ソードアート・オンライン 幻想の果て
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十話 暗転
前書き
十一話分とまとめる予定でしたが思いのほか長くなったので分割しました。サブタイだけはどうしてもいつもいいのが思い浮かばない……センスが欲しい。
昼下がりの第五十層主街区アルゲード。猥雑極まりない構造が特徴のその街で、中央広場から伸びる目抜き通りの一角にあるプレイヤーショップでトール、アルバの二人はドロップアイテムの売却を済ませていた。
「でっかい人だったなー、外国人のプレイヤーがいるなんて思わなかったぜ」
「俺も初めて会ったときは驚いたよ、ちょっとネットゲームなんかやる人には見えないもんな」
今しがた出てきた雑貨屋店主の人物について言葉を交わす二人。トールが贔屓にしているらしいそのショップを経営するプレイヤーはSAOが国内でしかサービス展開していないことを考えると相当に珍しいであろう、浅黒い肌をしたアフリカ系アメリカ人だった。
時に両手斧を扱う剣士系プレイヤーとしてフィールドに出ることもあるらしいその人物はがっしりとした体格にスキンヘッドのいかつい顔つきをしており、その容姿は全てのプレイヤーアバターが現実の姿に変更されているにも関わらずこのファンタジー世界に居ながらあまり違和感を感じさせなかった。
「でもいい人そうだったな、笑うとなんか愛嬌あってさ」
「ああ、素材アイテムなんか結構いい値で買い取ってくれるし、信用できる人だと思うよ」
商売人にとって最も重要だといえる要素を保障しながらトールが右手を振り下ろしメニューウィンドウを開く。不可視モードのままでいるため他人には何を確認しているのか見取ることは出来ないが、顎に手を当て悩むようにしている彼の様子から大体の事情を察したアルバは腰に手を当て呆れてみせるポーズをつくりながら声をかける。
「金策追いついてねえのか?」
「ああ、最近レベリングの指導希望してくる下層プレイヤーも増えてきてるんだけど、支援して回るにはちょっと資金が足りなくてな」
苦笑してみせるトール。中層で自身のレベリングに励みながらも日々の戦闘で得た稼ぎを下層プレイヤーの育成に費やす彼にアルバは顔をしかめて苛立たしげに頭をかきむしった。
「自分の装備にだって金はかかるだろうによ、お前ってやつは」
「……悪い」
「もう諦めてるけどさ、ならよトール」
「ん?」
「この間俺とシュウがゲットしてきたステータスアップアイテム、覚えてるか?」
以前彼らが鉱石採集のため鉱山に向かった日の朝。シュウとアルバの二人がワッフルのような焼き菓子に使用していたアイテムのことをトールは思い出す。
「《アンバー・ハート》っていったっけ、あの蜂蜜」
「そうそうアレ、今からでも取りに行かねえか?HPアップアイテムなんて大金出してでも欲しがるやつは結構いると思うぜ、競売に出せばいい値がつくだろ」
「っ、いや……でもそのアイテムが手に入るクエストってクエストボスが出るって言ってたろう、今からじゃシュウを呼ぶわけにもいかないし、きついだろ」
「大丈夫だって、倒せない相手じゃなさそうってことも言ったろ?タゲ移りやすいAI設定だったみたいだし、スイッチ小刻みに入れれば俺達だけでも十分いけるさ、それに――」
提案に魅力を感じながらも予測されるリスクに迷いを見せているトールにアルバはメニューを開き、アイテムストレージから一つのアイテムをオブジェクト化操作を実行した。そうして青いフラッシュエフェクトを生じさせてアルバの手元に小さな木樽が出現する。
「それは!」
「例の《アンバー・ハート》。使用上限が三回でさ、一回分残してあったんだ。いざとなったら前回みたいにこいつを餌にして逃げればいい」
「……いいのか?」
貴重なアイテムを無為に失くすことになってしまうかもしれないというのに尋ねられたアルバは未練などないように躊躇い無く頷いてみせる。その行動を受けトールは目を閉じ考え込むようにしていたが、ややして目を開くとアルバに対し無言で頷きを返す。
件のクエストに挑戦する意思を固めたらしいその様子にアルバはにやりと笑ってみせ、踵を返し街の転移門の方へと足を向けた。
「ようし!そんじゃクエスト受ける村まで少し歩かなきゃいけねえし、昼飯買ったら早速行こうぜ。あ、シュウには黙っとけよ、デート中に余計な心配かけちゃ悪いしな」
「シュウにそんな気は無いだろうけどな、マリちゃんが苦労してそうだ」
