〈Ep2 大召喚師の遺した少女〉
――人は、心を闇に食われたら、魔物になる――。
「……いったい何で、こんなこと」
リクシアはぽつりとつぶやいた。白の髪が不安げに揺れる。赤の瞳は混乱を湛え、小さなその全身は震えていた。その顔にはどこか、あの大召喚師リュクシオンの面影がある。彼女はリュクシオンの妹だった。彼女は戦争が始まった際に「危険だから」と国外に逃がされた。故に破滅を免れた。
リュクシオン・エルフェゴールは召喚した天使を制御しきれずに暴走させ、あれほど大切に思っていたウィンチェバル王国を破滅させたという。直接その目で見たわけではないけれど。人々から話を聞いて、リクシアはその情報を知った。
リクシアはそれを聞いて、運命のあまりの理不尽さに嘆く。
「おかしいよ……。何で、何で、こうなるの……? 兄さんは、ただ国のためを思って……! こんなの理不尽だよ……!」
リクシア・エルフェゴール。彼女は、あのリュクシオンの妹。 あの日、あの時。ウィンチェバル王国内にいた人々は皆、死に絶えた。リュクシオンの呼びだした天使によって、敵味方の区別なく皆殺しにされた。
国を守るために、神に願って得た力。しかし彼はその力で、国を滅ぼしてしまった。そして、絶望のあまり、心を闇に食われて、魔物と化してしまったのだ。
「こんなの、おかしいよ……」
リクシアの口から言葉が漏れる。
「兄さんは、兄さんはただ、国を守れればそれでよかったのよ! こんなこと誰が望んだの? 誰も望んではいない結末に、最悪の結末にどうしてなるのッ!」
リクシアの両の瞳から流れだしたのは熱い雫。
彼女は思う。理不尽だ、兄に起こったことは、あまりにも理不尽だと。だから、探そうと思った。魔物と化した大切な兄を、元に戻す方法を。
魔物と化した人間は元に戻らない、それがこの世界の法則だ。過去の文献を漁れば元に戻った人間の話もあることにはあるが、それは童話や物語のようになって語られていて、真偽は確かではない。そして歴史書や正確性の高い文献に、そんな話は一切出てこない。魔物と化した人間の話は出てくるにもかかわらず。
リクシアは呟いた。
「魔物は二度と戻らない? そんな法則……なら、私が変えてみせるわ」
心が闇に食われたら魔物になるのならば。心を光で満たしたら、人間に戻れるのだろうか。
「……生き残ったのは私だけじゃないはず。だから、探すわ。探して兄さんの前に連れてきて、言うんだから」
あなたはすべてを滅ぼしたわけじゃない。見てみて、ほら。私たちは、生きているよ――と。
そのためにはまず、情報をもっと集めなければならないなとリクシアは思った。
と。
リクシアの耳は悲鳴を捉える。
「わぁぁああああ! 魔物だ、魔物が来た!」
突如上がった悲鳴に、リクシアははっとなった。光と風の魔導士である彼女は、懐に忍ばせた杖を握りしめる。彼女に召喚師の才こそないが、代わりに彼女はそこそこ優秀な魔導士だった。
やがて彼女は見つけた。街の真ん中で、狂ったように暴れだしている人ならぬ異形を。
「本当は、魔物すべてを元に戻せればいいんだけどっ!」
しかしそもそも方法がないし、もしもそんな方法があったとしても、そこまでの慈愛は持ち合わせがない。彼女は兄を救うだけで精一杯なのだ。魔物化した人間なんて、この世界には限りなくいる。それだけ、人を狂わせる原因は各地に広がっているのだ。この世界はそんな世界だ。
逃げ惑う人々の波をかき分け、リクシアは見た。腕に意識を失った白い少年を抱き、座り込んだまま迫りくる魔物を迎え撃たんとする、鋭い目をした黒い少年を。
全てを救おうなんてリクシアは思わない。それでも、目の前にいる人くらいは救いたいと思った。そのための力だ、そのための魔法だ。
「光よ来たれ、敵を撃て!」
とっさに叫び、放たれる呪文。それは魔物の目を灼いた。
目のくらんだ魔物は怒りの咆哮を上げ、魔法の来た方向にその体の向きを変えて闇雲に突進しようとする。そんな魔物に対して、挑発するようにリクシアは叫んだ。
