気まぐれ短編集
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七夕綺譚
前書き
小説カキコのあるユーザー主催の短編大会、「添へて」に参加した作品。書いたのは7月2日、つまり一番最近の作品。これまで書いてきた短編の中で一番自信がある作品。雰囲気は「Fireworks」に似ていますが、クオリティは過去一番かと。
文字数は1500文字程度と短いですが、美しく仕上げられたのでは、と。
季節感があるので、これは七夕の日に投稿します。
一行「笹の葉から垂れ下がる細長い紙面を見て、私は思う」から始めます。
【七夕綺譚】
◇ ★ ◇ ★ ◇ ★ ◇ ★ ◇ ★ ◇ ★ ◇ ★ ◇ ★
笹の葉から垂れ下がる細長い紙面を見て、私は思う。今年はどんなことを、この願いの短冊に書こうか、と。
所詮こんなのおまじないだ、書いた願いが必ず叶うってわけじゃない。おまじないなんて私は信じない。何の科学的根拠のないものなんて、私は。
私は医者になるんだ。これまで私は科学的事実の多くに触れてきたし、もう幼い頃の信仰なんて持ち合わせてはいない。
それでも、そんな現実主義者の私でも何故か、毎年七夕の季節には願いを込めて短冊に筆を走らせる。
おまじないなんて信じない。けれど心のどこかで、信じたかったのかもしれない。
サンタクロースを信じていた幼く純粋だった頃の私と今の私は、あまりに隔たってしまったけれど。
「……決めた」
やがて私は筆を取ってその紙面に、さらさらと願い事を書いていく。不器用な墨の文字が、真っ白な紙面に黒く輝いた。
「お願い……」
私には叶えたい願いがあるんだ。それを叶えるためならば、私は存在しない神様にだって縋ろうと思った。これまでは下らないプライドがそれを許さなかったけれど、今はもう、予断を許さぬ状況になってしまったから。
私の目の前、流れ落ちた一つの星。本当はそれは星なんかじゃなくて宇宙の塵が大気圏に入って燃えただけの、要は輝くゴミと何一つ変わらないのだと今の私は科学的知識を持っている。それでも、
その正体がどんなに下らないものであれ、私はそんなものにも願い、縋りたい気持ちだったのだ。
お願い、神様、存在しない神様。そして宇宙のゴミこと輝く流星よ、お願い。
信仰と科学的知識が入り混じり、複雑になった思いで、私は願った。
――お願い、あの子の病気を治して!
流れていった宇宙のゴミ、空に輝く流星がなぜか、あの子の命が終わる様を暗示しているようで怖かった。
医者を志望する少女が流れ星に願いを捧げている時、真っ白な病室で少年はぼんやりと目を開けた。少年は何度も何度も咳き込みながらゆっくりと身体を起こすと、病室の窓から空を眺めた。
この小さな病室にも、季節感を出すためだろうか、七夕の笹と短冊が飾ってある。少年の横たわるベッドのすぐそばの小机にも、筆ペンと短冊が置いてあった。気が向いたら願い事を書けということなのだろう。少年は緩慢な動作で短冊を手に取り、筆ペンのキャップを外して考えること十数秒。
やがて。
「……うん、決めた、決めたよ」
そう一人ごちると、さらさらと慣れた仕草で筆を走らせていく。薄青をした短冊には、達筆な文字が記された。病気が重くなる前、彼は習字が得意だったのだ。少年は書き終わったそれの出来栄えを見て、満足げに呟いた。
「これで良し、と」
とはいえ。今の少年には、病室の入り口の辺りにある笹まで短冊を飾りに行くほどの元気はない。だから彼はそれを机に置くと、キャップを閉めた筆ペンを机に投げ出してまた、ベッドに華奢なその身を沈めた。
少年は全身にだるさを感じていた。正体不明の病が少年の身体を蝕んでいる。何もしていないのに力がどんどん身体から流失していき、たくさんの病にかかってしまう。医者によると、彼の命はこの夏の終わりまで持てば頑張った方でしょうとのこと。医者志望の少女は彼のために今必死で医学を学んでいるけれど、どう考えても間に合わない。いくら彼女が頑張っても、彼女が救いたかった少年の命はもう、あと少しで尽きてしまうのだから。
少年は星に願った。彼はまだ、信仰心を捨て去ってはいなかった。
「……長く生きたいなんて思わない。だってこれは運命みたいなものなんでしょ。だから僕は願うんだ。
――僕がいなくなっても、泣かないで、幸せに生きて、と」
少年は死ぬが少女は死なない。そんな少年が願えるのは、少女の幸せだけだった。
笹の葉を見て夏を感じ、それが最後の夏だと知って、少年の口から溜め息が漏れる。
「これが最後の七夕かぁ……」
書いた願いに悔いはない。自分のことではなく、相手のことを思った願い。
「神様、もしも存在するなら、死に逝く僕のささやかな願いくらい、叶えて欲しいなぁ……」
きらり、空の彼方からやってきて、刹那の内に流れ去る星。少年はそれに願いを託した。
星は見ている内に燃え尽きて、空に溶けて、消える。
それはまるで、叶わないよと、暗い未来を暗示しているかのようだった。
「裕斗!」
あの子の容態が急変したと聞いて、私は急いで病院に駆け付けた。あの子の病室には面会謝絶の文字。患者を移動、移動先は手術室との文字を見てそこまで走ると、緊急患者手術中の文字が、その扉に赤く光っていた。一体何があったのと、私は近くにいた看護士さんたちに食ってかかる。
私の剣幕に、落ち着いてと私を宥めようとしながらも、看護士さんたちは教えてくれた。
これまでは比較的小康状態を保っていたあの子の心拍が血圧が体温が急激に下がり、一気に危機的状況になってしまったこと。それを正しい値に戻すために、医師たちが今必死で薬を投与しているということ。
私の目の前が真っ暗になった。私は思わずその場にくずおれそうになり、「大丈夫?」と、そんな私を看護士さんたちが支えてくれた。眩暈がした。頭がくらくらして、私は何も考えられなくなった。
願ったのに。必死で失った信仰心を呼び戻して、願ったのに。今の私では、医学を学び始めたばかりの私ではあの子を治せないんだと現実を理解して、「私があの子を治す」という夢も捨て去って、必死で存在するかもわからない神様に、科学で存在証明されてはいない神様に、それでも、それでも、一縷の望みを掛けて願ったのに、一体どうしてこうなるの? どうしてあの子はこんな目に遭わなくてはならないの。あの子はただ、生きたかっただけなのに! 私の心を情けなさと悔しさが支配して、激情が胸の内を吹き荒れた。
それでも私は一縷の望みを掛けて、あの子の回復を願った。
なのに。
現実はあまりに残酷だった。
願いなんて叶わない。七夕なんてまやかしだ。
神様なんて、存在しない!
