| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

fate/vacant zero

しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
 

第二部
風の驚詩曲
  乳姉妹の憂鬱




 ルイズは、夢を見ていた。


 昔の、六歳ぐらいの頃の夢である。

 舞台は、魔法学院からだいたい馬車で丸二日ほど行ったところ、生まれ故郷のラ・ヴァリエールの領地にある実家の屋敷だ。

 夢の中の幼いルイズは、屋敷の中庭を駆け回っていた。


 後ろにはかなりの数の召使いを従えている。

 というか、双方ともかなり必死な表情をしている辺りを見るに、どうやらルイズは逃げ回っているようだった。


 空に浮かぶ朱い満月に照らされた、迷宮のような植え込みの内に飛び込み、その追っ手たちをやり過ごす。

 追っ手の足音に混じり、声が聞こえる。



「ルイズ。ルイズ、何処へ行ったの?
 ルイズ! まだ、お説教は終わっていませんよ!」



 それは紛れもなく母の声だった。


 夢の中でルイズは、デキのいい姉たちと魔法の成績を比べられ、物覚えが悪いと叱られていたのであった

 隠れた植え込みの下から、すぐ側を通り過ぎていく靴が四足見えた。


「まったく、ルイズお嬢さまは難儀なこったね」



 それは、己の召喚した使い魔の声だ。


 この時期には居るはずがないのだが、そこはそれ。

 さすが夢である、といったところか、ルイズはその存在に疑問を抱かず、すんなりと受け止める。



「そうだなぁ。上の二人のお嬢さまは、あんなに魔法がお出来になるって言うのに。
 使い魔のきみだって、それなりには使えるんだろ?」


「まあな。俺がそろそろ『トライアングル』になるってのに、お嬢さまはなんでああ……」



 ルイズは哀しくて、悔しくて、歯噛みをしながらそれを聞いていた。

 本当に、なぜ自分は魔法が使えないのかと、ルイズは自分で自分を責めていく。


 どんどん、惨みじめな気持ちになっていく。


 やがてがさごそと音がして、その使い魔と召使いが植え込みの中を捜しはじめたのに気付いたルイズはそこから逃げ出し、彼女自身は『秘密の場所』と呼んでいる、中庭の池へと向かった。





 そこは。

 あまり人の寄りつかないうらぶれた中庭は、ルイズがこの屋敷の中で唯一安心できる場所であった。


 池の周りには季節の花々が咲き乱れ、小鳥が集う石のアーチとベンチが置かれている。


 池の中ほどにはぽつりと小さな島があり、白い石で造られた東屋あずまやがちょこんと建っていた。



 そして、そんな池のほとりにルイズの目指す場所は浮いていた。



 家族で舟遊びを楽しむための、一艘の小船ボートだ。


 だった、と言うべきかもしれない。

 今ではもう、家族がこの池で舟遊びを楽しむことはないのだから。


 二人の姉たちは、成長してからはそれぞれ魔法を覚えるのに忙しかった。

 地方の太守である父は、軍務を放れてからは近隣の貴族との付き合いに外を出歩くことが多かったし、そもそも彼は狩猟の方が好きだった。

 厳格な母は、娘たちの教育と年頃に至った上の姉の嫁ぎ先以外へ、興味を向けることもなくなっていた。


 忘れ去られた中庭の池と小船を振り返るものは、今となってはルイズだけだ。

 嫌なことがあったり、両親や上の姉に叱られたりしたとき、この小船ボートへと忍び込む。

 そして丁度今のように、用意してあった毛布に包くるまって、じっと思考と反省と対策に耽るのである。






 数分か、それとも数時間か。

 奈何せん夢の中のことなので時間は意味を失っているが、まあそれはどうでもいいことだ。


 ともかく少しの時間が流れ、小島の東屋の中からマントを羽織った一人の身なりのいい青年が現れた。



 年の頃、己の使い魔と同じくらい。

 夢の中のルイズより、十ばかり年上のように見てとれる。


 その青年は、ぱしゃり、ぱしゃりとルイズの潜む小船ボートの隣まで、水面みなもを歩いてきた。



「泣いているのかい? ルイズ」



 聞き覚えのある声に、身を起こす。


 視界に映るその面持ちは、黒くつばの広い羽根突き帽子に目元が隠されていたものの、それが誰かはすぐに解した。


 ラ・ヴァリエール領のお隣の領地を相続した年若い貴族。


 晩餐会をよく共にした、ルイズの憧れの男性。



「子爵さま、いらしてたの?」



 慌ててルイズは涙に濡れた頬を両手で隠した。

 憧れの人にみっともないところを見られてしまい、かーっと顔面に血が上ってくる。


「今日はきみのお父上に呼ばれたのさ。あの"約束"のことでね」

「まあ!」


 ルイズは心配になるくらい顔を赤に染め、とうとう俯うつむいてしまった。


 父と彼との間で交わされた約束は、ルイズにとっては嬉しくも、くすぐったくて恥ずかしい、そんな大事な約束であった。



「いけない人ですわ、子爵さまは……」

「ルイズ。ぼくの、小さなルイズ。きみは、ぼくのことが嫌いかい?」


 おどけた調子で、子爵が応えた。

 ふるふると、慌ててルイズは首を振るう。


「いえ! そんなことはありませんわ。
 でも……、わたし、まだ小さいし、よくわかりません」


 子爵の帽子から覗く口もとが、ふっと緩んだ。

 つられて笑顔になったルイズに、そっと手が差し伸べられる。



「あ……、子爵さま……」

「愛しい人よミ・レィディ、手を貸してあげよう。
 ほら、つかまって。もうじき、晩餐会が始まってしまうよ?」


 ルイズの顔が、俄にわかに曇った。


「でも……」

「なんだ、また怒られたのかい?

