或る皇国将校の回想録
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
第二部まつりごとの季節
第二十一話 馬堂家の人々
前書き
【第二部まつりごとの季節】
〈皇国〉は島国であることと長く続いた内乱によってツァルラント大陸文明から一定の距離を置いてきた新興国である。
現在は皇主を名目上の君主として、五つの大貴族と衆民によって構成されている。
良馬の産地である駒州の地においては、豪農と陸運の支配者たちを取りまとめる駒城が、
林業資源地帯と職能集団を取りまとめていた守原家と宮野木家が、西領の最大港湾都市と皇都への航路を支配する海峡を支配を確固たるものとした西原家が
時には叛乱や寡頭制への分権化などの紆余曲折を経て、〈皇国〉有数の名家へとなった。
そして太平の四半世紀を経てそして最後にして最大の内戦後の土地の復興を成し遂げた安東家もその地位に実が伴おうとしていた。
一方敗北した諸将家の土地はこの国の主流から長く取り残されていたが、皇家の自由化政策によって勢力を増大した衆民たちが勃興、
経済格差とそれを克服しようとする社会運動の狂乱を呼び起こしていた。
我々の後世の者は将家と衆民を単純な二項対立にして自身の政治的色彩の演出に落とし込もうとするのだろうが
その実態として将家と衆民は複雑怪奇かつ密接に、迂遠に、間接的に、直接的に、結びついていた。
そしてそこに降ってわいたのが〈帝国〉軍による侵攻が恐るべき怪物を呼び起こすことを
私は知識として知っていたが、実感をするのはまだ先のことであった。
――”転生者”馬堂豊久の覚書
皇紀五百六十八年 四月二十八日 午前第十二刻
馬堂家上屋敷前 馬堂家嫡男 馬堂豊久
「さて、我が屋敷に英雄の凱旋だ」
豊長が普段の重々しい態度とは真逆の芝居がかった仕種で屋敷を背に手を広げる。
その背後で家令頭の辺里が慇懃に礼をする様は阿吽の呼吸というべきか妙に絵になっている。
「豊久様、お久しゅうございます。さあ、皆様、外套を」
相変わらず家令の鏡と言うほかが無い振る舞いだ。
祖父と同年代の筈だが白髪の他には年齢を感じさせるモノは無い
「ただいま、辺里。お前も健勝そうで何よりだ」
曽祖父の代からこの家に仕えている生え抜きらしく、誠実さと熟練した慇懃な振る舞いは周囲から厚い信頼を勝ち得ている。
「豊久様、新城直衛様から明日の午前中に伺いたいと連絡が入っております。」
「あぁ、式典の間は話せなかったからな。分かった。宜しく伝えてくれ」
そう言うと恭しく頭を下げて使者の用意へと下がった。
「それでは我らが尊崇すべき辺里とも再会できたし、中に入ろうか。
今日は豊久の生還と二人の昇進祝いだ」
二人?
――父の階級章が目についた、真新しい准将の階級章になっている。
「父上、昇進なさったのですか。後2.3年はかかるものと思っていましたが」
笹嶋中佐の言った通り、家名が上がったからか。
「お前が後衛戦闘を任じられた後に駒城の方々が後押ししてくれた。まぁお前のお零れだ」
豊守は肩をすくめてそう云った。
喫煙室に到着し、馴染み深い安楽椅子に身を預け、無意識に豊久は感嘆の溜息を漏らした。
――やはり我が家は寛げる。
「准将閣下、ですか。そうなると駒州軍兵站部か、軍監本部の兵站課ですか?」
「いや、其方は今の者を引き継がせるそうだ。私は兵部大臣官房に配属された」
豊守は顎を撫でる。
「魔窟送りですね」
豊久が苦笑いする。
これは単なる憎まれ口ではない。兵部大臣官房は長きにわたる平時において産み出された青年将校たちの不満(出世の停滞)を緩和する為に肥大化した軍官僚組織を統括するためにかつての大臣官房副官部から大幅に膨張している。
官房長は慣例から文官が任命されるが、官房副長として陸・水軍中将がそれぞれ一名ずつ、さらに法務局から中将相当の文官(高等一等官)が首席監察官兼監察官室長を務める監察官室が官房長直属として設置されている。