手術室がにわかに騒がしくなる。飛び交う声、緊迫した空気。それからしばらくして、医者の一人が出てきて、マスクに隠された沈鬱な表情で私に言った。
「……手は尽くしましたが、裕斗くんは旅立たれたようです」
その言葉が示すのは、あの子の死。
必死で生きようとしていて、その最中にあって私を気遣ってくれた、優しいあの子の死。
「……嘘よ」
私は現実を拒否しようとしたけれど。
医者は、言うのだ。
「ならば死に顔を見ていかれますか?」
私は虚ろな、幽鬼のような表情でうなずいて、
見た。
全身にチューブを繋がれたまま、苦しげな表情で絶命している、あの子の姿を。
ついさっきまで生きていたであろう、あの子の姿を!
触れた手は氷のように冷たく、その身体からはすでに命が消えていると、残酷なまでの現実を私に示した。
私の心が崩壊した。私は叫んだ。意味のない言葉を獣のように叫んで、リノリウムの床に突っ伏して慟哭した。
神様なんて存在しない! 願い事なんて叶わない!
胸を覆ったのは絶望と悲哀。それはあっという間に私の中に広がっていき、私の全身を悲しみの色に染め上げた。
あの子は生きようとしていたのに、必死で生きようとしていたのに、何故、何故、何故! あの子はよりにもよってこの七夕の日に、死んでしまったの! 夏の終わりまで生きられないと知ってはいたけれど、私はまだ、まだ、生きていられると思っていた。「長くても」なんて言い方されたら、それよりも早く死ぬなんて考えられない。
「嘘、よ……」
激情が静まると、私は嗚咽した。あの子のために医者を志したのに、そのあの子ももういない。
悲しみや怒りを吐き出してしまった後には、どうしようもないほどの無力感と虚無感だけが、私の中に残った。
あの子が最後までいた病室には、あの子の願いが書かれた短冊が一枚、ベッド脇の机の上に置いてあったらしい。そこに書いてあった願いは、私宛だった。「僕がいなくなっても泣かないで、幸せに生きて」。自分の死期を悟っていたからこそ、心優しいあの子はあえて、私の幸せを願ってくれたのだ。あの子の優しさに胸が苦しくなる。あの子は最後まで、私のことを考えてくれていたんだね……。
あの子が死んでから三年が過ぎた。私は「医者になる」という夢をあの子の死と一緒に葬った。今の私はなりたいものも決まらなくなって、大学を中退して無為に時を過ごしている。
わかっている、わかっているわ。あの子は本当は、私がこんな風になることなんて望んではいないってことくらい。それでも、あの子の死と共に夢は砕けて、私は医者になるための勉強を続けることができなくなってしまった。
そしてまた、七夕の季節がやってくる。
神様なんて信じないけれど。信仰心なんてとうに失ってしまったけれど。
それでも、これくらいなら願うことはできるでしょう?
私は短冊を手にとって、また不器用な字で願いを記す。
「裕斗、裕斗。あの世でもどうか幸せに――」
叶ったのかなんて確認はできない願い。そもそもあの世の存在すらわからないけれど。あの世の存在なんて、科学できっちり証明されてなんていないけれど。
願うくらいならできるでしょう?
私はあの子の死を経験してから、具体的な願いを短冊に書くのをやめたんだ。そうすればいくらでも解釈が可能になり、叶わなくなっても悲しみや怒りを軽減できると、そう考えたから。
窓の外には星が降る。宇宙のゴミが大気圏内の摩擦で燃え盛り発光し、瞬く間に消える。
こうして季節は再び巡り、私は来年もまた、短冊に何か願いを書くのだろう。
あの子の死を、胸にずっと抱えながら。
◇ ★ ◇ ★ ◇ ★ ◇ ★ ◇ ★ ◇ ★ ◇ ★ ◇ ★
後書き
「短冊」がキーアイテム。少女と少年の関係は姉弟です。
「エンディングが綺麗」とほめられましたよ、やったぁ。
いつかまた新しい短編を書く日もあるかもしれませんが、当分はこれが最新話。これ以上のクオリティはしばらくでないと思います。
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