 大丈夫だよ、ぼくからお父上にとりなしてあげるから」


 いつの間にか岸辺へと回り込んでいた子爵に差し伸べられた大きな手を、ルイズはそっと握る。



 そよぐ風に吹かれて、子爵の帽子が軽く跳ね上がった。

 つばの下から現れた、柔らかい光を湛たたえる瞳を見て、ルイズは――





















「――子爵、さま」



 穏やかな朝の陽光差し込む自室のベッドで、薄く目を開き呟いた。















Fate/vacant Zero

第十一章 乳姉妹ちきょうだいたちの憂鬱







「……ん?」



 ぴちゃぴちゃと頬を撫でる、熱いような涼しいような湿り気に、才人は目覚めをうながされた。



「んぁ? 起きたんか、相棒?」

「結構早起きだな、坊主」



 傍らからは聞き覚えのある中性的な声テナーと低い声バリトンが届き、それが自分の武器と借りモノの声だったことを思い出す。

 瞼の裏で感じる淡い赤は意識に朝が来たと伝え、頬どころか全身を煽あおる風は、昨夜自分が屋上に出たまま眠ってしまったことを示していた。


 ごしごしとまぶたを擦り、大欠伸を一つして、目をゆっくり開き。



「うをッ!?」



 赤い鱗とつぶらな紅い瞳がどアップで迫っていたのに派手にびびった。

 まあ、才人の声で鱗と眼の主もビクリとあとずさったが。



「あ……、フレイムか」


 距離が離れ、後ろに反り返って引っくり返ったその姿を認識し、ようやくそれがキュルケが貸してくれた火蜥蜴サラマンダーであることに気付いた。

 あと、目を開ける前に頬に感じた感触がフレイムの口元でちろちろと動いている舌であることも直感で理解した。


「わりぃ、驚かせちまったな。ありがとよ、あっためてくれて」


 きゅる、と一鳴きされた。

 気にするなということらしい。そう思っておく。


 それから昨夜立て掛けた姿のままの二振りにも朝の挨拶をかます。



「デルフ、シェル。おはよう」

「おはよー。いやぁ、相棒よくこんな風の強いとこで寝れたな。それも座ったままで」

「おはようさん。意外と野戦向きな体質してんなぁ、坊主。自由に操れねえのが惜しいったらねえや」


 二振りは感心したようにそう言った。


 シェルの呟きが物騒なことに突っ込んだら負けかなと思っている。

 はあ、と溜め息をつき、デルフを背負い、シェルを片手に持ち、フレイムを促して、取り急いでルイズの部屋へと向かった。







 ルイズの部屋前に着くまでは「はやくルイズを起こさねえと」っていう意思が頭を覆っていたので、部屋に鍵が掛かっているのを完璧に忘れていた。


 どうやら、日課や習慣というやつには恐ろしい魔力が篭っているようだ。

 なんせ、半ば無意識だからな。



 キュルケの部屋に戻っていくフレイムに手を振り、とりあえずルイズの部屋の戸をノックしてみる。


 1回。反応なし。


 2回。反応なし。


 3回。「だれ?」と返事が聞こえた。



「俺だよ」



 かちゃ、と音がして、制服に着替えたルイズが扉を開けて出迎えてくれた。


「なんだ、あんたか。どこほっつき歩いてたのよ? ……まさか、キュルケの部屋じゃないでしょうね」


 それこそまさかだ。

 っていうかひでぇ言い草だな。



「ちげぇよ。お前が鍵かけてて部屋に入れなかったんじゃねえか。お蔭で昨夜はフレイムとデルフとシェルとで屋上で雑魚寝だ」


 う、とルイズが申し訳なさげな顔になって、一歩引いた。



「そ、そうだったわね。まあいいわ、ささ、ほら、はやく食堂に行きましょ。さささ」

 と背中をぐいぐい押してくる。


 まあ、それ自体は別に問題ないんだが。


「まだ早すぎるんじゃねえか? さっき日が昇ったばっかだぞ?」


 いいから、と妙に慌てたルイズの様子に、これは反論するだけ無駄か、と二週間あまりの間で培つちかった才人の直感は告げていた。



「ところで、シェルって誰よ?」


 ああ、そういやルイズはまだ名前知らなかったんだっけ、と思い出した。

 タバサから借りたナイフの名前だよ、と教えてやると、なんかいきなり不機嫌になった。


 なんでだろうね?



