魔法使い×あさき☆彡
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第十六章 日常の中ならばよかったのにな
1
床に、物のほとんど置かれていない、質素で落ち着いた六畳間。
ふすまの隙間から見える、ガラクタ山に気付いてしまうと、一転して落ち着きもへったくれもなくなってしまうが。
突貫作業で、全員で隣の洋室へと物を運び、押し込めたのだから仕方ない。
ここは千葉県我孫子市泉地区。
一戸建てにぐるり囲まれ建っている、五階建てマンションの四階、須黒美里先生が一人暮らしをしている部屋だ。
どうして急遽、片付けをすることになったかというと、なんのことはない。
須黒先生が、リヒトの動きに備えた対策会議のために、関係者を自室に招いたはよいが、自分の部屋がとてつもなく散らかっていることをすっかり忘れていた、という、ただそれだけの話だ。
招かれたのは、みな現役の魔法使い。
今回、色々な面で当事者になってしまっている、令堂和咲。
同じ、天王台第三中学所属の仲間である、明木治奈と、昭刃和美。
リヒト所属であるが、慶賀応芽と親友であったために関わることになってしまっている、銀黒髪の嘉嶋祥子。
隣の学区で、助け合う関係であるため、知っておいてもらおうと呼ばれた、第二中魔法使いのリーダーである、万延子。
この、五人である。
慌てて片付けこしらえた空間の、中央に置かれた白い座卓を取り囲んで、私服姿の彼女たちは、それぞれ床に腰を下ろしている。
何故、このような場所で、対策会議などを開いているのか?
それは、樋口校長にも、メンシュベルト東葛支部にも、何故か連絡が取れないためだ。
リヒト東京支部での件を、須黒先生が校長に伝えようとしたが電話繋がらず、メールも返信なし。
校長室も、もぬけの殻。
東葛支部へ問い合わせるが、担当不在とのことで、上長と話すことが出来ず。
ならばいっそ本部か、または、知った顔である第二中の杉崎真一先生へ相談しようか。
などと思案しているうち、だんだんキナ臭く感じるようになった須黒先生は、念の為、背広組への相談は控えて、信頼の置ける者たちを集めた。
というのが、円卓の騎士が集まることになった経緯である。
リヒト所長、至垂徳柳がその気になれば、メンシュベルトの懐柔程度は容易かも知れないし。下手に動いて、勘ぐっていることに気付かれて、生命の危険に身を晒してもバカバカしい。しばらくは、待ちの姿勢でいよう。と。
「しっかし、あの、シダレだかハナタレだかオシッコタレだか、変な名前の男。いつ見ても薄笑いで、気に食わねえ野郎とは思ってたけど、まさか態度通りのゲス野郎で、しかも、こんな堂々と動いてくるとは思ってもみなかったぜ」
胡座をかきながら、吐き捨てているのは、ショートパンツ姿のカズミである。
「まあ、堂々とでなければ、以前から動いてはいたわね」
苦々しい笑みを見せる須黒先生に、
「そうだったんですか?」
目をばちばちさせながら、驚きと不満の混じった表情をしているのは、アサキである。
驚きは、初めて聞いたからで、
不満なのは、ならば対策してくれていたら、仲間たちの生命は無事だったかも知れないじゃないか、と思ったためである。
「うん。メンシュベルトの上層も相当に警戒している、って校長からよく聞かされた。……万さんも、リヒトという組織のことや、メンシュヴェルトから分離して出来たというのは、もう知っているわよね?」
「ええ、うちのスギちゃんから聞かされました」
スギちゃん、杉崎先生のことだ。万延子のいる第二中学校で、魔法使いをまとめている、組織の一員である。
メンシュヴェルトは、末端にリヒトの話をすることは、基本的にはない。そのため、魔法使いたち末端は、ほとんどがリヒトを知らない。
でも、今回のリヒト所長とのいざこざかあった以上は、第三中と仲のよい第二中の子たちも、存在は知っておいた方がいいだろう。そう判断した須黒先生が、杉崎先生に話をしてもらうよう頼んでおいたのだ。
「杉崎先生は、リヒトのこと悪くいわなかったでしょうけど。……ヴァイスタや異空の、研究方針について、メンシュベルトと倫理観に大差があることから、離脱発足したのがリヒトなのよね」
「やっぱり、そうだったんですね」
納得、という表情で小さく頷いたのは、そのリヒトに所属している、嘉嶋祥子である。
組織の悪い話など、公に聞かされるはずもなく、知らないのも不思議ではないだろう。
須黒先生は、テーブルに肘を置いた。
「それと、小さい組織であるが故のフットワークの軽さが、強引さや傲慢さにも思われたみたいで、わたしたちの上層、メンシュベルト幹部には、疎まれてもいたらしいわね。表向きは、同じ目的の仲間だったけど」
「よく、うちから特使を受け入れましたね」
「特使制度も、リヒトにはリヒトの思惑があるのでしょうけど、メンシュベルトとしても、リヒトの魔法使いを把握して置きたくて、続けられていた」
「はあ」
気のない返事をする、祥子。
「水面下の争いこそあれ、最終的な目的は、やはり世界の平和であり、ヴァイスタを駆逐し、異空からの驚異を根絶することである。とも、思われていたけどね。なんだかんだ、メンシュヴェルト幹部はリヒトを信じてもいた」
「覆った、ということですか? 我らリヒトに対する、考え方が。まあ、そうでしょうけどね」
自虐、であろうか。
祥子の言葉は。
「……どうかしら。知ったならば、『やっぱり』と思った幹部は多いでしょうけど。……連絡が、まったく取れないんですもの」
そこから不安を感じたから、こうして、よく知った仲を集めて、今後どうすべきか話し合っているのだから。
須黒先生のいう、「やっぱり」とは、リヒト所長の至垂徳柳が、本性を表したことだ。
令堂和咲に対して、宣戦布告にも近い、宣言をしたのである。
超ヴァイスタを作り出して、「絶対世界」への扉を、開くことに対して。
不都合など、いくらでももみ消せるから。
と、思うところを堂々と語ったのである。
その計画に踊らされて、慶賀応芽が生命を落としたというのに。
また、これまでの亡くなっていった魔法使いたち、という下積みあっての話だというのに、なんの同情心も、羞恥心も、憐憫の感情すら、微塵も見せず、むしろ平然と、むしろ誇らしげに。
「本当にあるのじゃろか、『絶対世界』などというものが」
治奈が、ぼそり疑問の声を出した。
正座姿勢で、私服のスカートから出ている自分の膝小僧を、意味なくさわさわとなでながら。
「分かんねえけど、あのクソ野郎の最終目標は、やっぱり、『絶対世界』に行って、その世界ならでは存在するであろう力を、手に入れる。……ってことなのかな?」
カズミも、答えを期待して呟いたわけではないのかも知れないが、でもその言葉を受けて、嘉嶋祥子がゆっくりと口を開いた。
「そのために必要なのは、『新しい世界』というシステム改変現象において、導き手となる超ヴァイスタを作り出すこと。何故ならば、もしもただのヴァイスタが扉に触れて『新しい世界』が発動してしまったならば、拒絶反応を起こした『意思』により、世界はリセット、つまり滅ぶことになるからね」
なんだかとてつもない規模の話を、銀黒髪の少女は、大柄な体躯の割に特に低くもない綺麗な声で、語っている。
窓の外を眺めながら話を聞いているだけだった、万延子が不意に向き直る。額に上げた、トレードマークたる白青ストライプの巨大メガネ、そのフレームをつまみながら、
「次元、物質、魂、過去未来、すべてなかったことになり、あらたな時の根源、からの歴史が始まることになる。それをさせないために、魔法使いはヴァイスタと戦っていたわけだけど。でも本来の『新しい世界』は、滅びの現象というわけではなかった、ってことなんだね」
言葉はっきり発音しながら、祥子へと顔を向けた。
「そう。滅ぶのは、無数のヴァイスタの魂が、正しい場所へと導かれないためなんだ。導かれさえすれば、本来の『新しい世界』である『絶対世界』への扉が繋がるんだ。と、至垂たちは信じている」
「その超ヴァイスタの有力候補として、至垂がアサキちゃんを狙っとるというわけじゃね。アサキちゃん、魔法力の器が桁外れにデカいからのう」
治奈は、不安げな顔を、ちらり赤毛の少女、アサキへと向けた。
「大丈夫。わたしが未来を信じる限り、そんなのにはならないから」
アサキは笑顔と、両手で小さなガッツポーズを作った。
本心からの言葉。
ではあるが、それ以上、みんなを不安にさせたくなかったからであるが。
「そもそもの話になるけど、まだ魔法使いがヴァイスタに、ってのが信じられないんだなあ。でも、本当……なんだよね?」
延子が、額に上げた巨大な青白しましまメガネを、つまんで下ろして普通に掛けて、ぐるりとみんなの顔を見る。
彼女は、こういう真面目な雰囲気が苦手なのだろう。
でも、あからさまにふざけることも出来ず、せめてこのくらいは、とごまかしメガネで遊んで見せたのだろう。
「わたしたちは……目の前で、見ていますから」
アサキの笑顔は笑顔のままであるが、トーンダウンして、陰りを帯びたものになった。
「だよね。辛いこと思い出させちゃったね。ごめんね」
「いえ。気にしないで下さい」
アサキは小さく首を横に振った。
余談ではあるが、ここにいる魔法使いの中で、延子が唯一の三年生で。後はみな、二年生だ。
みなは延子に対し、気にせずタメ口であるが、生真面目なアサキだけは、しっかり敬語で接している。
先ほどの、延子の疑問であるが、噂としては、元々あったものである。
通常のヴァイスタは、元は人間の少女である。と。
高い魔力を持つ者が、絶望することにより、黒く変質した魂が身体を分子レベルで再構成する、その現象によって作り出された怪物。つまり普通に考えて、元魔法使いということになる。
適性上、魔法使いとして組織にスカウトされない者もいるが、ほとんどの場合において。
噂であり確定情報ではなかったが、リヒトは事実と認識して動いていたし、実際この部屋にいる者のほとんどが、目の前で現象を目撃している。
アサキ、カズミ、治奈は大鳥正香が、
嘉嶋祥子は白田雉香が、
それぞれ、ヴァイスタへと変化したのを間近で見ている。戦ってもいる。
「超ヴァイスタに関しては、まだ目撃談もなく、臨床結果もまとまったデータが取れておらず、これこそまだ噂の段階だね。でも至垂は、真実として調査し、自信を持って研究を進めている。実証は出来ておらずとも、調査の結果から、本人としてはデータに信憑性を感じているのだろうね」
祥子は、そこで言葉をいったん切り、ひと呼吸置くと、話を続ける。
「ぼくが知ってることなんて、あまりないけど、とにかくそれが真実だとして……どんな者がそれになれるのか、これは基本的に、ヴァイスタと同じだ。ただし、『果てない膨大な魔力を持った者』の、『果てない絶望的な絶望』が必要、とされている。魔法使いならば誰でも、ヴァイスタになる可能性はある、だけれども、超ヴァイスタは先天的な要素が絶対条件なんだ」
「その、超ヴァイスタを作り出すための、格好の素材だ、とあの野郎に思われているのが……」
ちらり、カズミが顔を、ゆっくりとアサキへと向ける。
アサキは視線に気が付くと、ちょっと困った、ちょっと不満げな表情で、ぷいと横へ視線をそらしてしまう。
「目えそらすな! 大事な話だろ!」
「だって素材とか、モノみたいにいうんだもん!」
「あたしが思ってるわけじゃねえよ!」
「ごめん」
「こっちこそ悪かったよ。……バカ至垂のせいだ、全部」
カズミは、ショートパンツ姿で胡座をかいたまま、ごろり後ろへ転がった。
「至垂が所長になってから四年。リヒトが暴走気味になりつつあることは、分かっていた。でも今回の件、カズミくんのいう通り、あんな堂々分かりやすく仕掛けてくるとは思わなかったよ」
嘉嶋祥子はそういうと、小さくため息を吐いた。
胡座姿勢のまま寝転んでいたカズミが、反動使わず器用に起き上がった。
「だろ。つうかお前、立ち位置どっちなんだよ? こないだ、ウメとやりあったらしいじゃん」
「こないだ?」
大柄な身体で、可愛らしく祥子は小首を傾げる。
「ああ、あれ、ほら、わたしたち第三中が、公園上空に出たザーヴェラーと戦った、そのあとだよ」
アサキが説明する。
「そうよそん時。戦い終わったばかりで、ボロボロになっているウメの前に現れて、斧で切り掛かったって話じゃねえか。本気で殺そうとしてたって」
ザーヴェラー戦の後。
応芽は、応急治療を受けただけの、体力のまるで回復していない状態で、異空に一人残っていた。
そこを、襲撃を受けた。
その相手が、この嘉嶋祥子だったのだ。
「ああ、あれね」
「どういうつもりだったんだよ? だってあの時はまだ、ウメは至垂のいうことを聞いていたわけだろ? まだリヒトのスパイだったわけだろ? 敵対って、意味が分からねえよ」
疑惑の視線を隠しもせず、むしろ嘘の壁を張ってたらバリバリ砕いてやるぞといった眼光放ち、祥子を睨み付ける。
受けた祥子は、涼しい風を浴びている表情のまま。
もともと、あまり感情が出ないタイプなのだろう。
なにがどうであれ、カズミも、のらくらかわされ続けていては面白くない。「おい!」と、声を荒らげた「お」の口が、開きかけたところで、追い抜いて祥子がぼそり言葉を発した。
「ぼくはね、元々リヒトを辞めたかったんだよ」
と。
