ラジェンドラ戦記~シンドゥラの横着者、パルスを救わんとす
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第三部 原作変容
第二章 汗血公路
第三十四話 断罪聖女
パルス暦321年3月6日、両陣営は王都エクバターナの東、サハルード平原にて対峙した。この戦いに参加した兵力はパルス陣営が約十四万、ルシタニア軍が約二十一万であった。エクバターナを発ったときにはルシタニア軍の総勢は二十五万であったが、2月末にボードワン将軍を含む二万五千を失い、更に逃亡者や脱落者も出たことで、その兵力は当初より減少していたのだった。
残念ながらこの期に及んでもルシタニア軍はパルス陣営の実数を正確には把握していない。ボードワン将軍の率いた兵より多数だったと思われることで約十万と考えられていた。だが、そこにはマルヤムからの援軍を加味してはいない。マルヤム軍の実数については全く把握されておらず、五万から十万と言う声もある一方、「いや、あれは何らかの詭計によってそう見せかけたもので、実はマルヤム兵など一兵もいない」と言う声すらあった。
いずれにしろ、両軍合わせて三十五万もの兵が対峙する中、ただ一騎、パルス陣営の中からルシタニア軍の前に馬を進めてきたものがあった。ひときわ輝く黄金の甲冑を纏った元騎士見習い、エステルであった。
ペシャワールを出立した2月10日以前には、何度か対ルシタニア戦略について話し合いが持たれた。その中でエステルが繰り返し主張したのは、ルシタニア人を余り殺してほしくないと言うことだった。
「確かに我々ルシタニア人こそが侵略者なのだろう。だが、一般の兵士たちはただ上から出征を命じられただけなのだ。同じ神を奉じながら異教徒と馴れ合う背教者のマルヤム王国を滅ぼすことが神の教えに適うことなのだと、パルスこそが神が信徒たちに与えると約束した世界で最も美しく豊かな土地なのだと、そう言われたのだ。それらの言葉に対して一介の兵士たちがどうして疑問を差し挟むことができようか?お主らには残酷で無慈悲な征服者と思えるルシタニア兵とて同じ人間だ。故国に帰れば親も子もいる普通の人間なのだ。なるべく彼らを殺さずに故国に帰してやってはくれないだろうか」
そうエステルは主張した。
「そう言われてもな。戦なのだから戦えばある程度の犠牲が出ることは避けられない。皇帝ギスカールとしても兵の損耗が深刻なものにならない限りはパルスから兵を退くことは考えないでしょう」
余りのエステルの頑なさに頭を抑えながらナルサスは言い、エステルはなおも食い下がる。
「ナルサス卿、お主は約五十万の三カ国連合軍を口先一つで追い返したと聞く。そのときお主は二十万も三十万も敵兵を殺したわけではあるまい。疑心暗鬼に陥れ、これ以上戦えないと思わせたのだろう?そのようなやり方が今回もできないだろうか?」
「そうは言ってもルシタニア軍は三カ国連合軍とは違って、単一の国の軍ですからな。その様な同質性の高い集団を内部分裂に持ち込むなど…」
「いや、いい手があるぞ、ナルサス殿。ルシタニア軍はイアルダボート教という一神教を信じ、己を神の尖兵と自認している。それこそが奴らが自分自身を支える柱な訳だが、それを叩き壊してしまえばいい。そうすればもう奴らは戦うことなど出来なくなる。…そうだな、ではエステル殿、お主にも少し働いてもらおう。お主の望みを叶える為なのだ。まさか、嫌なんて言わないよな?」
「ら、ラジェンドラ殿?お主、一体私に何をさせるつもりなのだ…」
俺はそれから一冊の台本を書き上げ、エステルに渡した。これを戦場でルシタニア軍に向けて話すようにと。一読したエステルは荒唐無稽で支離滅裂だ、こんな話を聞かされて一体誰が信じるのだと頭を抱えたが、諜者たちが説得力が増すような演出を加え、力の誇示も同時に行うから大丈夫だと繰り返し説得し、渋々承諾した。そして、いよいよエステルの出番がやって来たのだ。
「聞け、ルシタニア軍よ!私はイアルダボート神より選ばれし者。神の言葉をルシタニアの人間たちに伝えるよう言付かった者である。我が後ろには常にイアルダボート神がある。これが証拠だ!」
