ソードアート・オンライン‐黒の幻影‐
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離れた場所にて:あしあと
《片翼の戦乙女》のギルドホームから外へ向かうグリセルダに続いて、ヒヨリも主街区へ抜け出した。これから明かされるのはどんな話なのだろう。幼馴染との関係が崩壊してしまいそうで、今までのように踏み込むことの出来なかったヒヨリにとって、千載一遇の機会と言えども唐突過ぎて尻込みする姿勢の方が勝ってしまう。そんなことも露知らずと、もうその全員が友人である戦乙女の面々は明るい声で挨拶をしてくれる。内面にじくじくと滲む陰鬱な気分と、それでも自分のことなどお構いなしに日常に生きる友人と、そのギャップに精神が摩耗するなど考えたこともなかったヒヨリにとっては感じるはずさえなかった苦痛であったのだから。
そんな痛みに泣きそうになりながら歩いていると、グリセルダは唐突に足を止める。主街区の中央である転移門広場まで到達していることに気付くと同時、グリセルダは振り向いてヒヨリに話す。
「これから、私とスレイド君がずっと秘密にしてきたことを教えてあげる。嫌なら今からギルドホームに一緒に帰ってもいいよ。……どっちがいいかな?」
温かな優しい声で告げられたのは、最後通牒のような質問だった。
この問いに頷けば、きっと真実を知ることが出来るだろう。でも、内容如何では幼馴染に変わらず接していられるという確証が今の自分にはないこともヒヨリは理解していた。しかし、このまま尻込みに任せてしまえば、幼馴染との関係はほどなく風化してしまう。今朝方、自ら打ち込んだ楔は確実にお互いを繋ぐ痩せ細った絆に亀裂を走らせたに違いないのだから。畢竟、どちらに転んだにしても苦難は免れない。これまでだって、もしかしたら改善させられるような選択肢だって選び取れたはずなのに、それら全てを迂回してきたのだから恨み言など言えるわけもない。全て理解している。だから、答えは自ずと決まっていた。
「嫌じゃない、わけじゃないけど………でも、このままでいるのは絶対にやだ。燐ちゃんだけ苦しんでるのを、もう知らないふりしていたくない」
そう、自覚はあったのだ。
自分に負担を掛けないように、影日向に駆け回ってくれていた幼馴染に感謝していた。しかし、自分達は決して日々を楽観して暮らせるような状況でもなかったのだ。街という安全圏から一歩踏み出せば死のリスクは他のプレイヤーと同様に自らにも課せられる。ただのゲームのつもりだったのに、HPという割り振られた数字を失えば即座に死亡してしまう理不尽な環境で、常に自分を守るように立ち回って、呆れながらもわがままにだって付き合ってくれた。だからこそ、ヒヨリは今もなお幼馴染を苛む原因と向き合うことにした。
まだ不安の色が強く表れているヒヨリを見遣り、それでも折れずに真実を知ろうとする意志を確かめて、グリセルダは穏やかに笑みを浮かべた。
「よし。じゃあ、これから私が住んでた街に行こっか」
迷子にならないようにとヒヨリの手を取ったグリセルダは、転移門に行き先の階層と主街区名を唱える。
第十九層主街区、ラーベルグ。ヒヨリはかつてそこで迷子になった記憶を想起しつつ、グリセルダに引かれるように転移する。視界が光に覆われて、何度経験しても慣れない眩しさに解放されてようやく瞼を開くと、NPCを含めて人通りの乏しい寂しげな街並みが目に映る。そういえば、プレイヤーさえ足早に過ぎ去ってしまうこの風景が何だか苦手だったと思い出してしまう。誰もが通り過ぎるだけの街に住んでいたと言っていたグリセルダの言を重ねて思い出しながら、ヒヨリは今もなお手を繋いでいる案内人の顔を見上げると、グリセルダはふと足を止めた。その視線を追って見ると、ひっそりとした場所にカフェが佇んでいた。どこか見覚えのある外観をぼーっと眺めていると、再びグリセルダはヒヨリに問いかけた。
「あ、ここ知ってる? 多分この街で一番おいしいお店なんだけど」
あっ、と、ヒヨリは小さく声を漏らしていた。