そして、官房三課とよばれる総務課、主計課、人務課の三課がおかれ、基本的に陸・水・文から一名ずつ課長職に任じられることがこの二十数年で築かれた慣例である。――本来ならば各部局の統廃合を行い、陸水の二省体制への移行が提案されていたのだが水軍の衆民閥の増大を恐れた五将家の強力な反対によって頓挫している。
「総務課理事官だ――確かに厳しいものがあるよ、引継ぎだけで大わらわだった」
「――この時期にそれだと、ちょっと控え目に言って今年中は屋敷に帰るなと言われたようなものですね」
兵部省の事実上の調整役である大臣官房総務課は兵部省の省令、法令案の作成並びに公文書類の審査、運用の調査及び研究。公文書類の管理全般、所掌事務に関する総合調整に関すること、衆民院及び他官庁との折衝から民間業者との契約事務全般まで渉外に関すること。そして動員や世論対策を担う広報と、いわば兵部省の顔であり舌である。そして理事官は課の次席であるため、有体にいって新任の准将がつくべき地位ではない。普通ならば陸軍局の参事官、部次長を経て着任するのが常識だ。
「父上が兵部省の要に居てくれるのならば他家の専横も少しは抑えられるでしょう。それはそれで心強いのですが」
――それでも軍令を掌握している軍監本部総長はあの宮野木家の一門の志倉大将だ。
俺も陪臣の例に漏れず主家以外は信用しないがあの家は格別だ。あそこの爺なら守原の方がまだ信用出来る。
個人的な私怨があるのだろう。妙に偏見に満ちた思索を巡らせていると帰ってきて早々に軍の事で話し合っている孫を見て祖父が笑う。
「あまり、軍務にかまけるな。 視野を広めないと後でとんでもないことになるぞ?」
「――そうですか?」
「当たり前だ、大体お前は大事な相手に挨拶を忘れている。
――この大馬鹿者め」
「――あぁ」
祖父の厳しい目線に晒された豊久もぐしゃり、と伸びた髪をつかみ呻いた。
部屋に女性が二人、入って来た。
「御祖母様、母上、ただいま戻りました。――遅くなって申し訳ありません」
立ち上がって礼をする。
「武勲を上げ、そして生きて帰ってきた。
これ以上の事はありません。良く帰ってきました」
祖母である真佐子が相変わらず矍鑠とした姿勢で話す。
「貴方が無事だったのなら十分よ。お帰りなさい、豊久」
そして、実の母である馬堂雪緒が優しい笑みを浮かべている。
「――ええ、無事です。御心配おかけしました」
「さて、主家に倣って久々に皆で食事をするとしようか」
父が心の底から楽しそうに言った。
同日 午後第一刻 馬堂家上屋敷 喫煙室
馬堂家嫡男 馬堂豊久
「で、北領はどうだった」
食事を終えて、黒茶の豆を挽いた物(珈琲に似ている)で一服していると祖父が急かす様に話かけてきた。
四半世紀ぶりの大規模な会戦に撤退戦だ――自分の孫がその際にした事も含めて話が聞きたいのだろうが。
「今だから素直に言いますが、当面はあまり話したくないです。
できれば父上が見るであろう報告書だけで勘弁してくださいな」
こちらの返答に、祖父は困ったようにそっぽを向く。
――普段と大違いだな。
と豊久は苦笑するが、祖父である豊長からしてみればやむを得ないことなのかも知れない。東州内乱時、大尉として出征した豊守はそこで所属していた輜重隊が半壊し、自身も前線に立てる体ではなくなり、後方勤務に専念している。――そして、あっさりと初孫に死にかけられた所為で不安になったのだろう。
「まぁまぁ、御祖父様、大丈夫です。軍人を辞めたりはしませんよ。
――と、言いますか私をそこまで無責任だと思われるのも心外です。」
「ここまで厄介事を儂等に押し付けたのだ、そう思われても仕方ないだろうに」
にやり、と不敵な笑みを浮かべた時には、既に〈皇国〉憲兵の父にして、やり手の政治屋である馬堂豊長退役少将に戻っていた。
「――申し訳ありませんね。それではついでに、押し付けていたものを一つ、例の件はどのようになりましたか?」
「うん?どの例の件だ?」
祖父が楽しげに記憶を探るのを見て豊久は苦笑しながら言葉を継ぐ。
「出資関連の話です。蓬羽兵商に金を出していましたよね?
