船大工
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第一章
第一章
船大工
十七世紀の欧州。この時代に一人の有名人がいた。
「本当なのですか、それは」
「ええ、それが困ったことに」
人々は顔を顰めてそう話し合う。この時欧州の東の果てに一つの国が急に出て来ていた。
正確に言うと以前からその国はあったのだが彼等から見れば急に出て来たのである。その国の名はロシアという。多くの者にとっては聞いたこともない国であった。
「ロシアといえば」
「一体どんな国なのやら」
「ほら、あれです」
誰かが言う。
「あの寒い国です」
「というとスウェーデンのことですかな」
当時このスウェーデンは軍の強い人口が少ないながら強国として知られていた。欧州の者達は寒い国と聞いてこの国を思い出したのである。
「いや、それが違うのです」
そうでもないと誰かが言った。
「あの国ではありません」
「ではノルウェーで?」
「それともデンマーク」
「そのどちらでもありません」
両方共否定されてしまった。
「どちらでも」
「ではどの国なのか」
「デンマークでもなさそうですし」
「ブランデンブルグの隣です」
所謂プロイセンのことである。といってもそのプロイセンが有名になるのはもう少し後のことである。この時代は神聖ローマ帝国の中の国家の一つでしかなかった。
「そこにありまして」
「ポーランドの向こうですな」
「左様です」
ようやく話が動いた。
「そこにある国でして」
「寒い国ですか」
「そう、そして途方もなく広い」
その広さについても言及される。またその広さが欧州の者達にとっては衝撃的なものであった。
「噂によれば遠く中国にまで達しているとか」
「中国までですか」
「はい、本当に途方もない広さだそうです」
「そんな国があったとは」
人々はあらためて驚く。何時の間にそんな国が生まれていたのかと。
「かつてはイワン雷帝がいまして」
「またたいそうな名前ですな」
この人物は皇帝の権限を瞬く間に強化し反対する者を容赦なく粛清したことで知られている。実はロシアを巨大にしたのは彼の東方進出によるものだ。上等の黒テンの毛皮と不凍港を欲してのことだと言われている。コサックのイェルマークの活躍もありロシアは瞬く間に世界で最も巨大な国家となったのである。
「彼が広くしたそうです」
「してその雷帝は」
「どうなったのですか?」
「随分前に亡くなりました」
この時代においてはもう大昔になっている。雷帝が死んだ後ロシアは大揉めに揉めた。さっきちらりと名前が出たポーランドが偽の皇帝を送ったりして介入もしたので騒ぎはかなり陰惨なものとなっていたりもした。結果として多くの人間が死んでいる。
「少なくとも今はいません」
「それではですな」
そうなれば問いの方向が変わるのは自明の理であった。そしてその問いの内容は。
「今のロシアの主は一体」
「誰なのでしょうか」
「ピーターというらしいです」
「ピーターでしょうか」
聞きなれないようでいて何処かで聞いたことのある名前であった。
「左様、ロシアの読み方ではピョートルというそうです」
「ふむ、ピョートル帝ですか」
「してどのような御仁でしょうか」
「それがですな」
ここで彼について話す者は一様にして顔を顰めるのであった。何か話したらまずいことでもあるようにである。それがはっきりと顔に出ていたのだ。
「どうにも破天荒な御仁でありまして」
「破天荒なとは」
「はい。何か興味を持つものがあれば」
「ふむ」
「自分で身に着けないと気が済まないそうです」
「それはどういうことですかな」
それを聞いてもどういうことかわからない者もいる。それで尋ねると。
「あれです。銃を自分で撃ち」
「王がですか」
「いえ、皇帝です」
これにも訂正が入った。
「皇帝ですか」
「ロシアは自分達をビザンツの後継者を任じていますので」
「ああ、それでですか」
「成程、神聖ローマ帝国と同じですな」
「はい」
神聖ローマ帝国は西ローマ帝国の後継国家とされていた。そうした意味でこのロシア帝国は東ローマ帝国なのである。少なくともロシアの主張ではそうなのだ。
「しかし皇帝が自ら銃を」
「それだけではありません」
しかもまた訂正が入った。
「大砲も自分から撃ちます」
「大砲までですか」
「他にはボートを自分で漕いだり木を切ったり」
「またそれは」
それを聞いて驚かない者はいなかった。確かに武術もまた貴族、君主としての嗜みだが銃となると少し違う。ましてや大砲を撃つなどとは。流石にこれには驚いたのである。
「随分と変わった皇帝陛下ですな」
「何ともはや」
「それでロシアでは何かと騒動を起こしているようです」
皇帝についてはこれが何かと有名であった。
「そしてですな」
「まだありますか」
「ええ。これは噂ですが」
言葉が少し小さくなる。まるで内緒話をするかのように。
「何でもオランダにお忍びで来ているそうです」
「オランダに!?」
「それが何故かはわかりません」
そう前置きがされる。そしてまた言われる。
「ただ。噂でしかないので」
「しかし一国の皇帝が何故オランダに」
「また訳がわかりません」
「何でも西欧の優れたものを学びたがっているそうです」
こう言われた。
「ロシアとしましては。まだまだ未開発らしくて」
「そうなのですか」
「確かにオランダは何かと進んでいますからな」
かなり以前からフランドルやネーデルラントといった辺りは商業が盛んで欧州では経済の先進地域であった。ここを巡ってハプスブルク家とヴァロア家も長い間争ってきたしカトリックとプロテスタントの激しい抗争もあった。何かと物騒になり易い場所でもある。
「やはりそこになりますか」
「ただ。何処にいるかまではわかりません」
こう言われた。
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