ソードアート・オンライン クリスマス・ウェイ
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湖の夜(1)
雪こそ止んでいたものの、おそらく周囲の気温は零度を下回っているだろう。証拠に俺の目の前にある湖には分厚い氷が張っている。ここはニシダ氏に誘われ釣竿のスイッチを行い、イベントボスモンスターを駆逐した、新婚生活最後に思い出をつくった場所だ。あのときはまだ凍りつくことはなかったはずだが。
第二十二層主街区の村で用意してきたブツをアスナに手渡し、俺は俺で右手に愛剣を装備した。何千回とくりかえしてきた動作で《ヴォーパル・ストライク》のモーションを呼び起こし、ライトエフェクトを眼前の湖にたたきつける。赤黒い光は湖の上に分厚く張った氷の膜に殺到し、がっしゃーんと大音響をひびきわたらせながら、氷のオブジェクトを破壊した。
よし、とガッツポーズを決める俺に、アスナはあきれ混じりに言った。
「……いつものことだけど無茶苦茶だよー。もしかしたら春に解禁のクエストかもしれないのに」
「だったら、この氷が割れたりしないさ」
まさか湖に氷が張っているとは思ってもみませんでした、なんて心中をハインディングさせつつ、俺は頬をつり上げてやりながら、掌になじんだ片手剣を鞘に納め、振り返った。
青白い月光に照らされたアスナの姿は、美しく神秘的だった。
水妖精族となったアスナの髪は水色にかわり、妖精たる証明として耳が尖っているが顔の造作は明日奈そのものだ。
水妖精族特有の水色の髪はコートにそって流れていて、彫像めいた美しさを際だたせている。
風にそよいだ髪をおさえる指は驚くほどまっ白で、生き生きと輝く唇には苦笑を浮かべている。
ちょっとあり得ないくらいに可愛く美しい、彼女の姿に見入っているとアスナが「んっ」と小首を傾げる。
「どうか、した……?」
「な、何でもないです……」
気恥ずかしくなりつつ、アスナから預けていた竿を受け取り、地面においておいた餌をくくりつける。そのままひょいひょいっ、と湖にむかって釣り針を投げた。
水面にウキが浮いたことを確認して、その場に座り込む。びゅうっ、と風が吹いたが、耐寒支援つきの装備のおかげで寒さはぜんぜん感じない。
「変なキリトくん……昔からだけど」
アスナは隣に腰を下ろした。そのまま腕をからませてくる。振り払う理由なんて、どこにもない。
「でもこれじゃまるでズルしてるみたい……あれだけ分厚く氷が張ってればあきらめるわよね、ふつう」
「そういえば、今日の迷宮区攻略のときにエギルが言ってたな。ビーターっていうのはこういう気分だったのか、って。アスナも少しは楽しかったろ? クリア済みの迷宮探索って。二週目のRPGとかの醍醐味なんだよな、あの爽快感」
「それは……まあ……。でもこれ、釣れちゃったらどうするの? いまここが最前線になるんだし、ボスも強化されてるから、一年前のように簡単に倒せないわよね……?」
「そりゃ、もちろんイベントボスを倒すさ。倒して明日のMMOトゥモローの三面記事より、もうちょっと小さい、六面記事くらいに名前をのっけてやる」
「……釣れるといいね」
「正直、釣れなくても良いと思ってる。この手のイベントクエストって新アインクラッドになってから、いろいろ変化してるし、前と同じ条件でつり上げられるかは……やってみないとわからないだろ」
ぴぴっ、と竿を動かしてみる。水面を這うようにウキが揺れるが、いまのところヒットの手応えはない。
「そういえばニシダさん、元気かしら。キリトくんは連絡先を知っているんでしょ?」
「ああ。一度だけメールに返信があったよ。こっちでの経験生かして、脱サラして釣具屋やるつもりらしいよ。用意ができたら呼んでくれるってさ」
「へえ……楽しみね、それ」
「そうだな……。それにニシダさんがいなきゃ、俺はここの湖の主にバカにされたまんまだったんだよな……。釣れない理由にも心あたりあったし……」
「なあに? その釣れない理由って」
しまったついよけいなことを口にしてしまった。時や遅し、だが何とかごまかすべく口を開く。
「えっと……言わなきゃ、ダメ?」
「聞いてみたいけど」
「……ぜんぜん釣れない理由を『美人の奥さんゲットでリアルラックを使い切った』せいにしてました」
「……」
二の腕あたりに絡んでいたアスナの腕から力が抜けた。さすがに引かれたかなぁ、そうだよなぁ、引かれるかなぁ、だから伝えるの躊躇したんだもんなー、なんてしまりのない思考をおさえつつ、首をギコギコいわせながら何とか視線を隣にむけると――。
驚いたことにほんのりと頬を赤く染めたアスナがいた。
あんまりにも不意打ちの表情だったの俺は口をぱくぱくさせてしまった。てっきりあきれ顔なりなんなりされていると思ったから、余計に。
アスナがやや瞳を潤ませながら、桜色の唇をほころばせる。
「ばか……そんなところでラック使い切っちゃってたら、きっといま一緒にいられないよー」
「そ、そうでした」
頬に朱をちりばめながら、アスナはもう一度腕を強くからませ、俺の肩に頭を預けてくる。
衣服の3Dオブジェクトを透過して感じる体温がある情景を想起させた。
お互いの死すら覚悟した、アインクラッド崩壊の日。
二年間置き去りにしてきた名前を伝えてお互いの名前を狂おしく叫び、魂の奥底から感情を絞り出し、互いを求めたあのときの思慕が、いまさらになって胸をくすぐる。
二度と味わえないと思っていた体温が腕の中にある。それが愛おしくてしかたなくなった。
アスナの体温をしっかりとかき抱くべく、肩に手をまわして引き寄せる。
こうしていないとまた、どこかに行ってしまうのではないかと、強迫観念にも似た思いでアスナを抱きよせる。それはアスナも同じようだった。釣り竿を握る俺の手に手を添え、包むように握る。抱き合える奇跡を、俺もアスナもかみしめていた。
想いにに押されるように、気がついたら口を開いていた。
「アスナ……キスしたい」
「……わたしも」
しばらく無言で見つめ合った後、アスナが目を閉じて、桜色の唇をすぼめた。
わずかに突き出される水蜜桃の唇に、唇でふれる。触れたそこはきっと体のどこよりも柔らかい。
「ん――んっ……」
アスナが可愛らしく鳴いた。
生理現象を再現しないアバターの吐息はただのボイスエフェクトでしかない。
しかし――、その吐息の中には間違いなく安堵が含まれていた。そのまま体温を交わす心地よさに酔う。
かなり長い間、唇をかわしつづけ、名残惜しくも俺たちはお互い顔を遠ざけた。
アスナの瞼が震えながら持ち上がった。ぱっちりと開いたアクアブルーの瞳には涙の膜がたゆたう。おそらく俺の目も同じように涙がたまっていることだろう。さっきから視界がゆがんでいる。
もっと彼女の体温がほしくなる。求めてしまう。
「アスナ……」
きっと声はからからに枯れていたように思う。
両手で彼女をだきしめるべく、俺は左手に持った釣竿を放り出そうとして――
がっくーん!
放り出そうとした釣竿に腕を引かれた。
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