確か面白い砲の開発が進んでいると手紙をくれた筈でしたが」
「あぁ、確か銃兵でも携行出来る鉄製軽臼砲の改良案だったな。
あぁ……うむ、二・三年前から取り掛かっていたらしいが、試射の際に砲身が破裂して死傷者を出し、それで開発が滞っていたようだ」
祖父の言葉に豊久は瞑目する。
――砲は強力だ。だがそれ故に扱いは丁寧に、慎重にしなければならない。幼年学校でも龍火学校でも砲の危険性は散々叩き込まれた、そうでなければ砲兵なぞ務まらない。新兵器も信頼性が第一であるべきだが――
「まぁよくあること、では困りますが、この時期に開発が滞る様では国がもちません。
実現すれば有用なのは確実です。私の大隊が行った陣地戦においても、敵戦列への砲撃に極めて有用なものになります」
「今まではそれでよかったからな。
匪賊や辺境の貴族が相手だったから勝つ事が当たり前だった。新兵器も必要性は薄かったのだから」
父も頷いてくれる。
「技術課は蓬羽にべったりですからどうとでもなりますね。
勿論、蓬羽が乗り気になってくれれば、の話ですが。
蓬羽の女主人――田崎千豊がアスローン旅行に熱心になっていたら困りますが」
「其方は問題無いだろう。
あの女傑は今の所、〈皇国〉で夫の墓を守るつもりらしい。一旦採用されたら後は豊守が面倒を見てくれるだろう」
「そうですね。父上なら安心です。」
二人で信頼に満ちた笑みを浮かべる
「――まぁ確かに、それも私の仕事の範囲内だが」
豊守が渋面を浮かべるのを無視して豊長はぽん、と手をたたく
「その蓬羽からお前に贈り物がある。辺里!あれを持ってきてくれ。」
当主が声を上げると家令頭は素早く箱をもってきた。
「――失礼いたします、豊久様」
「これは――」
「燧石式では無い新型短銃だ。全く豪勢な事だ、蓬羽もお前に目をつけているという事だろうな」
豊守が愉快そうに目を見張って短銃を見つめる息子を見やる。
「これは、お前が大尉に昇進した時に作らせたものとも違うな」
豊長が唸る様に言う。
――あの燧石式輪胴短銃の事か、確かに全然違うだろう。
豊久はささやかならざる興奮に手を震わせながら説明書きに猛烈な勢いで捲り、目を通す。
玉薬を輪胴内の薬室に注ぎ、玉を込める形式は変わっていないがそれ以外は別物だ。
まず薬室の後部の仕切りの間に爆栓を取り付け、それを叩槌で叩く事で爆破させ、発砲させる。
銃身には施条が施され、有効射程は約三十間、騎兵銃と同程度だ。
叩槌を起こすと輪胴が回転するので射撃速度は小銃の比では無い――六発までの話であるが。
輪胴を回し、銃身の下でレバーの様な仕組みになっている槊杖で突き固め、爆栓を後ろに取り付ける。これを六回繰り返すのだ、乱戦中に再装填は困難だろう。それに、この爆栓も普通には手に入らない。
――弾薬は蓬羽から買うしかないようだ、ちゃっかりしているよ。
「実際に購入していたらあの時以上に金が飛んだでしょうね。
ほら、お前も説明書きより実物を先に見なさい。随分と手の込んだ装飾まで施されている」
そういいながら豊守も興味深そうに眺める。
銃把には今回の戦で俺が受勲した陸軍野戦銃兵章と馬堂家の家紋が彫られている。
「おや、これは――豊久、その説明書きを見せてくれ。」
目についたのか爆栓を手に取り、豊久が渡した説明書きに目を通す。
「何だ、お前、見覚えがあるのか?」
豊長も目敏くそれに気がついた。
「はい、父上」
手の上で爆栓を転がしながら軍政・兵站の専門家が解説を始めた。
「これ自体は四年前に試作の新型小銃の実包として試作されている物の部品の一つです。その小銃は蝋紙や樹脂で弾丸、玉薬、そしてこの爆栓を一体化させ、叩槌で針を叩き、爆栓を爆破させて発射させる形式だそうです。
そして装填の簡易化によって射撃速度を高める革新的な小銃、と自慢していました。
新型の施条砲と共に今年中に軍に売り込む予定だそうです」
――ほう、それは良い知らせだ、が。
「肝心要の信頼性はどうなのですか?
