡航艦同士で、2対1で戦えば勝つことなどできない。このままでは、ただの一方的な虐殺になるだけだった。ならば、持てる全ての力を注ぎ込み、民間船を逃がす。
「大尉」
「わかっています、少佐。一隻でも多くの船を」
フェーガンはそれに頷く。
既に覚悟はできていた。
「輸送船団長に繋げ」
今回の編成は通常から大きく外れたものだったため、指揮系統が複雑になっていた。民間の輸送船団に船団長が一人いて、護衛艦の指揮官はフェーガン少佐、輸送に関する担当官としてドールトン大尉となっている。
そして画面に立派な髭を生やした艦長が現れた。ともすれば、フェーガンよりも威風があったろう。彼らは、誇り高い商人だった。
「フェーガン少佐、どうやら時が来たようですな」
「はい、前線までお届けできず、申し訳ございません」
「今回の件において、我々商人は同盟軍に大きな不満を持っている。だが、グランド・カナルの皆さんに対してはない。むしろ、感謝している」
「ありがとうございます。では当初の打ち合わせ通り、ただちに現状宙域から離脱してください。本艦はこれより全力でそれを支援します」
「うむ。健闘を祈る」
「幸運を」
通信はそれで途絶えた。
グランド・カナルの艦橋は緊張で包まれている。悲愴な顔をしている者もいる。だが、皆がこの場で何を成すべきかを心得ていた。彼らは同盟軍における良心だった。彼らはその瞬間、自らの命を諦めた。それは国家のためではなかった。自分の職、人を守るというその誇りのために。
「敵有効射程まであと5秒、4、3、2——」
「ファイア!」
フェーガン艦長の声が響き渡る。スクリーンに死の光が疾る。
「敵艦からのレーザー砲来ます!」
艦に衝撃。
イヴリンは近くの手すりに必死に捕まる。慌てて磁力靴のスイッチを入れる。艦に穴が空いたとき、吸い出されないようにするためだったが、艦が沈めば気休めにしかならないだろう。フェーガンは踏ん張って声を上げている。
「ビーム防御中性磁場の耐久度86%に低下!」
「右方敵艦ワルキューレ発進を確認。続いて左の敵も艦側面の放出カタパルトの作動確認!」
「こちらのスパルタニアンを出せ!」
悲鳴と怒号が満ちる。
目まぐるしく変わる艦の数値と敵の動きを読み取る通信兵。
後部砲塔に命令を伝えようとする砲術士官。
スパルタニアンの発進のタイミングを図る管制官。
イヴリンは死が近づくのを理解した。戦況は圧倒的に不利だ。ただの嬲り殺し。弾薬は瞬く間に消費され、乗員の死傷者が止まらない。
一際、大きな衝撃が艦を走る。
「左舷Gブロック被弾!空気流出。電力系統に出火確認」
「すぐに隔壁閉鎖だ!」
「乗員の退避完了! 閉鎖確認しました!」
「スパルタニアンに命令、右の敵を集中的に叩け。どうにかして2対1を崩すんだ!」
「スパルタニアン一機撃墜、命令は実行不能です!」
イヴリンは戦況データを読み取る。わずか8分の戦闘で情報収集能力が極端に低下していた。レーダーが破壊されたのだろう。左後方のエンジンが既に不能に陥っている。
何度目かわからない衝撃。
イヴリンは手すりから手が離れるのを自覚した。
背中に痛み。
息が詰まる。
目を開けると、まだ艦橋は無事だったが、衝撃で倒れている者もいる。
だがその中で、フェーガンだけが必死に立って、前を見つめている。
「防御中性磁場、次で破られます!」
「後部砲塔! 応答せよ、後部砲塔!」
「スパルタニアン3機とも撃墜されました!」
イヴリンは前を見た。
そこには2隻の帝国軍巡航艦の姿。
ほとんど傷を与えたようには見えなかった。
フェーガンの顳かみの横を血が流れている。
そして、敵の砲塔にビームの光が灯る。
2艦合わせて12の砲塔に。
グランド・カナルは既に半数の前部砲塔が破損している。
防御ももたない。
イヴリンは目を閉じた。
——フロル……。
——フロル!