この街に来て二日目のことだ。迷子になってしまったヒヨリとティルネルは幼馴染と合流するべくこの街を彷徨い、紆余曲折を経て数時間を要し、ようやく見つけてもらったという保護者泣かせのエピソードを思い出す。幼馴染が道からではなく建物の屋根から飛び降りてきたのを思い出すと、その形振り構わぬ捜索の様相にはやはり心配を掛けてしまったのだろう。方々駆けずり回って、本来ならば息など切れる筈のないアバターが肩で息をしている姿は精神的な過負荷からくる心労に他ならない。それでも叱ることなく、呆れたような溜め息を零しながら、すっかり日も傾いた時分に遅い昼食をとるべく入店したのが、今まさに眼前にある店なのだ。更に言うならば、ちょうどグリセルダと立っているこの場所こそ迷子であったヒヨリが発見された地点でもある。
ふとした偶然で懐かしい思い出に触れ、ヒヨリはグリセルダに頷いて答える。
「そっか。じゃあ、入ろっか」
ヒヨリの記憶に触れることもないままグリセルダの提案に従い、先に入店する彼女を追ってヒヨリも店のドアをくぐった。
主街区全体と同じく店内には人の気配はない。退屈そうにカウンターに座って頬杖を突いていた店主は、来店した客に言葉を掛けることなく立ち上がって厨房へと去っていく。以前にも増してNPC店主のモチベーションが低下しているような懸念じみた不安を拭いながら、二人は手近なテーブルに腰掛ける。
伽藍洞の店内は、奥から食器の擦れる音が時折鳴る程度で、それがむしろ声のない静けさを際立たせた。グリセルダは無言のままで、ヒヨリは何を聞くべきか整理がつかないまま視線を伏しがちに落としてしまう。なおも続く沈黙に助け舟を出すように、いつもの積極的な姿を潜めた目の前の少女を見据えながらグリセルダは口を開いた。
「私ね、この街に住んでた頃に小さなギルドのリーダーだったんだ」
今はみんなバラバラになっちゃったけどね。と、苦笑交じりの注釈を加える。
それは、これまでヒヨリはおろか戦乙女の大多数さえ知らなかったであろう彼女の過去だった。
というのも、片翼の戦乙女に加入する女性プレイヤーは何かしら他人に話せない暗部を秘めている。そのことは他者の機微を直感的に察するヒヨリからすれば勘付くのは造作もなかったが、そこから先に踏み込むようなことは決してなかった。これは本来ならば初対面の相手のパーソナルスペースさえ易々と踏み越える彼女の在り方からすれば、本来在り得ないようなことだったのだ。
しかし、戦乙女に加わる彼女達の暗い部分。他者に話したがらない秘密は総じて深い傷を伴うものばかりだ。自分達に設定されたHPのゲージが全損してしまえば現実の肉体さえ絶命する。呆気なく、簡単に、誰かが死んでしまう。この瞬間にだってどこかの誰かが。或いは、自分の友達である誰かの大切な人が失われているかもしれないし、今後そうなってしまうことだって多いにあり得る。そんな死という概念と近い距離に身を置いたからこそ、一歩距離を置くというスタンスがヒヨリの中に生じたのである。故にこそ、ヒヨリはいつしか初対面の他人に余程の理由がない限り深入りすることは避けるようになった。相手から話してくれる機会を待つ受動的な性格へ徐々に変質していった。
そのことについて、本人も、当然のことながら幼馴染もまだ気づいていないのだが。
「そのギルドには私の旦那もいてね。そばに大切な人がいるってだけで安心できて、いつかここから抜け出せるようにって少しずつだけど頑張れたんだ」
「グリセルダさん結婚してたの!?」
「うん。リアルでも、こっちでも。まだ結婚式はしてないけどね」
まるでさっきまでの暗い表情が吹き飛ばされたように、突然素っ頓狂な声で驚くヒヨリに思わず笑いが込み上げるのを堪え、グリセルダ努めて穏やかに答える。
あの時、自分の恩人と朝食を摂ったテーブルで、彼が座った席にいる彼女の飽きさせない反応に期待しながら、それでも目的を見失わないように注意を払いながら、グリセルダは選んだ文脈を言葉にする。
「でもね、私がちゃんと夫と話せていなかったから、心からそばにいてあげられなかったから、私だけがクーネちゃんのところにいるの」
「………ケンカ、しちゃったの?」
先程のどこか喜色の入り混じった驚きの声から一転して、不安そうな声に逆戻りする。
だが、自分を気遣っている彼女の優しさからくるものだ。同時に、それをまだ我が身に置き換えられていない危機感の希薄な状態だ。それを察し、グリセルダはやや気の重い選択をすることにした。
「ケンカじゃないよ。私ってこんな性格だから、自分だけ張り切っちゃってたから普段はむしろ気を遣わせちゃってたくらい。………だから夫は私を殺そうとしたんだと思う」
「………え?」