 まあ、それから小人形たちアルヴィーズの食堂に赴いて、一番乗りだったり、サラダとスープの素朴すぎる味わいが懐かしく思えたり、たまたま近くに座ってたタバサにシェルを返却したり、食後の掃除と洗濯をデルフに茶化されたり、実験で試し切りしてみた錆びまくりのはずのデルフの切れ味が妙によくて驚いたりしたが、まあよくあるいつもの一日だった。



 その昼下がりまでは。









 いつものように厨房を訪れ、
 いつものようにシエスタから賄い食のシチューを恵んでもらい、
 いつものように授業に参加するためにルイズにくっついて『風』の塔の教室を訪れた才人は、
 いつもとは違う何かを感じて辺りを見回した。

 いつもと変わらない『風』の教室、いつもとなんら変わることのない顔ぶれ。

 いつもと違っていたのは、その視線の多くが才人の方に向けられていたことである。


 どの視線も妙な真剣味を過分に含んでおり、才人は針の筵に座らされるようにビクビクしながらルイズの隣の席に着いた。

 いったいなんなんだ? 俺が何かしたか!?

 才人は内心でそう叫んでいたが、ある意味彼が何かしたと言えなくもなかったりする。



 その理由は午前の授業が始まる少し前、いつものようにキュルケがルイズをからかったときのことだ。


 いつもの調子で機嫌の悪さをからかわれた際、うっかりその理由、才人が魔法を使ったことを洩らしてしまったのである。

 その上、それをキュルケが皆の前で肯定したのだ。


 ただの平民が魔法を使ったなど、俄かには信じられない。

 信じられないが、ルイズだけならまだしも、キュルケまでもがそれを見たという。

 それらが強い警戒と猜疑心となり、視線に混じっていま才人を突き刺している。



 要は才人が本当に平民なのかが判らなくなったので、それを見極めようということである。


 非常に胃に悪い視線の群れはそれから5分後、ミスタ・ギトーが教室を訪れるまで続いた。


 彼が教室を訪れた時、才人には漆黒のマントを羽織ったその姿に、後光がかぶさって見えたという。

 黒い長髪を揺らめかせながら教卓へと下りていくその後ろ姿は聖者のようでさえあったとか。


 それはあくまで才人の視点であり、他の生徒たちにとってはいつもどおりの、冷たく不気味な気配を放つ、怖い教師の姿でしかなかったのだが。



 ギトーは教卓に着くと、静かになった教室をざっと眺め回して生徒の頭数を数える。

 確かに全員揃っていることを確認して、一声を放った。



「では、これより授業を始める。諸君。私が以前、『風』こそが最強の系統であると講義したことは覚えているかね?」

「ええ、覚えていますわ、ミスタ・ギトー。あたくしの炎を、あっさりと散らしてくれましたわね」


 キュルケが嫌味ったらしく吐き捨てた。


 前の流水ラーグの日の講義のことを、根に持っているらしい。

 まあギトーはそれに気付かなかったかのように普通に話を続けたので、効果は無いようだが。



「そう、『風』は全てを薙ぎ払う。
 『火』も、『水』も、『土』も、『風』の前では在ることすら許されない。
 目に見えぬ『風』は、目に見える全ての物から諸君らを守る盾となり、必要と在らば敵を吹き飛ばす矛となる。

 ――ここまでは、前回にも話した通りだ」


 こくりと、何人かの生徒に合わせて才人が頷いた。

 フーケの土人形ゴーレムに使った魔法でまともに成功したのが『風』だったためか、いつもに増してその眼差しは真剣さをおびている。



「今日はまず、風が最強たるもう一つの所以ゆえんを教えておく。
 この魔法を適切に放つには最低でも『トライアングル』クラスの実力が必要であるため、諸君らの多くにはまだ早い代物ではあるが――これより、実演いたそう」


 どうもいちいち突っかかる物言いだが、才人は今は好奇心に支配されているので、そんなことはどうでもよかった。

 ギトーが杖を立て、呪文を詠唱し始める。



「Impreo, 満たしimpreo, 満たせBeorc 産まれよUr力――」



 低い声バリトンを朗々と紡ぎ、呪文を詠う。

 杖を持ち上げ、いざ魔法を発動させる為の一節を唱えようとしたとき。


 ガラッと突然扉が開き、なにやら緊張した様子のコルベールが乱入してきた。

 何事かとそちらを見てみると、彼はどこか普段と違ったなりをしていた。


 いつもの質素なローブではなく、大きな炎の刺繍や、波打つレースの飾りが胸の辺りで踊ったものを着ている。



「……ミスタ?」


 ギトーが怪訝な声を上げ、振り上げた杖を手と共に下ろす。

 集めていた魔力は、既に霧散していた。



「ミスタ・ギトー! 失礼しますぞ!」

「授業中です」


 斬り捨てるように言うギトーだったが、その効果は芳しくなかった。



「いえ。本日の午後の授業は、すべて中止となります!」


 コルベールがそう宣言した途端、教室のいたるところから歓声があがった。

 一部、興味深くギトーの魔法を待っていた生徒以外の声である。


 なお、才人は無論待っていた方だったりする。

 生徒じゃない方が、授業と言うヤツは面白いのかもしれない。



 ともかく、騒がしくなった教室を抑えるように両手を振り、後ろ手で手を組んで、コルベールは言葉を続けた。



「えー、皆さんにお知らせですぞ。本日はこの学院にとって、始祖ブリミルの降臨祭に並ぶ、めでたき日であります」


 コルベールが、もったいぶった調子でのけぞる。



「恐れ多くも、先の陛下の忘れ形見、我がトリステインがハルケギニアに誇る一輪の可憐な花、アンリエッタ姫殿下が、ゲルマニアご訪問よりのお帰りに、本日この魔法学院にご行幸なされます」


