【旧】銀英伝 異伝、フロル・リシャール
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平穏の終わり
平穏の終わり
宇宙暦794年8月6日、フロルは統合作戦本部のビルディングに来ていた。無論、久方ぶりの訪問である。彼は去年の11月からヴァンフリート4=2に赴任しており、そこで負傷し、そのまま病気療養に入ったためである。彼の回復は当人の予想より、むしろ早いというべきものであったが、彼はこの気楽で平和な日々を愛でつつ、今日という日まで復帰を先延ばしにしていたのであった。もちろん、彼も無為と怠惰な生活をしていたのではない。ヴァンフリートでの事後処理やら新作ケーキの発案やらイヴリンとのデートやらそれなりに忙しかったのである。だが、とうとうシトレ元帥からの直接の呼び出しが彼のもとに届くにあたって、彼は長かった休暇の終わりを認めたのである。
彼が訪れたのは統合作戦本部部長シドニー・シトレ元帥の元である。フロル・リシャールはこのシトレという男を非常に高く評価していた。それは軍人としての能力でもあるし、人格的美点によるところである。早い話が、とても話のわかる爺さん、というところだが、尊敬している軍人の一人には違いなかった。
「久しぶりだな、リシャール候補生」
「は、お久しぶりでございます、校長」
シトレはフロルの答えに満足したように大きく頷いた。フロルとしてはこの3か月弱の休み過ぎを叱られるのではないかと思っていたので、むしろ肩透かしもいいところである。シトレ元帥はあらゆる意味で民主主義の軍人であった。そして軍人であるからには、威圧感も相当なものだったのである。
「ヴァンフリートでは大変だったそうだな。セレブレッゼ中将から話は聞いている。面倒くさがりでいつもどこかほっつき歩いていたフロル候補生からは想像できんほど、勤勉だったと聞くが?」
「私はセレブレッゼ中将の期待に添えるよう、微力を尽くしただけです」
「ふむ、まぁよくやった、ということなのだろう。恐らく来週中には辞令が来るだろうが、君を大佐に昇進する。よくやった、リシャール大佐」
「は、ありがとうございます」
彼は隙のない敬礼をしてみせた。士官学校から、誰にも真似できぬと言われた完璧な敬礼である。
フロルは特段、儀礼やら形式やらに拘るような男ではない。だが彼はそれが面倒事の回避に役立つ、ということも知っていたので、人並みにはそれをこなせる男だった。ヤンなどは、その面倒を回避するために更に大きな面倒事をどっかから連れて来る名人だったが、フロルはその点、より狡猾な面倒くさがりだったのである。だから心情的にはまったく求めていない敬礼や形式も、彼にとってはただの処世術というものだった。
後世のある史家はフロル・リシャールを、”もっとも効率的に昇進を続けた男”と評した。彼は出世を望んでいたが、かといって茨の道を進みたがる男でもなかったのである。彼はできるだけ楽に出世をできるよう、努力していたといっても過言ではない。だが彼の中で一点忘れてはならないことがあったとすれば、彼は人との繋がりを何よりも重視していたということだろう。誰かの信頼や期待を裏切る、という行為は彼のもっとも嫌うところだったのである。だから彼はその条件の時にのみ、誰よりも積極的かつ能動的に活動し、その結果、彼は今まで少なからず功を上げ、昇進を重ねて来たのである。
同時期、昇進を重ね、また後に歴史において大きな意味を持つことになるヤン・ウェンリーもまた、フロル・リシャールと比較論ぜられることが多い。だがヤンとフロルの昇進は時期こそ似通っていても、内実は大きく違っていたと言ってもいいであろう。フロルは主に人がやらなかったり、またやりたがらなかったりする作業をしっかりこなし、そして常に理に適って真っ当な戦績を挙げて来たが、ヤンのそれはまさに奇功というべきものがほとんどだった。何せ、ヤン・ウェンリーはエルファシルの英雄なのだ。まず、派手さからしてフロルの敵う相手ではない。その点によってヤンはフロルよりも優れている、と無意味な比較を後世の者は多くして来たが、実際この二人はお互いの能力を高く評価しており、また自分の能力は相手のそれに敵わない、と考えていたようである。
「それと、次の第6次イゼルローン要塞攻略戦だが」
「私も、出撃するのですね」
シトレは言葉を遮られたことを微塵も気にせず、また頷いてから手元にあった書類をフロルに差し出した。彼はその書類を斜めに読み進める。彼は昨日までただの一般人同様な平和な日常に居たのである。最高機密である軍の作戦案など知る暇はないのだ。
「……君は、どう思うかね。この作戦案を」
「発案はホーランド少将ですか。いや、そこまで悪い案ではないでしょう」
「あまり乗り気じゃなさそうだな」
「いえ、イゼルローンに穴を穿つ、まではいいんですが、それとイゼルローンを攻略する、というのは別物でしょう。我々があれを完全破壊ないし降伏させるまで破壊する、というのには弱すぎます」
「ふむ」
シトレはすでにその点に気付いていたのか、フロルの意見に感心したように声を漏らした。
「それに、帝国軍に一端の人間がいたら、気付かれるでしょうね。ホーランドのミサイル艦部隊を退けるのには、2000隻程度の小部隊で事足りるでしょう。こちらが敵に対するに万全の対策を施すのはもちろんですが、相手の無能を前提にして作戦を立てるのはいささか軽卒ではないかと」
「だが、この案は通ってしまった」
「でしょうね」