戸惑いから言葉を失ったヒヨリをそのままに、グリセルダは話を続けた。
「このゲームを始める前はね、私は夫の前で性格を偽ってたんだ。穏やかで、大人しくて、物腰の柔らかい性格で、お姫様みたいな人間をゲームの中で知り合った現実の彼の前でまで演じちゃったのよ。いつの間にか自分も疲れちゃってたのかな。そんなときにこのゲームに閉じ込められて、非常時にかこつけて演技をやめちゃってた。………そんなの、当然あの人からしたら驚くわよね」
それらの情報はヒヨリの脳内で洪水のように流れ込み、渦のように幾度となく繰り返し往来する。
何気ないように語られた言葉が、ヒヨリには余りにも重かったのだ。誰かの死を認識する。それ自体は決してヒヨリも覚悟していなかったわけではない。誰かがどこかで命を落とす。このSAOというゲームの中で剣を執る誰しもが背負うリスクを自覚していなかったわけではない。こんなにも身近な誰かが悪意によって命を落としかねない危機に瀕した。たったそれだけと大勢は聞き流せるし、話題を逸らすだろう。しかし、ヒヨリの思考を釘付けにするにはそれだけで十分だった。
「だから、ヒヨリちゃんにも一歩踏み出して欲しいんだ。こんな悪いお手本に、なっちゃダメ………って、あの………えっと………?」
失速し、唖然とするグリセルダは、ただ目の前の状況に言葉を失っていた。
ヒヨリがいきなり飛び掛かるように席を立っては瞬く間にがっちりとホールドされてしまったためだ。決して身体的な包容力で敗北したことで言葉を失ったわけでも、圧倒的な大質量が対応し切れないAGI値で迫ったわけで思考が停止したわけではない。ただ、グリセルダの予想以上にヒヨリが《誰かの為に涙を流せる》という誤算が生じたからで、今もなお自分を抱き締める少女の引き攣った呼吸を宥めるようにその背中を撫でる。視界こそ覆われて窺い知れないが、グリセルダには充分過ぎるほど理解出来た。
「………大丈夫だよ、ヒヨリちゃん。今は辛くなんかないよ」
そう、これは既に終わってしまった出来事。
振り返り、誰かに言葉として紐解くことは出来たにしても追体験をさせることは叶わないし、巻き戻して最良の結末へ修正することも当然不可能だ。誰かの傷を察して涙を流せるその善性はきっとかけがえのない美徳なのだろうが、過ぎてしまった事象に対して心を痛めるという行為は何者でもなくヒヨリ自身を苦しめる。それを知っていたからこそ彼は伏せ続けたのだろう。
「私やギルドのみんなを助けてくれて、そして私の旦那にも反省する機会をくれたのは、あなたの幼馴染。たった昨日知り合っただけのおばさんの為に、自分の心が壊れるのも厭わずに駆け付けてくれたんだよ」
だが、《指輪事件》及び《圏内事件》はきっとまだ終わってはいない。
現にこうしてグリセルダの知己である二人が今も苦しんでいて、互いの関係に不和が生じようとしている。ならば当事者として果たさねばならない役目が自ずと発生する。
「だから、今度は私の番。貴方達を、こんなつまらない事件に巻き込むだけ巻き込んで、ただ苦しめておくなんて………」
いや、苦しめてしまうのだろう。
その事実は目の前の少女にとってこの上ない苦悩となることは容易に想像出来る。だが、罪悪感に打ち拉がれるのは顛末を見届けてからでも遅くなどはない。鈍りかけた意思を一蹴して少女に語る。
「このまま放っておくなんて、できないもの」
彼の所業の顛末、その一句目が少女の耳に飛び込んだ。
後書き
ヒヨリちゃん視点、決意回。
ヒヨリちゃんが「聞きたくない」と言ってしまっても、サブストーリーという位置付けなので現状では本筋には影響を及ぼすことはないのですが、それだけでは華がないので茨の道を進んでもらうことにしました。これまで気配の薄かったヒヨリちゃんにも出番を与えないといけないので大事なことなのです。そう、とても大事なのことなのです。
さて、今回の展開で理解された方もいらっしゃるでしょうがグリセルダさんはお話を敢えて現地で聞かせるロードワーク重視な性格をしています。もともと活動的だった性格の反映としてですが、この臨場感はあまり嬉しくない。最終的には殺人現場に連れて行くんですものね。というわけなので、次回のヒヨリちゃん視点は時間軸が若干進んだシーンからのスタートとなるかと思います。
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