 どよっと教室中に緊張と動揺が奔った。

 よく分かっていない才人は、隣に座るルイズに何事かと尋ねている。



「よって、本日は粗相があってはなりません。
 急なことではありますが、今から全力を挙げて歓迎式典の準備を行います。
 そのため、本日の午後の授業は中止。生徒諸君は正装し、一時間以内に門に整列するように」


 生徒たちは、一斉に肯定の意を返した。

 その表情の多くは、緊張と興奮に包まれている。

 コルベールはうんうんと頷くと、念を押すように強く言った。


 なお、才人は生徒ではないので頷いてはいない。

 そもそも正装もないし。



「諸君らが立派な貴族へと成長していることを、姫殿下にお見せする絶好の機会ですぞ!
 御覚えがよろしくなるよう、しっかりと杖は磨いておきなさい。
 ――よろしいですかな?」







 魔法学院に続く街道を静々と進む、一台の馬車があった。

 御者台の隅には金の冠ティアラが嵌められ、馬車には金に縁取られた銀や白金プラチナのレリーフが前後左右に二つずつ掛けられている。

 その半分、銀のものはトリステイン王家の一員たることを示す紋章。

 そしてもう半分、聖獣ユニコーンとなにかの結晶が先端に飾られた杖の組み合わせられた紋章は、この馬車の主が王女であることを示すものである。


 見れば、この馬車を引いているのもただの馬ではなく、額から一本の捩れた角を生やした青いたてがみの白馬、『ユニコーン』であった。

 無垢なる乙女しかその背に乗せないそのユニコーンは、王女の愛馬でもある。

 王女を象徴するのにこれ以上の逸材はない、といわれるほどの駿馬だった。


 馬車の窓には純白のレースのカーテンが引かれ、外から中の様子は窺うかがい知ることが出来なくなっている。



 そんな王女の馬車に続くは、先帝亡き今、トリステインの政治を一手に握っているマザリーニ枢機卿の馬車である。

 その馬車も、王女の馬車に負けず劣らずの立派さがあった。

 いや、精悍さで言えばこちらの方が上かもしれない。

 この風格の差が、いまトリステインの権力を握る者が誰であるのかを雄弁に物語っていた。



 その荷台の馬車の四方を固めるのは王室直属の近衛隊、魔法衛士隊の精鋭たちである。

 名門貴族の子弟で構成された魔法衛士隊は、国中の貴族の憧れとなっていた。

 男の貴族は誰もが魔法衛士隊の漆黒のマントを羽織ることを望み、女の貴族はその花嫁となることを望む。

 いまの御世における、トリステインの華やかさの象徴と言えるだろう。



 一行が行く街道沿いは花々が咲き乱れ、居並ぶ平民たちの歓声に埋め尽くされていた。


 特に平民たちの熱気には凄いものがあり、馬車が目の前を通り過ぎるたび、「トリステイン万歳! アンリエッタ姫殿下万歳!」の声が地平まで響き渡る。


 時たまに「マザリーニ枢機卿万歳!」という声も混じったが、姫殿下への歓声に比べればかなりの少数である。

 また、その多くはしわがれた声だ。


 片親が平民であるとの噂があるマザリーニ枢機卿だが、何故だか平民からの、特に若い層の支持は薄い。

 妬みというヤツはどんな時代にもつきまとう物なのかもしれないが、彼の場合はその容姿も大いに原因となっているかもしれない。


 なにせ彼はまだ四十も半ばだというのに腕の骨がくっきりと浮き上がってしまうほどに痩せ細っており、その髪も髭ひげも真っ白に染まってしまっていた。

 先帝亡き後、その両手にトリステインの内政と外交を持ち続けた激務が、彼の姿を呪いの如く年齢不相応な老人へと変えてしまったのである。

 プライドも美意識も高いトリステインの若い民には、その容姿は到底支持出来るような物ではなかった。

 どんなにその政治手腕が傑出していたとしても、である。


 それに対して、姫殿下の民衆からの人気は凄いものがあった。

 カーテンをそっと開いたうら若い王女が顔を見せるたび、街道の観衆たちの歓声が俄かに高く湧きあがる。

 観衆たちへと優雅に微笑みを投げ掛ける王女の御姿からは、なるほど確かにそれだけの魅力を感じることが出来るのだった。





 とはいえ、その当の王女はカーテンを下ろすと、深く溜め息をついていた。

 馬車の内へと向きなおされたそのすらりとした顔立ちを彩るのは、先ほど観衆たちへと向けられた薔薇のような笑顔ではなく、年に似合わぬ深い苦悩と憂鬱である。


 彼女の御年は、当年とって十七歳。

 薄いブルーの瞳と高い鼻が目を引く、うら若い美女だ。