「小さな組織だから、至垂と会う機会は多くてね。彼のちらちらと見せる狂気に、すっかり嫌気が差して。でも、雲音のために話に乗っかって、特使にまでなってしまったウメを、放って置けなくて。妹のため盲目になった彼女が、リヒトにどう利用されるか、分からないじゃないか」
「だから、情報を得やすいようリヒトに残り、でも、ウメの暴走と思われるところは妨害していたわけか」
カズミの、睨む目付きはそのままだが、それを祥子へぶつけ続けるのに躊躇いが出たか、小さく横へ視線をそらせた。
「そういうこと。でも彼女は、反対方向へと盲目になってしまったけどね。……つまり、きみらを好きになってしまったんだ」
その言葉に、カズミの頬がぴくり動く。
顔はまだ、睨んだ目付きのまま、そっぽ向いたままだが。
「そのため、せっかく出現したザーヴェラーを、なんとヴァイスタ化のための活用もせず、戦ってしまった。そうした、リヒトのへの反逆思考ともいえる行動への、牽制の指示が出たんだ。次はないよ、と示す必要があった。それがあの時の、ぼくが行動した理由さ」
「ザーヴェラーと戦ってしまったから反逆、って? あの、祥子さんのいうとることの、意味が分からんのじゃけど」
きょとん、とした表情の治奈であったが、喋っているうち、あからさま不機嫌の色も浮かんでいた。
死ぬ思いで戦い、実際に殺されかけたのに、それをよくないことのようにいわれて。
「気を悪くした? ぼくの任務は、特使の監視だから。あの時のウメは、ザーヴェラーが出たというのならば、それを利用して、きみたちを絶望へと追い込む行動を取るべきだったんだ」
だというのに応芽は、内蔵が見えそうなくらいに身体がえぐり取られようとも、みんなを守るため、一人きりでザーヴェラーへと挑んだのだ。
結局、返り討ちに遭って戦闘不能。空飛ぶ悪魔にとどめをさしたのは、能力を覚醒させたアサキだったとはいえ。
「仕事じゃった、ということなら、仕方ないのかも知れんけど……」
治奈はぐっと言葉を飲み込んだ。
先に、リヒトを辞めたかったが応芽のために残った、といわれている。だから、責めるのはお門違いである、と分かっているのだろう。
「ウメちゃんは、わたしたちのことを、仲間だといってくれた。正香ちゃんたちの件も、一緒に泣いてくれた。悔しそうに、悲しそうに、申し訳なさそうに」
アサキは行き場なく、自分の私服スカートの裾を、両手でぐっと握りながら、涙を堪え鼻をすすった。
「あたし、そこまで思ってくれている、あいつのことを、信じられなかった。アサキは、ずっと信じていたのにな。なんか事情があるんだ、って」
カズミもまた、気持ちの持って行き場所がないのか、悔しげな顔で強くテーブルを叩いた。
「実をいうと、ぼくもね、禿げるくらいストレスだった。だって、我孫子への定期巡回の都度、きみたちとウメとの絆が深まっているんだもの。リヒト内では、板挟みだし。未来のためなんだ、と思おうとしても、どう頑張っても、ウメにとっても世界にとっても、よい未来、よいゴールが思い描けず。……ふと現実に戻れば、雲音を思うウメの気持ちがただ哀れで……」
「そっか。ショーパンも必死に戦ってたんだね。って、初対面のわたしがいうのも、生意気かも知れないけど」
万延子は、嘉嶋祥子の男子並みに大きな身体を、後ろからそっと腕をからめ抱き締めた。
「いや、自分に不誠実でいるのが辛かっただけで……ところで、なんだい? ショーパンって?」
「いやあ、祥子ちゃんだからショーパン」
「悪かないね。ああ、それでね、ちょっとだけ面白い話。……至垂って、一度批判的な目で見れば、どんどんボロが目立つんだけど、結構カリスマ性があるらしく、周囲は賛美だけなんだよね」
「それのなにが面白いんだ」
小首傾げるカズミ。
「いや、腹立たしいからさ、ぼくもこのままじゃ禿げるし。『あいつは悪魔だ』とか、何回かブロードキャストしてやったことあるよ。ばれないよう、経由先に外部サーバをクラックしてさ。本気で追われたらバレちゃうかは、名指しは出来なかったけど」
「あれ、お前だったのか!!」
カズミが、びっくり顔で立ち上がっていた。
治奈も、そしてアサキも、立ち上がってはいないが、大口あんぐりだ。
そうもなるだろう。
過去に何度か、突然、一斉送信されてきた、身元も送信方法も分からない不気味なメッセージ。
その送り主が、ここにいる嘉嶋祥子だというのだから。
単なるイタズラで、しかもそれを、メンシュベルトとリヒトの全体へと送り付けたというのだから。
「痕跡を辿られそうになったから、やめたけどね。……壁の落書きみたいな些細なものだけど、悪魔のようなことを考えている男がいることをみんなに伝えたかった。また、いざという時に、ぼくも彼には反対の立場だったんだということの、少しでも証になればいいなとも思って。でも、ドキッとしたでしょ? 不幸の手紙みたいで、面白かったでしょ?」
「面白くねえよバカ」
カズミが、祥子のうっすら笑顔を一太刀に斬り捨てた。
「はじめて見た時は、気になって、寝付けんかったからのう。……でも、至垂に反対していたことや、リヒトを辞めたいと思っていたことは理解出来たけえね。さっきは、不機嫌顔を向けてしまって、謝るわ」
治奈は小さく唇を釣り上げ、笑みを作った。
「辞めたいっていっても、リヒトもやっぱり、辞める時には記憶を消されるんでしょう?」
アサキが、不安な顔で素朴な疑問を口にした。
「そりゃそうだ。……忘れたくないことはたくさんあるけど、でも、それで楽になれるなら、安いものかもね。むしろ、全部忘れて、人生をやり直した方が、いいのかもなあ」
のんびりした口調でいいながら、祥子は、大きくのびをした。
戻した手で、軽く鼻の頭を掻いた。
アサキは想像する。
祥子の思いを。
慶賀応芽、慶賀雲音、それと白田雉香という名の少女とで、四人チームを作っていたとのことだが、現在残るは祥子一人のみ。
一人は、ヴァイスタになり、倒され、消滅させられた。
一人は、ヴァイスタを消滅させたショックから、自身がヴァイスタ化しそうになり、魂を砕かれた。
一人は、魂を砕かれた妹を復活させるために無理を続け、自身が生んだ妹の幻影に殺された。
どれだけの、辛い別れであったことか。
想像することは出来るが、実際どれほど辛いのかは、想像も出来ない。
自分も、友人を失っている。
一人はヴァイスタ化して、一人はそのヴァイスタに食べられて。
また、応芽との別れは、祥子だけでなく、自分の経験でもある。
でも、重みが違う。
たぶんだけど、桁が違う。
自分は今年の春に転校してきて、そこで魔法使いになって、すべてはそこからだから。
しばらくして、応芽も転校してきて。だから、自分と応芽は、それほど何ヶ月も同じ時を過ごしたわけではない。
比べて、祥子と応芽は幼馴染であり、古くからの戦友なのだから。
2
床上三十センチほどにある、低い窓枠に片肘を乗せて、カズミは、小さな窓から外を見ている。
須黒美里先生の暮らす、一戸建てばかりの中にぽつり建っているマンション、その四階部屋からの眺めだ。
窓ガラスは閉まっているが、どこからか、雀の鳴き声が聞こえる。
「平和だよな」
ぼそ、としたカズミの呟きに、なんとなくアサキも外を見る。
床に直接腰を下ろしているが、窓がとにかく低いので、眼下、地上がよく見える。
道路を挟んだ向こう側に、庭付き一軒家がある。
縁側で、おばあちゃんと、近所の老人だろうか、が会話をしている。
門からは、おそらく、そのおばあちゃんの孫と思われる小学生の男の子が、ランドセルを背負って入って、元気よくただいまの声。
アサキも、カズミの真似ではないが、ぽそり小さな声を出した。
「平和だよね」
ただし、かりそめの。
いま、目に見えているものは、日常だ。
自分にとっても。
おそらく、他の誰にとっても。
ずっと続く、ゆったりとした、生活、時間の流れ。
突然それが失われる、など考えもしない。
遠い遠い先には、くるべき時がくると分かってはいても。
こんな時の流れを、人は平和に感じる。
幸せに思う。
普通の、人たちにとっては。
でも、ここにいる、わたしたちは、そうでないことを知っている。
かりそめ、氷層一枚であることを知っている。
どうすれば、いいのだろうか。
わたしたちは。
そんなことを考えながら、アサキは向き直り、部屋の中へと視線を戻した。
話し合いのため、訪れている、須黒先生の部屋へと。
この部屋にいるのは、須黒先生と、アサキ、明木治奈、昭刃和美、万延子、嘉嶋祥子。
教師と、中学生が五人。
生徒が先生を慕って遊びにきた。
そんな、平和な日常の中での、この光景であったならば、どんなによかっただろう。
世の終焉を掛けた戦いが行われている。
そんなことを知らずに、生きていくことが出来たなら、どんなによかっただろう。
「……でも、ならさあ、忘れてもいいってんなら、辞める機会なんかいくらでもあったろ?」
カズミが、祥子へと問う。
話しの途中でなんとなく「平和だなあ」などと呟いて、会話が止まっていたのを、自分で再開させた。
「ああ、うん。きみたちと仲よくなったことで、ウメは、別の方法で雲音を助けようと考え直したらしく、ぼくも、これで身を引けるなと思った。……でも、難しいね。ウメが、きみたちを好きなように、ぼくにもウメがかけがえのない存在だったから。だから、気になっちゃって」
「気付いたら時間ばかりが、というわけじゃの。……ところで、うちは話に聞いただけじゃけど、東京でウメちゃんと戦ったという、あれはどがいな話になっとるん?」
治奈が尋ねる。
リヒト関東支部に、行方不明だった応芽が現れて、アサキ用に作られた特製のクラフトを奪い、変身し、アサキと戦った時の話だ。
「単に『ウメがリヒトに敵対したと判断した』と、伝えてあるよ。実際、魔道着を奪ったわけだしね」
さらりと祥子は答える。
アサキはなんとなく、その、真紅のリストフォンを、ポケットから取り出してみせた。
自分用に与えられたものなのに、アサキは、これを着けたことがまだ一回もないのである。
これを着けて、真紅の魔道着を着た応芽と戦った。
そのことが、少なからず影響しているのだろう。
何故着けないのかについて。
自分のことながら、自分でも心理がよく分からないのだが。
応芽は力を求めて、真紅の魔道着を着た。
力の暴走により、応芽は、自分の作り出した妹の幻影に殺された。
そうなるのが怖いというよりは、
そこまでの力を求めることへの拒絶感、が強いのかと思う。
自分でも、心理がよく分からないのだが。
などとアサキが胸に思っている間に、祥子の話は進んで、
「ただ、なんだ、最初っからぼくは、疑惑の目で見られているところもあってね。ウメと同じチームだったから。……今回、それに乗っかってというか開き直って、特使を立候補してしまったよ」
特使などと慣れない言葉と、考え事しながらだったので、「へえ」と上の空な感じに聞いていたアサキであったが、すぐに、目が点になっていた。
「え、ど、ど、それ、ど、どういう、こと?」
慌ててアサキしどろもどろ。
カズミたちも、みなやっぱり、面くらっている様子である。
「その特使って、ウメちゃんがやっていたことじゃろ? ……メンシュベルトの魔法使いとして参加しつつ、スパイ活動を行う。そがいなこと、ここで宣言してしまったら、成り立たんじゃろ」
面くらいながら、治奈が疑問の言葉を発し、軽く頭を掻いた。
「いいよ、ぼくスパイ活動なんかしないから。至垂のスカタンに話したら、『慶賀応芽の考えていたことは、だいたい分かっていた。任務早々にして、派遣先の子たちに愛着を持ってしまったことも。その上で、これはこれで利用が出来る、と放っておいたのだが、それらをそのまま継ぐならば、特使になってもよい』ってさ」
「要は、偶発的に起こる超ヴァイスタ絡みの情報を、リヒトに報告しさえすれば、メンシュベルトに加わって魔法使いをやっていて構わない、ということ?」
万延子が、真顔で小さく首を傾げた。
おでこに青白ストライプの巨大なメガネなのが、ふざけているようにしか見えないが。
「はああああ? 随分と自信のある奴だな。至垂って男は」
カズミ、呆れ顔である。
「そうだよね。やりたい放題にさせるなんて」
アサキが同調する。
超ヴァイスタ化の計画を、暴露したことだってそうだ。
順調に乗り始めたからって、わざわざ教えてどうするのだろう。
「その上をいっているつもりなんだろうよ。しだれえーっとか、とくゆううう、っとか、妙ちくりんな名前のくせしやがって」
カズミは胡座をかいたまま、またごろりん床に転がって、身体を揺すった。
「ねえ、アキバちゃん、短パンで胡座全開だから、アングル的に隙間からパンツがチラチラ見えてんだけど」
青白巨大メガネかけて、嬉しそうにじーっと覗き込んでいる万延子である。
「バカ! 見んな! いえよ、もう!」
「いったじゃないか。惜しいと思いつつ」
じめじめした雰囲気を、少しでもやわらげようとしているのだろう。延子は。唯一の三年生として。
「ねえ、祥子さん、特使の話は、もう決まりなの?」
アサキの問いに、祥子はすぐ、小さく頷いた。
「まだ正式じゃないけど、リヒト側としては問題なさそう。……ウメの派遣期間がまだまだ残っているのに、派遣先というか元というかが、本人を含めて激減してしまったから、メンシュベルトの管理部には、歓迎なんじゃないかな」
「あたしと治奈とおもらし女の、三人だけになっちまったからな」
「そうだね」
アサキは、少し寂しそうな微笑を浮かべた。
「突っ込めよ!」
カズミの拳が、アサキの頭上からゴッツン!
