【旧】銀英伝 異伝、フロル・リシャール
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漫然たる戦端の訪れ
漫然たる戦端の訪れ
場所はハイネセン、最高評議会ビル近くの奥まった場所にあるバーだった。
そこは一見するとただのビルの一室にしか見えなかったのだが、ごくわずかな人間しか知らないという特異性を持ったバーであった。むろん、そこに出入りする人物は一般人ではあり得ない。
そして宇宙暦794年10月14日のこの日も、そこに集まったのは同盟政府の中枢近き者たちであった。
「サンフォードは次の評議会議長を狙うだろう」
ヨブ・トリューニヒトはその端正な顔に似つかわしくない笑みを頬に浮かべながら、ウイスキーの氷を鳴らした。
そこにいるのは国防族議員の中でも、若手派と呼ばれる者たちである。
「ですが、現在の議長の任期はまだ——」
「いや、彼は任期前にやめることになるだろう、ウォルターくん」
ウォルター・アイランズはトリューニヒトの言葉に脅かされたかのように、肩を振るわせた。彼は今から数年前、トリューニヒトに自分のプライベートな秘密を握られてからの関係である。それはウォルターの愛人とその子供の秘密だった。彼には現在結婚している財閥令嬢の前に、付き合っていた女がいて、結婚したのちにも彼はその女性と別れていなかったのである。ここは民主主義国家。帝国ではどうにでもなるかもしれないが、政治家としてこのスキャンダルは致命的と言えるだろう。
むろん、アイランズもトリューニヒトの脅迫まがいの派閥勧誘に対して、最初から積極的であったわけではない。むしろ政治的理念においては清廉潔白を目指していたアイランズにとっては、国防族として名を上げつつあるトリューニヒトとの協同は望ましくはなかった。だがそれは事実上の命令であり、アイランズに拒否の選択肢はなかったのだ。
だが時間と、そして金がアイランズを腐食した。トリューニヒトとの蜜月の関係は彼に十分な金をもたらし、その甘美な魅力に彼はすっかり魅了されていたのである。戦争が永遠に続くことを望む軍需産業からの賄賂は、トリューニヒト一派の中に所属するということの、最大のメリットであり、そして離脱を阻む足枷になっていたのだ。
この暗闇のバーにいる面々は、運命共同体だったのである。
「前々回の第5次イゼルローン攻略戦の失敗、前回のヴァンフリートにおける戦略的に何の価値もないエネルギーの浪費、そして任期中二回目のイゼルローン攻略の失敗は、彼の政治家生命に終止符を打つのに十分な重みがあるのだ」
トリューニヒトは自分の手下たちに言って聞かせる。その頬に浮かぶのは、そんなことすら思い浮かばぬ取り巻きたちの無能への嘲笑。もしこの場にトリューニヒトへ投票した人間がいたならば、自分が選んだ者の邪悪さに後悔を覚えたに違いない。だが、残念なことにここにはそんな人間は誰もいなかったのである。いるのは、彼の腹黒さと計算高さによってもたらされる旨みに群がる者だけだった。
「では、サンフォードが議長に?」
ネグロポンティが額に浮かぶ汗をハンカチで拭いながら言う。
「そうだ。そして私も国防委員長になるだろう」
そこにいる者達はみな声を漏らした。
「さすがですな、トリューニヒト議員」
エンリケ・マルチノ・ブルシェス・デ・アランテス・エ・オリベイラは自分が味方している若手議員の出世に満足していた。同盟自治大学において一介の教授であった彼が学長にまで上り詰めたのは、トリューニヒトの政治工作のおかげだった。彼は教育界における重鎮としてトリューニヒトを学術界から支え、トリューニヒトはオリベイラを政治的に支えていた。この二人における力関係は他の議員とのそれとは少しだけ違ってはいた。だが、トリューニヒトが主導権を握り続けている点においては他と変わらない。
「国防委員長だよ、オリベイラくん」
「これは失礼」
「それで、憂国騎士団の設立はどうなったかね?」
「は、現在秘密裏に団員を集めている段階です。もうすぐすれば、トリューニヒト委員長を影から支えられるだけの組織になるでしょう」
「頑張ってくれたまえ」