歩き出したアルバを追いかけるトールだが、不意にハッとした表情になりその足を止める。
「夕方までに帰れないかもしれないな……不安がらせてもまずいし、エルキンさんには連絡を入れておくか」
呟いて、広場に並んでいる屋台で昼食となるものを物色しているらしいアルバを見ながら、再びトールはメニューウィンドウを開いていた。
* * *
アインクラッドの空、真上には上層の底部が広がっているばかりだが、隙間から外界を覗くことが出来る外周から差し込む陽の光が赤みを帯び始める夕刻前、エルキンの酒場に木材採集から帰ったシュウ、マリ、リコの三人が帰り着く。
「あ~~久しぶりにストレージ木材で埋め尽くしちゃったわ」
「ふふっ、おつかれさま、今日はマリちゃん張り切ってたね」
嘆くような声音で表情で伸びをしながら先頭のマリにねぎらいの言葉をかけるリコ。耳のイヤリング、随所にフリルがあしらわれたドレス・ワンピースと、いつもより着飾らせた格好の彼女にマリはじっとりとした視線を返して不満げな様子で呟く。
「だってリコったら折角二人っきりにさせてあげても全然自分から押していかないんだもん、じれったくてさー」
「……?」
言葉の意味がわからないという風に目をしばたかせるマリ。解説を求めるように隣の、今回護衛役をつとめてくれた少年と顔を見合わせる。以前聞いたクォーターだという出生の所以か、一般的な日本人より目鼻立ちがはっきりとした風貌の彼、シュウも意味がわからないようで首を傾げるばかりだ。
「もう、こいつらは……」
嘆息交じりの言葉を聞こえないように漏らす。森に向かう道中に弁当タイム中も世間話ばかりでちっともつっこんだ話にもっていかない親友もそうだがこの男も大した朴念仁だった。
朝マリ達と合流し、いつもよりお洒落をキメこませたリコの格好に気づき褒める、そこまでは良かった。しかし一日を通して彼が親友の欲目を抜きにしても人並み以上に整った容姿をしていると見られるリコを異性として気にかけるような様子は見られず、二人の仲を近づけようとするマリの目論見は空振りに終わる結果となった。
森で稀に飛び出してくるモンキー系のモンスターに素早く反応し、そのほとんどをカウンターや受け流しから急所を狙い澄ました一突きで仕留めてしまう手腕はリコにしてつい見惚れてしまうほどのものだったが、そういった心情の機微は持ち合わせていないらしい。
「エセ紳士め……」
再び聞こえないように恨めしげに呟きながら店内のカウンターへ向かうと、カウンター席に座る二人のプレイヤー、先日マリ達も話したヨルコとカインズの二人だった――と話していたらしい店主のエルキンが迎えてくれた。
「やあマリちゃん、今日はシュウ君と一緒なのかい?珍しいね」
「マリさん、シュウ君も、こんにちは」
「こんばんは――はまだ早いか。こんにちは、エルキンさん、ヨルコさん、カインズさん。あいつらはまだ来てないのね、今日は狩りに出てないって聞いたからもうこっちにいるのかと思ってたんだけど」
いつもならばこの時間、ヨルコらが座っているあたりのカウンター席を占領しているあいつら、背後の少年も含む最も顔なじみである三人組のことを思い浮かべながらマリが尋ねると、エルキンがああ、と相槌を返しながら答えてくれる。
「トール君達ならメッセージがあってね、今日は少し遅くなるそうだよ、なんでも四十七層に出かけるとか」
「四十七層?」
それは彼らが普段レベリングに狩りをする階層を考えると低すぎるエリアだった。今日はシュウがいないとはいえそこまで低い層に何をしに――と、疑問を浮かべていると、後ろにいたシュウが前に出てくる。
「エルキンさん、そのメッセージが届いたのはいつごろですか?」
「確か昼を少し過ぎたぐらいだったね、ええと……うん、ちょうど十三時に来ているみたいだ」
わざわざメニューを開きメッセージを再確認しての返答にシュウは表情を鋭い、剣呑な雰囲気すら感じられるものに変化させると、すぐさま右手を振り下ろしメニューウィンドウを表示させ、いくつかの操作を立て続けに行っていく。
表示が見えないためマリには何を確認しているのか見て取ることが出来ない。目的の画面に到達したのか操作する手を止めたシュウ、その結果に滅多に感情を露にすることがない彼が苛立つような調子で舌打ちする。
「シュウ君……?」
そのただならない様子にリコが不安げな声をかけるも、シュウはそれに申し訳なさそうな瞳を一瞬返すだけで、ヨルコの方を向くと告げる。
