冥王来訪
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第三部 1979年
冷戦の陰翳
険しい道 その3
前書き
今回も「隻影のベルンハルト」2巻にある設定を掘り下げた話になります。
1970年代のソ連や東独がどんな工業生産であったかを説明する話が多くなります。
場面は変わって、東ドイツの首都、東ベルリン。
正午過ぎより始まった政治局会議では、昨日の西ドイツでのスパイ一斉摘発が議題となっていた。
西ドイツ要所に配置したシュタージ工作員が軒並み逮捕され、そこから入る情報が失われたのは大きかった。
一応、対抗策として、東ドイツは西側へ亡命希望者や政治犯を国外追放処分にし、解決を図った。
政治局会議で、問題になったのは西ドイツに入るシュタージとKGBの二重スパイに関する扱いだった。
以前であれば、KGBにお伺いを立てて、微罪で逮捕した外人などと引き換えに、ベルリンでスパイ交換をするのが常だった。
だが、BETA戦争で、米国による資金援助が増えたことと、KGBが仕掛けたクーデター未遂事件以降、ソ連との関係が急速に悪化したことで、以前の様なスパイ交換は出来なくなった。
西独当局に捕縛されたシュタージ将校を救うために、西独の旅行者を逮捕するという荒業もあった。
だが、今後の影響を鑑みれば、それは無理だった。
現在の東独は、国家予算の殆どを西独の資金援助に頼っており、資金が立たれる恐れの方が、恐ろしかった。
つまり東独当局は、スパイ救出より目の前の金を選んだのだ。
会議の座上、非難は シュタージの対外部門、中央偵察総局に集まった。
同局には、スパイ活動や破壊活動とは別に、政治偵察部という部署がある。
政治偵察部は、KGB第一総局諜報対抗部(通称А部)をモデルに設置された機関である。
相手国の世論を自国に優位に導く宣伝煽動を主とし、それぞれ第一課と第二課が存在した。
(アジプロとは、アジテーション・プロパガンダの略語で、ソ連などでは多用された)
第一課は対外交策が基本で、米国およびNATO加盟諸国、中共、親米英の姿勢を示す後進国であった。
潜入工作の他に、国際テロリズム支援や、共産国への軍事顧問団派遣を実施した。
ソ連KGB工作員と共にモザンビークに軍事顧問団を派遣し、モザンビーク軍の制服を階級章なしで着こみ、現地人を背後から煽動していた。
第二課は、政治宣伝、スパイ工作の後方支援などである。
西ドイツの首都であるボンでの政治宣伝の他に、各官庁に広がった諜報網から機密情報を詐取していた。
そして、同じ友邦条約諸国であるポーランド、チェコスロバキア、ハンガリーなどにスパイを派遣していた。
現地の対外諜報機関との連携の他に、監視のためであった。
シュタージは、KGB以外の諜報機関を決して信用しなかった。
他国の諜報機関とは違い、シュタージ立ち上げ時からKGB生え抜きのマックス・ヴォルフが長官を務めていたこともあろう。
またシュタージは、KGBの指示がなければ動けない機関であるように最初から作られていたのも大きい。
それ故に職員たちは、「モスクワの許しがなければ、ミルケ長官は放屁さえできなかった」と嘆くほどであった。
シュタージが、KGB以外を信じなかったのはなぜか?