 街道の観衆たちの歓声にも、咲き乱れる鮮やかな花の彩りにも、彼女の心は惹きつけられず、その細い手は只々先に水晶をつけた杖を弄るばかりである。

 現王家で随一を誇る『水』の魔法使いメイジである彼女は、深い深い恋と政まつりごとの悩みに板挟みにされていた。


 隣に座るマザリーニ枢機卿が、坊主の被るような丸い帽子を直しながらそんな王女を見つめている。

 彼は先ほど、政治の話をするために王女の場所へと移っていた。

 だが王女はため息をつくばかりで、全く要領を得なかった。


 困った顔つきで、マザリーニが話しかける。



「これで本日十三回目ですぞ。殿下」

「なにがですの?」


 きょとん、とアンリエッタはマザリーニへと振り向いた。



「ため息です。王族たる者、むやみに臣下の前でため息などつくものではありませぬ」

「王族ですって! まあ!」


 やや大袈裟に驚いてから、アンリエッタは言葉をつなげる。



「このトリステインの王さまは枢機卿、あなたでしょう?
 今、王都トリスタニアで流行っている小唄はご存知でないの?」


「存じませんな」


 マザリーニはつまらなそうに言った。

 嘘である。


 彼はハルケギニアのことなら……とまでは行かないが、少なくともトリステインのことであれば、鈴葡萄の収穫量から夜盗の数に至るまで、何でも知っている。

 ただ単に都合が悪いというか、その小唄での自分の呼ばれ方が気に食わなかったので黙っているだけであった。



「それなら、聴かせてさしあげますわ。
 『トリステインの王家には、美貌はあっても杖は無し。杖を握るは枢機卿、灰色帽子の鳥の骨』……」


 マザリーニの目が細まった。

 王女の口から『鳥の骨』なぞと平民の陰口が飛び出たため、気分を害したようだ。



「街女が歌うような小唄など、口にしてはなりませぬ」


 今度は、むっとアンリエッタの口元がへの字に歪んだ。



「よいではないですか、小唄ぐらい。わたくしはあなたの言いつけどおり、ゲルマニアの皇帝へと嫁ぐのですから」


 マザリーニもまた口をへの字に結び、反論をする。



「仕方がありませぬ。ゲルマニアとの同盟は、トリステインにとって目下の急務なのです」

「そのぐらい、わたくしだって知っています」


「殿下とてご存知でしょう?
 かの『白の国アルビオン』の阿呆どもが煽動している『革命』とやらを。

 きゃつらはハルケギニアに王権が存在するのが、どうにも我慢ならないらしい」


 アンリエッタは、自分がいま向かえている境遇の元凶どもを思い浮かべ、激昂した。



「礼儀知らずの極みです! あの人たちは、可哀想な王様を捕まえて縛り首にしようというのですよ!
 この世全ての人々があの愚かな行為を赦したとしても、わたくしと始祖ブリミルは赦しませんわ。ええ、赦しませんとも!」


「はい。しかしながらアルビオンの貴族どもは強力です。
 アルビオン王家は、明日にでも潰えてしまうでしょう。

 始祖ブリミルの遺せし三本の王杖の一本が、これで喪われるわけですな。
 まあ内憂を払えぬような王家では、存在している価値があるとも思えませぬが」


 アンリエッタが、流麗な眉を顰めてマザリーニを見つめる。



「アルビオン王家の人々はゲルマニアのような成り上がりではなく、わたくしたちの親戚なのですよ?
 いくらあなたが枢機卿といえども、そのような言い草は許しません」


「これは失礼しました。今夜床に着く前に、始祖ブリミルの御前にて懺悔することにいたします。
 しかしながら、全て現実のことですぞ? 殿下」


 アンリエッタは、悲しそうに顔を伏せた。

 その様子はどこか儚げで、並みの男なら声を掛けることも躊躇ってしまいそうだ。


 まあ、枢機卿は手馴れたものであるので、躊躇うことなく重々しく現状の国勢を告げた。



「伝え聞いたところによると、あの馬鹿げた貴族どもはハルケギニアを統一するなどと夢物語を吹聴しておるようでしてな。
 となれば、自分たちの王を亡き者にした後は、あやつらの矛先はこのトリステインへと向けられるでしょう。そうなってからでは遅いのです」


 アンリエッタは、つまらなそうに窓の外を見つめている。



「常に先を読み、常に先の手を打たねばならぬのが政治なのです、殿下。
 例え相手が宿敵のゲルマニアであろうとも手を結び、一刻でも早く近い内に成立するであろうアルビオンの反王権政府に対抗せねば、この小国トリステインは生き残れぬのです」


