冥王来訪
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第二部 1978年
狙われた天才科学者
一笑千金 その4
前書き
愛の多重衝突事故回
「木原。お前が俺をソ連の害悪から幾度か助けたことへの恩として、帰国するついでに、この娘を連れてくれぬか」
ユルゲンの言葉は、アイリスディーナとの結婚を意味する物であった。
東ドイツ国民の国外への移動は制限されていた。
但し、それにも条件があり、65歳以上の高齢者と政治犯、外国人と結婚した配偶者は出入国が自由であった。
BETA戦争たけなわの頃、SEDはこの例外条件すらも認めぬ立場を取ろうとしていた。
だが、思いのほか早く、戦争の勝利が見えて来たので、その例外規定は残された。
この甘言に、マサキは、己の身の安全を考えれば、即座に否と答えるべきである。
だが、目の前に立つ人が、あまりに美し過ぎるので、なんとなく戸惑った。
マサキの正面に立つユルゲンは、彼の戸惑いを、どう解釈したか。
「そうだ、出自の分からぬ娘をと疑っているであろうが、心配するな。
彼女は、この世でたった二人、血で結ばれ生きて来た、俺の同母妹。
世間の風の冷たさも、知らせぬように育てた……」
マサキが目を動かすと、
「俺なりに彼女の幸せを考えて、こうしたのだ」
と、ユルゲンが彼の袖をとらえ、なお、語りつづけた。
彼の妹は、名前はアイリスディーナ、生年月日は1959年9月8日、齢は19歳。
陸軍士官学校を卒業したばかりで、成績は上位の方ということ。
だから、アイリスディーナの身を、壁の外に出してくれさえすれば、後はどうにかなると、祈るようにいうのだった。
マサキは、彼女の名に感銘を受けた。
アイリスという名前は、ギリシャ神話に起源を持つ虹を神格化した、女神イリスに由来する名。
また、東亜と欧州にのみ咲く多年草、菖蒲の異称。
寒風酷暑にも強く、山中でもその可憐な姿を見せる事から、虹の使者とも称される。
その花言葉は、『素晴らしい出会い』『素晴らしい結婚』『燃える思い』等など……
彼女の白玉の肌を、白い独逸菖蒲に例えれば、まさに『純粋』という花言葉に相応しいように思えた。
諺にある、『何れ菖蒲か杜若』との表現も、アイリスディーナとベアトリクスの義姉妹にはぴったりだ。
そう考え、ますます、目の前の麗人をほれぼれと見入ってしまった。
昂る気持ちを落ち着かせるように、懐中よりタバコを取り出すも、緊張のせいか、思わず取りこぼす。
『ホープ』の箱を、ゆっくりと拾い上げた後、一本抜き出し、紫煙を燻らせる。
喫烟の吐息に紛らわせるように深い溜息をつき、胸の鼓動を落ち着かせた後、
「貴様の誠心誠意、承知した。だが娘御の心も無下には出来まい」と、ユルゲンに答えた。
そんなマサキの姿を見たユルゲンは、優しげな表情で、
「アイリス、おいで」と、アイリスディーナをさし招いた。
彼の妹は、それへ来て、ただ恥らっていた。
「アイリスとやらよ、お前の心を俺に教えてくれ」と、訊いた。
アイリスディーナは答えず、ユルゲンの陰に、うつ向いてしまった。
「恥ずかしいのか……」
そして、あろうことか、マサキの右手は、彼女の白玉の様な肌の手を握った。
「怖がることはない。少しばかり聞きたいことがある」
マサキは、恍惚と、見守りながら言った。
「貴様は、こんな先も無いソ連の衛星国の将来の為に、その操を俺に捧げるというのか」
かすかに、彼女は答えた。
「私は、兄さんの……、兄の手助けが出来ればと思って……」
紅涙が頬を流れ落ちる。
うつむくアイリスディーナを前に、何時になく真剣な表情を見せるマサキ。
その姿を見た鎧衣は、驚愕の色を隠せなかった。
猥雑な冗談も軽くあしらって、女にも興味のない風を見せている男が、大真面目な表情でいるのだ。
篁とミラの愛の成り行きを語った時、一顧だにしなかった冷血漢が。
この娘の清らかな気持ちが、漆黒の闇の様な彼の心に何か、変化を与えたのであろうか。
古の呉王・夫差に送られた西施の例を出す迄も無く、よくある美人の計。
