幻影想夜
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第三十夜「逃げ水の行方」
秋に入っても尚、残暑の続く九月半ば。
彼女はその真昼の暑さの中、ふと…空を見上げた。
「あっちは涼しそうね…。」
朦朧とした意識の中、空の青が海に見えたのだ。
昨年の今頃は、もう涼しくなっていたと言うのに…この日は三十度を越えていた。残暑なんてものではない…。
見れば、道路のアスファルトさえ暑さに耐えかねているようだ…。
「あ…。」
視線の先…そこに彼女は、この天気にそぐわない水溜まりを見つけた。
彼女は不思議に感じて近付いてみたが…それは彼女が近付くと前へ前へと逃げて行く…まるで生きているかのように…。
「何なの…。」
彼女は何故か、その正体を無性に知りたくなり、朦朧としながらもそれを追い掛けた。
どれだけ来たのだろう…ふと気付くと、彼女は駄菓子屋の前に立っていた。
「あ…れ…?こんなお店、あったっけ…?」
不思議に思いながらも、彼女はそこへ入った。
「まだこんなお店あるんだ…。」
懐かしいような小さな店内…そこには駄菓子だけでなく、昔懐かしい玩具…竹とんぼやメンコ、ビー玉、ヨーヨーにスーパーボールなど、所狭しと並べられている。
そんな店内は、彼女に幼き日を思い出させるには十分だった。
彼女が生まれ育ったのは、とある山深い田舎の村。コンビニも無いような村で、小さな商店やこうした駄菓子屋があるだけだった。
彼女は置いてあった小さな買い物カゴを取ると、そこへ駄菓子をあれこれと入れ始めた。
きなこ棒に粉ジュース、ねり飴にマーブルガム、ヨーグルやチョコバー…カゴいっぱいに詰め込むと、レジで居眠りをしているお婆さんの所へと持って行った。
「あの…すいません…。」
そう声を掛けると、ふっと…お婆さんが目を覚ました。
「あぁ…悪いねぇ。つい眠っちまった。どれ…。」
そう言ってカゴの中身を計算し始めた。
「二百四十円だね。」
そう言われて彼女は財布を取り出し、直ぐに五百円玉をお婆さんへと渡した。
「どれ、おまけだよ。持ってきな。」
お釣りを渡してから、お婆さんが出したものは…棒アイス。棒付きアイスではなく、地方で<ポッキンアイス>とも呼ばれている、ビニールの筒にジュースを入れたものをただ、凍らせたものだった。
彼女はそれさえも懐かしく、喜んで「ありがとうございます。」と笑顔で返すと、お婆さんもニッコリと「またおいで。」と返してくれたのだった。
そうして彼女は店から出ると、目の前に…待っていたと言わんばかりに、あの水溜まりがあった。
「今度こそ…。」
そう呟くとや、彼女は水溜まりを追い掛け始めたは良いが、数歩あるくと、途端にねっとりと纏わりつく暑さが辺りを覆った。
ーそういえば…あの店、何で涼しかったんだろう…?ー
思い返せばエアコンもなく、お婆さんの後ろで扇風機が回っていただけだったのだ…。
そんなことを朦朧とする頭で考えながら水溜まりを追っていると、ふと…今度は川のせせらぎが聞こえてきた。
「こんなとこ…あったっけ…?」
いつの間に入り込んだのか…そこは小川のある雑木林の中だった。
「…夢…?」
余りのことに、彼女は呆気にとられた。だが、手には先程買った駄菓子がある…。
「そうだ…溶けちゃう。」
駄菓子を見て、彼女はおまけで貰った棒アイスを思い出した。
取り出して見ると、それはさして溶けていなかった。
彼女は不思議に思いながらも、それの口を歯で噛み切って吸い始めた。
これもまた、昔を思い出す懐かし味…。
彼女はそれを楽しみながら辺りを眺めると、不意に…故郷で遊んだ雑木林を思い出した。
「あ…そうそう、こんな小川のある林で友達と遊んだわ…。」
彼女はアイス片手に、あちこちと林の中を見て回った。そこは涼しく、降り注ぐ蝉時雨さえ心地良く感じた。
しかし、そうしているうちに、彼女は道路へと出てしまった。
そして…再びあの水溜まりを見付けてしまったのであった。
「もう…こうなったら…。」
彼女は意地になり、何としてもその水溜まりを見たくなった。
故に、彼女は凝りもせず追いかける。どこまでもどこまでも…しかし、一向に近付けずにいると、今度は古びた寺の前に立っていた。
「え…ここって…。」
彼女は朦朧とした頭で記憶を辿る。この寺には、完全に見覚えがあるからだ。
だが…それは有り得ない。
それを確かめるべく、彼女は寺の中へと足を進めた。
中へ入ると、どこもかしこも懐かしい…記憶の中の風景に重なった…。
「この銀杏の木…。」
青々と葉を繁らせる大銀杏…。
「ここ…よく鬼ごっこしてた…。」
境内にある小さな公園…。