 アンリエッタが未だ年若いからとて、それぐらいの道理は分かっている。

 分かっていても、恋心という奴は抑えられるものではないのだ。


 ため息をつくばかりのアンリエッタを横目に、マザリーニは窓のカーテンをずらす。

 するとその窓の向こうには、一人の腹心の部下の姿があった。



 羽帽子に長い口ひげが凛々しい、精悍な顔立ちの若い貴族である。


 黒いマントの胸には、とある幻獣を象った刺繍が施されていた。

 彼の騎乗する幻獣を象ったものだ。

 金色の鷲の頭と一対の翼と前足、真白い獅子の胴体と後ろ足、尾。

 獅鷲グリフォンである。


 彼はトリステイン三つの魔法衛士隊が一つ、獅鷲グリフォン隊隊長のワルド子爵である。

 彼の率いる獅鷲グリフォン隊は、三つの衛士隊の中で最も枢機卿の覚えがよい隊であった。



「お呼びでございますか? 猊下げいか」


 カーテンの間から己を見られていることに気付いたワルドは、馬車の窓へと騎乗した獅鷲グリフォンを寄せて尋ねた。



「ワルド君。殿下のご機嫌が麗しゅうなくてな。なにか気晴らしになるものを見つけてきてくれないかね?」

「かしこまりました」


 ワルドは頷くと、街道を鷹のような目で見回した。

 才気煥発な彼の眼は、さしたる間もなく目当ての物を見つけた。


 街道の片脇に根ざしたソレに獅鷲グリフォンを駆け寄らせ、腰に差したレイピアのような長い杖を引き抜くと、短くルーンを唱えてそれを振った。

 つむじ風が舞い、ぴぴっとソレ――桃色の小さな花二輪が摘まれ、ワルドの手元へ浮かび上がる。

 ワルドはソレを手に掴むと、再び馬車の傍へと獅鷲グリフォンを走らせ、隣にぴったりとつけた。


 窓から枢機卿へと花を手渡そうとすると、口ひげを弄る枢機卿当人にそれを遮られた。



「隊長、殿下が御おん手ずから受け取ってくださるそうだ」

「光栄にございます」


 ワルドは枢機卿に一礼をすると、馬車の裏手側へと獅鷲グリフォンを回りこませた。


 するすると窓が開き、アンリエッタの右手が伸ばされた。

 うやうやしくその御手に花を受け渡すと、今度は逆の手が差し出された。

 それを見たワルドは感動した面持ちになると、差し出された手を取り、その甲に口付けした。



「お名前は?」


 物憂げな可憐な声が、ワルドへと掛けられる。

 反射的に恭しく頭を下げて、ワルドは返答する。



「殿下をお守りする魔法衛士隊、獅鷲グリフォン隊隊長、ワルド子爵にございます」


「あなたは貴族の鑑かがみのように、立派でございますわね」

「殿下の賤いやしき僕しもべに過ぎませぬ」


 アンリエッタが、ワルドを眩しいものを見るような目で見つめた。



「最近は、そのような物言いをする貴族も随分と少なくなりました。
 祖父が生きていた頃ならば……、ああ、あの偉大なるフィリップの治世には、貴族は押しなべてそのような態度を示したものでしょうに!」


「悲しい時代になったものです、殿下」



「あなたの忠誠には、期待してもよろしいのでしょうか?
 もし、わたくしが困ったときには……」

「そのような際なれば、戦の最中であれ、空の上であれ、何を置いても駆けつける所存にございます」


 アンリエッタは頷き、儚げな笑みを見せた。

 ワルドはそれに応えて一礼すると、馬車より離れて隊列の中へと戻っていった。


 それを見送り、アンリエッタはマザリーニに尋ねる。



「あの貴族は、使えるのですか?」


 マザリーニは重々しく頷き、返答する。



「ワルド子爵。『閃光』と呼ばれる、『スクウェア』にございます。
 かの者に敵う使い手は、『白の国アルビオン』にもそうはおりますまい」


 はて、とアンリエッタが小首を傾げる。



「ワルド……、聞き覚えのある地名ですわね」

「確か、ラ・ヴァリエール公爵領に隣接した領地だったと存じます」

「ラ・ヴァリエール?」


 アンリエッタはその名に引っ掛かりを覚えた。

 とても大事な記憶だったはずだ、と思い返すこと数秒。


 はた、ととある少女の笑顔が浮かんだ。


 そういえば、確かこれから向かう魔法学院には――。



「枢機卿、『土塊』のフーケを捕らえた、貴族の名はご存知?」

「覚えておりませんな」


 にべもない返事に、アンリエッタが怪訝な面持ちになる。



「その者たちに、これから爵位を授けるのでは?」

「『士爵位シュヴァリエ』授与の条件が、この度改正されましてな。従軍経験が必須になりました。
 宿敵ゲルマニアとの同盟が成ろうと成るまいと、アルビオンとは近い内、必ず戦になるでしょう。
 軍務に服する貴族たちの忠誠を、いらぬ嫉妬で失いたくはありませぬ。
 盗賊を捕まえたぐらいで授与するわけにはいかぬのですよ」


「……わたくしの知らないところで、いろんなことが決まっていくのね」


 ぽつりと呟かれたアンリエッタの思いを、マザリーニは切り捨てる。

 まあ、アンリエッタの方としても意図しての発言ではなかったし、今の彼女の思考は、魔法学院に居る、盗賊を捕まえた貴族のことに――、ラ・ヴァリエールの名を持つ者に向けられていたので、何も問題は無かった。