四年前に作られていたのならばこの短銃にも組み込まれていても良さそうなものですがね」
「暴発事故こそないが、打針が脆くなってしまうらしくてな。
八十発はもたせられる様になったから漸く売り込みの準備をしている。
――実用化したのはつい先日なのだ、お前も贅沢を言うな。」
豊守が苦笑する。
「惜しいですね。玉薬を風雨に晒さないで使えるだけでも素晴らしく魅力的です。雨天時に導術と合わせれば圧倒的な優位を得られるでしょう。
それに射撃速度の向上というのは非常に興味深いですね、限度が現状八十回、それがどの程度枷になるか、ただでさえ頭が痛いであろう、弾薬消費量の問題を抱えている現状で生産が追いつくのか等々の問題がありそうですが」
「八十発、銃兵にもたせる弾数の上限を基準とするか、妥当な数だろう。」
豊長が相槌を打つ。それを打ち尽くしたら後退せざるを得ないのが常識である。
「もっとも、採用されてもすぐには普及できないだろうな」
豊守が短銃から目を離しながら呟いた。
「何故ですか?」
「お前が今さっき言ったことに加えて予算の問題がある。施条銃が何故普及しないのかを忘れたか?
臼砲の方はまだ安価だからまだ使える。玉薬も使いまわせるから導入も安く済む。
だがその新式銃は、あれだけ複雑な構造ならば値段が嵩むのが必定だ。戦場での有効性の実証が無いと、いやあっても無い袖は振れない。後備役の動員だけでも予算が不足しているのが現状だ」
豊守が疲れた様に座り込む。
「――むろん、試験運用の結果と戦局次第では転換を進めねばならないだろう。
その場合によっては皇債の発行も辞さないだろうが――その頃の戦況がどうなっているか」
その声はあまりに苦かった。
「どうにか持ち堪えさせましょう、北領のようにはいかせない、その為の陸軍でしょう?」
「そうだな、その旗印の一つに使われる奴も目の前にいることだしな」
そういって豊長は頬を震わせる。
「――その不吉な笑みは止めてくださいよ。――それで、私はどうなるのですか?」
「あぁ、それは、明後日のお愉しみだ」
父が珍しく愉しげに言う
「――何かあるのですか?」
オレ、チョットクライ、キュウカ、タノシミタイ
「明後日、陸軍軍監本部に顔を出さなくてはならんのだ。その時に折よく若殿も軍監本部に用事があるそうでな、お前にも同行してもらう、昔の同僚達にも挨拶してこい。」
――軍監本部か、久しぶりだ。
「そこで若殿様と話すのですか?」
――若殿と会うのも年始の挨拶以来だ。新城の事もあるし、何らかの形で会いたかったのだろう。本来ならば、普通に呼びつければ良いのだろうが――俺も厄介な立場にあるという事か。
「そういう事だ。くれぐれも粗相をするなよ。」
祖父が生真面目な顔に戻った。
――いつもの厳格な祖父だ。時には幼年学校の教官よりも手厳しく叱られた。
頭では俺の為だと分かっていてもやはり苦手だ。
「まぁまぁ父上。豊久だってもう一流の将校なのですから」
父が口を挟むと素直な褒め言葉が面映いのか豊久はぽりぽりと頬を掻く。
「そんな父上――」
「何せ親王殿下とも書簡のやり取りを行った仲なのですから。――なぁ豊久」
一転して人の悪い笑みを浮かべる。
「何だと!!実仁親王殿下とか!」
祖父が目を剥く。
「――粗相をした覚えはありませんよ」
豊久は、目をそらしながら露骨に話題を変えようとする。
「それより、ほら。私は一年ぶりの皇都なのですから何か変わった事はありませんか?」
軍務から日常へと話題を移し、ゆっくりと時間を過ごした。
四月二十九日 午前第六刻半 馬堂家屋敷内 豊久私室前
馬堂家 使用人 柚木 薫
将家の使用人の朝は早い。何故なら軍人が大半の将家の人間は基本的に午前五刻には目を覚ますからだ。使用人たる者、主達が目を覚ます前に食事を終え、一日の準備をせねばならない。
そして、馬堂家の使用人の朝は更に早い、そして忙しい。他家の使用人の経験者でも音を上げる者がいるほどだ。何故なら家格と懐事情、そしてそれに伴う煩雑な諸事の量から考えれば馬堂家の雇う使用人の数は少ないからだ。