「ヨルコさん、カインズさん、少し付き合っていただけませんか?」
そう申し出た彼の、何かを決意したような強い意思が垣間見える横顔に、マリの中では未だかつて感じたことが無いほどの胸騒ぎが沸き起こっていた。
* * *
「ふッ!」
短い気合を口に、右手のブロードソードを横一文字に振りぬく。獣毛で覆われた目の前の巨熊の背に赤々とダメージエフェクトが刻まれ、攻撃を受けた眼前のイベントモンスター、ハニー・イーターが振り向いた。
「アルバ、スイッチ!」
「おう!」
バックステップを踏みながら鋭く上げた叫びに応えが返る。すぐ目の前の空間を黒光りする爪を備えた豪腕が削り取るのに背筋をヒヤりとした感覚が伝うが、追撃に反応するため挙動を見逃さぬよう視線は眼前のモンスターから外さない。
そうして睨み据える大熊をその背後からアルバが襲撃する。特徴的な形の両手剣が薄青く発光し、単発垂直斬り《カスカード》の一閃がハニー・イーターの背を縦に切り裂き、三本あるHPバーの最上段がぐんと削られ空になる。
両手剣の重い一撃に巨熊は生々しい呻き声を上げながら振り向き様にその太い腕を横なぎに振るった、しかしそれを予測していたアルバは身をかがめるだけでその攻撃を避け、素早く攻撃範囲から離脱する、そのアルバを追おうと足を踏み出すハニー・イーター。
その動きにトールは内心よし、と頷き。再攻撃のために剣を腰だめに振りかぶる。アルバの話に聞いていた通り、いや話以上にこのモンスターはターゲットの移り変わりが激しく、パーティーで挑めば対処が容易な相手だった。
三メートル越えの巨体から繰り出される攻撃の威力はさるものだろうが、そのことごとくが大振りのものばかりで、予備動作を見るだけでトール達のような戦い慣れたプレイヤーならば回避はたやすい。ソロで相手をするならば油断できないが、スイッチできる仲間がいるこの状況ならばたいした脅威でもない。
構えられた剣に緑のライトエフェクトが発生するやいなや、アルバに向いたターゲットを引き剥がすべく片手剣突進技《ソニックリープ》を発動させる。《ソニックリープ》は威力こそ上位のソードスキルに比べ劣るがその分発動後の隙が少なく、唯一警戒すべき攻撃直後の反撃に備えることが出来る故の選択だ。アルバも同様の警戒からだろう、先程から大技ではなく好きの隙無い基本技を主体に攻めている。
ソードスキルのシステムアシストにより加速したトールは反対側のアルバと挟まれる形でこちらに背を向けているハニー・イーターへ向かい真っ直ぐに向かう、その最中。
「――っ?」
不意にトールの耳が異質な音を捉えた気がした。まるでガラスが割れるような硬質で乾いた音。しかしトールは目の前の状況に対応するのが先決と、違和感を振り切りそのまま突進し大熊の背にソードスキルの斬撃を見舞う。
低い唸り声と共にこちらへと振り向くハニー・イーター。しかしすぐにスキル使用後の硬直から立ち直ったトールは左手のバックラーを前に構えながら後方へ飛び退がる。風を切るサウンドを発生させながら目の前を通過する熊の腕、その向こう側でアルバが先刻の繰り返しのようにハニー・イーターの背に《カスカード》で斬り込む。
黄色い光軌が走り、トールの《ソニックリープ》のダメージと合わせれば二本目のHPバーの四分の一までが削れる。順調にダメージを与えていることに安堵しつつ、トールは再度ターゲットを変えアルバの方を向くだろうハニー・イーターに攻撃を加えるべく足を踏み込ませる、が。
「っ!?」
それまで攻撃を加えてきたプレイヤーにターゲットを切り替えてきたハニー・イーターがその時のみ、背後から斬りつけたアルバの方を見向きもせずトールへと迫ってきていた。すっかり交互に攻撃を仕掛ける流れがパターン化していたトールは驚き、一瞬動きを止めてしまう。そこに――
「ぐっ!」
真上から叩き落とすように巨腕の一撃が降ってきた。咄嗟に掲げたバックラーでそれを受け止めるも小さなバックラーで受け止めきれるわけもなく、身に余る衝撃にふらりとトールの体が前へ傾いだところへ更に、ハニー・イーターの左腕が唸りを上げて叩き込まれる。
「がっ……はっ」
胸を巨大な爪に貫かれる異物感と途方も無い衝撃が体を突き抜け、そのまま吹き飛ばされたトールは背から地面に倒れてしまう。動かなければ、と思考するも痺れるような感覚が全身に残っており思うように立ち上がることができない。そんなトールの足に、ハニー・イーターがのしかかる。
「っ……!」