KGB当局による締め付けが極めて厳しい事ばかりではない。
ときおり、東側の対外諜報機関関係者が亡命をしたことも大きかろう。
直近で言えば、1978年のルーマニア対外諜報機関、国家保安局の長官、イオン・ミハイ・パチェパの亡命である。
チャウシェスク大統領の政治顧問を務め、対米外交を主導した人物の政治亡命の衝撃は、計り知れなかった。
後に、パチェパの政治亡命は、シュタージの高官亡命事件を引き起こす遠因の一つになるのだが、この話は後日の機会に改めて紹介しよう。
対外諜報を行う機関の失態に関して、批判はすさまじかった。
ヴォルフの後任、ヴェルナー・グロスマン大将は、平謝りに詫びいるばかりであった
一連の事件の失敗を、KGBの手法を取り入れたミルケ、ヴォルフの両人に原因があるとし、問題のうやむや化を図った。
一連の失敗は、自分に責はなく、それをそのまま実行した5人の副局長の手法であるとまで言い切った。
面白くないのは、5人の副局長たちであった。
彼等はミルケと違い、大卒者でそのほとんどが弁護士資格や税理士の資格を持ったインテリ層だったからだ。
俺たちはミルケのような文盲ではないと、怒りをあらわにし、グロスマンがソ連に留学し、ソ連共産党党員学校を卒業したことを暴露した。
そして、自分たちが西ドイツの世論を環境問題を隠れ蓑にして、反核運動を進めたことを滔々と説明し始めたのだ。
話は次第に、西側への政治工作から産業スパイで盗んだものの話に代わり、IBMから盗んだ電子基板や西独軍のレオパルド戦車の図面の話になった。
一通り話終わって落ち着いたころ、5人の課長補佐の内、ある中佐の口から驚くべきことが発せられた。
それは新型戦術機・F‐14に採用された特殊な装甲板に関しての事だった。
「何!ブリッジス博士の手によって、スーパーカーボンを超える複合材が完成しただと」
「分子構造式さえ手に入れれば、我が国でも完璧に製造できます」
中央偵察総局には科学技術偵察部という部署が存在し、産業スパイ活動を指揮していた。
電子部品ばかりではなく、最新の石油合成技術や化学繊維に関する特許などもその標的だった。
「その強度は、今までの炭素複合材の数倍、いや数十倍かもしれん。
それが我等の手に入れば……」
東ドイツでは、戦術機の生産が米ソ両国により許されていた。
政府の肝いりで、アイゼンヒュッテンシュタットに修理工場を作ったのを嚆矢に、生産工場を作った。
アイゼンヒュッテンシュタットは、1950年代にソ連によって計画され、建設された都市である。
東部製鉄所連合体の計画都市として設計され、当初の名前はスターリンシュタットだった。
1961年に鋼鉄の山を意味するアイゼンヒュッテンと改名され、フュルステンベルク(今日のブランデンブルグ州オーデル・スプリー郡)と合併した。
住民は、この長い名前を嫌い、単純にヒュッテと呼んだ。
ヒュッテとは、独語で山小屋の意味である。
ヒュッテ修理工場は、後に、東独初の兵器工廠となった。
これは、米国の圧力を受け、ソ連は許可したものであった。
シュトラハヴィッツ少将と、ブレーメ通産次官の活躍も大きかった。
兵器工廠だが、部品は国産化が思うように進まなかった。
ほぼすべてソ連本国から運び、組み立てのみを行った。
当時の東独の技術水準では、精度の高い部品を製造することはできなかったからだ。
東独の軍備強化と反乱を恐れたソ連の意向により、軍備増強は制限されていた。
自国生産できる武器は自動小銃、光学機器も双眼鏡のみという厳しいものだった。
何よりも、航空機設計のノウハウが失われ、戦車の部品すら作れない状態だったのも大きい。
東独には、近代的でシステマチックな機械工業がなかったからだ。
様々な思惑の結果、東独に許されたのはノックダウン生産と呼ばれる方式の物であった。
我々の想定している工業製品のライセンス生産よりも低水準の方法だった。
では、ノックダウン生産とは何者か、ご存じではない読者も大勢いよう。
簡単な説明を著者から許されたい。
ノックダウン生産とは、半完成品の段階で輸入した工業製品を輸入国の向上で組み立てる事である。
戦後日本では、自動車を生産する能力がなく、止む無く政府はノックダウン生産を受け入れ、段階的に自動車製造技術を獲得した。
