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冥王来訪

作者:雄渾
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第二部 1978年
狙われた天才科学者
  先憂後楽  その4

 
前書き
ユルゲン兄ちゃん、因縁のママとのお話です。 

 
 ユルゲンは母の顔を見た途端、胸が締め付けられた。
思い出したくないのに、かつての家族の団欒(だんらん)が頭をかすめてしまう。
 母は、すでに四十路は越えてはいるが、蠱惑(こわく)と思える艶美(えんび)は、少しも色褪せていなかった。
この圧倒的な妖艶の前に、あのシュタージ工作員、ダウムも魅了(みりょう)されたのであろうか。
一層(いっそう)(あや)しいまでの皮膚の白さと、金糸のごとき、美しく長くまっすぐな髪が煌めいて見える。
 彼女の娘であるアイリスディーナに、あの忍人(にんじん)、木原マサキが、頬を熱くして、(こころ)(さわが)すも、兄ながら、理解できる気がした。
妖艶な母と、楚々たる妹では全く雰囲気が違うが、やはり、その冴えた美貌(びぼう)は、どこかこの世の人とも思えぬ感じもしないでもない。 

 「この際だから、洗い浚い、聞いてみたらどうなの」
肘掛椅子に座るベアトリクスは、鬱勃(うつぼつ)とした表情のユルゲンに問いかけた。
「すまない。気にはなっていたが……」と、幼な妻の肩に、手を置いて、メルツィーデスを睨み、
「アンタに一つ尋ねたい。なんで俺達を捨てて、あんな間夫(まぶ)の元に(はし)ったんだ」
と、目の前の女に、瞋恚を明らかにした。
「それは、貴方たちを庇うために、ダウムを頼ったのよ」
母の衝撃的な告白に、ユルゲンは唖然とした。
 
 メルツィーデスの告白を、心の中で反芻していたユルゲンは、その衝撃から立ち直れずにいた。
「母さん!」
アイリスディーナの呼びかけを制し、メルツィーデスは、沈黙するユルゲンの方を向き、
「彼と話がしたいの。ベルンハルトの家族には酷い事をしたから」
にべもなく言い放つと、淡々と語り始めた。
「ヨゼフが、貴方がたの父がなぜ、シュタージに付け狙われたか。本当の事を話しましょう。
あの人は、先ごろ亡くなったアンドロポフKGB長官に目を付けられてたの……」

 すでにお忘れの読者もいるかもしれないので、説明する。
メルツィーデスの話に出て来る、KGB長官とは、マサキと少なからず因縁のある人物であった。
 シュタージ内部のKGB工作員、エーリッヒ・シュミットの叔父であり、東ドイツ首脳暗殺を(たくら)み、幾度となく工作隊を送り込んだ張本人。
 また、ゼオライマーに核攻撃を指示した責任者でもあり、ハバロフスク空港で、剣を(ふる)って、マサキと壮絶な一戦を交え、彼に殺された人物である。


「丁度、22年前の今頃に、なるかしらね……。
ハンガリーで、ソ連の軍事介入で政変があったのを覚えている?
いいえ、あなたはまだ2歳になったばかりだったからね」
脇で聞いていたザビーネが、同調する様に、
「奥様、あの時、わたくしも娘の頃でしたが、よく憶えてますわ。
買い出しに行った西ベルリンでは、それこそ酷い騒ぎでしたの。
連日連夜、オーストリーに亡命する人々の話が、西ベルリン経由で漏れ伝わってきましたわ」
「ザビーネさん、私はハンガリーに、主人とユルゲンといたから、詳しい経緯は知ってます」
と、メルツィーデスは、軽くあしらって、
「あの人は、軍事介入が決まった後、蛮勇を振るって、ソ連大使館に単身乗り込んでいったの。
そこで、駐ハンガリーソ連大使に、意見したの」
「何て?」
「正確な所は知らないけど、何でもこういったそうよ。
『ソ連がハンガリーでやったようなことは帝国主義国がやってきた事と同じである』と」
「あの恐ろしいKGBが、よく許しましたこと!」
「どういう経緯で帰って来たかは知らないけど、でも、それ以来、目を付けられたのは確かよ。
ソ連からも、KGBからも」
メルツィーデスは、押し黙るユルゲンの頬を撫でながら、
「シュタージの前の長官のミルケ、知ってるでしょ」
「……」
「彼は、ベルリンで2人の警官殺しの後、ソ連に逃げてKGBに拾われた男よ。
そんな人間だから、ソ連の操り人形で、モスクワの許可が無ければ何にもできない人だった」
 
 母が、何かを語ろうとしているのは、分かる。
しかし、ユルゲンには、彼女の気持ちが判らなかった。
何時しか、怒りより戸惑いの感情が強くなっていき、
「何が言いたいんだ」と、初めて強い姿勢で、ものをいった。
「もう少しで終わるから待っていて」
「……」
「その後、ハンガリー大使だったアンドロポフが、67年にKGB長官の地位に就いたの。
私から言えることは、これだけよ」
母の面は、色蒼く醒めて、いつの間にか(むせ)(ごえ)になっていた。

