ソードアート・オンライン‐黒の幻影‐
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
第3章 儚想のエレジー 2024/10
離れた場所にて:きっかけ
水車の軋む、どこか穏やかな音色が屋内に木霊する。四十八層主街区に拠点を置くギルド《片翼の戦乙女》がギルドホームに備える水車は周辺のそれらと比較してやや大型であることからか、回転する音もゆったりとしたリズムを刻む。
この音が好きで、ヒヨリは他愛ない理由を見つけては折を見て遊びに来ていたが、ここ最近はその目的自体が変化していることに本人も自覚していた。ただ幼馴染と顔を合わせづらくなって、その溝が広がることを認識していたのに、それまでの関係が崩壊することを怖れて踏み込めずに時間を過ごして、気付いたら楽しい遊び場は避難場所へと変貌していた。
そんな陰鬱な感情に起因して、思い出されるのは今朝の出来事だった。自分でもどうして幼馴染を拒絶してしまったのか、改めて考えると理解出来ないでいた。ただ、このまま再び今朝に遡ってやり直せたとしても、ヒヨリはまた同様に拒絶してしまう予感があった。自分の心の中で得心のいかない部分があり、それが自分に端を発しているのか、それとも外的な要因であるのか、靄の掛かったような不明瞭なそれを見極めないと、きっと納得した上で向き合うことは出来ないという確信だけがあった。それ自体、幼馴染と向き合うことを怖れての言い訳なのではと指摘されると、ヒヨリに否定する自信の持てない曖昧なものであることに変わりはないのだが。
不健全な状況だと解ってはいても、堂々巡りの自問自答に何も出来ない自分にやるせなさを感じながら、出されたお茶に口をつける。甘い香りが鼻腔に伝わってはいるものの、精神的な影響か味の感じないまま少しずつ飲み下していると、ヒヨリの隣の空席に腰を降ろす人物が現れた。
「今日は元気がないね、何か嫌なことでもあったのかな?」
身に付けていた割烹着を脱いで畳んで膝の上に乗せた女性は、子供に接するような声音でヒヨリに尋ねた。その女性――――グリセルダは《片翼の戦乙女》におよそ一年前に身を寄せた、ギルド内ではまだ若輩にあたる人物だ。しかし人を惹きつけるカリスマ性と、他のギルドメンバーと比較して大きく離れた年齢からくる余裕、乃至は包容力じみたものによってやや特殊な立ち位置にある。グリセルダ加入以前からギルド内の財布や食事事情を管理していたギルドマスターであるクーネと合わせて《オカン属性》なるものを提唱されている。生来の面倒見の良さかどうかはさておき、事実として年の離れた妹というよりも、教え子や娘のようにギルドの仲間と接する姿は、明らかに他のギルドには見受けられない光景であろうか。
同時に、《片翼の戦乙女》に加入するより前からスレイドと交友を持つという稀有な人物でもあり、それ故かヒヨリと接する場面も決して少なくなかったのである。
――――更に言及すれば、スレイドに変調の兆しが見られるようになった時期と、彼女が戦乙女に加入した時期がほぼ同時期である点について、ヒヨリは時系列上の不審点ではなく直感からくる違和感として知覚していた。
あれだけ他人と関わる事を苦手とするスレイドと交友を深められたのは、偏に彼女の人間性に寄与する部分が大きいとヒヨリは推測するが、その経緯についてヒヨリは全くと言って良いほど情報が開示されていなかったのだ。つまりはヒヨリから見れば、同時期に未知の出来事が連続して起きていることになる。当然、本人は推論を以て違和感に気付いた訳ではないのだが。
常時であればすぐにでもグリセルダと何かしらの会話に花が咲くものの、幼馴染の秘密の鍵を握るかも知れない――――ともすれば、元凶という可能性さえある――――相手に、それでも普段から友好的に接してくれる相手に対して懐疑心を抱いてしまったことに対する自己嫌悪が更にヒヨリの口を重く閉ざすこととなった。
だが、グリセルダはスレイドに舌を巻かせるほどの洞察力を有していることをヒヨリは知らなかった。黙秘を続けるヒヨリの重苦しそうな横顔を観察して、グリセルダは何気なく一言だけ告げる。
「………誰かとケンカでもしちゃった?」
「ふぇう!?」
不意を突いて、唐突に核心を一言で突いてくるグリセルダの発言に、ヒヨリは珍妙な悲鳴を漏らす。物音に驚いた小動物を思わせるリアクションにグリセルダは内心に妙な庇護欲を覚えつつ、努めてそれを押し込めながら自分用のコップに注いだ茶をすする。変な声の後は再び黙秘を貫くヒヨリに、グリセルダもまた一言零す。
「スレ………じゃなくって、リン君とケンカしちゃった?」
「…………………………ぅぅ……ふぐぅぅぅ………」