「あなたの相手はこの私よ! 馳せ来たれ、心の底なる、風の狼!」
続いて唱えられた呪文。どこからともなく、風でできた半透明の狼が現れ、魔物に勢いよくぶつかって押し倒した。
悲鳴。視力を奪われた魔物は必死に抵抗するが。その身体を魔物の爪で牙で裂かれても、風の狼は魔物を攻撃し続けた。そもそも風に実体なんてない。風の狼を倒すには、相手も魔法を使わなければならない。
「彼方を駆けよ!」
叫べば、狼の力が強くなる。
「さぁ、とどめよ! あなたは元は人間だった、それはわかっているけれど……仕方がないでしょ、魔物になっちゃったんだから!」
風が魔物の喉を切り裂き、そして魔物は息絶えた。すると、魔物の遺体は男の遺体に変化する。。
魔物になっても、心が消えても。死んだら元の、人間になる。魔物は最初から魔物だったわけではない。彼らは心を闇に喰われただけで、そうなる前は人間だったのだ。
だから、リクシアは魔物になった人間を殺すことを辛く思う。殺したら、人間だった元の姿が現れる。それを見るとリクシアは、自分が人殺しをしたような、何とも言えない重い罪の意識を感じるのだ。
リクシアは遺体から目を上げた。結果として助けることになった先ほどの少年たちに近づいていく。彼女は優しく声を掛けた。
「大丈夫? どこか、怪我とかない?」
近寄ってみると、黒い少年が足に怪我をしていることがわかった。心配げな彼女に彼は冷静に返す。その声は低めだ。彼は漆黒の髪と赤い目をしていた。歳はリクシアよりも上だろうか。
「……大事ない、この程度。フィオを守るために、動けなかっただけだ」
言って、彼は腕に抱いた白い少年のことを意味ありげに見つめた。フィオというのは、彼が腕に抱いた白い少年のことらしい。
「とりあえず、助かった。オレだけじゃ、フィオを守りながらだと正直きつかったかもな。あんたは魔導士か?」
黒い少年の問いに、ええ、とリクシアは返す。
「はじめまして、私はリクシア・エルフェゴール。光と風の魔法を使うわ。あなたは?」
「アーヴェイ。こっちはフィオルだ。ん? エルフェゴール? 聞いた名前だな……」
リクシアはうなずいた。
「大召喚師、リュクシオン・エルフェゴールのこと、聞いたことある? 私は彼の妹よ。国外にいたから、災厄から逃れられた。国外に逃がされたから、私は今生きていられるの」
アーヴェイと名乗った少年は皮肉げにその口元を歪めた。
「……あの元英雄の妹か」
その口調は、リュクシオンを知っているようだった。
リクシアは訊ねる。
「兄さんをご存知なの?」
「ああ」
アーヴェイと名乗った黒い少年は頷いた。
「オレはウィンチェバルの者ではないが……。ウィンチェバルをふらりと旅した折、一度だけ、力を得る前の奴に会ったことがある。とにかく必死でちっぽけな魔法の才を磨こうとしていて、少しでも国のために、国のためにって……そこには狂気じみた盲信のようなものを感じたが、人となりや印象は悪くなかった」
「そっか……」
それを聞いて、リクシアは複雑な気持ちを抱いた。
リュクシオンはリクシアにとって、優しく格好良いお兄ちゃんだった。リクシアが泣きだせば優しくその頭を撫でてくれ、リクシアが不機嫌な時は根気強くその理由を聞いて原因を解決しようとしてくれた。しかし彼は「国のために」を掲げてそれにひたすら突き進み、滅多に家に帰ってくることはなかった。だからリクシアは兄が好きだけれど、同時に滅多に帰ってこない兄に対して、寂しさのようなものを感じていたのだ。リクシアにとっては国のことなんて正直言ってどうでもよかった。彼女はただ、家族で平和な日々を送りたかっただけなのだ。
そんな彼も、全て報われずに魔物になった。
「アーヴェイ、さん」
「アーヴェイでいい。何だ」
リクシアは、一つ訊いてみた。
「……魔物になった人って、元に戻るって思ってる?」