ハニー・イーターが乗ったことによりかかる重量でトールは足を動かすことすらできなくなった。痛みこそ発生しないが大型モンスターにほぼ馬乗り状態にされたこの状況はモーションをとることが発動条件であるソードスキルの大半を封じられた絶体絶命の体勢だった。
現在トールが行っている《アンバー・ハート》採取のクエスト条件によりこの森を抜けるまで結晶アイテムの使用が封じられている。せめてもの回復のために剣を置きハイ・ポーションを取り出すも。
「がっ!……クソ」
のしかかったハニー・イーターの爪が振り下ろされた衝撃でポーションの瓶を取り落としてしまう。トールのレベルや装備が階層に対して上等なお陰か一撃毎に削られるHPは全体の一割程でしかなかったが、このままのしかかられ一方的に攻撃を受け続ければ危うい。
少しでもダメージを減らすべく盾を体の上に掲げながら、落としたポーションを拾おうとした手が届こうとしたとき。
トールの目の前でポーションの小瓶が飛来した青い光を纏う細いピックに貫かれた。
「え?」
攻撃耐性などないポーションの耐久値はそれだけで削りきられ、青いポリゴン片と化した小瓶が乾いた音と共に砕け散る。
何が起こったか理解できず、首だけを動かしピックが飛んできた方を見るとそこには腕を振り抜いた、まるで投剣スキルを使用した直後のような姿勢をとっているアルバの姿があった。
「アル……バ?」
投剣スキルなんて取っていたのか、などという場違いな思いを浮かべたトールに、振り下ろされるハニー・イーターの爪。掲げたバックラーにその勢いを僅かに減じられながらも十分に重いその一撃は視界の端のHPバーを確実に削り取る。
しかしトールの意識はそれを気にかけることができないほどに混乱しきっていた。砕けたポーション、そしてモンスターに拘束されているトールを助けようともせず、冷えた視線で見下ろしているアルバ。
何が起こったのか、推測は出来ても理解することをトールの頭が拒んでいた。パーティメンバーとしてこのアインクラッドで生死を共にした仲間に、見殺しにされようとしているなどという受け入れがたい現実を。
「どうしてだ……アルバ」
振り下ろされる豪腕、削られていくHPはイエローゾーンに達していた。両手剣を背に収め戦闘体制を完全に解いているアルバは投げられた問いに、よく見せる頭をかく仕草をすると一言だけ、呟く。
「わりぃな」
いつしか盾で身を守ることすら忘れ、打ち下ろされる大熊の爪に視界の端でHPバーががくりと削られていくのを他人事のように呆然と見ていたトールの脳裏に一つの出来事が思い返される。
初めて下層プレイヤーのレベリングを支援した時のことだった。出現モンスターの事前調査を怠ったがために、ターゲットを上手く自分に集めることができず、ダメージに慌て逃げ惑い、分断されたところをモンスターに狙われ命を散らしていく下層プレイヤー達。
以降トールは安全に安全を期した上でレベリング支援を行うようになった。装備を整え、情報屋に払う金銭を惜しまず狩場環境も調べつくす。多くの下層プレイヤーを死なせてしまったその経験による罪悪感こそがトールが過剰なまでの下層支援を行っている最大の理由だった。
あの時死なせてしまったプレイヤーの友人、知人に復讐の依頼を受けてアルバは自分に近づいてきたのかもしれない、そうだったらいい、この理不尽にも納得できる。
そんな諦めの思考がよぎった時、ついにトールのHPがレッドゾーンに達する。視界が徐々に赤く染まっていき、終わりの時が近づき、まるで地面が揺れているかのような錯覚を覚えると、顔を向けていたアルバの表情が驚愕に歪む。
どうしたというのか、声に出ない疑問を抱いた瞬間にそれが飛び込んできた。
地を踏み鳴らす蹄の音を響かせながら暗い森を駆け抜けてくる一頭の馬、それに跨っているのはトールのもう一人のパーティメンバーである少年、シュウだった。
シュウはハニー・イーターにのしかかられているトールを視界に納めるやいなや背の短突撃槍を抜き馬に激を入れ真っ直ぐに向かってくる。
「おおおっ!」
馬上でシュウが突撃槍を引き構えると槍身に深い青の光が生まれる。そのまま馬ごと急加速しハニー・イーターに突撃し騎乗、突撃槍の複合ソードスキル、《ロス・シュネイル》の並みの突進技とは比較にならないほどの凄まじい勢いが乗った突きが大熊の横腹を貫く。