「え、あ、うぇ!? ごめん! ごめんね!? 意地悪しすぎちゃったね!?」
今度はヒヨリも声を漏らすことはなかった。コップを両手で持って、その中を覗き込むような格好で俯く。いつもならば好奇心旺盛に核心を突いたことに賞賛の声をあげてくるのだが、今日に限っては悪夢を思い出した子供のような、いつ泣き声が炸裂するか分からないような気難しさにグリセルダも通常時の余裕を減じさせて咄嗟に謝罪しながら宥めた。確かにデリカシーのない物言いで悩みを土足で踏み荒らすような態度であったと自身を叱責する。
しかし、この一連の遣り取りからしてヒヨリの精神状態があからさまに不安定であることもまた事実であるとグリセルダは確信を得る。そうして慎重に言葉を選ぶことを肝に銘じつつ、事情を探るよう試みた。グリセルダには安易に話題を転換するような無責任な選択肢はなかったらしい。小規模とはいえ、かつてギルドの長としての役目を務めたが故の面倒見の良さ、その発露であった。
「その、お詫びというわけじゃないんだけど、もし良かったら私にお話だけでも聞かせてくれないかな? 独りで悩んじゃうより楽になるかもだし、ね?」
まるで防衛するように背中を向けたヒヨリは、恐る恐る振り向きつつグリセルダの顔を窺う。小動物みたいだなぁ、と湧きあがる庇護欲を慌てて押し遣ると、数秒の間を置いてようやくヒヨリは重い口を開いた。
「………燐ちゃんから、逃げちゃった」
きっと、ヒヨリはこれについて後悔しているのだろうとグリセルダのは目星をつける。だが、スレイドとヒヨリは一件のホームを購入し、同じ屋根の下で暮らしていることを鑑みて、その間で遣り取りされる未知の情報量を懸念する。有り体に言うならば、同棲している両名の間で交わされるプライベートから《ヒヨリがスレイドから逃げる》に至った原因を割り出すことが極めて困難なのだ。踏み込んでも良い話なのか、先程のヒヨリの反応からして僅かばかりの呵責がわだかまるが、正当な手順で情報を聞けている筈だし、何よりこのままヒヨリが悩みを抱えたままにしておくことを見て見ぬままにしておくという選択が出来ないと、グリセルダは意を決して問う。
「それは、嫌なことをされたり、言われたりしたから?」
これはほぼ杞憂だと、グリセルダは考える。
スレイドがヒヨリを大切に――――むしろ過保護というべきなのだろうが――――しているのは理解している。何らかの負い目さえ感じるほどだが、同い年でありながら保護者として十二分に努めているというのがグリセルダから見ての総評だ。罷り間違っても意図的にヒヨリを不快にするような行いはしないだろうと見ているほどだ。
「………嫌なこと、じゃ………なかった………と、思う………」
問いに対して、ヒヨリはおずおずと答える。
言い淀む様子を観察するグリセルダは、その様子からスレイドへの気遣いや遠慮による言葉選びではなく、当人も自分の気持ちを理解していないのではないかと推測する。やはり、先の質問は杞憂だったと一蹴し、グリセルダは再び質問を向ける。
「じゃあ、仲直りは出来そう?」
「………わからない………」
「ヒヨリちゃんは仲直りしたい?」
「………うん、だって、このままは嫌だから………けど………」
ヒヨリは訥々と話した後、無言になって俯く。
しかし、これで外枠程度には事情が掴めたとグリセルダは情報を整理する。
これは純粋にヒヨリの精神面での問題ではないということ。加えて、この一件にはスレイドの存在が大きな要因となっていること。当初《ケンカ》という単語に敏感に反応したところから察するに、ヒヨリとスレイドとの関係に翳りをもたらす何かしらの出来事があったのだと推測する。ヒヨリから読み取れる終始不安そうな様子は、これまでに経験のないタイプの出来事だったのだろうが、幼馴染というだけに付き合いの長い間柄でも遭遇したことのないというだけではグリセルダでも思い当たるものがない。というより、二人関係についても漠然としたニュアンスでしか認識していないというのが現状なのだから、長考するだけ無駄なのだが。
とはいえ、ヒヨリ当人は関係の改善を望んでいるというのは確かなようだと、グリセルダは安心する。擦れ違いか行き違いかは判然としないが、このまま相互に距離が遠ざかってしまうような人間関係の終焉は、そもグリセルダ自身が嫌うものに相違ない。かつて、自分と旦那が辿った轍を踏ませたくないという思いも決してなくはないが、何よりも年の離れた恩人の為に一肌脱ぐのも吝かではないと年長者故のお節介も多分に含まれてのことであった。
「………燐ちゃんが、分からないの」
情報を脳内で整理するグリセルダの脇でポツリと、ヒヨリが言葉を零した。
不安そうな細い声で、ぼやけた言葉ではあったが、グリセルダは何も追求せずに耳を傾ける。