女色を持って、情事に耽らせ、マサキを貶めるための姦計であることは間違いない。
木原マサキという人物は木や竹でもない。ふと好奇心を持ってもおかしくはあるまい……
初心な科学者が、何かに魅入られてしまったようなものだ。
鎧衣は、そう思うと、苦渋の色を顔に滲ませて、部屋を後にした。
マサキがアイリスの姿に恍惚になる様を見ては、美久も胸をかきむしられるようだった。
酒色に惑溺する様な人物ではないと思っていただけに、驚きようも、大変な物であった。
推論型AIに前世の記憶を持つ彼女にとっても、19の小娘に面を赤らめ、はにかむ様など記憶にない。
肉体こそは秋津マサトの若々しい青年の体であっても、既に精神は老境に入ったものとばかり。
既に二度、冥府の門をたたいた男である。
世界征服という飽くなき欲望こそ、この男を突き動かす原動力とばかり思っていたが……
ああ、これが世にいう『墓場に近き、老いらくの恋は怖るる何ものもなし』という心境であろうか。
美久は、胸のうちでため息をおぼえた。ふしぎなため息ではある。
アンドロイドである彼女自身でさえ、自分の推論型AIの内に、こんな性格があったろうかと怪しまれるような気持が抑えきれなかった。
それは嫉妬に似た感情だった。
そんな周囲の心配をよそにマサキは、興奮した様子のユルゲンに、
「ベルンハルトよ。お前の妹の可憐さは、言葉に出来ぬものだ。
真の美人というものを、初めて見た気がする」と、熱っぽく語り、
「世間の冷たい風から隠してまで、大層かわいがるのは、解らぬでもない」
と、ユルゲンの妹への感情に、理解を示した。
ユルゲンはマサキの言葉を受けて、まるで心の中まで覗かれた気がした。
思えば、ひとえにアイリスディーナの幸せを願っての為、戦術機という甲冑を纏い、怒涛の如く押し寄せて来るBETA共に膺懲の剣を振るった。
またアイリスや愛しい人ベアトリクスの為には、全世界を巻き込み、東ドイツの社会主義体制の崩壊さえもいとわない覚悟であったし、また、その様に行動さえもした。
例えこの身が滅びても、シュタージや軍を巻き込んで、妹や妻が生き残って欲しいと、思って、日々苦しみ悶えた。
ハイム将軍の提案も、聞いた時は嚇怒したものの、今となっては彼女の幸せのためなら、そう言うのも悪くないように思えてきていた。
マサキは、抑えようもなく心の底にむらむらと起ってくる不思議な感情を恥じながら、打ち払おうと努めていたが、その理性と反対なことを口に出していた。
「だが、今のこの俺に、あの娘を人並の幸せを掴ませてやることは難しかろう」
押し黙るユルゲンにたたみかける様に、マサキは、何時になくねばりっこく言った。
「世に美人は一人とは限らぬ。
それに俺の様な匹夫に嫁いで、その宝石にも等しい純潔や貞節を汚すような真似をする必要もあるまい。
ただ、どうしても俺が忘れられぬというのなら、5年待って。返事が無ければ、縁が無いと思って諦めろ」
その発言を受けて、ユルゲンの脇に立つアイリスディーナは、俯いて縮こまってしまう。
そんな素振りが、マサキをいっそう痺れさせた。
一通り、話が終わった後、落ち着いたユルゲンは茶の準備のために台所に向かった。
その背後より、駆けてきたマライから、
「ユルゲン君、お待ちになって」と、息も忙しげに、声を掛けられる。
咄嗟に、マライは、ユルゲンにふるいついた。
「ど、どうかしました」
「ユルゲン君、どこか人気のない部屋でちょっと話したいの」
そう言って、手近のドアを開けて、空き部屋に滑り込む。
ユルゲンにとって運が良かったのか悪かったのか。そこは夫婦の寝室だった。
「ここなら誰も来ません。それで、話とは」
「同志ベルンハルト」
マライはじっと瞳を澄まして、彼を見つめた。思いなしか、その眼底には涙があった。
ユルゲンも、胸をつかれて、思わず、
「はいっ」と、改まった。
「貴方は、大変な事をしてくれましたね」
「えっ?」
「私は、貴方を、常々、弟のように思っていました。
貴方もまた、よく部下のお世話をし、部隊の為に働き、衛士としても将校としても、恥かしくないお人として、様々な信頼をうけておられます……。