「いたっ! あ、ご、ごめん。もう一回いって。今度はちゃんと突っ込むから」
そうだよな。
せっかくカズミちゃんが、場を和まそうとしてくれているんだから。
わたしも、寂しがってばかりいられない。
「ほら早く。誰がおもらし女だあ、って突っ込みいれるから」
まあ実際の話、二回ほど、やらかしちゃってますけど。
そう自分の胸に、笑ってごまかしながら、アサキはカズミにリクエスト。
以前のような、楽しかった日々を。
「いいよ別に、もう。つい殴っちゃって、こっちこそごめん。すっかり、しめっぽくなっちまってたからさ。……さっきの話、たった三人っつっても、アサキだけでも千人力だけどな。その真っ赤なクラフトの、魔道着さえあれば、きっと」
と、指差したのは、アサキが握りしめている、真っ赤なリストフォンだ。
恵まれているどころではない膨大な魔法力を、より生かせるように、特殊開発されたクラフト、及び魔道着。
まだ、アサキ自身は着たことはない。
それを着て超パワーを発揮した応芽に対して、変身すらせず生身の姿で勝利したアサキである。
千人力も、あながち間違いではないだろう。
応芽が本気ではなかったとか、アサキ用にカスタマイズされたものだからだ、とか要因は色々あるにせよ。
「着たくない」
アサキは、ぼそり口を開くと、自分の握りしめているリストフォンから僅かに視線をそらした。
「そういうと思った。あたしには、その気持ちは、理解出来ねえけど」
「ごめん」
「なんであやまんだよバカ。お守り代わりに持っとけよ。どうせ誰かにあげたところで、そんじょそこらの魔法使いにゃ使えねえ代物なんだから」
カズミは、アサキの肩を軽く叩いた。
「ミッチーが、その魔道着を奪って着たのって、なにかが仕掛けられていないかとか、そういうのを確かめるつもりもあったんじゃないかな」
万延子が、青白ストライプの大きなメガネを、おでこから外して、放り上げると、おっとっとといいながら、手を使わず器用におでこで受けた。
なお、ミッチーとは、彼女が慶賀応芽を呼ぶ時の名である。
呼んでももう突っ込み拒絶をする本人はおらず、なんとも寂しいものであるが。
「なにかとは?」
須黒先生が尋ねる。
「え? ええっと、た、例えばあ、令ちゃんをヴァイスタにしちゃうビームがビリバリ出るとか」
令ちゃん、アサキのことである。
「え、でも、ウメはアサキを半殺しにすることでヴァイスタにしようとしてたんだろ。逆に、アサキがボコボコにしちゃったけど」
「適当にいったことに、そんな食い付かないでよ、キバちゃん」
「誰がキバちゃんだよ」
昭刃ということか。
そんなやり合いをしている横で、アサキが、
「本気じゃなかったよ、ウメちゃん。いや、本気ではあったんだけど、非情には徹っしきれてなくて、刃を合わせるたび、拳を合わせるたび、なんていうのかな、心からの、優しさが伝わってきて。雲音ちゃんを救いたい必死さが伝わってきて……」
応芽のことを思い出して、アサキは、喋りながらすっかり涙目になってしまっていた。
「ウメ、幼い頃から口はやたら悪かったけど、本当に純真で、優しかったからね。……多分ね、リヒト支部で起こした件は、具体的どうとかではなく、きっかけ、なにかが変わることを期待していたんだと思うよ」
としみじみ顔の祥子へと、
「なにかとは?」
青白ストライプの三年生が、食い付いた。
先ほど自分が食い付かれしどろもどろになっていたので、仲間が欲しいのだろう。
「例えば……そうだな、超ヴァイスタなんかにしなくたって、ピンチに陥った令堂さんが、能力覚醒。さらに、その新クラフトと新魔道着でパワーアップ。超魔法で、雲音を復活させることが出来るかも知れない。または、その超絶パワーで『絶対世界』への道が、あっさり開けるかも知れない、とか」
「戦いの中、なんらかのアクシデントで、令ちゃんが超ヴァイスタになるかも知れない。けど、あえて自分がそうしたわけじゃないから、罪の意識もやわらぐ。ミッチーは、そういう思考回路で自分を納得させなきゃ令ちゃんと向き合えない……というくらいに、きみたちへの情が沸いていたってことだね。心から、第三中の一員だったんだよ」
延子は、青白ストライプの巨大メガネを、またふざけて掛けた。
「ぼくもそう思うね。だから、令堂さんへの殺意が、中途半端だったんだ。ウメは、最後の最後まで、きみたちのことが大好きだったんだよ。妹の魂と、天秤にかけられないくら……」
祥子の言葉を、うっ、という呻き声が遮った。
さらにまた、うっ、呻く声、鼻をすする音。
アサキである。
大粒の涙をぼろぼろこぼし、泣いていたのである。
「わ、わたし、ダメだ……ま、まだ……ウメちゃん……」
ぼろぼろ。
ぼろぼろ。
顔をみっともなく、ぐちゃぐちゃに歪めて。
目をこすっても、拭っても、次から涙がこぼれて落ちる。
嗚咽はやがて、号泣へと変わり、
みなの同情共感の視線と表情に囲まれて、赤毛の少女は、いつまでも泣き続けていた。
3
「ねえ令ちゃん、小さい頃にリヒトにいたって話は本当なの?」
万延子が、トレードマークである青白ストライプの巨大メガネをおでこから外して、指を引っ掛けてくるくる回している。
「おい」
唐突な話の転換と、その内容の不謹慎さに、カズミがぎろりと睨み付けた。
内容の不謹慎というより、のほほんとした態度で尋ねるには不謹慎といおうか。
「あ、いや、ほら、話題を変えようと思ってさ」
延子は、両手のひらを、ひらひら振った。
「戻った記憶が正しいのなら、本当です」
赤毛の少女、アサキのまぶたは真っ赤に腫れている。
ほんの少し前まで、大声を上げて泣いていたのだ。
まだひりひりと痛むまぶたを、ハンカチで押さえて涙を拭いながら、アサキは語る。
実の親に、酷い虐待を受けていた。
親の知り合いである、令堂修一直美夫妻が、見かねて自分の身を保護した。
返せ返さない、と大人たちが揉めている間に、実の両親は事故で死んでしまった。
そのまま、令堂家の養女になった。
と、ずっと思っていたのだが、でも、違っていた。
「それは、偽の記憶だった。わたしは、実験で酷いことをされる辛さに耐えられず、幼いながらも本能的に、魔法で自分の記憶を書き換えていたんだ」
思い出した記憶が、正しいならば。
令堂修一たちは、実は、元リヒトの研究員。
リヒトは、以前より生物実験に力を注いでいた。
至垂徳柳が副所長になってから、ぐんと度合いが増した。
そのような状況下で、アサキは連日、拷問にも等しい人体実験を受け続けていた。
人格、魂を持つ者に対し、いつまでも続く大人の仕打ち。
令堂夫妻は働いているうち嫌気が差し、二人で決起。
幼いアサキを連れて、研究所から逃亡した。
至垂は、すぐさま数人の魔法使いたちを追手として差し向けた。
魔法による追跡術に、逃げ切れるはずもない。
三人は、すぐ捕らえられた。
抵抗力を削ぐめの麻酔魔法をかけられそうになるが、そこで幼いアサキが、本能的に非詠唱魔法を発動。自分自身も含めて、その場にいる全員の記憶を書き換えて、その場を逃れた。
それから、令堂夫妻とアサキとの、三人暮らしが始まったのである。
思い出した記憶に間違いがないなら、これがアサキの身に起きた真実である。
「え、じゃあ令ちゃんの義理のご両親は、本当は夫婦じゃないってこと?」
延子が尋ねる。
「いえ。研究者同士で結婚したばかりだったようです」
記憶のスクリーンに映る映像や、思い出す会話の内容からして、それは間違いのないことだろう。
そうした事実までをも、魔法で捻じ曲げてはいなかったことに、アサキとしてはホッと安堵するところだ。
「でも、よく追われるのが、そこまでで済んだものよね。だって、一瞬をやり過ごしたというだけで、追っ手の魔法使いたちだってすぐに記憶を戻されているでしょうに」
首を傾げ不思議がっているのは、須黒先生だ。
記憶錯綜の魔法が強固であったにしても、そうと分かっているなら解除などわけはないはずだ。リヒトの技術を持ってすれば。
素材と共に逃亡した令堂夫妻の罪のみならず、この一件は、素材のポテンシャルが類まれな優秀さであることが証明されたわけで、なのに何故放っておくのか。
と、そうした疑問であろう。
「とはいうものの、あの所長の性格を考えれば、不思議というわけでもないのか」
「そうですね」
小さく頷くアサキ。
リヒト支部での、至垂の言動を見聞きして、痛感したこと。
彼は、なにか起きないように先回りするタイプではなく、むしろ放っておいて、偶発的に起きたことを利用する。
生じた不都合などは、どうとでも握り潰せるから、と開き直って、起きたことをとにかく徹底的に利用する。
そういう性格であることが、少ない言葉のやりとりの中で充分過ぎるほどに理解出来た。
令堂修一と直美が記憶を無くしたというのなら、そのまま令堂和咲と暮らさせるのも面白い。
とでも思ったのだろう。
単なる実験素体に対して、同情心を抱くような、令堂夫妻の良心、正義心。
至垂にとっては虫酸が走ることかも知れないが、とにかくそんな夫婦に愛されて幸せに育つことで、なにかが起きた際の絶望が大きくなる。
だから、放っておいたのだろう。
アサキは、そう思っている。
でも、そうは行くものか。
あなたの思う通りになんか、なってたまるか。
アサキは、そう胸に強く唱えながら、拳をぎゅっと握った。
正香ちゃんも、成葉ちゃんも、ウメちゃんも、ヴァイスタから世界を守る魔法使いとして戦い、生きて、死んだんだ。
あなたの踏み台にされるために、辛い思いをして頑張ったわけではない。
「直美さんたちの記憶も戻して、協力して貰のはどうじゃろ」
治奈が指立て提案するが、アサキは、ゆっくり首を横に振った。
「義理とはいえ、わたしのことを家族と思ってくれている。そんな、二人と家族でいられたことの思い出を、大切にしたいから。……ごめんね、個人的な感情からで」
「ほじゃけど、経緯を考えれば記憶が戻ろうとも家族じゃろ?」
「うん。でも、ならなおのこと。巻き込みたく、ないんだ」
「そうか。確かに、リヒト研究員としての記憶がないことで、これまで無事だったわけじゃからの」
「そう。この重みは、わたしだけが背負えばいいことなんだ。いや……違うな、背負ってくれたからこそ、修一くんたちは連れて逃げようとしてくれた。……わたしには、それだけで感謝するに充分なんだよ」
アサキが寂しそうな幸せそうな、複雑な笑みを浮かべていると、テーブルの反対でふーっと小さなため息ひとつ。
「いい子だね、令ちゃんは」
万延子が、青白ストライプの巨大メガネをおでこから外して、リムロックに人差し指を掛け、くるくると回している。
「自分がいかに汚れている人間か、思い知らされるよ」
「びっくり箱とかな」
カズミが頬杖を突きながら、間髪入れず突っ込んだ。
「だ、だからあれはっ。……はいはい、そこも含めて心が汚れてますよ、わたしは」
以前、交代休のお礼に、と延子は、第三中へお土産を渡したことがある。
ザーヴェラーとの死闘の後だ。
きっと食べ物、と我先に破いて開けたカズミが、びよよーんと飛び出したボクシンググローブに、打ちのめされて倒れて頭を打って、気絶してしまった。
自分たちはザーヴェラーに殺され掛けたというのに、貰ったお土産がパンチに気絶という踏んだり蹴ったりに、カズミはずっと根に持っているのである。
延子からすれば、土壇場で渡すのやめて、きちんとしたお土産を買い直そうと思っていたのに、勝手に奪い取って勝手に開けたんじゃないか、ということなのだが。
「カズミちゃんには悪いけど、それわたしには楽しい思い出だ」
アサキは、くすりと笑った。
その後にまた合宿をやって、それもまた最高に楽しかった。