エステルの声は魔道により増幅され、ルシタニア軍全てにあまねく響き渡った。そして、その言葉とともに、エステルの背後に神々しく峻厳な佇まいを持つ巨大な人影が現れた。偶像崇拝を禁ずるイアルダボート教ゆえに、神の絵姿として伝えられるものは存在しないが、聖典の中の記述からこんな感じではないかというものを絵のうまい諜者に描かせたのだ。ちなみにナルサスも描きたいと言うので一応描かせてはみたが、お話にもならなかったのでボツにした。それを魔道を用いてOHPの要領で投影し、エステルの背後に諜者が魔道で塵を舞い上げ、それをスクリーンとしているのだ。
「おお、あれは、あれこそはイアルダボート神!」
と叫び、何人かのルシタニア兵が下馬し、跪いた。実はこの男たちはルシタニア軍中に潜入した諜者でサクラなのだが、勿論そんなこととは周囲の者は全く気付かず、皆それに倣うように次々と馬から降り、跪いていった。
「これよりイアルダボート神の言葉を汝らに伝える!ルシタニア軍よ、私は汝らに失望した。いつ私がマルヤムの民の信仰を誤ったものだと言った。いつ私が他国を侵し、攻め取ることを汝らに命じた。あまつさえ汝らは悪魔の手を借り、平原に霧を呼び、書物を焼くことを止めたものを邪悪な術で始末さえした。もはや汝らは神の子ではない。私、イアルダボート神は西方教会とその教えを利用し、罪なき民たちを虐げる政を行う者どもを破門する!」
「そ、そんな…」
「私たちはただ、聖職者たちの言葉を信じただけでございます!」
「上の命令に従っただけなのに、あんまりだ!」
「私たちはどうすれば許されるのですか?」
ざわめきがルシタニア軍の中に広がるが、それを物ともせずにエステルの声が響き渡る。
「汝らが許されることを望むのならば、即刻この地より立ち去れ。ここは汝らの約束の地に非ず。汝らの約束の地は汝らの祖国だ。そこを汝ら自身のたゆまぬ努力により世界で最も美しく豊かな土地とすること。それこそが私の意思に適うものと知れ!」
腰を浮かしかけた者を押し止めるかのように更にエステルの言葉が続く。
「まだ私の言葉は終わりではない。最後まで聞くが良い。汝らは私を唯一絶対の神と考えたようだが、それは正しくはない。私はこの世界に最後に生まれ、残った神だと言うだけのことだ。先に生まれた神々は私より先に一つ上の世界に旅立たれた。私はその後を任された神であるに過ぎない。故に、他の神々を否定し、それらを信じる者たちを虐げることは私の意思に適わぬ誤った行いだと知れ。私の望みは全ての神の存在を受け入れ、それらを信じるものを排撃するのではなく、相手を尊重し、手を取り合うことである」
「騙されるな!こんなものは偽りだ!あの女は嘘を言っている!グッ…」
「そうだ!我々は忠実なる神々の使徒だ!神の栄光の為に祖国を離れ、万里の道を遠征してきたのだ。我々は神の前に恥じることなど一切ない!ガフッ…」
口々にエステルの言葉を否定した者たちが即座に何処からともなく飛来した矢によって永遠に黙らされた。いや、本当は魔道で姿を隠したラクシュが撃ってるだけなんだがな。
「何、これは弓の悪魔!?」
「何故、弓の悪魔がここに?」
弓の悪魔は異教徒の味方のはず。そんな思いをエステルの言葉が打ち消す。
「静まれ!汝らが勝手に弓の悪魔と呼んでいる者は悪魔の使いに非ず。私が地上に遣わした神の使いだ。名を『破邪聖弓』と言う。我が意を曲解し、他者を虐げたジャン・ボダンは私が破邪聖弓に命じて滅ぼさせた。今、我が意を信じず異を唱えたものも同じだ。私はこの地を、私の前で、全ての神への信仰を認め、開かれた国を創ると誓ったアルスラーンに委ね、私の代弁者たるこの娘をその伴侶として与えることを決めた。この地は汝らではなく、アルスラーンとこの娘が治めるものとする。汝らは祖国に帰り、そこを約束の地とするがいい。以上だ。さあ、私が伝えるべき言葉は全て伝えた。汝らは疾くこのパルスの地から離れるがいい。ここに残る者は全て破邪聖弓か、アルスラーンの兵に討たれることになる!」
エステルの言葉が終わるとともにイアルダボート神の姿が消えた。そしてラクシュの矢が何人ものルシタニア騎士を次々と射抜き、更にアルスラーンの「全軍突撃!」の号令が響いた。パルス陣営の全軍が棒立ちのままのルシタニア軍に襲いかかっていく。
「逃げろ!このままここにいても神の意に背くものとして殺されるだけだ!ルシタニアまで帰るんだ!」
そんな声が不自然に辺りに響くと、それを合図としたかのようにルシタニア軍の兵たちが雪崩を打って逃げ始めた。踏みとどまるようにと叫んだ者はたちどころにしてラクシュの矢に倒された。
ルシタニア軍はここに崩壊した。
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