どうして今、私があなたを、見捨てる事ができまして」
「ど、どういうことです。仰っしゃる意味が分かりかねますが……」
「妹さんを木原という日本人に引き渡すなんって、本当は望んでいないのではありませんか」
「ええ。じゃあ、すっかりバレてたのか」
「私は、ハイム将軍から、今回の件を事細かに伺っております。
もし断れば、状況次第によっては、この国の存立にも影響しかねないかと……」
マライは、突然、彼の手をかたく握って、
「ですから、貴方が、どうしてそんな大胆な行動を敢えてなさったのか。
私にも、その心の中の気持ちが、全くわからない訳ではありません」
「す、すみません」
マライの本心からの言葉に何処か、ジンと来るものがあり、ユルゲンもまたそっと眦を指で拭いていた。
「なにを仰っしゃるんですの。貴方や妹さんを、あんな人物の為に生贄にしていいほどなら、ここへは来ません。
私は軍人としてでなく、一人の女として、日ごろの好みを捨てがたく、飛んでまいったのです」
「で、では、このユルゲン・ベルンハルトをそれほどまでに」
「貴方のご温情には一方ならぬお世話になり、深い交わりをしてきた仲です。
なんでその間柄の貴方を捨てられましょうか」
いつの間にか、ユルゲンはマライの事を強く抱きすくめていた。
マライとユルゲンが、寝所から出てくるや、声を掛ける者があった。
ユルゲンの副官、ヤウクで、急ぎ彼の元に駆けより、
「僕も君に相談がある」と、マライに聞くより早く、連れて行ってしまった。
一人残され、呆然とするマライに、
「よろしくて」と、呼びかける声がした。
声の主は、ユルゲンの新妻、ベアトリクス。
朝より気分のすぐれぬ彼女は、外出先から、急ぎ帰宅し、早めに休もうとしたところ、偶然、ユルゲンたちが寝所への出入りする様を、目にしたのだ。
マライは、一部始終を知られた事を悟り、色を失い、恐れおののく。
そんなマライの前に立ち、ベアトリクスは、両腕を豊満な胸の前で組む。
青白い顔色に、乾いた笑みを浮かべ、
「お話し聞かせて下さらないかしら」と、話しかけ、マライの右手を引いて、別室へいざなった。
そんな事も知らないユルゲンはヤウクに連れられて、屋外にある警備陣の為の喫煙所に着くなり、
「急に改まってなんだよ」と訊ねた。
常日頃から秘書の様に付き添うヤウクは、深刻な面持ちで、
「君は、簡単に木原マサキという男が操れると、思ってるのかい」と同輩を窘めた。
「アイリスを見る目は、嘘じゃないだろ」と応じるも、
「もし、我々の姦計に、気付いた木原が怒って、ゼオライマーが牙を剥いたらどうなるのだろうか。
この国は、いとも容易く木っ端微塵に、されるだろう」
紫煙を燻らせるヤウクから、諫めの言葉を聞いて、ユルゲンは途端に恐ろしくなった。
カザフスタンのウラリスクハイヴに行った時の事を思い起こす。
かざした腕より放たれる一撃の技で、あの60メートル近くある要塞級をいとも簡単に消し去る。
蟻のように群がり、戦術機をいとも簡単に食い破る戦車級を、まるで芥の如く一陣の風で消し去った。
あのような天下無双の機体には、恐らく核飽和攻撃も、無意味であろう。
奇しくも5年前、ソ連留学中に訪問したウラリスクの町を、ソ連赤軍が核飽和攻撃で焼く様を、ヤウク達留学組と一緒に見ていたが、ゼオライマーの攻撃は、その比ではなかった。
文字通り、BETAは塵一つ残らず消滅させられ、ハイヴは砂で作ったの城塞の如く、濛々と土煙を上げて崩れ去っていったことを、いまだ鮮明に覚えている。
ヤウクの後ろ姿を見送ってから、その足で客間に向かうユルゲンは、一人、心のうちで、
「ああ、大変な事をしてしまった物だ」と、慚愧の念に苛まれていた。
後書き
ご意見、ご感想よろしくお願いします。
マライさんとユルゲン兄さんの深い交わりの話は、ハーメルンの外伝に書いてあります。
18禁なので、成人で、興味のある方は覗いてみてください。
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