尤もその馬堂家の使用人は質が高い。読み書き計数、礼儀作法は当たり前、更に厳しい身元の審査と家令頭の面接を合格してようやく正式に雇ってもらえる。
馬堂家は往年の政治的魔術師、駒城篤胤の薫陶を受け皇都中に情報網を巡らせている人間が当主の家だ、人を選ぶのは当然だろう。
「さて、と昨日は辺里さんがつきっきりだったけど、若様の御機嫌は麗しゅうございますかね?」
そう云いながら豊久の私室の前に立つ柚木薫も皇室史学寮の博士の父親の推薦で十七の頃に雇われてから六年近くこの屋敷に住み込みで働いている。髪を簡素に結っており、顔立ちも整っているのだが物腰と合わせて色気よりも気風の良さが感じられる。
「豊久様――お目にかかるのは初めてですね」
石光元一、二十歳前の青年である。動員が進む前に兵役の経験がある使用人数名が駒州へと戻ってしまった為、春から新しく雇われた新人である。
「しかし、将家の御方は朝が早いと聞いていましたが」
「休みの日は起きたがらないの、休みの朝は大殿様達が組み手をやってるでしょ?
あれを嫌がっているのよ。幼年学校の訓練並みにキツいって言っていたわ」
――私が前に覗いた時は噎せ返る様な汗と……いや、思い出すまい。
豊守様は『父子の絆を深めたいのは山々だが膝に矢を受けてしまってな・・・・』と言って逃げており、いたって健康、かつ現役士官の豊久様は大抵連れ出されている。
「はぁ、僕は軍役経験が無いから想像できませんが、それで引き籠っているのですか?」
胡乱な目で寝室の扉を見やる。北領の武勇伝を聞いて想像していた偶像が砕けているのだろう。
「そう、まぁ今日くらいは大目に見てあげましょう。さすがに疲れているのかもしれないし」
そういいながらも半眼で扉の先を見つめている石光に警告する
「豊久様ってあれで意外と偏屈者だし、変なことを言わないほうが良いわよ。
――番犬の飼育係に回されるかもしれないし」
その言葉を聞いて新入使用人は顔を引きつらせて半歩さがった。
――確かに龍州犬は怖いけど剣牙虎よりましじゃないかしらね。
彼が憧れているらしい剣虎兵を思い、くすりと微笑し、柚木は扉をたたいた。
「豊久様、柚木です。起きてください」
『……』
へんじがない、ただのたぬきねいりのようだ。
「大殿様も今日の訓練は休みだと仰せでした。
ですから起きてくださいな」
『後、三刻』
「声を出せるならもう目が冴えていますよね」
『いやいや、眠いとも。朝餉ができたら目が覚めるさ』
扉越しでも存分に睡眠欲を満たして目を覚ましたのがとても良く分かる快活な声だ。
「はいはい、入りますよ」
『はい、どうぞ』
二人が部屋に入ると豊久は文机の引き出しを閉め、立ち上がって馴染みの女中を出迎えた。やはりとうに目を覚ましていたらしい。
「豊久様、いつから起きていらっしゃったのですか?」
「ん?俺が気付いたのは“若様の御機嫌は麗しゅうございますかね?”のあたりかな」
「――最初からじゃないですか。それじゃあ、新入りの子を紹介したいって解っていたんじゃないですか?」
――もう少しまじめにして下さいよ。
と柚木が呆れたようにいうが豊久は馬耳東風といった様子で
「まぁまぁ良いじゃないか。客人でもない相手に見栄をはるのも面倒なものなんだよ」
と弛緩した姿のまま小言をあしらっている。
「――で、そちらのお兄さんが新入り君かな?」
「はい、石光元一と申します」
顔を赤らめながらも深々と一礼する石光に豊久は背筋を伸ばし、指揮官らしい朗々とした声で答えた。
「これからは銃後の情勢も厳しくなる。色々と大変だろうが宜しく頼むよ。
私はほんの一月しか居ないがこの屋敷における主筋の末席を汚す者として君を歓迎しよう」
石光は、新任将校の様に背筋を伸ばす。
「はい、新任の身ですがよろしくお願いします!」
「――宜しい、それでは下がって結構」
石光が退室すると豊久は再び弛緩して安楽椅子に身を沈める。