途端、アーヴェイの表情が一気に暗くなる。リクシアは、彼の触れてはならないものに触れてしまったと知った。
アーヴェイの赤い瞳が地獄を宿して、静かに言う。
「……戻したい人がいる。戻るわけがなくとも、諦められない人がいる」
「…………!」
それは半ば、彼にも魔物となった大切な人がいる、と言ったも同然だった。
魔物になった大切な人がいる。そのつらさ、その悲しさは、魔物となった兄を持つリクシアにはよくわかる。
これはデリケートな話題だった。それと気づかずに、リクシアは土足で踏み込んだ。
この世の中だ、いつ、何があるかはわからない。ほんの些細な理由から、人は魔物になってしまう可能性を秘めている。偶然助けた見知らぬ人間が、魔物になった知り合いや大切な人がいないとは言い切れない。これはリクシアの失言だった。
「ご、ごめんなさい……。あのね、私ね、兄さんをどうしても元に戻したくって」
「戻せるわけがないだろう。今更下らん夢物語をオレに語るな」
その言葉に、リクシアはカチンときた。アーヴェイの全てを切って捨てるような言葉は、彼女にとって、兄が魔物になってからの自分を全否定されたような気がしたからだ。自分の決意を、自分の思いを、自分の挑戦を、何もかも無かったことにされたような気がしたからだ。
「あのさ! 夢物語、夢物語ってさぁ、自分から何もしようとしないで最初から全否定しないでよッ!」
返されたのは、冷静な、あまりに冷静な、言葉。
「ならば聞くが、人間は道具や魔法の助けなしで、空を飛ぶことができるのか? できないだろう。魔物を元に戻せないというのは、人間が空を飛べないのと同じくらい当たり前のこと。そんな下らんことにムキになるなんて人生無駄だぜ。そりゃあ全否定もするだろう」
その声は、どこか彼女を嘲笑うような調子を帯びていた。
「馬鹿にしないでよッ!」
怒ったリクシアの周囲で風が吹く。
「私のこの思いは、決意は、怒りは、全てすべて本物なんだから。だから私はこの世界の法則を変えてみせるわ、それがどんなに傲岸不遜な思い上がりだとしても。だから黙って見ていなさいよね!」
リクシアは、燃える赤の瞳でアーヴェイを睨みつけた。
アーヴェイは呆れた顔をした。その顔の奥には、面白いものでも見るような光がひらめいている。
「何だ、その傲岸不遜な言い方は? 大召喚師の妹だからって、自分が何様だと思っているんだ? その名称も、大召喚師なしでは得られなかったものだろうに。……だがな、面白いじゃないか、大召喚師の妹。オレはあんたの向かう先を見てみたくなった」
アーヴェイは、笑った。おかしそうに、笑った。
「ハ、ハハ、ハハハ! いいじゃないか、やってみろよ、やってみせろよ。変えられるというのならば、法則を変えて見せろ。それができた暁には、ハーティも元に戻るかもしれないしな……」
呟きの中に込められたのは、面白がる調子と一つの願い。
小さく彼はうなずいた。
「オレはやることがなくて暇だった。だからなんだ、折角だから、あんたの夢物語にも付き合ってやろうか、と提案するが、どうだ。その先であんたがもしも魔物を人間に戻すなんて物語を夢ではなく現実にすることができたのならば、それが万人に通用する方法ならば、オレたちの大切な人もきっと元に戻れる。そんな身勝手な理由からだが、オレはあんたの旅について行きたくなった」
リクシアの表情は複雑だ。
「私のすべてを否定した、いけすかない奴って思っているんだけれど……正直、一人きりの旅では不安なことも多いの。私、まるっきりの素人だから」
「それで旅に出ようとしていたのか?」
アーヴェイは本当に呆れてしまったようだった。
「全く、見てられないな。そんなので世界に挑むなんて無謀にもほどがある。そんなわけで同行することになったアーヴェイだ。こっちはフィオル」
アーヴェイは、目を覚まさないフィオルを心配げに見詰めながらもその手を差し出した。
「これからよろしくな」
運命は、回り始める。