 ユルゲンは、その一言で、目の前が真っ暗になるようであった。
1967年と言えば、父と母の離婚した年である。
あの憎い間夫(まぶ)、シュタージ職員のダウムが、眉目秀麗(びもくしゅうれい)(かんばせ)をほころばせ、母に言い寄った年でもある。
母の話を勘案すれば、父はハンガリー大使だったアンドロポフの恨みを買っていた。
そして、KGB長官の就任祝いとして、シュタージが忠誠心を示す貢物として差し出すべく、父母を(おとし)めたと、伝えたかったのだと。
 今、精神病院の暗い病室の中で、恍惚(こうこつ)としている父が、よもや、その様な大陰謀に巻き込まれていたとは……
たまらない憐愍(れんびん)がわいて、彼はメルツィーデスの脇に座る。
「そんな事情があったとは……(ゆる)して下さい」と、彼は、四十路(よそじ)を超えた母を抱きしめた。
幼き日、母の胸の中で泣き喚いたように、体中で慟哭(どうこく)した。

 夜が更ける中、アイリスディーナは一人、フリードリヒスハイン人民公園まで来ていた。
母の衝撃的な話を聞いて、信じられず、制服姿のまま、家を飛び出してしまったのだ。
兄や、護衛のデュルクが探しに来るだろうが、何も考えられないほど憔悴(しょうすい)しきっていた。

「どうした。年頃の娘がこの様な時間に出歩くとは、いくら社会主義独裁の国でもあぶないぞ」
ふいの声に驚く間もなく、そっと抱きすくめられた。
「暴力など受けたらどうする。俺だから良かったものの……」

 声の主は、木原マサキだった。
着古しの詰襟の上から、黒色の脹脛(ふくらはぎ)丈のコートを羽織って、紫煙を燻らせていた。
 今回の訪問は、連絡を取った訳ではない。つい衝動的に、来てしまったのだ。
アイリスディーナへの想いは、日が経つに連れ、強く激しくなってきている。
それを一旦制御する為に、マサキは、彼女の元を訊ねたのであった。
 彼は、着ているウールのオーバーを脱ぐと、アイリスディーナの肩にかけ、
「どうだ、温かいだろう」と、手を引いて、パンコウ区の方に進む。
「どうして……」
「別れのあいさつに来た。俺は明日、ハンブルクを()って、ニューヨークに行く。
その前に、お前の顔を拝んでおきたかったからさ」
「……」
「どうやって来たか、理由は聞かんのか……、フフフ」
マサキは、アイリスディーナの方を向かずに、
「何、驚くべき事ではない。次元連結システムの一寸した応用さ」
と、言った後、顔を彼女の方に向け、じっと碧海のような瞳を見て、
「俺の方でも女遊びにかまけていられなくなってきてな。だからアイリス。
暫し、お前の所には顔は出せん」と言いやった。
彼の視線が耐えきれず、アイリスディーナは視線を落とした。
胸の奥で、高鳴る鼓動に惑わされながら、歩みを進める。
なんと声を掛けてよいのか、どの様な態度を取ればよいか、彼女には解からなかった。
一週間前なら何ともなかったのに、頬を紅潮させるような羞恥(しゅうち)を覚える。

マサキは、おもむろに、ホープの箱を取り出し、タバコを口に咥え、
「この先、俺は月と火星に居るBETA退治の為、新兵器の開発に入る」
と、その場の雰囲気を、変えるような事を口走った。
 暫しの沈黙の後、アイリスディーナは、顔を上げ、
「まだミンスクハイヴ攻略から日が浅いのにですか……お疲れも癒え切らぬ内に」
どことなく悲しげな表情の、マサキの瞳を再びとらえると、
「しかたがない。これが科学者というものだ。軍人と言うものだ。
この木原マサキは、木や石で出来た像では、ない。
身体の疲れも辛いが、お前との別れはもっと辛い。だが一度、自ら望んで軍籍に身を置いた立場」
「ええ……」
マサキの声に動揺はなかった。いつも以上に落ち着いていた。
「出来れば、お前には軍から身を引いて欲しい。
あのような剣の中に身を置いて欲しくない。まだお前は花開かぬ青いつぼみだ。
暖かい春の日差しも、花を咲かせるような夏の太陽も、実を()らせる秋も知らない。
願えば、どんなことでも出来る。
兄の為とか、こんな傾いた国の為とかと言って、軍に残って、衛士などという馬鹿げた事をする必要はない。
女の一生を、そんな一時の自己満足の為に、棒に振る様な必要は無かろう」
ガスライターで火を点け、紫煙を燻らせながら、
「男は、この世に生まれて以来、己の大義に、己の正義に殉じるのが宿命。
俺も、俺自身の野望の為に、あえて、剣の中に身を置き、魑魅魍魎(ちみもうりょう)どもと戦っている」
静かにうつむいた顔を上げ、
「だが、女は違う。
幾千年の歴史の中で、志に(じゅん)じて死んでいった男達を横目に見ながら、その命を長らえて来た。
何時しか許され、その命を(まっと)うしてきた。また許される存在なのだ。
だから、高い理想のために働くなどではなく、どの様に生きるかを考えるべきではないか。
もう少し、女らしく自由に生きてみよ」
と、どこかあどけなさの残るアイリスディーナの表情を見つめ、俄かに彼女を抱き寄せる。 
咄嗟に、彼女のうけたマサキの唇は、炎のように熱かった。 
 

 
後書き
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年末は、29日ごろに不定期投稿するかもしれません。 
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