ノムさんの人生、その夢と現実
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燕の黄金期
1990年からノムさんはヤクルトスワローズの監督をされた。だが、チーム自身とはもちろん、セ・リーグのチームである事から非常に縁の薄い、いわば外様の監督となった。(強いてノムさんがセ・リーグと縁があるとすれば日本シリーズで戦った事がある巨人の王さんや長嶋さんと親交があったくらいか)。その為、部外者のイメージを持たれたという。また、当時のスワローズは万年Bクラスであり、優勝狙いというよりチーム内のアットホーム感を重視するチームだから負け癖がついてしまったとみられる。ノムさんはそんなのはぬるま湯と感じたのだろう。チームの改革にすぐさま着手した。
古田敦也氏を正捕手抜擢、高津臣吾氏を抑えに固定、古田氏が加入前の正捕手候補だった秦信司氏、飯田哲也氏を外野にコンバートなどといった行為だった。確かに一年目は5位に終わったが、それらの行為は徐々に功を奏す結果となる。
1991年、この年は阪神を除く5球団が必ず一度は首位に立つ乱戦だった。古田氏が首位打者獲得するなどしてさらにチームも軌道に乗ったのではないだろうか(順位は3位)。
そして1992年のスワローズ、ノムさんはここで優勝宣言をした。この年は、大混戦。秋になっても、ジャイアンツ、タイガース、カープも優勝争いに加わるほどだった。そして、優勝を手にした。スワローズにとっては1978年以来、14年ぶりの優勝だった。しかし、日本シリーズでは西武ライオンズに敗れてしまった。
そして1993年、開幕ダッシュに失敗し、首位から没落した時期もあったがこの年もリーグ優勝を決めた。この年も日本シリーズの相手は西武だった。しかし、今度は負けるわけにはいかなかった。最終戦にまでもつれてついに日本一を達成する事ができたのだ。南海監督時代でも成しえなかった日本一を。
そしてマスコットキャラクター・つば九郎が登場し、帽子のマークの変更などのイメージチェンジも行った1994年、この年は6球団とも順位が激しく変動する混戦だったが、乱闘や負傷で退場・離脱者が続出してしまい、4位に終わり、しかも最後はあと一歩の所で最下位確定かという崖っぷちだった。
1995年は前年優勝した巨人を打倒するという目的で優勝を目指す。その結果、巨人はAクラス争いがやっとという状態となり、スワローズは首位独走、広島に猛追されたりもしたが、2年ぶりの優勝を、しかも胴上げは打倒を目指していた巨人との試合で達成した。日本シリーズでは魔術のような采配が魅力的だった仰木彬氏率いるオリックス・ブルーウェーブとの対戦で、「IDvsマジック」という印象に残った人も多いのではないか。このシリーズでは、4勝1敗と2度目の日本一を達成する事ができた。
1996年では、序盤はジャイアンツ、カープ、ドラゴンズと共に優勝候補に入り、吉井理人氏や辻発彦氏、トーマス・オマリー氏やヘンリー・ミューレン氏の活躍があった。しかし、故障者続出と巨人の快進撃に遭い、4位に終わってしまった。
1997年は元カープの小早川毅彦氏を加入させ、風評は下位予想されていたが、ドウェイン・ホージー氏や古田氏、池山氏のの活躍もあり、快進撃を続けて行く。横浜ベイスターズに追いつかれるも、その横浜戦での石井一久のノーヒットノーランを決めて天王山を振り切り、4度目の優勝。日本シリーズでは4年ぶりの西武との対戦だった。ライオンズ有利のと言われたが、それでも獅子封じに成功し、4勝1敗で日本一を達成した。
そして、1998年は二度目の連覇を狙うと意気込むも、親会社の取引失敗、プロ野球脱税事件と社会的事件の煽りを受けた事もあり、優勝争いに関わる事はなく、4位に終わった。そしてノムさんは勇退した。
終わってみれば9年間指揮をしてきた中、Aクラス5度、4度の優勝、3度の日本一、それまで優勝もAクラスも少なかったスワローズの歴史の中では燕の名将と称された。後にも先にもここまでスワローズが強かった時期は他の時期とは比較できないだろう。
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