幻影想夜
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第二十九夜「暁月夜」
「風が騒がしい…。」
そう洩らしたのは、藤原定成という中流貴族の男であった。
そこは彼が建てさせた小さな庵で、彼はそこで和歌と琵琶に明け暮れるような…謂わば世捨て人の様な暮らしをしていた。
理由は…先に起きた戦が原因であった。
その戦が終わり、未だ三月と経っていない…。戦場には兵や巻き込まれた民の亡骸が転がり腐臭を放ち、そこに鳥や獣が集まっては腐肉を喰らう…。
「何故…戦などしたのか…。」
彼は考える…しかし、直ぐに思考することを止めた。
所詮、権力による争いなのだ。そこに民が巻き込まれただけの話…。
一度戦が起これば、対する何方かが倒されない限り収まらず、家屋のみならず、大切に作り上げた田畑まで荒らされてしまう。田畑が荒らされれば、当然、作物を収穫出来ずに、民は飢えて餓死する者も出る…。
そんな事さえ考えず、権力者は当たり前の様に戦をしては全てを荒らし回るのだ。
「全く…何と無意味な事か…。」
風向きのせいか、この庵にも死者の匂いが漂ってきている。
これもまた、人の道なのか…それとも、人外の大いなる何かがそう仕向けているのか…。
明けやらぬ
うきし夜に降る
星影も
いずれは消えし
人の道かな
定成は障子戸を開き、暁に掛かる空を見上げてそう詠んだ。
何もかもが無常に思え、自らも無意味ではないかと侘しく思った。
すると、何処からともなく、風に紛れて笛の音が聞こえてきた。
その響きはどこまでも曇りなく、秋虫さえも呼応するかの様に鳴き出した。
彼は暫し、その音色に耳を傾けていたが、ふと…その音色に聞き覚えがあることに気が付いた。
ーまさか…な…。ー
彼はその笛の音に、古くからの親友を思い出していた。だが…もうその音を聞くことも…会うことさえも出来ないのだ。
その親友…在原良樹は、先の戦で命を落としていたのだから。
先の戦では、多くの命が失われたが、良樹は最前線で戦って命を落とした。亡骸は未だ、その戦跡に野ざらしになっている筈である。
死者を集めて埋葬する者など居らず、荼毘に付す時代でもなかった。言うなれば、それが自然だったのである。
定成はそれを思うと居た堪れない気持ちになった。
「武の家であった故に…いや、戦などなければ…。」
また同じ事を考える自分に、定成は嫌気が差してしまった。
そんな堂々巡りに小さな溜め息をつくや、彼は立ち上がって奥から琵琶を持ってきて座った。
彼は未だ響き続ける笛の音に、かつて親友とした様に琵琶を爪弾き始めた。
許されるならば、このひとときだけ…親友が生きているのだと思わせて欲しかったのだ…。
二つの楽の音は優しく重なり、夜と朝との狭間にある空へと溶けてゆく…。
生くることは辛く、侘しく、寂しく…なんと苦痛の多いことか…。
定成はただただ…笛の音に合わせて琵琶を奏でる。そして、親友と過ごしたかの日々を振り返って…涙した…。
ー何を嘆く。ー
ふと…近くでそう声を掛ける者があった。
定成は驚いて演奏を止めて顔を上げると、そこには…親友の良樹が立っていた。
「…お前、生きていたのか…!?」
定成は嬉しさが込み上げ、立ち上がって彼を抱き締めようとしたが…それは叶わなかった。腕は空を切るように…親友の躰を擦り抜けてしまったからだ…。
ー済まん…私はもう死んでいるのだ…。こうして会うのも、本来ならばいかんのだが…お前が余りにも寂しげにしているものだから。ー
目の前の親友は、そう言って苦笑した。
生前と全く変わらない…あんな酷い戦で命を落とし、躯は未だ風雨に晒されていると言うのに…。
それがどうして…自分が余りにも落ち込んでいるからと、無理をして会いに来てくれたのだ。
「そうか…やはり、死んでいたのだな…。全く、こんなにも早く逝く奴があるか!」
定成は涙を堪えて怒った。
仕方の無いことは理解している…。上から命が下れば、それに従わなくばならないのだから…。
だが…言わずには居れなかった。
そんな定成の心を知ってか、良樹は笑みを浮かべて定成…親友へと返した。
ー誰も恨むな。力とて永遠ではないのだ。人の命が永久ではないようにな。だから…自らを卑下するのは止せ。なぁ、我が友よ。ー
そう言うや、良樹の姿はふっと…暁の闇へと消えてしまったのであった…。
定成は力が抜けたかの様に座り、溜め息をついて…もう消えてしまった親友へと言った。
「私は…そんなに心配される様な顔をしていたか…?」
夜になれば
月も名残て
朝ぞくる
うくも流るも
人の道かな
定成の声に答えるかの様に、そう聞こえた様な気がした…。
夜になってしまえば、すぐ朝になってしまうものだ。月さえも名残惜しげに…。浮かぶも流れるも自然の摂理なら、あれこれと憂いても、また全てに身を委ねてもさしてかわらず…それもまた、人の道なのだろうさ。
「全く…良樹、お前らしいなぁ。」
定成はふと…笑みを零した。
彼…良樹は悲しみに暮れてほしくはないのだ。ただ、楽しかった思い出を、色褪せさせないでほしいのだ。
確かに、彼は望まぬ戦で命を落とした。だが、自分はこう生きたのだと…そう言いたかったのかも知れない。
「そうだな…此処で悲しんでいても仕方無し。旅にでも出ようか…。」
定成はそう呟くと、白み始めた空に掛かる有明の月を見つめた…。
end
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