ソードアート・オンライン‐黒の幻影‐
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第3章 儚想のエレジー 2024/10
20話 ひびわれるおと
ティルネルに言われ、やむなく部屋を出る。
腹を括ると言ってみたものの、フローリングを歩く足取りはこれまでにないまでに重圧に拉がれて思うように進まない。それこそ床板が抜けないのが不思議なくらいに増した体感重量に顔を顰めながら、逃亡を防止すべく見張る看守のように――――当人にそんな意思は毛頭無いのだろうが――――随伴するティルネルの気配を感じつつ、やっとの思いでリビングへと至る。ただ顔をあわせる程度ならここまで苦労はしないものを、と難儀を嘆くのもそこそこに、無情にも最も顔を合わせたくない相手の姿が視界に捉えられた。
「………あ、燐ちゃん。ティルネルさんも、おはよ」
パジャマ姿でトーストをサクサクと齧っていたヒヨリは、笑みを向けてくる。
いつもと変わらない、それこそSAOにログインする前から見慣れた柔らかい笑顔は、いつからか直視するに耐えられないものとなっていた。いや、変容したのは俺の方なのだろうが。
「今日は早起きだね。何かあったの?」
「………いや、………その………」
フィールドに出るから一緒に付いて来てくれ、と。言葉は脳内で完結しているのに、発音は躊躇されて呻くような声に変わる。この期に及んで尚も決心の定まらない有様には我ながら情けない限りだが、対するヒヨリは口を引き結んだまま沈黙する。何気ない表情と認識していたそれさえも、ティルネルとの遣り取りがあってから多少の危機感を覚えたのだろうか。どこか寂しそうな表情に見えてしまう。そして同時に、考え過ぎなのではないかと杞憂で済ませようと鈍感になろうとする誘惑が増大する。
「えっと………、じゃあ私、クーちゃんのところに行ってくるからね!」
口を閉ざしてほんの数秒だけこちらを観察していたヒヨリは、居場所無さげにその場を離れようと椅子から立ち上がる。ヒヨリにしてはやや早足の歩行で、まごつく俺とティルネルの間を通り抜けると、朝食の用意について言い残すと呆気なく横切ってしまう。
自分が含まれない内輪の話を耳にすれば、むしろ飛び込んでくるくらいに活発だった頃のヒヨリを思うと、そのリアクションは余りにも淡泊に過ぎると感じざるを得ない。しかし、言い知れない不安が脳裏を過った。そしてそれは後悔へと変貌し、俺を責め立てては胸中にざらついた感覚を残した。それは奇しくも無鉄砲にグリセルダさんを救出しに行った際に感じた直感に酷似していた。《このまま看過すれば、取り返しのつかないことになるぞ》という、無意識化の警鐘。決してどちらかが生死の危機に瀕する事態に遭遇することはないのに、それまでの尻込みを払拭させるには十分だったらしい。
「……………手を、貸してほしい」
蚊の鳴くような、弱い声音をどうにか喉から絞り出し、廊下に立つヒヨリに言う。
耳に届いたか不安になる音量であったが、それこそ杞憂だったようで、ヒヨリはその場で立ち止まった。でも、決して振り返ろうとはしないまま、そのまま背を向けた格好を維持する。
「………どうして?」
ポツリと一言、質問が投げかけられる。
だが、その言葉が質問という形式をとっているだけで、どれだけの意味が込められているのかを理解してしまった俺の精神を痛烈に打ち責めた。これは謂うなれば、これまでの俺の選択と行為に対してヒヨリなりの《糾弾》なのだろう。
「どうして、今になって………そんなこと言うの?」
再度、答えを返せない俺にヒヨリは再び問いを向ける。
当然、返すに相応しい言葉を選べない俺は喉まで込み上げる選択肢を飲み下した。
「死んでほしくなかった」と言おうとする俺を、「その言葉は適切なのか」と卑下を反証する。
「重荷を背負わせたくない」と言おうとする俺を、「ではこの状況はなんだ」と独善を否定する。