 幼い時をを共に過ごしたその貴族の姿を脳裏に描き、アンリエッタは安堵のため息をついた。

 なんとかなるかもしれない、と。



 マザリーニがそんな王女をまじまじと見つめる。

 今日の王女の様子はどうもおかしいと思い、カマをかけてみることにした。



「殿下。最近、宮廷と一部の貴族の間で、不穏な動きが確認されておりましてな」


 アンリエッタが、ぴくりと身を震わせた。



「どうやら殿下のめでたきご婚礼を蔑ないがしろにして、トリステインとゲルマニアの同盟を阻止しようとする、アルビオンの貴族どもが暗躍しておるようでして」


 つ…、とアンリエッタの額を一筋の汗が伝う。

 それを見咎めたマザリーニは、これは何かあると眉を顰しかめた。



「そのようなものたちに、つけこまれるような隙はありませんな? 殿下」


 自力でなんとか出来るのですか? と。

 届くかどうかは分からないが、そういう意味を裏に込めてマザリーニが問いただす。


 しばしの沈黙が流れたのち、アンリエッタは苦しそうに口を開いた。



「……ありませんわ」


「そのお言葉、信じてよろしいのですな?」

「わたくしは王女です。嘘はつきません」


 そうまで言うのであれば、あとは王女に任せておこう。

 マザリーニがそう思ったとき、アンリエッタは再び沈鬱なため息を吐いていた。



「……十五回目ですぞ。殿下」

「心配事があるものですから。いたしかたありませんわ」


「王族たる者、御心の平穏より、国の平穏を優先するものですぞ」

「わたくしは、常にそうしております」


 十六度目のため息をついたアンリエッタは、先ほど摘まれたばかりの二輪の花をじっと見つめて、寂しそうに呟いた。



「……花はただ咲き誇るのが、幸せなのではなくって? 枢機卿」

「人の手によって摘み取られるのも、また花の幸せと存じます」


 ため息は十七度目に至り、ようやく馬車は魔法学院の姿を遠方に捉えた。







 学院の正門をくぐって王女の一行が現れると、整列した生徒たちは一斉に杖を掲げた。

 ざッ! と小気味よく空気を切る音が幾重にも重なる。


 正門をくぐって正面、本塔の玄関口にはオスマン老が立ち、王女の一行を出迎えている。

 馬車が止まると共に侍従たちがオスマン老の足元まで駆け寄り、緋い絨毯じゅうたんを馬車の扉まで一息で転がし敷き詰めた。



「トリステイン王国王女、アンリエッタ姫殿下のおな――――り――――ッ!」


 呼び出しの騎士の緊張した声が、正門前の広場に響き渡る。

 だが、がちゃりと扉を開いて現れたのは、枢機卿のマザリーニである。


 はぁ、とか、ふん、とか、居並ぶ生徒たちが一斉に落胆のため息をついた。


 が、マザリーニは慣れきっているのか意に介した風も無く馬車の横に立つと、続いて降りてくる王女に手を差し出した。



 その手を取って現れたアンリエッタに、居並ぶ生徒たちからわっと歓声が挙がった。

 これまた一斉に。実に息が揃っている。


 ともかく、王女は薔薇のような微笑みをにっこりと浮かべると、優雅に手を振って絨毯へと降り立った。



 それらの一連の動きを生徒たちの列から少し離れて見ている者が四人ばかり居た。



「あれがトリステインの王女? ふん、あたしの方が美人じゃないの」


 とつまらなそうに呟くキュルケは、隣で地べたに座り込んでいる才人に問いかける。



「ねえ、ダーリンはどっちが綺麗だと思う?」

「んな難しいこと訊くなよ。……っていうか、王女さまって俺らと殆ど年かわらなかったんだな」


 人垣の間から時々ちらりと現れる年若い顔立ちを見て、ぽつりと呟く才人。

 さらりと問いをかわされてむくれたキュルケはスルーして、反対側に座るルイズを見やる。


 石段の一段目に立っているルイズは、真面目な顔をして王女を見つめていた。


 こいつ、黙ってたら本当に可愛いのに、なんで口を開いた途端にああ憎たらしくなるんだろうなぁ。

 ルイズの凛々しい横顔を見つめながら、本人が聞いたら噴火しそうなことを考えていると、そのくっきりとした双眸が、はっと見開かれた。



「……子爵、さま?」


 と呟いたかと思うと、す――――――っとじっくり頬に赤みが差していく。


 その変化が気になって、なんだなんだと立ち上がり、ルイズの視線の先を見据えてみた。



 見たとたん、心に黒いものが憑おりてきた。


 視線の先に居たのは、見事な羽帽子を被り、鷹とライオンをくっつけたような姿のしなやかな幻獣に跨った、凛々しい貴族の姿だった。

 ルイズは、その貴族をぼんやりと眺めていたのである。


 なんだか、気に食わない。


 昨夜は昨夜で寝床から閉め出しやがったし、そもそも昨日は学園長への報告以降、声を聞いた覚えさえなかった。

 俺を蔑ないがしろにしておいて、自分はいい男をじろじろ見つめて頬を染めてやがる。


 ナメてんのか、伝説の使い魔ナメてんのか、魂逐瘴こんちくしょう。



 むかむかした才人は、いいもん、とキュルケの方を振り向いた。

 粗末に扱うんなら、お前の言いつけなんて聞いてやんねぇ、というわけである。



 だったんだが。


 振り返った先のキュルケは、ルイズと同様にぽーっと顔を赤らめて、羽帽子の貴族を見つめていたのだった。



 ああ、そうだったね。

 キュルケってば、惚れっぽいんでしたね……。


 ふふふふふ。



 どんよりと影を背負った才人は、ある意味頼みの綱である、四人目の人物の方を振り向いた。

 その四人目、タバサはと言うと、才人の期待通りに王女もその一行もそれによって巻き起こっている騒動も、まったく意に介したそぶりもなく、いつもどおりに本を読み耽っていた。