そこからは、辛く悲しいことしかなく、だからなおのこと、そう思ってしまうのかも知れない。
正香、成葉が死に、応芽とも戦うことになり、その応芽も死んだ。
そして、リヒトの所長である至垂徳柳は、自ら化けの皮が剥がして、アサキへの宣戦布告とも取れる言動を取り。
メンシュヴェルト上層への連絡も取れず、疑心暗鬼の中、現在に至っている。
楽しいことなど、一つもない。
仮にあっても、楽しめるはずがない。
だからアサキには、例えザーヴェラーに殺され掛けたことであろうとも、みんなが揃って、みんなで一つを向いて頑張っていた頃の記憶が、とても懐かしく、大切なものなのだ。
「でも令ちゃんの、ご両親の記憶、戻らないままでもいいの? 研究員だった頃にだって、きっと大切にしたいことがあったと思うよ」
「はい。いつかは、戻してあげたい。……でもそれは、すべてが解決してからです」
そういいながら、アサキはふと思っていた。
ヴァイスタに殺され掛けた少女の記憶を、魔法で抹消することに、どうしてああも嫌悪や躊躇を持っていたのか。
自分がこうして、大切な記憶を失っていたからなのだ。
巻き込んで、家族以上に大切な人たちの記憶をも、失わせたままにしているからなのだ。
でも、自分は思い出してしまったけど、やはり修一くんと直美さんには、まだ、思い出させたくない。
だって、そうなったらきっと、二人はわたしたちの戦いに踏み込んでくる。協力しようとする。
生命の危機に身を晒すことにもなる。
だから、まだ……
「すべてが解決、といっても大きく三つあるよね。解決というか、わたしたちが辿り着く果ての、最悪ではない結末が三パターンというか」
延子は、青白ストライプの大きなオシャレメガネをおでこに掛けながら、もう片方の手で指三本を立てた。
「一つは、至垂|が現実を思い知ること。妙な野心は捨てて、リヒトはヴァイスタと戦うだけの組織であると認識をあらためること。分離独立自体が、設立者の個人的な見解からきているのだったら、メンシュベルトに戻るのが理想かもね」
一つ指を折り、続ける。
「もう一つは、至垂|が降板し、権力を失うこと。重役会議で社長が解任される、とかドラマであるじゃない?」
「仕組み上は可能だね。所長は幹部会議で選ばれるのだから」
と説明する祥子の顔には、可能性など微塵も感じている様子はなかったが。
至垂|の性格や、野望を知っていれば、そうもなるのだろう。
「残る一つは、至垂|が真の『新しい世界』へ本当に行ってしまって、それが悪くなくまとまった場合。……力は得られたが、僅かなものであったとか。望むようなものとは違っていた、またはそんなもの存在しないことを知るか」
延子は、巨大メガネを外して放り上げると、ピーナッツを口で受ける技のごとく器用に受け止め装着した。
人差し指で、おでこに上げると、
「いずれにしてもね、至垂|がどう動くのかにすべてかかってくるよね。だって、様々な件の発端がすべて、彼個人の暴走から始まっているんだもの。一度もお目にかかったことないわたしがいうのも、なんだけど」
「真の、『新しい世界』。所長は『絶対世界』って呼んでいたけど、そこ、どんなところなんだろう。あるのかな、本当に、そんな世界が」
アサキは、体育座りになると、自分の膝に顎を埋めた。
「さあ」
反応したのは、紅茶のカップを片付けようと立ち上がった須黒先生である。
「神の世界、ということらしいけど、そもそも神とはなんなのかが分かっていないのだから。また、本当にそこで神の力を得られるのもかも。それはそうよね。だって、まだ誰もそこへ行ったことないのだもの。軌道と重力の計算で、もう一つ惑星があるはず、といっているのと同じこと」
「ヴァイスタが扉へ辿り着くと、『新しい世界』が発動してすべては消滅するんじゃろ? ほじゃけど、超ヴァイスタならば、真の『新しい世界』である『絶対世界』への扉が開かれる。しかしそがいな確証などないし、それもやはり、一つ間違えば……消滅」
治奈が、薄ら寒そうに、両腕で自分の身体を抱いた。
ここに集まった中で、肉親や親族の一番多いのが治奈である。
家庭には父、母、妹がおり、出身地である広島にも親戚がたくさんいる。
本当の家族が多いことが幸せに直結するとは限らない、とはいえ、世界の消滅を人一倍不安に思うのも当然だろう。
「すべては嘘、または間違いで、なんにも起こらない、かも知れないわね。または、調べたことに間違いはなくとも、それでもすべて滅びるのかも知れない。……たとえば、仮に神がいるとして、人類ごときが神の地を土足で踏むわけだから、それを激怒されるかも知れない」
「そんなリスクを背負ってまで、そんな得体の知れねえとこへ行けたとして、そんでなにがどうなるってんだよ!」
カズミが声を荒らげた。
友を何人も失った辛さと、友を信頼出来なかった罪悪感とで、気持ちに余裕がないのだろうな。
と、アサキは思った。
でも、そんな世界だけど、いや、そんな世界だからこそ……
「ウメは、行きたがっていた」
アサキの考えていることを、実際に口に出したのは祥子だった。
そう。
ウメちゃんは、「絶対世界」へと行きたがっていた。
ただ、雲音ちゃんの魂を取り戻すために。
そのための、力を得るために。
行きたかったけど、でも、行けなかった。
「ウメちゃんの、最後のお願い。覚えてる?」
アサキは不意に、カズミに振った。
「ああ、忘れるわけねえだろ」
小さく頷いた。
「雲音ちゃんのことを、頼むっていっていたよね」
「いってたな。てめえが死に掛けてるって時によ」
カズミは、ずっと鼻をすすった。
「つまりそのお願いとは、神の力を至垂|より先に手に入れろ、ってこと? まあ、そんなものがあるとして」
延子が尋ねる。
「分かりません。でも、リヒトのような無茶をしなくても、運命ならばいつか道は開くと思うんです。人類がいつかそこへ行けることが運命ならば。……強引なことをしても、それこそ雲音ちゃんが喜ばないですよ。……だからまずは、リヒトの野望をこそ、阻止しないといけないんだ」
アサキは、ぎゅっと強く拳を握った。
「リヒトというか、至垂徳柳の野望だね」
祥子が訂正する。
リヒトの者である彼女としては、リヒトつまり悪である、と決め付けて欲しくないのだろう。
「そうだね。ごめん」
「いいよ。……あいつとしては、もう隠れて事を運ぶ必要もなくなったし、急ピッチで事が進展するかも知れないね。のんびりやってる間に、自分の寿命がきちゃあ仕方ないし。永遠の生命が手に入っても容姿はそのままかもと思えば、若いうちに神の力を手に入れたいだろうし。まあ、そんな俗物でもないだろうけど、彼は」
「神の国に行けば神になれるなんて、思い上がりもはなはだしいよ。さっきの話のように、神の逆鱗に触れて、この世界が滅ぼされちゃうよ」
万延子が、青白ストライプの巨大メガネを外して、くるくる回して遊んでいる。
「もしも誰かが行くのなら、それは、令堂さんのような者であって欲しいよね。ヴァイスタにならず、人間として、誰かが行くのなら」
祥子がぼそりと、しかしはっきりと、呟いた。
「え、わたしなんか、そんな資格ない」
行けば、世界が滅びてしまうかも知れないのに。
能力も目的もないわたしなんかが、そんな。
それこそその興味本位に、神の怒りが落ちるだろう。
「でも、強い力を正しく使うことが出来る」
「褒めてくれるのは嬉しいけど、でも、そもそもわたし、力なんかいらないんだよ」
みんなと、普通に生きていきたいだけなんだ。
この世界で。
だから、守るために戦ってきたんだ。
これまでは、ヴァイスタを滅ぼすために。
単なる悪意のエネルギーが結集した怪物、そう思っていたから。躊躇いなく。
ヴァイスタとは、魔法使いが変じる存在であると分かってからは、是非なく戦いつつも、いつかそうした存在など生まれない、そんな、悪意のない世界を目指すために。
でも、
でも、さっきもいったけど。
ならばこそ、至垂所長の暴走をこそ、止めないとならないんだ。
4
窓の外には、我孫子ののどかな風景。
なんの変哲もない、住宅地の町並み。
また、話の切れ間に、カズミがぼーっと外を見ているのである。
ふーっと長いため息を吐くと、頬杖を突き、小さく口を開いた。
「なんにも見えちゃいない、この目に映るる物は、前っからなんにも変わっちゃいない。だというのに、話のスケールだけが、やたら大きなことになっちまったな」
苦笑した。
「そうだね」
アサキが小さく頷く。
「目の前の現実が……ヴァイスタなんてのが、この世にいることが、むしろ不思議な気持ちになってきたよ。何度も何度も、何度も戦っていて、これこそがあたしたちにとっては日常のはずなのに」
「そうだね」
本来は、ヴァイスタがいることがわたしたちの日常。
カズミちゃんの、いう通りだ。
普通の人々の日常を守るために、わたしたちは、わたしたちの日常を戦うのだ。
いつか日常を交差させる、つまりヴァイスタなど生まれない、絶望する魂など生まれない、そんな世界を作るために。
「まだ、信じらんねえよ。あたしたちの目の前でさ、あんなことがあったというのに。……魔法使いが、ヴァイスタになるだなんてさ。……まだ、本当なのかなって思うよ。まあ、本当なんだろうな」
カズミが寂しげに笑う。
あんなこと、というのは大鳥正香のことだ。
大鳥正香が、自分が親を殺したことを思い出し、絶望からヴァイスタへと変じた。
親友である平家成葉を食い殺し、自身も昇天、つまり消滅させられた。
カズミや応芽、残った魔法使いたちの手によって。
「残念だけど、本当のことだわね。魔法使いがというよりも、そういう適正を持つ少女はほとんどが魔法使いにスカウトされているということなんだけど」
という須黒先生へと、カズミは、眉間にシワを寄せた難しそうな表情を向ける。
「そう考えりゃあ、理屈は分かりますけどね。でもそもそもの、魔力の高え奴がヴァイスタになるっつーのが、まだ信じがたいというか」
むー、と唸りながら腕を組んだ。
「でも、事実よ。樋口校長がね、最近色々と調べていて、分かっていたことなの。……といってもわたしは半信半疑だったけど、大鳥さんの件で確信を持てたわ」
「あの、そがいな調査結果とかって、うちら下っ端は普通に見られんのですか? あと、科学班の分析データとか」
治奈が尋ねる。
「公開に問題ないものも多いから、興味あるならあとでリンクを送るわね」
「是非、お願いします」
「科学班個別記録の、大半は閲覧出来るんだけど、一部のデータと、結局なにがどうなのかという総括文献については、厳重にロックされているのよね」
「そりゃまあ、常識的に、全部が見せられる情報でないのは分かります」
すべてを公開している研究施設など、あるはずがない。
「うん。……それでも色々と、情報入手を試みていたようなのね。最近の、樋口校長は。リヒトの動きについて、不信感を持っていたから。実はメンシュベルト自体も懐柔されていないかとか、かなり慎重になりながらも、クラッキングまがいの危ないこともしてたみたい」
「え、え、大丈夫なんじゃろか、校長、そがいなことしてて」
「もう大鳥さんのような犠牲者は出したくないんでしょうね。自分のところから、一人の死亡者もいなかったのが、校長の自慢だったのに。三人も、立て続いちゃったから。……あ、それでね、そこから、かーなーり重要なことが、一つ分かったのだけど」
須黒先生は、聞く者に覚悟を求めてひと呼吸を置くと、また、口を開いた。
「結界の、ことなんだけど。その目的は、ヴァイスタの侵入を防ぐことにはなく、むしろ、閉じ込めて行動範囲を限定させるためなの」
ええっ!