空疎な言葉は自身の中で圧壊して、会話はまたしても途切れて空白だけが間延びしていく。ほんの数秒の経過でさえ精神を摩耗させるなか、ヒヨリはまた沈んだ声で話し出す。
「………わかってる。燐ちゃんが今までどれだけ頑張ってくれてたか、全部わかるよ。………だからね、ほんとはもっと早く頼って欲しかった。グリセルダさんの時も、クーちゃんたちが戦ってた時も、燐ちゃんの隣にね、………ッ………いたかったの………だから、いっぱい頑張ったんだよ? 私だって、強くなったんだよ?」
ヒヨリの声は、余すことなく感情を吐露した。
途切れ途切れだったそれは、だんだん引き攣って、湿り気を帯びて、振り返って見せた顔は悲痛さに満ちていた。奇しくもそれが、心にざらついたものを感じさせる要因となった《何か》を理解してしまう契機となった。そして、それが既に取り返しのつかないものであったと、更に深い後悔にうちひしがれた。
ヒヨリに死んでほしくないと、俺一人だけ死地へ向かった。
ヒヨリに重荷を背負わせたくないと、自分だけに苦渋を課した。
でも、現実としてそれらの選択は余りに独善的過ぎたと認めざるを得ない。
これまで俺を独りで死地に向かわせないように、ヒヨリは自身のステータスを強化し続けてくれた。
この地獄が始まってからずっと、ヒヨリは俺が一人で抱えようとした重荷を担おうとしてくれていた。
なのに、その手を振り払ったのは、いつでも俺自身だった。
ヒヨリを失うことを怖れて、それまで培ってきた努力を否定した。
ヒヨリを苦しませないようにと、示してくれた決意を踏みにじった。
俺自身も悪意あってではないと自己弁護をすればいくらでも言葉が湧き出るが、その自己弁護を言外に汲み取って一歩引いてくれたのがヒヨリだったのだ。
………そして、それまでの努力を、俺のために使おうとするのを諦めたのが二ヵ月前ということなのだろうか。
俺だけではない。クーネ達や、アスナを始めとする血盟騎士団、攻略組に名を連ねるギルドやソロプレイヤーの多くがその惨劇の中で奮戦した。その中にさえ入れなかったという事実を、ヒヨリはどう受け止めるだろうか。これまでの経験のその全てが、怖いくらい鮮明に想起させる。そしてその答えが、今も頬を伝い続けるヒヨリの涙に他ならない。
「燐ちゃんを助けられるようになりたいだけだったのに、肝心な時に頼ってくれなくて、そんな時に私はいつも何も知らなくて、だから『そばに居るだけにしよう』って、やっとそう思えるようになれたのに………、なんで、どうして今になって、私なんかを頼るの………?」
「違う、今度は本当に………ほんとうに………」
どこか怯えるようなヒヨリの問いに否定の弁を返す。だが、言葉が詰まってそれ以上を告げることが出来なくなっていた。言うべき言葉が頭から抜け落ちたわけではない。確かに認識している筈なのだ。それを喉から絞り出してしまえば済むだけの話なのに、仮想の身体は意に反して発言を拒絶する。
当然、刻一刻と過ぎる時間の感覚は俺だけのものではない。いやむしろ少なからぬ沈黙のなかでよくぞ耐え忍んでくれていたというべきなのだろうか。怯えを湛えた表情でありながら何かに期待するような、そんなヒヨリの眼差しは今度こそ悲愴な色に塗りつぶされる様を無抵抗に見届けると、ポツリと一言、ヒヨリの口から零れた声を聞き取った。
「………ごめん、私、今の燐ちゃんと一緒に居るの、ちょっと辛いかも………」
お互いの沈黙からなる静寂に、ヒヨリの声は痛いほど澄んで響く。
どこまでも無知で利己的で打算的で、それでも偶然が味方して、降りかかる厄介事も、首を突っ込んだ面倒事も、そのどれも決して百点満点ではないにせよ乗り越えてきた自分に自惚れがあったから、俺は自分がヒヨリを守ってやっているという認識を是正出来なかった。そんな俺に果たして何が言い返せていたのだろうか。