ハニー・イーターの巨体が吹き飛ばされるように転がる、トールを拘束状態から開放するとシュウは素早く馬から降り、ハニー・イーターとトールの間に立ち身構える。もう一人、シュウの後ろに同乗していたらしい人物、ヨルコが飛び降りトールに駆け寄ってきた。
「ヒール!」
ヨルコがポーチからHPを全快させる回復結晶を取り出しコマンドスペルを唱えるが、桃色の結晶がその効果を発動させずに沈黙しているのに彼女は表情を険しくしてシュウを見やり呼びかける。
「ダメですシュウ君!効きません!」
「――パーティ外プレイヤーからでも駄目か」
シュウは身を起こすハニー・イーターを睨んだまま呟く。起き上がった大熊の視線は敵対値が増大する強力な攻撃を受けた今でも、乱入者を無視するようにトールへと向けられている。
「トール、《アンバー・ハート》のクエストを破棄しろ」
「え……」
自身を無視してトールに襲い掛かろうとするハニー・イーターの進路に立ちはだかりながらシュウが叫ぶ。邪魔者を押しのけるべくハニー・イーターが放つ巨腕によるなぎ払いを、先に進ませないことが目的のシュウは避けるわけにもいかず、真っ向から受け止める。
いかに彼のレベルが前線クラスとはいえボスモンスターの筋力に抗しきれるわけでもなく、逸らしきれないダメージがシュウのHPを僅かに削る。防御姿勢を取ったシュウの横を駆け抜けようとするハニー・イーターだが、すかさず浮いた後ろ足にシュウが突撃槍による一突きを叩き込み、バランスを崩したハニー・イーターは足がもつれたように転ぶ。
「早くしろ、死にたいのか!?」
「――!」
再びダウンを奪いながら叫んだシュウの逼迫した彼らしからぬ声に、迷いを断ち切られたトールはメニューウィンドウを開き、受注したクエストの詳細画面を表示させる。その画面下部にあるクエスト破棄選択のアイコンを押しこむと一瞬体が浮くような感覚がトールを包む。
おそらく結晶無効化状態が解除されたことによるものだろう。同時に画面がクエストが破棄されたことを示すシステムメッセージに変化した、使用不可のクエストアイテムとしてアイテムストレージに格納されていた《アンバー・ハート》も消失していることだろう。
すると起き上がろうとしていたハニー・イーターがピタリと動きを止め、その姿がかすれ出し、クエストが完了、あるいは破棄されたときにはその存在を維持できないようになっているのか、死亡時とは異なる周囲の空間に解けていくようなエフェクトを発生させながら消えてしまった。
「ヒール」
再びコマンドスペルを唱えるヨルコ。今度は回復結晶もその効果を発揮しピンクの宝石が砕け散るとトールのHPが全快し、赤く染まっていた視界がクリアになり薄暗い森の景色もはっきりと見て取れるようになる。
「大丈夫ですか?」
「瀕死から立ち直ったばかりなんだ、無理するな」
立て続けに受けたダメージによる倦怠感が残る体を起こすと、シュウとヨルコが気遣わしげな声をかけてくる。静かになった景色のどこかに違和感を感じるが、頭がどこかぼんやりとしており、上手く思考が定まらない。
「シュ……ウ?」
モンスターは消えたというのに、険しい表情をしたまま森の出口の方を見やっているシュウを見ると、彼は突撃槍を背に収め、佇んでいた馬の手綱を握りながらヨルコに声をかけた。
「もうじきカインズさんも来てくれるでしょう、ヨルコさんはカインズさんと合流したらトールを連れて先に街まで帰っていてください」
「はい、でも先にって……シュウ君は?」
「俺は片付けておきたい用件がありますから、まだ帰れません。今日は急なお願いに応じてくれてありがとうございましたヨルコさん、それでは」
ヨルコの問いにそう答えるとシュウは馬に跨り、森の出口へ鐙を向けた。そこでようやく、いつの間にか姿を消していたもう一人の少年のことを思い出したトールはハッと目を見開き、まさかという思いを込めてシュウの背に呼びかける。
「待てシュウ!用件ってなんだ、お前……まさか……」
その先を言葉にすることが出来ず、呼びかけが途切れる。馬上で振り向いたシュウの目が、あまりに迷いなく、透徹として揺らぎない色をしていたからだ。
この少年の意志を曲げることは出来ない、そう感じ取らせてしまうほどに。
「すまないなトール、これはきっと……俺が解決してやらないといけない問題だと思うんだ」
それだけ言い残すとシュウは手綱を振るい、馬を走らせる。その背を呼び止めることはもうトールには出来なかった。
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