艦橋に光が満ちた。
敵巡航艦2隻の爆発光だった。
猛烈な光が過ぎ去ったあと、艦橋には沈黙が満ちた。
各種の機器は警告音を続けていたが、敵艦反応は消えていた。
さきほどまで死神の斧のように振り上げられていた死が、突如消え去ったのだ。誰もが唐突な展開についていけなかった。だが、一人、また一人、正気に戻っていった。
「え、生き残ったのか?」
「おい、敵艦はどこに行った?」
「索敵どうなってるんだ!」
「レーダがやられていてまったくわからないんだ」
「おい、あれを!」
一人が指差したのは前方の生き残ったディスプレイだった。無数の光の粒がこちらに近づいて来る。彼らにはそう見えただろう。その数は百や二百では数えられなかった。
イヴリンは痛む足を叱咤して立ち上がる。
右手が口を抑えた。
涙がこぼれる。
——生き残った!
——私は生きてる!
それは、同盟軍第5艦隊12604隻の威容であった。
敵は、53発にも及ぶ精密集中射撃によって瞬殺されていたのだ。
***
「どうやら間に合ったようじゃな」
ビュコックは横に立っているフロル・リシャール准将に声をかけた。フロルはスクリーンに映っているグランド・カナルの惨状に心臓がぎゅっとなるのを自覚したが、低速度でグランド・カナルがこちらに前進してきたのを見て、胸を下ろした。少なくとも、艦橋は生きているようだった。
「ええ、ぎりぎりだったようです」
「この宙域は一番いる可能性が低かったからの。優先度が低かったわけじゃが、もう少し早くくれば無傷で救い出せたじゃろうな」
「仕方ありません。むしろ、救い出せただけで良かったと言えます」
「うむ。間一髪じゃったな。ではリシャール准将、事後処理は任せられるかな」
「は! 工作艦を前方に。すぐに艦の修理を始めろ! 乗員はすべて運び出せ。負傷者を救護艦に移送。チュン分艦隊に散らばった民間輸送船団に収拾をつけるよう伝達。全将兵はこれを最大限の礼儀を持って遇するように。本隊は周囲の索敵をしつつ、機雷や伏兵の警戒に当たれ!」
フロルは一息で命令を矢継ぎ早に言った。そしてビュコックを見る。ビュコックは一つ頷いた。フロルはそれを見てから、一礼をしてリオ=グランテの艦橋を出た。無論、グランド・カナルの彼女に会うためだった。
結果的に、フロルがイヴリン・ドールトンに再会したのは、それから38分後だった。なぜそれだけ時間がかかったのかは、一つにグランド・カナルの核エンジンが臨界に達っせんとしたからだろう。技術部の短い話し合いの結果、グランド・カナルは爆破処分となった。巡航艦グランド・カナルは2月6日1740時、第5艦隊が見守る中、自沈した。
輸送船団は幸いにも一隻の被害もなく、第5艦隊が保護した。当初は10隻で保護をしようとした船団である。1万隻を越える艦隊はむしろ多すぎるというところだった。ビュコックは自ら民間船団の旗艦に赴き、労いの言葉をかけ、更には帰り道の安全を保障した。もっとも、これは本来して当然という処置であったが、ここに至ってそれが成されたのである。
そのようなごたごたのあと、フロルはイヴリンと再会したが、その時イヴリンは鎮静剤を打たれて眠っているところだった。過度の緊張とストレスによって、一時的に交感神経が失調し、まともな体調ではなかったための処置である。 イヴリンは打撲や擦過傷が見られたものの、身体的には軽傷だった。 フロルはその傍らで長いこと寝姿を見つめていたが、一時間を過ぎた頃、ようやくその場を離れた。
被害は、巡航艦グランド・カナルの死者・行方不明者32名、重傷者48名、軽傷24名であった。重傷者の中には、検査の結果、脳出血が見つかったフェーガン少佐も含まれていたが、緊急手術によって一命を取り留めている。他の負傷者も、人工臓器やサイボーグ技術、再生医療によって命を失うことは避けられそうであった。
|薔薇の騎士《ローゼンリッター》連隊隊長、ワルター・フォン・シェーンコップ大佐がフロル・リシャール准将の首席幕僚室を訪ねたのは、日付も変わった2月7日0213時のことだった。
「おい、フロル」
