八方塞がり
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第十章
「本当に徐々にだけれどな」
「けれど。そうして闘争とか倒すことばかり考えなくなって」
「悟りについて考えるようになって」
「あなたはいい顔になったわ」
そうなったというのだ。
「今までよりずっとね」
「そうか。それならな」
「また行くのね」
「行きたいな。お寺に行ってな」
もう休日はいつも寺を巡る様になっていた。そしてそこで禅を学んでいたのだ。
「座禅をしてな」
「お家でもする様になったけれどね」
「今度大学でも講義を持つことになった」
「仏教の?」
「哲学だがな」
宗教もまた哲学だ。いや、哲学は宗教からはじまっている。かつての欧州では哲学も法学も神学からはじまったのだ。
「その講義を持つことにもなった」
「そう。いいことね」
「勉強していく」
宇山はまた言った。
「そうしていくからな」
「じゃあ私もね」
ここでだ。幸恵も言う。
「一緒にね」
「座禅をするか」
「女でもそうしていいわよね」
「そんなことは誰も言ってないからな」
だから尼僧というものもいるのだ。禅宗でも尼僧の住職がいたりする。
「むしろ御前がいてくれるとな」
「嬉しいのね」
「御前は共産主義にはついていかなかったな」
「好きじゃなかったからね」
だからだったというのだ。
「ああした考えはね」
「だからか」
「そう。けれどね」
仏教、禅宗はどうかというと。
「座禅はいいわね」
「そうだな。それにな」
「お茶も好きになってきたわ」
ここで話が変わった。こう。
「禅宗のお茶もね」
「禅宗に、いやお寺に絶対にお茶があるのはな」
「あれはどうしてなの?」
「眠気を覚ます為なんだよ」
その為にあるというのだ。
「座禅なり修行の時に眠気が来ない様にな」
「お茶で目を覚まして」
「そうする為にあるんだよ」
「そうだったの」
「ああ。じゃあ茶も楽しむか」
「座禅とかは決して苦しむものでもないのね」
「ああ、そういうのじゃない」
確かに修行は厳しいがだ。それでもだというのだ。
「楽しんで。好きになっていいだろうからな」
「そう重くも考えないで」
「やっていくか、二人でな」
「そうしていきましょう」
二人で穏やかな笑顔で話した。そうして。
宇山は妻にだ。ここではこう言った。
「今から座禅を組むか」
「今日もね」
「ああ、そうしような」
二人で笑顔で言い合いそうしてだった。
夫婦で家の中で座禅をする。宇山は幸恵と共に安息と充実を感じていた。それはソ連が崩壊するまで全く感じ取ることのないものだった。
八方塞がり 完
2012・8・2
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