三菱、日野、日産、いすゞの自動車メーカー各社は、英米の優れた技術とノウハウの提供を受けた。
それぞれ、ジープ、オースチンA40サマーセット・サルーン、ルノー4CV、ヒルマンミンクスなどである。
(ジープとルーツ自動車はかつて存在した自動車会社で、米国のクライスラー傘下となった。
オースチンは、その後英国企業を転々とした後、BMWに売られ、今は中国の南京汽車の商標である)
その後、日本はライセンス生産ではなく、独自の自動車技術を発展させていくことになる。
詳しい話は、後日改めて紹介するとしよう。
ソ連がなぜ自国で戦闘機や戦車を開発できるのに英米の技術を盗むのに腐心したのであろうか。
それは共産圏で、致命的なエレクトロニクスの遅れがあったからだ。
ソ連は、政策として質よりも量を重視した。
重量ベースの年間生産量を設定し、過酷な生産ノルマを自国民に課した。
その結果、ソ連の工業は重厚長大と呼ばれるものであった。
聞こえはいいが、経済的な効率を無駄にしたもので、無駄に大きく重たくて扱いづらい者ばかりが生産された。
高価格の部品や重量のある製品ばかりが重要視され、生産現場や国民の需要などを無視した生産が続けられた。
その結果、劣悪で画一的な工業製品が、大量に作られ、店頭に出された。
その様な粗悪な製品が売れることはなく、各国営企業は山の様な在庫を抱え、倉庫に積まれた。
1970年代のソ連では、各企業は新商品の開発よりも、倉庫づくりに余念がなかったという。
どれほど劣悪だったかといえば、火の吹く冷蔵庫に、割り算のできない電卓、サイドブレーキのない自動車などであった。
極めつけは、発射すると戻ってくるミサイル、居住性も悪く安全配慮のない戦車などである。
ソ連の工業製品の品質への無頓着は、軍事品であっても同じであった。
戦術機は電子部品の塊で、それを操縦する衛士は多額の費用をかけて育てたエリートである。
簡単に墜落することがあっても仕方がないが、脱出に失敗し、簡単に死なれても困る。
一応管制ユニットは米国製の物を使用していたが、安全装置は軽量化のために省かれていた。
一応脱出装置はあるが、英国製の無断コピー品で、脱出速度は20G以上の危険なものであった。
通常、西側では12Gほどであっても、脊椎損傷の恐れがあるので、いかに安全に脱出させるかを重視していた。
だがソ連では非常時に20G以上の圧力がかかり、むやみに使えなかった。
みだりに脱出せず、命を賭して機体を持ち帰れという冗談が出るような代物だった。
「問題はどうやって、ブリッジス女史に接触するかだ」
議長はそういうといつになく真剣な顔で、ゴロワーズの両切りを口にくわえた。
火をつけると、部屋中に黒タバコの何とも言えない香りが漂う。
ミラ・ブリッジスの名前は、東側でもつとに知られていた。
ハイネマン博士の若い助手の一人として、F‐14の設計に関わったという新聞報道を通じてである。
議長自身も、ライフ、ルックなどの写真週刊誌を通じ、米軍の戦術機開発の流れを把握していた。
ニューヨークタイムズやシカゴトリビューンの記事を基にしたシュタージのレポートも、毎週のように届けられていた
後に明らかになることだが、ルック誌の編集部にはKGBの影響下にある人物が出入りしていたと、ユーリ・べズメノフが米国亡命後の1983年に明らかにしている。
中佐の意見は簡単だった。
ミラ・ブリッジスが篁祐唯と結婚し、日本にいることは確実である。
そこで、新聞や雑誌社の記者を装ったシュタージ工作員を送り込み、ミラと会見させるという内容の事を告げた。
議長はその秘密工作に一抹の不安を感じたが、政治局員たちは賛成の意を一斉に表明する。
そして、G7東京サミットに合わせた議長の日本訪問と並行して、密使が派遣されることが正式に決まったのだ。
後書き
今月の三回の連載の内、ほとんどが1970年代のソ連と東独に関する説明となってしまいました。
参考文献は後日リスト化するつもりです。
ご意見ご感想お待ちしております。
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