フロルは手元の書類から目を離さない。今回の一連の想定外の艦隊航路によって生じた誤差を処理しているのだった。余分にかかった燃料弾薬食糧の算出、遅れを取り戻すための最短艦隊運用計画の立案、することはたくさんあったのだ。
「なんだ、シェーンコップ」
「おまえさん、いったいなんのために戦争をしている」
フロルは怪訝な顔をして、シェーンコップを見た。
「何って、俺のためだろ」
「俺が聞きたいのはそういうことじゃない」
「俺は俺の守りたい人のために戦ってる。おまえさんは違うだろうがな」
フロルは皮肉げな笑みを浮かべたが、シェーンコップは笑わなかった。
「おまえ、グランド・カナルの航行予測に手を加えたな」
フロルは表情を消した。
「なぜそれを知っている」
「やはりか、タイミングが絶妙すぎると思ったんだ」
シェーンコップは吐き捨てるように言った。それでフロルは鎌をかけられていたことに気付いたが、焦るような顔はしなかった。
「おまえ、グランド・カナルが敵とぶつかるのを待って、救出したな。どういう了見だ」
「……だからシェーンコップ、おまえみたいのは厄介なんだよ」
フロルは大きく溜め息を吐いた。右手のペンを放り投げる。椅子の背もたれに体重をかける。椅子が音を立てた。
「フロル、おまえは味方を救出したという筋書きが必要だった。味方を救い出すのに命令書はいらない。第5艦隊が当初の命令を無視して動いたことを事後正当化するつもりだったのか」
「惜しいな。正確には事後正当化じゃない」
フロルは開き直ったように笑みを浮かべる。
「2月3日時点で今回の民間輸送船団の護衛部隊が離脱したことはハイネセンのマスコミに流れていた。同日、自由惑星同盟経済団体連盟、自由惑星同盟商業組合、自由惑星同盟運輸産業協同組合が同盟軍に対して遺憾の意を表明。新聞やテレビには一斉に軍の無責任に対して非難が集まった。これが3日の午前11時段階だ。後方勤務本部長が宇宙艦隊司令ロボス元帥に護衛部隊再出撃の申し入れをしたのが昼過ぎ、グリーンヒル大将からの言を聞き入れ、ロボス元帥は4日に遅すぎる救援部隊50隻をハイネセンから発進させた。また7日には統合作戦本部長令で第5艦隊に指令が下される予定だった」
「……おまえ、最初から手を回していたのか」
「こういう時のために蓄えた力だ」
「こういう時?」
「自分の女が窮地に陥った時だ」
シェーンコップはその顔に剛胆な皮肉を漲らせた。
「なるほど、絶体絶命のヒロインを救い出すヒーローというわけか」
「さらにロボスに恩も売れて、第5艦隊にも俺にも一石二鳥だ」
「そのためにイヴリン・ドールトンが怪我をしてもか」
「……それは予想外だった。もう少し早く駆けつけられるはずだった」
「策士は策に溺れると相場が決まっている。おまえもいつか、何かを失うぞ」
シェーンコップのそれは、友人としての忠告だったろう。だがフロルにしてみれば百も承知だった。イヴリンが死なないように、全てを計算して動いていた。詳細に計算していたグランド・カナルの航行予測と、綿密な索敵網から得た敵偵察部隊の合流点を割り出し、艦隊を動かしていた。そこに誤差があったとすれば、グランド・カナル率いる輸送船団の隠密運動がフロルの情報収集を困難にしたのだ。あと、少し遅れていれば、イヴリンは死んでいただろう。
「その時は、俺も死ぬ」
「……すべてを残してか」
「ああ、イヴリンが俺のせいで死ぬなら、俺は命を絶つよ」
シェーンコップは理解不能なものを見るような目をしていたが、諦めたように息をついた。
「ようやくわかったよ、フロル。あんたは軍人じゃない。ただの狂人だ」
「俺は俺の守りたい者のためにこの人生を生きている。それを守りきれないとわかった時は、俺に生きている価値はない」
フロルは本気だった。冗談は言っていなかった。彼は自分がイヴリンの命を自らの権力拡大に利用したことを理解しながら、彼女を自分よりも大切な人間として理解していたのだ。それこそ、自分の命よりも、もっと。そしてそれだけ、今回の一手はロボスにとって致命傷になりかけないものだったのだ。経団連を動かしたのはフロルが指示した情報部のおかげだった。マスコミも軍部の醜態を隠さんとするトリューニヒトに先駆けてすっぱ抜いた。しかもすべての責任がロボスにある、というように情報を操作し、軍部におけるロボスの権力を弱めた。きっと将来、アムリッツァのような無茶をするだけの力は残っていないだろう。