トリューニヒトにとって、世界は思うがままだった。彼は自分が権力を欲しいままにする、という欲望に関してだけは、他の追随を許さぬほど強大であった。それほどの権力欲を持ち合わせる者ならば、かつての同盟にもいただろう。だが、不幸にも彼ほど有能な者はいなかったのである。もしも彼の能力が自らの権力追求に用いられず、同盟存続のために活用されていたならば、歴史はまったく違う様相を見せていただろう、というのは後世の歴史家たちの共通する意見だった。
「パストーレくんも軍部において権力を増しつつある。今度の戦いが終われば、中将にしてやれるだろう。パエッタくんも私たちには好意的だ。ドーソンくんも我々には忠実だが、まだ軍部においての力は大したことはないだろう」
トリューニヒトは自らの持ち駒としてしか周りの人間を見ていない。それは彼が強烈なまでに自分を評価しており、周りの人間よりを優越していると信じていたからである。彼はナルシストであった。だが、有能なナルシストであった。
「エル・ファシルの英雄は……どうやら私には懐かないようだ」
「では、パストーレの腰巾着であった——」
「リシャールくんか。確か、彼の大尉昇進を早めてやった恩があるはずだな」
トリューニヒトは赤褐色の髪を持った優男を思い出していた。あの男は私と初めて会ったときにも、ごく普通に握手をしてきた。あの頃のトリューニヒトはそれほど権力を持っていなかったからであろう。一議員として接していたはずだった。だがトリューニヒトはフロル・リシャールの瞳の中にある意志の強さを感じ取っていた。トリューニヒトは自らに有益な人物を見分ける才があったのだ。そしてあのとき、彼は確実にフロルにそれを感じていた……。
「まぁいい。今度の不毛な攻略戦から帰って来たら、彼に接触すればよい。役に立つなら引き込み、立たんなら冷遇する。それだけだ」
チュン・ウー・チェン少将は、自分の視界の端に立っていた士官が、まるで背中に氷を入れられたように震えるのを見て、怪訝そうに視線をやった。アレクサンドル・ビュコック中将麾下チェン分艦隊所属幕僚長、フロル・リシャール大佐であった。
「どうしました、リシャール大佐?」
「いえ」フロルは盛大なしかめっ面をしながら姿勢を正す。「猛烈な悪寒が背中を走ったもので」
「ほぉ」
チュンはそれを聞いて面白そうに笑った。
「きっとリシャール大佐のことを誰かが噂話でもしているのでしょう」
「そう……でしょうか」
フロルは首を傾げる。今の寒気がいったいなんだったのかはわからない。だがそれは明らかに良いものではなかった。まるで背中を蛇が通ったように、気味の悪い悪寒だったのだ。
「もしかしたら君の家で待っている女の子の恨みかもしれませんよ?」
チュンはビュコックから、フロルに扶養者がいることを聞いていたのである。チュンにも家族はいる。軍務によってなかなか帰ることが叶わない彼であったが、それでもフロルと同じく、彼らの星に守るべき人々がいることには変わりなかった。
「恨み、ですか」
思い当たるものがないわけではない。それ以前にフロルにしてみれば、カリンという年頃の女の子が考えていることなど、まったくと言っていいほど見当がつかないのだ。フロルは戦略家としても戦術家としてまた謀略家としても常人のそれを上回る手腕を秘めていたが、ただ一つ、ヤン・ウェンリーと同じように女の子の機微には疎いのだ。だからフロルがカリンと接する際には、持てる限りのすべての愛情と優しさを傾けているつもりだった。不器用ながらも、フロルはカリンを家族として愛していたのだ。
愛する、といえば彼のパートナーのイヴリン・ドールトンだったが、彼女は今回ハイネセンに留守番である。セレブレッゼ中将の退役に伴う事務仕事の処理だった。イヴリンはフロルとともにいられぬことを残念がっていたが、フロルにしてみれば安心というところだった。また前回のような危険がないとは言い切れない。ここは戦場で、いつもどこかで人の命が散っているのだから。
「まぁ、あまり不吉とか思わないことですよ」
チュンは渋い声で飄々として話す。
「よく戦場で何か縁起の悪いことが起きると騒ぎ立てる人がいますが、逆に戦闘の前に厄祓いできたと考えればいいのです。戦闘前に厄が祓えたから、本番は大丈夫、とね。まぁ、つまり、心の持ちよう、というやつですな。こればっかりは気にしてもしかたありません」
