女郎蜘蛛
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第一章
女郎蜘蛛
伊豆の話である。
この国の天城山のふもとにある浄蓮滝に言われていることがあった。
「あの滝には蜘蛛がいるぞ」
「蜘蛛が棲んでいるそうだ」
「女郎蜘蛛という妖怪がな」
「ミズグモが歳を経たものか?」
水辺に棲むこの蜘蛛ではないかという話も出た。
「それか」
「その蜘蛛か」
「それで滝に棲んでいるか」
「なら滝に行くとか」
「蜘蛛に遭うかも知れないか」
「そうなるのか」
「蜘蛛の化けものは恐ろしいぞ」
こうしたことも言われた。
「血を吸うぞ」
「人を糸で捕えて食うぞ」
「巣も張るな」
「だからあの滝には行かない方がいい」
「一人では行かないことだ」
「絶対にな」
「そうした方がいいぞ」
山の周りの者達はこう話していた。
そして誰も近寄らなかったがここでだった。
近くの樵、名を太助という彼はその話を聞いてこう言った。
「それは若い者の話だろう」
「若い者?」
「若い者って何だ?」
「どうしたんだ」
「わしはもう五十を過ぎて子供も大きくなってだ」
その半分以上白髪になった頭に手を当てつつ言う、四角いその顔も随分と皺が多い。頑健だった身体も最近あちこちが痛む。
「孫も出来た、ならな」
「蜘蛛に遭ってもか」
「それでもか」
「食われてもいい」
「歳だからか」
「ああ、もう充分生きたからな」
だからだというのだ。
「もうだ」
「随分なことを言うな」
「まだ生きてもいいだろ」
「孫が出来てもな」
「そうしてもいいだろ」
「ははは、女房もこの前死んだしな」
このこともあってというのだ。
「だからな」
「もういいのか」
「充分生きたっていうのか」
「そう言うのか」
「ああ、あそこは誰も行っていないのでいい木も多いだろ」
このこともあってというのだ。
「だから今度な」
「滝の方に行ってか」
「そしてか」
「木を切って来るか」
「そうして来るか」
「そうするな」
こう言って実際にだった。
太助は斧に鉈を持って滝の方に行った、そうしてだった。
木を切っていると滝の方をふと見た、静かで澄んでいる。彼はその滝を見て本当に蜘蛛の化けものがいるのかと首を傾げさせた。
そうも思いつつ木を切っているとだった。
うっかりとして鉈を滝の中に落とした、彼は咄嗟に鉈を取りに滝の中に飛び込んでそのうえでだった。
底に潜って鉈を探そうとした、だが。
ここでだ、その滝の底の方からだった。
長い艶やかな黒髪に雪の様に白い肌、切れ長の色気のある目に白い紅の衣を着た女が出て来た。見ればだった。
女の手には鉈があった、その鉈を出して太助に尋ねてきた。
「この鉈は貴方のものでしょうか」
「あ、ああ」
その女の美しさに驚きつつだ、太助は女に答えた。
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