「ああ、シェーンコップ。きっとこの防衛戦が終わったら、|薔薇の騎士《ローゼンリッター》は第5艦隊を下りることになるよ」
シェーンコップは耳を疑った。フロルがさらりと切り出したこともある。だが、既に|薔薇の騎士《ローゼンリッター》は第5艦隊において白兵戦部隊として中核を成している。他の陸戦部隊も引き連られるようにその力を増していたが、それでもここで抜けるのは戦力低下にしかならないはずだった。
「……どういうことだ、フロル」
「今回の物資浪費の件でね、|薔薇の騎士《ローゼンリッター》の責任が問われることになった」
刹那、目にも留まらぬ早さでシェーンコップは机の向こうのフロルの胸ぐらを掴んだ。それは怒りによってだろう。だがシェーンコップの顔は皮肉と剛胆を混ぜ合わせたいつもの顔のままであり、フロルにしても少しの狼狽も見せていなかった。
「貴様、嘘をついたのか」
「いいだろう、これくらいのペケ印は君たちにとっては日常茶飯事じゃないのか」
「そういう問題じゃない! おまえはあの時、すべての責任は自分で被ると言っただろう!」
「実際被ったさ。俺は自分の女を失いかけた」
「それはおまえの自業自得だ!」
「正直言えばな」フロルは至近にあるシェーンコップの顔に向かって言った。「今回、上層部はグランド・カナル事件の方に手一杯で、|薔薇の騎士《ローゼンリッター》のことや酒の浪費についてはまったく気にしてなかったんだよ。だから、俺から|薔薇の騎士《ローゼンリッター》の責任問題を提起して、今回の処分を引き出した」
シェーンコップはここまで聞いて、その握りを緩めた。
「——おまえ、また何か企んでいるな」
フロルがここまでするのは、|薔薇の騎士《ローゼンリッター》を陥れんとしてではないだろう。そんなことをする意味がないのだ。フロル自身が、同盟軍の誰よりも|薔薇の騎士《ローゼンリッター》を気に入っているのだ。
「シェーンコップ、おまえたちはもうそろそろ第5艦隊から下ろすつもりだった。だから、今回は渡りに船だった。もちろん、初動段階では、あの作為的な浪費も立派な理由付けだったわけだが、これに流用させてもらっただけだよ」
「はっきり言え」
「|薔薇の騎士《ローゼンリッター》にはもっと役立てる場所がある」
シェーンコップはもう一度拳を握ってフロルの頬を殴った。それは全力のパンチだったから、フロルは吹き飛んで壁にぶつかった。そのままずるずると座り込む。
「それは貴様が決めることではない。|薔薇の騎士《俺たち》が決めることだ」
「俺の下にいたいってか?」
シェーンコップは沈黙したが、それは正解と言っているようなものだった。
「バカ野郎……。俺なんかの下にいてどうするんだよ……」
フロルは呟いて、血の混じった唾を吐き捨てた。
「シェーンコップ、|薔薇の騎士《ローゼンリッター》は第5艦隊を、いや俺の下から外す。その方がおまえたちのため、同盟軍のため、なんだ」
——そして、ヤンのためなんだ。
第7次イゼルローン要塞攻略戦には同盟最強の白兵戦部隊|薔薇の騎士《ローゼンリッター》連隊が必要不可欠だった。そのためには、あの時、|薔薇の騎士《ローゼンリッター》がどの艦隊にも属していないという状況を作らねばならない。現段階でパストーレの第2艦隊に預けられないだろうし、正直、第5艦隊以外で彼らを欲する艦隊はない。だからこそ、第5艦隊から下ろせば、約一年後のあの時まで、|薔薇の騎士《ローゼンリッター》はフリーになれるのだ。そして、あれがヤンの第2の躍進の始まりだったのだ。
「……もっと骨のある奴だと思ってたがな、がっかりしたよ、リシャール准将殿」
「なんとでも言え。だが、これは決定事項だ。その方がいいんだ」
シェーンコップはフロルを残して部屋を出た。
彼の拳はきつく握られたままである。
フロルは唇の端から流れる血も拭わず、シェーンコップの出て行ったドアを見つめて、
「その方が、いいんだよ」
と囁いた。
ページ上へ戻る