細巻を取り出し、火を着けようとするが即座に柚木に奪われた。
かつて寝ぼけて文机を墨に変えて以来、喫煙室以外では全面禁煙令を祖母と家令頭から布告されているのである。
「それにしても柚木とも久しいな。半年、いや一年ぶりかな? 何というか、そう、瀟洒になった」
にへら、と笑みを浮かべている。さりげなく細巻を取り返そうとするが柚木はその手を抓りあげながらにこり、と微笑む。
「あら、口説いてくださるのですか?」
尤も、その気がないのは柚木には解っている。
――駒城の若殿様が育預の女性を実質的正妻に迎えてから使用人の中でも玉の輿を狙う人がたまにいる。将家では珍しく儲けている馬堂家の未婚の嫡男、その手の女使用人にどう思われているかを自覚した上で私をからかっている。この方なりの周囲の気を削ぐ防衛策なのだろうが性根が捻じ曲がった発想だと思う――婚約者がいるのだからさっさと身を固めれば済む話なのだし。
「左様ですか。ありがとう御座います。朝食まで後小半刻程です」
露骨に溜息をついて事務的な口調で要件を告げる
「柚木は慣れていて詰まらないな。分かった、分かったよ。また後で」
何処か嬉しそうな言葉を背に部屋を出る。
「はい、それでは失礼します」
「あ、柚木さん、もう大丈夫ですか?若殿様から言伝を預かったのですが」
柚木が部屋を出ると石光が駆け寄ってきた。
「大丈夫よ――というよりも、別に私が居るからって気を回す必要はないわよ
変な噂も立たないしその方が助かるくらいだわ」
「はぁ、そんなものなんですか?」
首をひねる石光に柚木はふんす、と胸を反らす。
「そんなものよ。随分と思ってたのと違うみたいね?」
控えめなようでいて存外に好奇心が強いらしい後輩に水を向ける
「あぁ、その、確かに瓦版に書かれていた記事とは随分違いますね。
思ったより普通でびっくりしました、将家の方ってもっとこう、固い御方だと」
そういって恥ずかしそうに頬を掻く青年に柚木はクスクスと笑う。
「軍服を着てない時は、人間そんなものよ。
それで言伝は良いの?」
「あ!そうでした。
若殿様と昨日から手紙が沢山届いているから後で――お越しいただきたい、とおっしゃっていました」
――なぜここでいうのだろう、と柚木が疑問に思う間もなく背後から声がする。
「あぁ、分かったよ。ご苦労さん」
「わひゃあ!!」
飛び出そうになった心臓を抑えながら後ろをむくとそこには誰も居ない。
「さてさて、二人とも、辺里はもう知っているが育預殿が正午前にいらっしゃるから準備を宜しく。
――お、宮川も健在そうでなによりだ」
「豊久様!お早うございます、若殿様が探していらっしゃいましたよ?」
柚木と同時期に雇われた宮川敦子が微笑を浮かべて小走りに駆けよってくる。
柚木とは違い髪を短く切っており、その為かどことなく活発そうな印象を与える。
「あぁ、今さっき聞いたところだよ、朝餉を済ませたらすぐに向かうと伝えてくれ」
「はい、かしこまりました」
「うん、宜しく頼むよ。
ほら、二人も、もういいから仕事に戻りな」
一礼して、忙しそうに小走りで離れてゆく使用人たちを豊久は笑みを浮かべて見送る。
「――故郷、か」
無意識の呟きは誰にも聞き届けられることなく、宙に消えた。
後書き
後書
どうでもいい裏設定
①馬堂豊久が最初に持っていたのはコリアー式フリントロック・リボルバー
新式の拳銃はコルト・M1851とコルト・パターソンの合いの子をイメージしています。
原作の9巻で1840年代相当のアレが出てきたので技術的にもアリだと思いますが、矛盾があったとしても見逃してください。
②フレーバー程度の話ですが、官制は旧大日本帝国の官制を参考にしてます。
ちらっと出てきた栃沢二等官は奏任二等官と解釈するなら中佐相当官です。
もしそうなのならたぶん万民輔弼令発布直後に入省したのでしょう。
そしてその中の出世頭・・・・そりゃ性格も歪むみますね(汗)
ページ上へ戻る