ソードアート・オンライン クリスマス・ウェイ
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帰還(4)
「……キリト君?」
黒いシャツ一枚、という寒々しい姿のキリトの肩が、わずかに揺れた。
さらに声をかけようとしたアスナの前で、キリトがいきなり右腕を強く振るった。動作は彼のSAO時代からのクセである、片手剣の血ぶりによく似ていたが、キリトの剣は鞘に格納されたままだ。
素手でふられた腕は剣技の冴えを持っているのに、そもそも彼の手に剣はない。不思議な光景だった。
そしてキリトは俯いたまま、ざくざく雪をふみしめ、アスナとリズベットの隣を無言で通り抜けた。そして一段高い位置にある扉の前に立つと、憮然と腕を組んだ。
キリトが扉に向かって立っているせいで、アスナの位置からはキリトの表情が見えない。
「まったく……気を遣った意味がないじゃない」
アスナはとなりのリズベットの横顔をみた。予想に反してリズベッドは苦笑いを口元に浮かべている。
リズ?と、アスナは口を開こうとして、震えた野太い声に遮られた。
「はは……あいつって奴は本当に……手間ぁ、掛けさせやがって」
アスナが振り向くと、いままでキリトの前に立っていたクライン、シリカ、リーファの三人がなんだかとても「邪悪な」笑みを浮かべていた。
軽い足取りでシリカがアスナの横を通り過ぎ、リーファがそれに続いた。二人とも、なぜか服の袖が濡れていた。
「さ、お兄ちゃんには何を買ってもらおうかなー」
「あたしは食堂のデザートお願いしますねー」
「じゃ、俺はエギルの店のボトルをよろしく。うぉー、さみぃさみぃ! アスナっち、はやく!」
最後にクラインが続いた。
どういう事情か、クラインやシリカ、リーファが何か言うたびに、キリトの肩がひくひくと揺れていた。
「……あたしたちも、行こ」
「うん……ありがと、リズ」
「コートのお礼なら、キリトに言って」
リズベットに支えられながらアスナはやっと立ち上がった。
震える指先でアイテムウィンドウをポップさせる。
プレイヤーハウスを購入したことであるアイテムが格納されているはずだった。
アスナは新規アイテム入手欄に目的のそれを、見つけて空いてる片手にオブジェクト化する。
手のひらの中でエフェクトがはじけ、まさしく家主にしか使用できないそれが姿を現した。
冷気の中にあってさらにひんやりとした質感のそれは、旧アインクラッドに存在していたものと瓜二つ――オブジェクトデザインとしては完全に同一の、「鍵」だった。
アスナの手のひらにもすっぽりと収まってしまうほどの、小さな鍵。
「……っ」
アスナは一年と一ヶ月の時間をかけて、再び戻った鍵の重さと冷たさを握りしめる。
とたんに新しい涙が視界をおおうのを感じながら、アスナはリズベットに付き添われてキャビンの入り口に一歩一歩、前に進んだ。
自然、アスナとリズベットを迎える形になったリーファ、シリカ、クラインの間を抜けて、木枠の階段にさしかかった。
「さ……あとは任せるわよ、キリト」
アスナはリズベットに一度ぎゅっ、と抱き締められた。あたしの出番はここまでだと、ばかりにリズベッドはアスナから離れた。
アスナはよろめきながら前に一歩だけ脚を進ませる。だが、次の一歩を進めようとしたとき、雪のせいで脚がすべった。
アスナが思わず宙に泳がせた手を、視界の端から差し出された手がつかまえる。
その手にすがるようにアスナがバランスを整えているとつぶやきが降ってきた。
「アスナ」
手を引かれ一歩踏みだし、扉の前に誘われたアスナは声の主に顔を向け、息をのんだ。
どうしてキリトが顔を見せたくなかったのか、分かってしまったからだ。
――キリト、くん。
慌てていたせいだろう。涙の滴がキリトのおとがいのあたりに残っている。一見奇妙に見えたあの血ぶりの行動は、きっと涙を払う為のものだったのだ。あいにくと盛大に失敗しているようだが。
温めたミルクのような、――胸に暖かくて甘いものが心の器に注がれていく。
同じ思いでここに立ってくれているキリトの気持ちが、うれしくてたまらない。
――キリトくん……!
指先から流れてくるキリトの体温すら、愛おしい。
ずっと、ずっと、ずっと握っていたい。
そしてアスナはキリトの涙に気づかないふりをしながら言った。
心の中に浮かんだ、これから何度も、何度も口にするはずの言葉を。
「やっと帰ってこれたね……ただいま、キリト君」
一瞬の間があって、キリトが片頬をつりあげる。
「おかえり。さあ――鍵、頼むよ」
キリトに促され、アスナは扉に向き合い、鍵を鍵穴に差し込んだ。
鍵穴には複雑な仕組みはない。錠前と一対の鍵を差し込み、まわすだけで錠前ははずれてしまう。
だがその、鍵を回す動作を行うのにアスナは何度も深呼吸を繰り返さなければならなかった。
「ホーム」の扉をもう一度だけ眺める。
――待っててくれて、ありがとう。待たせてごめんね。
心の中でそう唱え、鍵をまわした。
ことん。
錠前がまわる音が響きわたる。
心地よく胸に落ちたその音を胸に刻みつけ、アスナはキリトの手を握りしめて囁いた。
「おかえり、キリト君」
つないだ手はすぐに握り返してきた。
強く、甘く、淡く。体温をひとかけらでも逃さないように、やさしく、包むように。
「ただいま、アスナ」
応えたキリトの声は、わずかに濡れていた。
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