「………ずっと一緒だったのに、なんだか遠くにいるみたいで………いつも、自分だけで頑張ってて………」
まとまりのない発言を聞いているうちに、グリセルダはいつかクーネから聞いた話を思い出していた。ある日のふとした場面の中で、どういう話題転換だったか二人でヒヨリのことが話題に上がった時のことだった。クーネは確かに言っていたのだ。《SAO開始当初、ヒヨリはスレイドにくっ付いて行動していた》のだと。その仲の良さや、スレイドの気苦労が忍ばれる笑い話や、デスゲームの只中だというのにヒヨリの楽しそうな姿について伝聞として窺っていたのである。
そして、それらの光景はどれもがグリセルダの見たことのないものであった。グリセルダが片翼の戦乙女に加入して暫くは部屋に引き籠っていたこともあって、ヒヨリと出会うまではギルド加入から五ヵ月ほどのタイムラグがあることを差し引いても、二人が連れ添う光景が途絶えたのは少なく見積もっても半年。それ以前にグリセルダが思い当たるスレイド側の変調の原因は、やはり昨年の十一月の惨劇に他ならない。それを原因に自殺を図るほど彼は追い詰められていたのだ。彼の生真面目さや生来の善人さを考慮すれば、無邪気な幼馴染に全てを打ち明けるわけがないと想像に難くない。仮にその一端を告白したにしても、彼は全てを話さないだろう。遠くにいるみたいだとヒヨリが感じ取るのも無理はない。
だが、同時に安易に踏み込んで良いようにも思えない。いや、或いは引き込むべきではないという方が適切だろうか。自分の窮地を救うためにスレイドは手を汚した。彼の心に癒えない傷を残し――――もしかしたら、怪物に変貌させてしまった可能性さえある。その咎はグリセルダや、酷な話だが自ずから剣を振るったスレイドに帰せられるべき罪であり、本来はヒヨリが僅かでも接して良いものではないという思いがグリセルダの動機を鈍らせる。所属するギルドのメンバーでさえ知らないトップシークレットである。迂闊にヒヨリに打ち明ければ、それこそスレイドの与り知らぬ場所で関係が崩壊していたという大惨事さえ大いに在り得るのだから。
ヒヨリのもう一人の保護者――――テイムモンスターである黒エルフのティルネルには、その深い追求に口を割ってしまっていたが、それでもヒヨリには口外無用という箝口令を遵守するという条件付きでの特例だ。NPCでありながらグリセルダの提示する条件に理解を示してもらったからこそ、彼女の道徳心を信用して話しこそしたが、今回は勝手が違うどころか全くの別問題だ。しかし、適当に話を合わせたところでヒヨリに納得してもらえるとも思えない。それは既にスレイド自身が行ってしまっているだろう。結果として、擦れ違いの助長に拍車を掛けていることにグリセルダから批難を述べることはないが、これまでにない難問にグリセルダも適切な手段さえ選べないまま、また何らかの発言も出来ないまま、時間だけが過ぎていった。
「………やっぱり、燐ちゃんは私のこと、邪魔なのかな………」
すっかり憔悴して力のなくなった声を、グリセルダは聞き逃さなかった。
そして、その深刻さを認めた時には、グリセルダは悩むことをやめていた。
「ねえ、ヒヨリちゃん。私と少し外へ行こっか」
「…………そ、と?」
掠れ切った疑問符に、グリセルダは頷いて答える。
「うん。本当は私から話すのはおかしいんだろうけど、でも、このままじゃヒヨリちゃんも辛いでしょ? いけないことだけど、今知らなきゃずっと不健全なままだと思う」
言うなり、グリセルダは大きく息を吐いて立ち上がる。
責任感と罪悪感と、もう後戻りできない後悔が綯い交ぜになった複雑な感情を胸中で押し込めて、ヒヨリに向き直った。これでも込み入った事情なだけに相応に思い悩んではいるつもりだが、まだ幼いと形容しても差し支えない少女の胸中は察するに余りある。他人事だと突っぱねて、不安に押し潰されるヒヨリを無視する方が、きっと後悔するとグリセルダは結論付けて動機にする。
「スレイド君が頑張ってくれたこと、辛かったこと、今も苦しんでること、私が知ってる全部………ヒヨリちゃんは知りたい?」
後書き
ヒヨリちゃん視点、始動回。
これまで置いてけぼりにされてきて、そして燐ちゃんの闇に踏み込めなかったヒヨリちゃんが、その真相を辿る物語となっております。ヒヨリちゃんの知っている燐ちゃんとは根本からして変化してしまっていますが、ヒヨリちゃんはどう受け止めるのか。割と重めのストーリー展開になりそうです。そして重めの役目を担ったグリセルダさんの活躍にも乞うご期待です。
今後の展開は言わずもがなノープラン。更新は不定期です。
SAO編、終わるまであと十何話かかるんですかね(白目)
ではまたノシ
ページ上へ戻る