フロルは驚くことなく頷く。彼はこれと似た案がフォーク中佐からも提出されていることを知っていたからである。それにこれ以外といっても、イゼルローンを攻め落とす妙案が浮かぶわけでもない。フロル自身、イゼルローンを外部から攻め落とせ、と言われても案はないのである。イゼルローンは外部からでは落ちない。それはヤンもフロルも同意見だったのである。
「君には苦労をかけるな」
シトレは憂いを視線に混ぜた。
「いえ、これが仕事ですから。給料分はね」
フロルはヤンの言葉をわざと借りた。シトレはそれに気付いたのか、苦笑してみせる。
「配属は君が元いた第5艦隊にしておいた。ビュコック提督からのお願いでな。チュン・ウー・チェン少将の分艦隊だ。そして、これは君が望めばだが」
「なんでしょう?」
「|薔薇の騎士《ローゼンリッター》連隊を君の下に付けよう」
シトレは油断ならない目でフロルを見つめている。恐らくここ数ヶ月でフロル・リシャールが|薔薇の騎士《ローゼンリッター》連隊と浅からぬ縁ができたことを知っていたのであろう。いかな気がいい連中でも、帝国亡命者の集団、更に歴代の連隊長の不名誉ならざる記録によって、未だに警戒されることも多いのだ。
「喜んで」
フロルはそれをものともせずに快諾した。彼らは自分の戦友である。望めばこそ、拒みはしない。
「ではそうしよう。しっかりと手綱を握るように」
「振り回されぬよう、頑張ります」
そうしてフロルはシトレ元帥の執務室を出た。
次に彼が向かったのはビュコック提督の司令官室である。第5艦隊にまた、お世話になるのだ。挨拶をしなくてはならないだろう。
「お久しぶりです。ビュコック提督」
「うむ、貴官も元気そうだな」
「はい」
フロルはこの好々爺とも言うべき老人を見て、ある種の安心を抱いていた。今までの上官であったセレブレッゼ中将は悪い人物ではないのだが、部下に安心感を与えてくれる軍人ではなかったのだ。
「チュン・ウー・チェン少将は士官学校で教授をやっておってな」
ビュコックは手元の資料に目を通しながら言う。
「まぁ、なかなかに有能な男じゃ。貴官も伸び伸びできるじゃろうて」
「いえ、この数ヶ月で存分に羽は伸ばしました」
「では、その羽を有効に活用して欲しいもんじゃな」
ビュコックはそこで軍人としての顔を一度崩した。笑いかけたのである。
「ところで、カリンは元気かね」
「はい、元気に学校に行ってます」
「そうか、いや、それは良かった」
「ビュコック提督のおうちに、またお邪魔したいと言ってまして」
フロルは困ったように笑う。
「いや、カリンが来たい時はいつでも来てもよい。うちのも、カリンと会うと喜ぶでな」
ビュコックは顎に手を手をやりながら、窓に目線を向けた。眼下にはハイネセンの街並が広がっていた。季節はもうそろそろ秋に移ろうだろう。作戦から返ってくれば、既に春になっているに違いない。
「ありがとうございます」
フロルはここで頭を下げる。彼はカリンに気を使ってくれる者には、いくらでも感謝するのである。彼にとってカリンは大切な娘も同様。態度には出さぬよう努力していたが、溺愛もいいところなのである。
「そういえば、じゃが」ビュコックが思い出したように言葉を繋げる。「セレブレッゼ中将は退役を希望しとるらしい」
「退役、ですか」
やむなきこと、かもしれない。前回の戦闘において、彼はかなり消耗したようだった。これ以上戦争に関わりたくない、と思うのは正常な感情なのである。
「うむ、上層部は必死に慰留しておるが、遅かれ早かれそうなるじゃろう。おかげでおまえさんと仲がよかった、……ほれ、大佐の」
「キャゼルヌ大佐ですか?」
「そうじゃ、あれに仕事が行っての。この作戦のあと昇進するそうじゃ」
「はぁ」
これは既にキャゼルヌに聞いていたことである。
「今回の所属は分艦隊じゃから、旗艦にはおられん。どうにもおまえさんの紅茶を飲むことはできんな」
「恐縮です」
フロルは口を斜めにする。そういえば、ビュコックのもとではお茶汲みがかりしていたのを思い出したのである。あれから一年、彼の階級は大佐になっていた。順調、といえるものではなかったが、着実に昇進していたのである。
フロルは手みやげを持ってこなかったことを後悔した。カリンが焼いたクッキーでも持ってくれば、と思ったのである。
次の機会には、是非持ってこようと思いつつ、彼は第5艦隊司令官室を辞した。
フロルにとって唐突な出会いがあったとしたら、それはその日廊下ですれ違った女性士官であろう。その女性士官は少尉階級であったが、ヘイゼルの瞳と金褐色の髪を有する美人だったのである。いかにも士官学校出です、という覇気と自信を感じさせながら歩くその士官を見て、フロルは一目で誰だかわかったのである。
フレデリカ・グリーンヒル。
フロルはそれを見ながらも、声をかけることはしなかった。先方はこちらを知らないだろうし、いきなり声をかけてもナンパか何かと思われるだけだろう。だがフロルはその姿を目に焼き付けていた。もし、彼に可能なことがあるなら、早々にヤンに会わせてやりたい、と思っていた。フロルはヤンの色事に対する淡白さを認めてはいたが、それによって苦しめられる女性を看過はできなかったのである。フロルはこういう一種の女性優先視する思想があった。古き良き時代であれば、騎士道精神と言われるものであったろう。
ヤンの物好きに惚れ込んだ美人のために、一肌脱ぐくらいは、する男だったのである。彼はそんなことを考えながら廊下を歩き続けた。
向かう先はキャゼルヌの部屋。
心は近い未来を彷徨っていた。
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※訂正※
宇宙艦隊司令→統合作戦本部部長
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