チュンはそう言うと、指揮官席においてあった紙袋から、誰が作ったのか、サンドイッチを取り出して一口食べた。フロルはこのチュンという男が、パン食以外のものを食べるところを見たことがなかった。チュンはその風貌から、『パン屋の二代目』などと言われ、彼自身もそれを嫌っていないのだが、さもありなん、というところである。
「それにしても」
フロルは対面する帝国軍艦隊をスクリーン越しに見つめながら呟く。
イゼルローン回廊の同盟側入口に現れた同盟軍艦隊36900隻は、指揮官ロボス元帥の指揮の元、周辺における制宙権を確保するため、小戦闘を連続させることになった。戦闘は五〇隻から三〇〇〇隻ほどの単位で、立方体に区切った数千の宙域を、ひとつひとつ争奪する形で行われた。単なる前哨戦というには、双方が傾けた努力は、質量ともに小さくない。この後につづく戦略的状況を少しでも有利に導かねばならなかったのだ。それはまるで不毛なオセロだった。いつまで続くかわからぬオセロ。そして悪質なことにそれが浪費しているのは、時間やエネルギーだけではなく兵士の命だったのである。
フロルは前面の敵に圧力をかけながら、また一ブロック、制宙権を獲得した。だが、それはフロルやチュンの功績というほどではなく、ただの作業の結果であった。
だがフロルはそれだけではなく、密にされた連絡網から回って来る、戦場全体の戦局を見極めていた。今の所、同盟はじりじりと、当初の目的通りイゼルローン要塞に近づいている。そしてこのままで行けば、11月末には、イゼルローン要塞に辿り着くはずであった。
(だがこの戦場には奴がいる)
フロルは丸めた人差し指を、軽く噛み締めた。
彼が考えていた人物は一人、ラインハルト・フォン・ミューゼル少将。
フロルがヴァンフリート4=2の基地で、仕留め損ねた敵である。そして、同盟最大の敵。彼はことあるを知って万全を期してラインハルトを迎え撃ったが、倒せなかった若き天才。
ここ数日の小規模な戦闘で、水際立った戦果を上げる敵の小部隊を、同盟は察知していた。艦隊全体として、わずか3000隻程度の小艦隊など、本来ならば無視していい程度の戦力であった。だが、その小部隊が立て続けに自軍を負かし続けるに至って、さすがに無視を決め込むわけにもいかなくなったのだ。今では食堂や作戦室の端々で人の口に上る帝国の危険人物。
フロルはヴァンフリートにおいてセレブレッゼ中将を守ったため、今回の出征においても、ラインハルトは准将のままだと考えていた。だが、フェザーン経由で届けられた敵将一覧には少将とあったのである。フロルはしばしの時間考え、そして気付いた。恐らく、キルヒアイスの昇進が、ラインハルトに回ったのだと。前回のヴァンフリートにおいて、リューネブルクは基地を破壊する功で少将に昇進し、また皇帝の申し付けでグリンメルハウゼンは大将になったのだろう。そしてあの老人は赤毛の大尉ではなく、金髪の准将に、昇進の機会を与えた。
フロルは何より自分の周りにいる人間を守るために戦場に立っている。それは彼が軍人になると決めた時から変わらぬ決意だった。だが、彼は直接、邪魔な敵自体の排除を目的としたことはなかった。一つに、フロル自身が伸ばすことの出来る能力があった、という点があるだろう。彼は敵を追い落とすよりも先に、自分が力を付けるように動いて来たのだ。
だが、それも限界かもしれない。これからの戦争で、フロルは真っ当にどう頑張っても、ヤンと同じくらい、いやそれ以下の権力しか得られぬであろう。対してラインハルトは専制君主制度の特質により瞬く間に昇進して行く。両者の持ちうる力の差は開くばかりだ。今でさえ、フロルは大佐、ラインハルトは少将なのに。
ならば、敵を謀略によって倒す、ということも自分は学ぶべきなのかもしれない。意地汚くとも、敵の裏をかくようなものであっても、彼と彼が守りたい人たちを守るためには、ヤンが決して進まなかった道を、自分は進むべきなのかもしれない、と。
フロルは、そんな形さえ定まらぬ考えを巡らしながら、漆黒の宇宙に時折光る爆発の輝きに目を向けていた。
その三日後、第5艦隊は補給のために最前線より後退した。そして彼は、一人後方の旗艦にいる、ヤン・ウェンリー大佐に、会いに行ったのである。
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※訂正※
恩来→本来
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