驚いたのは全員である。
「新しい世界」が訪れるのを阻止するために。
ヴァイスタが「中央」にある「扉」へ、行かれないようにするために。
と、作ったのが魔法力場、いわゆる結界である。
魔法使いたちは、雑学講義の中、結界についてそう聞かされている。
根底から覆ったわけで、驚くのも当然だろう。
「あ、そ、そういえば、ウメちゃんもおんなじこといっていたよ。ヴァイスタは扉を目指しているわけではない、とか」
「いうの遅えええええ!」
カズミ思わずアサキの頭を拳でボッカン。
「いたっ!」
「百万年と四日、いうのが遅いよ! それで、誰かまた、余計な犠牲者が出るかも知れねえんだろ!」
ぎゅいいいいい、と両耳引っ張る。
「いたっ、いたい、ご、ごめん。最近、色々とあったからっ」
「まあまあ、キバちゃん」
と、なだめながら、万延子、
「つまり、状況としては、こういうことなのかな。結界の中、という限定空間にヴァイスタは存在しているため、魔法使いとの接触確率つまり戦闘が増える。つまり魔法使いが成長する。つまり、超ヴァイスタになる素質を持つ者の器がさらに磨かれる。それが『絶対世界』への扉を開く鍵になる」
「そうね」
須黒先生は小さく頷いた。
カズミが、引っ張るのやめたけどまだアサキの耳たぶ掴んだまま、
「でもよ、そのための結界という説を信じるなら、至垂のクソ野郎だけでなく、リヒトだけでなく……先に生まれていた組織であるメンシュベルト自体が、既にそのような考えを持っていた、ということにならねえか?」
カズミは床に胡座をかいたまま、苦虫を噛み潰したような渋い表情を作った。
「それもウメちゃんがいってた」
「だからお前はあああ!」
ぎゅいいいいい
「いたたたたた!」
「そういうことになるんだけど、でもね、それだけじゃないのよ」
「なんですかあ? もう驚きゃしませんよ」
もう苦虫でお腹がいっぱい、といった顔で、カズミは耳に小指を突っ込んで掻いている。もう片方の手は、アサキの耳たぶぎゅいいいい。
「結界には、ヴァイスタを作る役割もあるらしいってこと」
「はああああああああああああ?」
結局驚いて、顎が床に突き刺さった。
「嘘、じゃろ……」
治奈が、目を見開いて、身体をぶるぶるっと震わせた。
「本当、なんですか? それは」
万延子の問いに、須黒先生は小さく頷いた。
「魔法能力適正者が、絶望によってヴァイスタ化する、という話を、さっきしていたけれど、そのヴァイスタ化を促進する力場が、結界空間内には生成されているらしいの」
しん、と静かになっていた。
元から静かではあったが、空気の質が、完全に変わってしまっていた。
須黒美里の、言葉によって。
カズミが先ほど半ば冗談っぽくいっていた、黒幕はメンシュベルトではないか、という言葉が現実味を帯びることになったのだから。
みな、あぜんとして、無言のまま。
どれくらい経っただろうか。
「リヒト内でも、噂話に出たことはあるよ」
祥子がぼそり。
「結界の目的について。……リヒトにとってライバルだから、メンシュベルトを悪くいうような説が出るのも当然と思って、特に気にせずにいたけど」
「結界が破られたって話は聞いたことないのに、なんだっていつもいつも結界の中に出るのかなあ、とはいわれていたけど、そういうことだったんだ」
万延子は、おでこの青白ストライプメガネを、ずらして頭頂まで上げると、またずらしておでこに戻した。行動にまるで意味はなく、それだけ動揺しているのだろう。飄々淡々と見えていても。
「本当に、さっき話した通りだったわけか。結界内にヴァイスタがどんどん生まれる。だから魔法使いは戦う。成長する。それにより、より強いヴァイスタが生まれる」
またメガネを頭頂までずり上げている延子を、鬱陶しいと思ったか、別の理由か、隣のカズミが面白くなさそうに舌打ちした。
「そうして、魔法使いを進化させることで、『偶発の連続』がいずれ結果を導くことを、じとっと辛気臭い部屋で、笑って待っているわけだ。安物のスーツ着た、変な名前のクソ野郎が」
ダン。
激しく、テーブルを叩いた。
なんとなく視界に入った、隣にいる万延子の、頭頂に掛かっている青白ストライプの巨大メガネへと、素早く両手を伸ばすと、
「メガネすんならきちんとしろお!」
ずり下げて、普通の眼鏡の掛け方にしてしまう。
完全なオシャレ用の眼鏡なので、きちんでは違和感半端なく、むしろふざけているように見えてしまうのだが。
「これはこれで、きちんなんだよ」
とメガネをずり上げる延子に、
「だったらそんなの捨てちまえ!」
暴論をいうカズミ。
二人のやりとりを尻目に、銀黒髪の少女、祥子が両手の指を組みながらぼそり。
「こないだ、ウメにね、お前がザーヴェラーを呼んだんだろ、とかいわれたんだ。……確かに、リヒトはそういう研究もしているらしいんだよね。誘導が出来れば戦闘殲滅が優位に立てる、というのが表向きの理由なんだけど」
「超ヴァイスタに導かれ、無数のヴァイスタという川の流れに乗って『絶対世界』へと運ばれる。といわれておるんじゃろ? 裏向きとしては、そのための研究じゃろか?」
治奈が腕を組みながら、小さく首を傾げた。
「どうであれ、そういう技術があんなら、誰かへ仕向けることも出来るわけだ。至垂のクソ野郎なら、やりかねねえな」
真面目なのか、ふざけているのか、
カズミが、奪い取った巨大メガネを自分の顔に装着して、不快げに言葉吐き捨てた。
と、その時であった。
ブーーーーーーーーーーーーーーー
全員のリストフォンが、激しく震えたのは。
それぞれ、慌てて左腕を上げ、自分の画面を確認すると、
emergency
黒背景に、赤い文字。
ヴァイスタ出現の警報である。
自動で画面が地図表示に切り替わる。
切り替わった瞬間、全員の顔が、青ざめていた。
「ここだ……」
アサキの震える声。
黄色のマーカーポイントが、現在彼女たちがいる、この地点を示していたのである。
どおん。
突然、床が、突き上げられているかのように、ぐらぐらと激しく揺れた。
5
窓を開けた治奈は、素早く首を回して外、下を見た。
「外にはおらんようじゃ」
「こっち側もだ」
隣の部屋から、カズミの声。
もしもそこにヴァイスタがいるならば、例えそれが空間の向こう、異空側であっても、うっすらと見えるはずである。
歪んだ透明な膜の、向こう側に、うっすらと。
もちろん、魔力があれば、であるが。
それが、見えないというのである。
通常、住宅街に出現する場合は、外だ。
ターゲットたる少女が一人で歩いているところを、次元境界の向こう側からヴァイスタが狙う、という構図が圧倒的に多数を占める。
いる気配が濃厚であり、地震警報もなく、しかし地震の如くぐらぐら揺れており、しかもそれは真下から激しく突き上げられるようで、そして、探せども外には姿が見えず。
と、いうことは……
「こ、この中にいる、ってことお?」
延子が、カズミからさっと巨大メガネを奪い返して、おでこに掛けた。
「し、至垂が、差し向けたのじゃろか?」
「昭刃ちゃんがさあ、ああいうこというからあああ」
延子は、はああっとため息を吐いた。
「知らねえよ! バーカ!」
呼び込んだ犯人にされて、カズミは怒鳴りドッカン床を踏み鳴らした。
「昭刃さん、バカ力で床に穴が空いたらどうすんの!」
部屋の借り主、須黒先生が青ざめた顔で怒鳴った。
「すみません。つうか今それどこじゃないでしょ! ……真下の部屋に、魔力のやたら強い女が引っ越してきたんじゃねえんですかあ?」
それでヴァイスタを呼び込んでしまったか。
「いえ、確かずっとお年寄り男性の一人暮らしのはずよ」
「レアじゃけど、うちら狙いかも知れんな」
呟く治奈。
ヴァイスタには、魔法力が強く、かつなるべく無力な少女を狙う、という法則がある。
訓練されていない、魔力の自覚がない者が襲われやすい。
魔法力が強いほど魅力的な獲物ではあるが、挑んで倒されては意味がない。と、そんな生存本能的なところからであろうといわれている。
つまり、本来であれば、魔法力を持つ者が複数人集まっているようなところは、ヴァイスタの方から避ける。仮に襲ったところで、返り討ちに合う可能性が濃厚だからだ。
ただし、そうした生存本能の狂った個体も、一定割合で存在する。
治奈のいうレアというのは、そういう意味だ。
どおん。
また、突き上げられ、床が、激しく揺れる。
どおん
「偶然か必然か分からないけど、倒すしかないわね。でも……よ、よりによって、どうしてわたしのマンションでえ!」
ぐらぐら激しく揺れながら、須黒先生は頭を抱えた。
「ほじゃから偶然か必然なんですよ! 揺れ方からして、真下がめちゃ怪しいんじゃけど。どうであれ、早う異空へ入らんと」
「異空なら、現界位相があるから、少しくらい暴れたって、こっち側に問題ないからな」
緊張の中の強がりか、カズミは冗談っぽくいって、薄く笑みを浮かべた。
「や、やりすぎると影響あるからねっ」
先生。この期に及んでなんであろう、転居時の敷金の心配であろうか。
なお、現界位相とは、
異空は現界のコピーであるため、異空内でなにかを破壊しても、オリジナルである現界側に引っ張られて、すぐに元に戻る、という現象である。
どおん。
また、おそらく異空の側から、おそらく真下から、床が突き上げられた。
どおん、どおん。
激しく揺れる。
「おし、そんじゃあ行くぞっ」
カズミは、みなの顔を見回した。
リストフォンを着けた左腕を立てると、思念スイッチでクラフト機能を発動させ、異空へと繋がる次元のカーテンを掴み、開いた。
はずであるのだが……
「あれ」
小首を傾げた。
「カズミちゃん、どうした?」
不思議そうな表情を浮かべつつ、治奈も、リストフォンを着けた左腕を立てて、そして、カズミと同じような顔になった。
「なんじゃろ。クラフトが、機能しとらんけえね」
クラフト、魔力制御装置である。
携帯性、利便性から、近年は、リストフォンに内蔵されていることが多い。
利用者にとっての役割としては、魔道着や武器の伝送機能、体内の魔流経路調整による魔力の効率化、そこからの肉体機能アップ。
そして、異空への往来を容易にする機能だ。
元々、異空への扉を開くだけでも、膨大な魔力と、制御のための集中力を必要とするものであった。
現在は、魔法使いでさえあれば誰でも往来可能。それは、境界を開く論理がある程度解明されており、クラフトが制御を肩代わりするためであるのだが、
それが機能していない、と、治奈はいうのである。
「そんなバカな。……じゃあ魔道着は……変身っ!」
カズミは腕を振り上げ、リストフォン側面にあるボタンを押した。
だが、リストフォンの中に搭載されているはずのクラフトは、まったく反応を見せなかった。
「うちのは、どうじゃろ」
「わたしも」
治奈も、続いてアサキも、動揺した表情で、リストフォンを振り上げ、変身を試みる。が、カズミと変わったことは、なにも起こらなかった。
「サーバーへのアクセスが、拒否されているわ! どいうこと?」
須黒先生が、自分用のコンパクト型クラフトを、ノート型の携帯デバイスに翳している。
エラー、の文字が表示されている。
ノート型デバイスの画面を指が滑ると、続いて、令堂和咲、昭刃和美、明木治奈の名と、やはりエラーの表示。
「あなたたちは、どう?」
いわれた祥子と延子の二人は、早速腕を振り上げて、リストフォン側面のスイッチを押した。
全身が光り輝き、次の瞬間には、二人とも魔道着姿へと変じていた。
「単なる故障じゃないですか? わたしと、ショーパンの二人だけで、ちょいちょいっと倒してきますよ」
延子は、ピッと親指を立てると、もう片方の手で、異空へのカーテンを開いた。
「あ、あの、一緒に行っちゃダメですか? ここで待ってるだけなんて、不安だから」
おずおずとした顔でお願いするのは、赤毛の少女、アサキである。
「でも、魔道着がないと危ないよ。……まあいいや、ほら、手を繋いで」
差し出される延子の手を、アサキが掴み掛けるが、
「令堂さんなら、クラフトがなくても行かれるんじゃない?」
祥子の言葉に、延子とアサキの手が、指先触れるか触れないかの距離で止まった。
「そんなことが……」
アサキは手を引っ込めて、間近に見つめた。
昔から、ヴァイスタは存在した。
魔法使いも。
当然、魔道着などはなく、生身で戦うのが当たり前だった。