「よかった……、お前はいつもと変わらないんだな」


 なんだかほっとして、そう呟いた。


 いや、何が良かったのかは俺自身も知らないんだけど。

 なんとなくそう思っただけだ。


 その呟きが聞こえたのか、タバサは顔を上げ、キュルケを見て、ルイズを見て、才人を指差して一言呟いた。



「三日天下?」

「……ほっといてくれ」


 ぐふ、と安心したところへトドメを刺された才人は、膝からその場に仰向けに崩折れた。







 そんな風に、派手に凹んだ日の夜。

 才人は藁たばねどこに座り込んで、挙動不審な己の主人を見つめていた。


 主人ルイズは唐突にざッと立ち上がっては、数秒で再びベッドに腰掛けなおし、枕を抱えてぼうっとしている。

 もうかれこれ18度目ぐらいだろうか。

 昼間にあの貴族を見てからというもの、ずっとこんな調子なのだ。


 あれからルイズは口一つ開かず、生徒たちが解散してからも身動き一つしなかったので、とりあえずタバサに『空中浮遊レビテーション』を掛けてもらってここまで運び込んだのだが。

 ベッドに座らせてからというもの、ずっとこうやってぱっと立ち上がっては座り、立ち上がっては座りを繰り返している。



 キュルケの方は……、まあ、タバサにエラいことされて正気に返っていた、とだけ言っておく。


 あとは何も言うまい。

 俺は何も知ラナイ。



 今の問題はそっちじゃないしな。

 これでもう何度目になるやら分かったもんじゃないが、ルイズに声を掛けてみる。



「お前、ヘンだぞ」



 ルイズは応えない。


 ぼーっとしている。

 立ち上がって傍へ近づき、目の前で手をひらひらと振ってみる。



 ルイズは応えない。


 視線はあらぬ宙へと向いている。



「ヘンだぞー」


 ルイズの髪をくいくいと引っ張ってみる。

 そのきめ細やかな緩いウェーブの掛かった髪は、軽く引っ張っただけでちぎれそうな錯覚すら覚えさせたが、なかなかどうして頑丈である。

 うん、興味深い。ってちげえだろ俺。



 しばらくそのまま反応を待ったが、やはりルイズは応えない。

 痛覚無くなってるんじゃねえか、と少し不安になった。

 いやな予感に駆られ、なんとなく頬をぎゅーっと引っ張ってみる。



 ルイズは応えない。


 大丈夫か? コイツ。



「お着替えの時間です」


 痛みがダメなら羞恥はどうよ、という選択をしてみた。


 恭しくルイズに一礼をすると、ブラウスの襟に手を掛ける。

 そのまますっ、すっと下っていき、ボタンを外す。

 全てのボタンを外し終え、袖から腕を抜いて、ルイズはキャミソール姿になった。



 それでもルイズは応えない。


 夢でも見ているような表情のまま、顔色一つ変えずにルイズは座ったままだ。



 つまらねえ。

 なんだこいつ。



 はあ、とため息をついて才人は巣に戻ろうとした。


 あまりにも無反応すぎて、純粋に興味を失ったらしい。

 この辺りはキュルケに通ずるものがあるようだ。



 よいせ、と巣に腰を下ろしたとたん、ドアがノックされた。

 誰だ? と才人は再び立ち上がった。


 規則正しくノックは繰り返されている。

 たん、たん、たんたんたん。長く二度、繋げて三度。


 誰かはわからんがルイズはアレだし、一応出てみようかと腰を浮かしかけて。

 何故かルイズが復活しているのに気付いた。



 視界の隅、いそいそとブラウスを着込んで立ち上がっている。

 もしやあの貴族のヤローか、と何とはなしにデルフの柄に手を掛け、ルイズが扉を開くのを待つ。


 はたして扉の向こうに待っていたのは、真っ黒な頭巾フードをすっぽりと被った、一人の少女だった。

 わずかにルイズより背が高く見えるその少女は、辺りを窺うように首を回すと、そそくさと部屋に入って後ろ手に扉を閉めた。



「あなたは……」


 目を見開いたルイズが呟こうとすると、少女は口元に人指し指を立てた。

 知り合いなのか? と見るからに怪しいその少女を訝しんでいると、少女は頭巾フードと同じ黒いマントの隙間から短い杖を取り出し、さっと振った。


 杖の先から振り撒かれる緑色の光の粉が、部屋中に拡散していく。



「……『探査サーチ』?」

「どこに耳や目が光っているか、わかりませんからね」


 その光の粉が消えた頃、一頷きした少女が頭巾フードを外した。



「やはり、姫殿下!」


 叫んだルイズが、忘れていたと言わんばかりの速さで膝を着いた。

 その少女の顔は、遠目だったとはいえど見紛う事なき、昼に学院を訪れた王女さまのものだった。



「お久しぶりね、ルイズ・フランソワーズ」



 才人はどう反応していいものかもわからず、デルフの柄に手を掛けたまま、扉の脇で固まっていた。






 
ページ上へ戻る
ツイートする
 

全て感想を見る:感想一覧