「あ、ここって…まさ君がひっくり返って…。和尚様、苦笑してまさ君をタオルで拭いてたっけ…。」
不動明王が見守る手水場…。
何故だろう…何故自分がここに居るのか分からないが、彼女は夢中で懐かしい場所を見て回っていた。
暫くすると、不意に後ろから声を掛けられ、彼女は驚いて振り返った。
そこには、年配の男性が立っていた。
「久しいですなぁ…また大きくなられて。」
その男性はこの寺の住職で、彼女も見知った人物であった。
「和尚様…お久しぶりです。」
彼女はそう言って頭を下げると、住職は「ま、お茶でも飲んできなさい。」と言って彼女を中へと上げてくれた。
通された客間も、彼女は覚えている。たった一度、祖母の葬儀の際に使わせてもらっただけだが…。
「待たせましたな。」
お茶を淹れて住職が戻ってきた。
彼女の前に出されたのは、お茶と…水羊羹であった。
その水羊羹は手作りのもので…もう食べることは出来ないと思っていたものだった。
「さぁ、召し上がって下され。」
そう言われるが儘、彼女は水羊羹を一切れ頬張った。
濃い小豆の味と香り、そしてほんのり甘く…これは市販のものでは味わえない。
「本当に…美味しい…。」
彼女は心からそう言った。その言葉に、住職も顔を綻ばさせた。
「それは何より。随分と疲れとる様でしたからなぁ。」
「私…そんなに疲れた顔をしてましたか?」
住職のに、彼女は恥ずかしくなってしまった。
そんな彼女に微笑み、住職は言った。
「ここに辿り着く方々は皆、疲れ切っておられる。私はただ、こうしてささやかに持て成すことしか出来ませんがな。」
「…?」
彼女はここでやっと…これは変だと気が付いた。
何故か、今までは頭に過る程度だったのだが…住職の「辿り着く」と言う言葉に引っ掛かったのだ。
ここは寺だ。中には人生に疲れて参拝する者も訪れよう。
だが、それは<辿り着く>とは違う…。
「和尚様…ここはもしかして…。」
彼女は記憶を振り返り、全てを思い出して問い掛けた。
そう…彼女の故郷は、もうないのだ。ダム湖の底深くに沈んでいるのだから…。
「思い出されましたかな。そう…ここはもう在りはせぬ場所。」
住職はそう答えて茶を啜る。
「では…私はどうしてここに…?」
「いや、簡単なこと。貴女、逃げ水を追ってここへ来られたんですよ。」
「逃げ水…あっ!」
そう、彼女は忘れていたのだ。あの水溜まりは…逃げ水と言う“現象”なのだ。追い掛けたところで、そこに水溜まりなど有りはしない。
どうしてそんなことも忘れていたのか…。
「疲れとったんですよ。ですから、懐かしい場所も通りなさったろ?」
微笑みながらそう言う住職に、彼女は駄菓子屋や雑木林を思い出しながら返した。
「はい…そうだったんですね。ここは…もうあるはずのない私の故郷…。」
「そうなりますかな。どう言う訳か、逃げ水の中にはそういったものがあるらしく、疲弊された方の元へ現れては、懐かしい場所へと誘うらしい。」
彼女はそれがどういう理屈かは分からなかったが、追っていたあの逃げ水に感謝した。
「さて、もう落ち着かれたようだ。余り長居は良くありませんからな。」
住職はそう言うと、彼女の前に小さな風呂敷に包まれたものを差し出して「持って行きなされ。」と言った。
「作り方も入れてあります。どうか元気でやってくだされ。」
住職がそう言ってニッコリと微笑むと、彼女の視界はぼんやりと霞んでゆき…気付けば、あの纏わりつく様な暑さの中に戻っていた…。
辺りを見回すと、そこは彼女の家の庭先…。
「そうだった…私、洗濯物を干していて…。」
そう頭を整理しつつ脇を見ると、そこには袋いっぱいの駄菓子と風呂敷包み…。
彼女は狐につままれた様な気持ちだったが、気になって風呂敷包みを開いた。すると、そこには漆器の箱に入った水羊羹と手紙が入っていた。
手紙を開くと、そこには水羊羹の作り方が細やかに書かれており、終わりには、彼女が寺に来ては水羊羹をねだっていたことが綴られていた。
これは果たして現実なのか、それとも夢なのか…彼女は理解出来ないでいたが、きっとそのどちらともつかない曖昧な世界に行っていたのかも知れない。
漆器の箱を開けると、そこには水羊羹が入っていた。
彼女は今迄の出来事を振り返りながら、その水羊羹を一口頬張った。
「うん…美味しい…。」
もう無い筈の景色…もう会える筈のない人…。
「私は…まだまだ頑張らなきゃなぁ…。」
また疲れた時、きっと…あの逃げ水が現れてくれるに違いない。
追い掛けた先は…懐かしい風景と癒し。
そう思い、彼女は水羊羹をもう一口…頬張った。
end
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