誰でも異空へ行く能力があったのか、能力のある者に運んでもらったのか、それは分からない。
でも、出来ないわけでは、ないはず。
試してみよう。
と、アサキは半信半疑ながら、意識を集中させた。
そこに次元の壁があると想像し、手を掛けた。
錯覚か分からないが、手応えがあった。
なにかを掴んでいるという。
そのまま、横へ動かし、開いた。
目の前に広がる、瘴気に満ち淀んだ、色調の反転した、物々ことごとくが歪んだ、空間。
前へ、一歩。
二歩。
突き抜けた。
ここは、須黒先生の部屋の中。
その、異空側だ。
「うおお、まさか本当に行けてしまうなんて。……服のセンス問わないから第二中にきて欲しいなあ」
冗談ぽくいう延子であるが、いわれた当人はそれどころではなかった。
はあ、はあと息を切らせており、そして、がくり崩れて、両膝を着いてしまった。
額からだらだら汗が垂れる。
バテバテであった。
「とてつもなく大量の魔力を、一瞬で消費したからねえ。まあ、令ちゃんならすぐ回復するんだろうけど」
変身後もおでこに掛けている、青白ストライプ巨大メガネ、延子はそのフレームをなんとはなしに摘みながら、感嘆の言葉を発した。
「ほんっと、ドエライことを簡単にやってのけるよな、お前はいつも」
カズミが、アサキの背をぽんと叩いた。
そのままぜいはあ息を切らせていたアサキであるが、突然びくり肩を震わせ、目を見開いた。
「え、え、カズミ、ちゃん? どうして異空に」
「祥子とヨロズのアホに掴まって、全員一緒に入ったんだよ」
いわれて見てみれば、確かに、瘴気腐臭にまみれたこの空間に、治奈、そして、
「須黒先生まで!」
「自分の部屋は、自分で守らないとね」
須黒先生は、強気な顔でふふっと笑った。
「それに、たまには教え子たちの成長を間近で見たいしね」
「第三中は、誰も戦えませんよ」
延子がぼそり。
クラフトが機能しないため、アサキ、治奈、カズミ、誰も魔道着を着ていないからだ。
「ああ、そうなのよね。それじゃあ、特使でうちに派遣予定の、嘉嶋さんのお力を拝見」
「地味な技、退屈でなければとくとお見せ致しましょう」
祥子は冗談ぽく畏まった口調、とは不釣り合いの超巨大な斧を取り出し構えた。
銀黒の髪と同じくらい、彼女のトレードマークといえる、柄のない、刃身だけの斧だ。
「では祥子くん、足元の床をぶっ壊してくれるかい?」
延子が冗談ぽくいうと、
「了解。地味で退屈な一撃を」
銀黒の魔法使い、祥子は、巨大な斧の刃身に空いた穴に手を掛けて、勢い付けて振り下ろした。
地味などとんでもない豪快な一撃が、部屋をぐらぐら揺らし、床に大きな亀裂を作った。
もう一度、斧を振るうと、床が砕け、大きな穴が空いた。
みなが固唾を飲んで見守る中、
「あーーー」
一人、情けない声。
「退去時に敷金戻るかしらあ」
須黒先生である。
「大丈夫です。現界位相で、ダメージ自体が戻りますから。たぶん」
「まずは、どうするの。ここから……」
須黒先生が屈んで、自分の部屋に空いた大穴を、そおーっと覗き込んだ。
その瞬間、穴から、真っ白で巨大な手が現れて、
「やあっ!」
先生の身体を掴んで、穴の中に引きずり込んでしまったのである。
「先生っ! うわあっ!」
咄嗟に手を掴んだ、治奈もろとも。
一瞬のうちに二人の姿が消えた。
先生と、魔道着を着ていない治奈、どちらもヴァイスタに太刀打ち出来るはずがなく、
「治奈ちゃん!」
アサキは頭が真っ白になってしまい、自分も魔道着を着ていないというのに、慌て叫び、穴から飛び降りようとした。
「無茶するな! ここにいて」
祥子は、アサキの肩を掴み、自制促すと、ひらり穴へと飛び降りた。
「お前もとっとと行けよ」
カズミが、万延子の背中を蹴飛ばした。
「分かってるよ。わたしの魔道着スカートタイプだから、飛び降りたらめくれちゃうかなあ、って」
「アホかあ! 気にしなくていいように、ここで下半身全部ひん剥いてやろうか?」
「キバちゃんにだったら、されてもいいかな」
バカなやりとりを遮ったのは、なにかが砕かれる低く重たい衝撃音であった。
「わっ!」
アサキの叫び声。
延子カズミも視線の先へ視線を向けて、びくり肩を震わせた。
玄関が砕かれたのか、身を窮屈に縮めながら、リビングへと全身真っ白な、粘液質の、巨人が入ってきたのである。
「わたしの背中に!」
延子はそういって、後ろにアサキとカズミを庇い、ヴァイスタと向き合った。
しゅ、と空間に具現化した木刀が、右手に握られていた。
「ショーパン! 祥子くん! こっちも出ちゃったからあ! そっちは任せたよ!」
穴の下にいる祥子へと怒鳴ると、あらためて白い巨人、ヴァイスタと向き合った。
6
「了解した!」
祥子が叫びながら、斧を振り上げるのと、
しなっていた白く長いものが、いきなり硬く尖り、真っ直ぐ突き出されるのと、
同時であった。
現在、ヴァイスタと交戦中だ。
マンションの、一室で。
須黒先生の部屋の、真下で。
あまりの巨体のため、窮屈そうに背を屈めている、ヴァイスタと、
銀黒の魔道着、嘉嶋祥子が。
祥子の背後には、明木治奈が、ぐったりしている須黒先生を膝に乗せ、介抱している。
天井には、大穴。
上の部屋にいた彼女たちは、この穴から須黒先生と治奈がヴァイスタに引きずり込まれ、助けるべく祥子が踊り飛び込み、交戦中というわけである。
日本の一般的なマンション室内なので、ヴァイスタには実に窮屈そうであるが。
屈みながらヴァイスタは、もう一本の白く長い腕を振るった。
祥子を避ける円弧を描いて、須黒先生を介抱していた治奈へと、襲い掛かった。
触手状のにょろり長い腕、先端に手や指はないが、ぱっくり裂け目が開いて、そこに生えている無数の鋭い歯が、治奈へと噛り付こうとしたのである。
「うわ!」
驚く治奈だが、祥子には想定内の攻撃だったようである。
柄のない、巨大な斧。刃身に空いた穴に指を掛けて、そこを軸にくるり回転、振り下ろし、触手の先端部分を切り落とした。
感じるであろうタイミングとしては実に危機一髪で、ふう、と治奈は安堵のため息を吐いた。
床に落ちた、落とされた腕の先端は、もうちりちり音を立て干からび始めている。
また、ヴァイスタ本体の、切断された断面からは、とろーっと粘液が垂れて、もう回復が始まっている。
ヴァイスタは、致命傷を与えない限り、どのような傷であろうともすぐに修復されてしまうのだ。
「先生! 先生!」
治奈が、ぐでっと横になっている須黒先生を膝に乗せ、軽く揺すったり、軽く頬を叩いている。
「つつ……大丈夫よ。もう、意識はあるから」
「よかった。頭を強く打ち付けてたみたいじゃったから」
よかった、と本当にいえる状況かどうか。
LDKには、巨人ヴァイスタ、向き合う祥子、そして須黒先生、治奈。
魔道着を着ているのは、祥子ただ一人。
須黒先生は魔法使い引退の身であるし、治奈はクラフトが発動せず変身が出来ていない。
ヴァイスタは身を縮めて窮屈そうだが、それ以上に祥子の方が戦いにくそうだ。
狭い空間で、戦えない二人を庇いながらであるためだ。
また、祥子の得物が巨大な斧で、小回りの効く武器ではないためだ。
それでも、斧の側面で受けたり、側面の大きな穴を軸に振り回すなど、器用に交戦していたが、だがここで思わぬアクシデントが起きた。
「がっ」
「明木さん!」
治奈が、須黒先生に肩を貸して、隣の部屋へ連れて行こうとしていたのだが、そこをまた円弧の攻撃で襲われ、祥子が距離的ぎりぎり庇い切れなかったのである。
負の連鎖。
治奈のこと、残った須黒先生のことに焦った祥子の身体に、ヴァイスタのもう一本の腕が巻き付いていた。
「うああああ!」
ぎりぎりと、西洋甲冑に似た銀黒の魔道着が、締め付けられる。
全身、巨大な斧ごと。
丸太も楽々とへし折れるであろう、凄まじい力で。
魔道着を着ていなかったら、一瞬にして身体はバラバラになっていただろう。
むしろ、魔道着を着ているからこそ、ヴァイスタの攻撃に躊躇がないのである。
別に、良心の呵責があって、加減しているわけではない。
ヴァイスタにそのような、人間的な感情は残ってない。
なるべく絶望を膨らませた方が、より強い仲間、つまり強力なヴァイスタが生まれる可能性が増すということだ。
必ずしもその絶望、死の恐怖が、魔法使いのヴァイスタ化を誘うわけではないが。それならそれで、殺して食ってしまえば、膨らんだ絶望の分だけ、自分がより強いヴァイスタになる。
そのような理由であろう、というのが、現在の最新学説である。
「ぐうう……」
ヴァイスタの長い腕に全身を巻かれ締められ、祥子の、歌劇団スターのように整った顔が苦痛に歪む。
「嘉嶋さん! その変な形の斧をエンチャントして、こっちに投げて!」
「無茶、いいますね、須黒さん」
祥子は、銀黒髪の中で、苦痛に顔を歪めながらも、微かに苦笑を浮かべた。
「スタークストレング……」
額に脂汗を浮かべながらの、呪文詠唱。
確かに無茶な要求である。
集中しなければ、呪文詠唱は出来ない。
集中すると、身体に力を入れることが出来ない。
身体に力を入れなければ、ヴァイスタの締め付けに耐えられない。
多少なら耐えられても、格段に増した激痛、呼吸もろくに出来ないのに呪文を唱えるなど、普通に考えて、出来るものではない。
形式だけの詠唱をしたところで、念を集中出来ていなければ、なんの意味もないのだ。
だが、
「アインスタークスゲイフル」
祥子の腕が、巻き付いたヴァイスタの腕の中で、ぼーっと青白く光っていた。
エンチャントは通常、手のひらに気を集中させ、武器へ翳すことで、破壊のエネルギーを流し込む。
腕にいくら魔法を集中させようとも、この、全身を締め上げられた状態では、流石にそれは困難に思われるが……
ぎゅうぎゅうと絡み付かれたまま、激痛に、呼吸の出来ない苦しさに、顔を歪めている祥子。
「ぐ、ぐ」
苦痛の表情のまま、身悶えを始めた。
絞められたまま、肩を揺すった。
揺すっているうちに、身体と一緒に締め上げられていた、巨大な斧が、落ちた。
そう、祥子のこの身悶えは、斧を自由にするためだったのである。
それだけではない。
落下する斧の、刃身が青白く輝いている。
締め上げられながら、祥子は、エンチャントを完了させていたのだ。
ヴァイスタに掴まれ宙ぶらりんになっている状態で、足を軽く持ち上げて、斧の刃身に空いた拳大の穴に、爪先を差し入れ、そこを軸に、くるりん。落下の勢いを利用して、飛び、須黒先生の元へすとん。
いや、すとん、というには、あまりにも巨大な、重厚感満載の無骨で歪な斧であるが、須黒先生は、穴に指を掛けて、軽々と受け止めていた。
「ありがとう」
先生は、にこり微笑んだ。
構える姿も、なんだか軽そうである。
エンチャントの効果だろう。
破壊力が増すだけでなく、軽くなるのだ。
あの状況下であったというのに、銀黒の魔法使いは、かなり高度なエンチャントを施したようである。
須黒先生の筋肉量という、そこだけの問題かも知れないが。
ぶん、ぶん、と思い切り斧を振ってみるが、ヴァイスタは完全無視で、銀黒の魔道着を締め続けている。
ヴァイスタは、魔力が高く、かつ襲いやすい者から襲うためである。この中で一番魔力を持っている者が、なおかつ自分の腕の中にあり、なおかつ武器をも捨てたとなれば、手放す道理がないのだ。
斧を振りながら、須黒先生は、
「魔道着を着ていないからってえ……舐めんじゃねえぞお!」
吠えた。
舐めるも舐めないも、もちろんヴァイスタの習性などはよく分かっているはずで、自分に気合を入れただけだろう。
気合の雄叫び張り上げて、タイトスカートを気にもせず、床を蹴って、ヴァイスタへと飛び込んだ。
魔力を帯びた巨大な斧を手にしているだけあって、さすがに、ヴァイスタも反応した。
祥子を締め上げながら、反対の腕を、しならせて、そして一気に突き出した。
その行動、予測済み。
須黒先生は、にょろり長いヴァイスタの腕へと、飛び乗っていた。
白い皮膚をぬらぬら覆う粘液を利用して、腕の端から端へと滑る。
斧を振り上げる。
ヴァイスタは、その斧による頭部への一撃を警戒したのだろう。
また、この空間に武器といえる武器は、その斧しかないことを認識したのだろう。
祥子への締め上げを解いて、解いたその腕で、自らの頭部をガードしたのである。
だが、元魔法使いである須黒先生には、その行動すらも予測済み。
腕の上を、そのまま滑り続け、軽く跳躍。頭部と、ガードする腕とを飛び越えると、部屋の壁へと、両足を着いた。
そして、慣性で壁に押し当てられる勢いを利用して、壁を走ったのである。
上へと、そして、さらには天井を、走ったのである。
混乱に腕を絡ませたヴァイスタ、の頭上から、須黒先生が逆さまに落ちた。
ずちりむちゅり、と巨大なゼリーを握り潰したら、このような音がするだろうか。
たん、とヴァイスタの背を蹴って、須黒先生は逆さまから正の姿勢に戻り、着地した。
小さくため息を吐いた。
ヴァイスタの背中が、職人が出刃包丁で開いた魚さながらに、大きく、深く、避けていた。
それを認識すると、須黒先生はもう一回、小さく息を吐いた。
髪の毛を掻き上げ、スカートの乱れを直した。
「嘉嶋さん、昇天をお願い」
「承知。……ほとんど体術のみでヴァイスタを倒すとは。お見事です、さすが元魔法使い美里」
「昭刃さんから、なにか聞いた?」
「いえ、なんにも」
ははっと笑いながら銀黒の魔法使い、祥子は、手を伸ばす。
ぴくりとも動かず立ち尽くしているヴァイスタの、腹部に正面から手を当てて、呪文を唱え始めた。
と、その背後で須黒先生が、くたっとやわらかく崩れ、倒れてしまった。
先に気を失っている治奈の身体へと、折り重なって。
二十代故に微量にしかない体内の魔力を、エンチャントされた武器によって、吸い尽くされたためである。
どん
どおん
上の階から、低い音が響いている。
ぐらりぐらりと、揺れている。
天井に、人が楽々通れるほどの、大きな裂け目が出来ている。
この裂け目の向こう、上の部屋で、万延子たちがまだ、ヴァイスタと戦っているのである。
7
異様な光景である。
一教師の暮らす低層マンションの一室で、粘液に包まれた白く巨大な怪物と、木刀を握った一人の少女とが、相対しているのだから。
少女は、我孫子第二中の魔法使い、万延子である。
身を覆うのは、上下ともが水色の魔道着。
現在、魔道着のデザインは多種多様で、ある程度は自分の好みで選ぶことが出来る。だが機能性を考えると、だいたい似たり寄ったりになる。多いのが、下半身はスパッツで、靴は軽量スニーカーだ。
ところが彼女、万延子が着ているのは、上こそは最近主流のぴっちり型だが、下はふりふりの付いたスカートである。
バトン片手に、夢と希望のハッピーパワーで、相手の闇を浄化して戦う、そんなアニメチックな魔法使いの出で立ちといえばよ良いだろうか。
これは、我孫子第二中の、部隊創設時からの特徴だ。軽そうな外見や言動とは裏腹に、個々の戦闘能力が抜群に高いため、東葛地区の魔法使いを語るに必ず名の挙がる中学校である。
ただ、最近はもっぱら、非詠唱とザーヴェラー殺しの令堂和咲がいる我孫子第三中が、話題独占中であるが。
話が横に、それにそれてしまった。
マンションの一室にヴァイスタがいることが異様なのに、なおかつ、相対する魔法使いの姿がメルヘンチック過ぎて、異様により拍車をかけているということだ。
そのメルヘンチックな魔法使い、格好が色々とちぐはぐだ。
まずはその、スカート型の魔道着。
そして、おでこに掛けた、青白ストライプのオシャレ巨大メガネ。
さらには、手にした武器。
木刀である。
柄もグリップもない、土産物屋に売っているようなシンプルな木刀を、正眼に構えている。
背景、構図、服装、仕草、これらに違和感を覚えずに、なにに覚えろというのか。
我孫子第二中は、言動のチャラチャラ感とは反対に実質重視で、洋剣など金属製武器を使用しているのだが、延子一人だけが木製武器。繊維のある物質の方が気を流しやすい、という理由で、彼女なりの実質重視だ。
頼りなくも見えてしまうが、実際この木刀で彼女は、さすがは東葛地区を代表する戦闘部隊のリーダー、といった活躍を見せるのである。
といっても、現在のところは、その実力を十分の一も発揮出来ていなかったが。
生身で武器も持っていない令堂和咲と昭刃和美を、背後に庇いながらであるため、全力で戦えないのだ。
それだけでなく、長い木刀を存分に振るうには、部屋が狭すぎるというのも理由であろう。
初めに少し、コツンとつつき合ったきり、白い巨人とは牽制しあう感じに膠着してしまっていた。
だが、そのじりじり削り合う雰囲気に、守られているカズミが切れた。
「ああもう、イライラすんなあ。……だったら、あたしが隙を作ってやらあ!」
カズミが奮起、叫ぶが早いか床を蹴るが早いか、前へ躍り出てヴァイスタへと飛び込んだのである。
「キバちゃん! 無茶はやめ……」
延子の制止も間に合わず。
待ち構えていたわけではないだろうが、飛び込んできた獲物へと、ヴァイスタは、白く長く巨大な腕を、二本束ねて叩き下ろした。
かわしていた。
予期していたのか、単なる野生の勘か、カズミは、横へ小さくステップ踏んで、かわしていた。
そして、白く太い足の、間へと、身を小さく床を前転し、巨体の背後へと回り込んだのである。
回り込んだ、とはいえ、カズミは武器も魔道着もない生身である。
ヴァイスタとしては、無視しても問題はなかったのではないか。
いや、無視すべきだったのである。
カズミの仕掛けたアクションに、ヴァイスタは身体を半身にして、後ろを振り返ろうとした。
正面への警戒も、怠ってはいないのかも知れないが、僅かながらの隙が生じたのは事実。
その僅かな隙だけで、第二中魔法使いのリーダーには充分だったのである。
「はあああああああ」
腹の底から、低い声が絞り出されている。
木刀を両手に握りしめたまま、気を高めているのである。
体内で、魔力を練り上げているのである。
延子の全身が、青白く光った。
次の瞬間には、その輝きが腕へと集まって、握る木刀へと染み込んでいく。根本から先端へと、きらきら粒子が進み、伸びて、青白い輝きに覆われていく。
エンチャント、つまり魔力による武器性能強化だ。
通常は、手のひらにエネルギーを集めた後、武器へと密接させた手を滑らせて、全体へと魔力を送り込む。照射したところが一番エネルギーを帯びるので、均一に強化させるためだ。
ところが延子の場合、武器の根本を握ったままで、あっという間に全体を強化させてしまった。これは前述した通り、木刀が気の伝導効率に優れた素材だからだ。延子が得物として選ぶ理由だ。
一瞬にしてエンチャントを完了させた延子は、軽く膝を曲げて床を蹴ると、スカート姿の可愛らしい魔道着を、豪快に、ヴァイスタへと飛び込ませた。
「おおおおおおおおお!」
飛び込みながら、雄叫び張り上げながら、岩をも微塵に砕く勢いで、太く長い木刀を、突き出していた。
微塵の躊躇もない、激しい突き。くちゃり、と熟したトマトを踏み潰すような音と共に、先端が、突き刺っていた。
白く、ぬるぬるとした、巨大な腹部へ、深々と。
背中へと、突き抜けた。
ヴァイスタの、動きが止まっていた。
軽微な振動すらもなく、写真よりも静かに、ぴたりと、静止していた。
エンチャントで強化した、木刀の一突きが、真っ白な怪物に致命傷を与えたのである。
ぶちゅりくちゅり、グロテスクな音を立て、延子は木刀を引き抜いた。
「いやあ、助かったよお、キバちゃん。魔道着も着てないのに、勇気あるねえ」
額の汗を袖で拭うと、部屋の隅に、まだ転がり倒れているカズミへと手を差し出した。
「魔道着がないんだから、あとは勇気しかねえだろ」
カズミは、差し出された手をパシリ弾いた。
かと思うと、返した手でしっかり掴んだ。
「ごもっとも」
延子は、華奢でふりふりスカート、アイドル魔法少女みたいな見た目を裏切る力強さで、カズミの身体を引き起した。
もう一方の手を、致命傷を与えたばかりのヴァイスタの腰へと当てると、
「イヒベルデベシュテレン」
昇天の呪文を唱え始めた。
と、その時である。
「うわああ!」
部屋のドア近くに立っていたアサキが、驚きに悲鳴を上げたのは。
近くに待機していた集団なのか、魔力を食らおうとふらふら吸い寄せられたのか分からないが、破壊されている玄関から、あらたに一体のヴァイスタが入ってきたのだ。
「ま、まだっ、外にいました!」
アサキは、部屋の奥にいる延子たちに知らせ叫ぶ、
と同時に、さっと身を低く屈めた。
屈めた瞬間、寸前まで顔のあった空間を、ぶんっ、と白く太い物が突き抜けていた。
ヴァイスタの、腕であった。
アサキはごろり転がりながら、
「延子さん、気を付けて!」
また、叫ぶ。
天井の低さに身を縮ませながら、ヴァイスタが進み、部屋の中へと入り込んだのである。
部屋の中には、致命傷を与えられ静止している、窮屈そうな立ち姿のヴァイスタ、そのヴァイスタを昇天させようと手を当てている延子。
その、延子へと、白く太い槍が突き出される。
「うわ」
延子は、悲鳴を上げながら、もう一方の腕で背中側に回し抱えていた木刀を掴んだ。器用に、身体のひねりを利用して、攻撃を跳ね上げた。
「ああもう! 昇天魔法の邪魔をされたよ」
木刀を正眼に構え、新たなヴァイスタと向き合った。
あらためてエンチャントをしようとしているのか、低い唸り声を上げる延子であるが、だが、身体や腕に、いっさいの輝きは生じず。
「やばっ。こっち一匹だけと思って、魔力の無駄遣いしちゃった。参ったな。令ちゃん、わたしが時間を稼ぐから、昇天をお願いできる? 令ちゃんならクラフトがなくても出来るんじゃない?」
「自信ないけど、やってみます」
「その後は、こっちのエンチャントもお願い」
「分かりました」
致命傷を受けたヴァイスタが、また動き出す前に。
と、アサキが一歩踏み出した。
延子に代わって、昇天魔法を唱えようと。
仲間の昇天を邪魔しよう、と、アサキへと突き出される、白く太い腕。
間に入り込んだ延子が、短く持った木刀をぶんと振るい、攻撃をそらした。
どおん、と、そらされた白い腕が、天井を破壊した。
「きみの相手は、わたしだよ」
オシャレ巨大メガネを摘んで、不敵な笑みを浮かべる延子。
であったが、すぐその顔が驚きと疑心に変わり、さらに、なんとも情けない顔になった。
ヴァイスタが、格好付けている延子を完全に無視して、アサキを攻撃したのである。
昇天を邪魔するためだけではなく、魔道着を着ていないアサキよりも驚異レベルが下と見られたわけで、情けない顔にもなるのだろう。
だが直後、延子をさらに驚かせることが起こる。
なんと、アサキと向き合っていたヴァイスタが、踵を返し、逃げ出したのである。
膨大な魔力は魅力であろうが、生存本能が勝った。ということであろうか。
ぽかん、と口を半開き。巨大メガネと相まって、間抜けな表情になっている延子。
アサキもアサキで、メガネは掛けていないが、同じような表情になっていた。
ヴァイスタが自分から逃げ出そうとするなど、初めての経験で、すっかり混乱してしまっていたのだ。
「アサキ、ぼけっとしてんじゃねえよ! 逃したそいつが、誰かを殺すんだぞ!」
カズミの怒鳴り声に、アサキの目が見開かれていた。
そうだ。
カズミちゃんのいう通りだ。
同情とか、そういう気持ちじゃないとは思うけど、でも、ヴァイスタの正体が元魔法使いと知ってから、倒さなければならないという気持ちが薄れたことは、事実。
わたしが少し強くなって、ヴァイスタに苦戦しなくなったこともあるけれど、でも、カズミちゃんのいう通りだ。
放っておいたら、他の誰かを殺してしまう。
どうせ、元の魔法使いの女の子へと戻す方法が、ないのなら、
既にそこに、魂はないのなら、
ならば、躊躇いなく倒すしかない。
魂がないから倒していいとか、少し理屈が違っている気もするけど、でも、わたしたちを殺し、食べようとするなら、こちらから……
憎めないことのいいわけを、胸の中に唱えながら、アサキはヴァイスタを追って、通路へと飛び出した。
飛び出して、走り、追う。
逃げるヴァイスタ。
恐れる、という感情ではないのかも知れない。
もっと原初的な、反射に近いものかも知れない。
狭い通路を器用に半身振り向かせ、二本の長い腕をしならせ、連続で振るった。
逃げる隙を作ろうとしたのか、はたまた追う赤毛の少女、膨大な魔力を持つ魔法使いを倒そうとしたのか。
いずれにせよ、その攻撃は通じなかったが。
「倒さないと、いけないんだっ……」
小声を発しながらアサキは、紙一重で見切り、右に、左に、避けていたのである。
このようなものが生まれない、そんな世界を、作らないといけないんだ。
だからっ!
言葉の続きを、心の中で叫びながら、床を蹴り、跳躍していた。
赤毛をなびかせながら、ヴァイスタへと、飛び込んでいた。
飛び込みながら、まるでアドバルーンといった、とてつもないサイズに巨大化させ右拳で、ヴァイスタの胴体を殴り付けていた。
巨大パンチ。
非詠唱の応用で、巨大化と飛翔という、二つの魔法を組み合わせた、アサキの必殺技である。
一瞬にして、ヴァイスタの上半身が消し飛んでいた。
アサキが、着地と同時に、その巨大な拳を、残る下半身へと叩き落とした。
通路が砕け落ちた。
静寂。
周囲、下の階、瓦礫があるばかり。
アサキは、昇天魔法を使うことなく、ヴァイスタの存在を消滅させたのである。
でもアサキには、そんなことはどうでもよかった。
ただ、元魔法使いを滅ぼしてしまったという、後味の悪さが残るばかりだった。
「誰、だったんだろう。このヴァイスタは。どんな魔法使いの、女の子、だったのだろう」
早く、こんな戦いをしなくて済む世界が、くればよいのにな。
ヴァイスタなんか生じない、絶望なんかしない、そんな世界になればよいのにな。
それまでは、こうして戦うしかないのだけど。
「そっちどう? こっちは結局、わたしが昇天させちゃったよー」
延子の、のんびりした声が、部屋の中から聞こえてきた。
「アサキが、昇天魔法も使わず、巨大パンチで消滅させちゃったよ」
通路へ身を乗り出し様子を見ていたカズミが、ストレート、アッパー、上からドガン、と先ほどのアサキを真似している。
手は、大きくなってないが。
「えーっ。凄いなあ、やっぱり。ザーヴェラーも破壊した、噂の巨大パンチ、見てみたかったなあ」
延子もひょっこり、通路へと顔を出した。
「ヴァイスタの辿り着く場所は同じでも、こちら側のケジメというか、儀式的に、昇天魔法を使うべきとは思っていたのですが。気が付いたら、つい……」
アサキは、恥ずかしそうに俯いて笑みを浮かべた。
「ねえ、みんな無事い?」
須黒先生の声だ。
アサキたちが慌て、部屋に戻ると、床の真ん中に空いた大きな亀裂から、須黒先生と明木治奈が、這い上がってきた。
下の部屋にいる嘉嶋祥子の、高く上げた手を踏み台にしているのだろう。
最後に、嘉嶋祥子が、身を跳躍させたか軽々と裂け目から飛び出した。
「誰も怪我してない? 傷があるなら治療するよ」
アサキは、祥子たちをぐるり見回した。
「怪我はしてないけどお」
須黒先生が、ふらふら床に倒れて、気怠そうな表情で寝そべってしまう。
「ぼくがヘマして動けなくなっちゃって。須黒さんが代わって、エンチャントしたぼくの武器で、ヴァイスタ倒しちゃったんだ」
銀黒髪の祥子が、状況を説明した。
エンチャントとは、あらかじめ魔力で武器を強化しておくこと。
よい面ばかりではない。
強力に掛けておくほど、敵への接触の際、微量ながら強制的に魔力を吸われもする。
須黒先生は大人であり、魔力をほとんど宿していないため、生気を抜かれて、このような状態になってしまっているのだ。
「凄いな、先生」
アサキは素直に褒める。
元魔法使いで、強化された武器を手にしていたとはいえ、使い慣れていない他人の武器で、しかも魔道着も着ずに、ヴァイスタを倒してしまうなんて。
積んだ経験は、無駄にならないんだな。
「令ちゃんだって凄いよお。こっちも生身でえ、しかも昇天魔法を使わず殴り潰して消滅させたんだよ。噂の巨大パンチでえ」
延子が、自分のことのように楽しげに。
見てなかった分だけ、想像が過剰になっているのか、オーバーアクションで部屋の空気を殴る蹴る。
「凄くなんか、ないです」
自分のこととなると、どこまでも謙遜してしまうアサキである。
「ぞれにしでもお……」
ぐでえええーっと、スカートなのに床の上にだらしなく伸びながら、須黒先生が、吐き気おさえた声を出した。
「第三中は、どうして全員とも変身が出来なかったのかしら。わたしのクラフトも、通信拒否エラーが出ていたし。……サーバー側が原因なら、クラフトを見ても仕方ないかも知れないけど、調べてみたいから、みんな、そのリストフォンを貸してちょうだ……」
そばにいた治奈へと、手を伸ばそうとして、くにゃり、その手が床に落ちる。
すーすー、先生の、小さな寝息が聞こえてきた。
8
千葉県我孫子市立天王台第三中学校。
北校舎二階の廊下を、黒スーツ姿の、眼鏡を掛けた女性が歩いている。
ここの教師であり、メンシュヴェルトメンバーの、須黒美里である。
まだ朝早いため、生徒や他の教員の姿はまったく見られない。静まり返った廊下に、カツカツと足音が反響しているだけだ。
右肩に掛けている黒いバッグには、アサキ、治奈、カズミ、三人のクラフト内蔵リストフォンが入っている。
彼女が向かう先は、校長室。
昨日のこと。
ヴァイスタが出現したというのに、クラフトが作動せず、アサキたちは変身出来なかった。
校長の元へと、その相談に行くところだ。
でも……
本当は、自分が向かう理由は、そこにはない。
いや機能しなかったクラフトのことも、大事ではあるが、現在、関心の最優先ではない。
最優先は、校長と会うことそのものにある。
この四日間、彼とは連絡が取れていない。
何故、おかしいと思わなかったのだろう。
何故、不安に思わなかったのだろう。
職員室の朝礼でも、思い返せばここ最近、いつも不在だったのに、どうして気にならなかったのだろう。
いない、ということは、認識はしていたはずなのに。
それがおかしいことだ、という気持ちが生じなかった。
昨日、令堂和咲たちに、「校長が、クラッキングまがいのことをして、メンシュヴェルトのことを調べている」、とか、そんな話をしたというのに。
それと、実際の不安が、まったく直結していなかった。
不在への不安をまったく感じていなかった。
バカすぎる。
と自分で思うけれど、どうしようもない。
クラフトの件は、どうしても校長に相談するしかなく、そんなこんなを考えているうち、急に、呪縛が解けたかのように、不安が襲ってきたのだ。
胸が、ドキドキする。
嫌な予感がする。
嫌な予感しかしない。
魔法使い時代から、自分のこの感覚は、よく当たる。
当らないで欲しい……
年を取って感覚が鈍っただけ。
そうであって欲しい。
後から、昭刃さんにオバチャンとからかわれても構わない。
だから、どうか……
廊下に響く、カツンカツンという音が、静まった。
足を止めたのだ。
校長室の、ドアの前。
止まった足音の代わりに、心臓の音が聞こえてきそうだ。
緊迫に耐え切れず、止まってしまいそうなくらいだというのに、静寂の中で打ち鳴らされている、心臓の音。
抑えようと、深呼吸をした。
もう一回。
吐き切り、普通の呼吸に戻ると、ゆっくりと、手を伸ばした。
校長室ドアの、ノブへと。
触れ、軽く力を入れ、確かめるように、回す。
軽い消失感。
ロックが、掛っていないのである。
いつから?
これまで誰も、開けてみることも、しなかったのだろうか。
ノブを掴んだまま、軽く押す。
音もなく、ドアが開いた。
と、その瞬間であった。
おぞましい、といえばよいのか、踏み潰された猫のような、断末魔然とした凄まじい絶叫が聞こえたのは。
誰あろう。
それは、須黒美里本人の口から発せられた、絶叫であった。
抱えていた黒いバッグが、床に落ちた。
開けたドアの向こう、校長室の、奥にいるのは、
奥の、椅子に座っているのは、
スーツ姿の、男性であった。
いや、「男性」の前に、「おそらく」を付ける必要がある。
何故ならば、
ずんぐりむっくりとした、熊に似た体型の、
おそらく、男性、のスーツ姿の、胸の上には、
首が、存在していなかったのである。
須黒美里の全身が、驚きと恐怖に、ぶるぶると震えていた。
よろけながら、ぐっと呻き声を上げると、頭を両手で掻きむしった。
呼吸荒く、ふらふらとした足取りで、ゆっくりと、部屋に入った。
身体を震わせながら、
一歩、一歩、奥の机へと近付いていく。
なにかの間違いではないか。
イタズラではないか。
せめて人違い、他の誰かであって欲しい。
酷いことだと分かっている。
でも!
ヴァイスタよりも真っ白な顔で、顔から汗をだらだら垂らしながら、机へと、首なしの男性へと、近付いていく。
三歩、四歩、
ちょうど部屋の真ん中あたりまできた、その時である。
ぼとり、
ぼとり、
目の前に、なにかが落ちた。
床に落ちた、それを見て、
ひっ、と息を飲んだ。
ぬらぬら光った、二つの、
目玉、
だったのである。
不意に頭上が影になる。
またなにかが落ちてくる気配に、本能的に見上げたその瞬間、額に、ぐちゅがつんと硬く重く、ぬめっとしたものが、ぶつかった。
眼鏡が外れて落ちると一緒に、
どさり、
大きな物が床に落ち、転がった。
視認した瞬間、須黒美里の顔は、驚きと恐怖に、歪んでいた。
裂けそうなくらいに、大きな口を開くが、ひゅうっと呼気が漏れるばかりで、なんの声も出ていなかった。
出てはいないが、ここに他人がいたならば、表情だけで充分過ぎるほどに伝わっただろう。
その顔の通り、恐怖に驚くことが、起きたのである。
衝撃のあまり、叫び声すら出てこないようなことが、起きたのである。
ふらり、
後ろによろけて、背を壁に打ち付けた。
はあはあ、荒い呼吸。
床に落ちた大きな物。
それは、人間の頭だったのである。
彼女の、よく知っている人物だ。
無残にも、両目をくり抜かれているが、見間違うはずがない。
この学校の校長、樋口大介の、首であった。
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