翻ってそのまま廊下を進むヒヨリを、呼び止めることさえ出来なかった。
玄関の扉を開けて立ち去っていくヒヨリを、眺めているしか出来なかった。
目の前にまだヒヨリの姿があったのに、俺は結局動き出せなかった。
もどかしくて仕方がない。悔しくてたまらない。でも、その資格が俺にはない。
それまで抑圧し続けて、ヒヨリが積み上げてきた努力を否定した俺にその選択肢は在り得なかった。
「俺を信じてくれ。力を貸してくれ」などと、今更頼むのには遅すぎた。浅慮が過ぎたのだ。ヒヨリの出ていったリビングの空気に溜息を零しながら重い身体をソファに沈めると、視界の端にティルネルが立っているのが見えた。どこか気遣わしげに、言葉を決めかねているようなオドオドした様子から滲み出る彼女の人の好さが、今は少し有難く思えた。
「………あ、あの、ごめんなさい………リンさん、その……」
「いや、お前は悪くないよ。むしろもう時間の問題だったのかも知れん」
天井を仰ぎながら、乾いた笑いさえ零れ出すのを止めずにティルネルに言う。
「もともと人付き合いが苦手だったけど、幼馴染でさえこの有様だ。こうなる前に話せることなんかいくらでもあったのに、下らない事ばかりに拘って後回しにした結果がこれ。詰まるところ自業自得なんだよな」
「でも、リンさんはちゃんと………ヒヨリさんに向き合おうと………」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、遅過ぎた。それに今回ばかりは………」
まだ、でも、と女々しい思考が湧き上がる。
それらが淀んで渦巻きだした思考を、否定するように頭を振り、言葉を口にした。
「………今回ばかりは、もう縁が切れたと思うしか無いだろうな」
それは、《ヒヨリを守る》という強迫観念とも我執とも取れない感情が膨らむ一方で、それに比例して増大した願望でもあった。守る苦しさから解放されたい。幼馴染を失うかも知れないという恐怖から逃げ出そうとする本能から、《ヒヨリの前から逃げ出したい》と願うようになっていたのもまた事実だ。その逃避願望がどれほど愚かしいことか、今まさに身を以て打ちひしがれているところであるが、俺は確かにこの結末を求めていた。故にこそ、これは似合いの幕切れなのだろう。そうであるならば、この場に居るもう一人、気遣わしげな視線を向けてくる彼女こそある意味では居場所を違えている。
「ほら、ヒヨリのところへ行ってやってくれ。お前の役目だろ?」
頼むつもりで声にしたものの、声色が低く落ち込んだ所為で追い払うような、それこそお門違いな聞こえ方をしてしまったのではと発言の後に後悔したが、ティルネルはどういうわけか頑としてヒヨリの後を追おうとはしなかった。僅かにヒヨリの行く先を見て逡巡した様子を垣間見せて、何かを振り払うように頭を振るうと、どこか毅然とした面持ちで見据えてくる。
「いいえ、リンさんに依頼をお願いしたのは私ですから。同行します」
ああ、そういえばと、ほんの数十分前のことを思い出す。
直前の出来事もあってすっかり昔のことのような錯覚を覚えるが、発端はティルネル自身の申し出であり、彼女は最初から同行すると明言していた。どうにも頭の痛い状況だが、そもそもこの淀んだ空気の中に居続けるのは精神衛生上良い事は一つもないだろう。外に出て好転することも考えづらいが、約束を反故にする理由にもなりはしない。
その時の俺には、逃げるようにホームを立ち去るより選択肢はなかった。
後書き
燐ちゃん始動回
今回の章は1節2章以来の燐ちゃんとティルネルさんとのコンビと、ヒヨリちゃんとの別視点による構成になればいいなと考えています。あくまで予定なので確定事項ではないです。
さて、しばらくヒロインしていなかったヒヨリちゃんの心境というか、抑圧していたものを燐ちゃんはようやく直面することとなりました。言うなれば、これまでの燐ちゃんは《ヒヨリちゃんを守る為に危険から遠ざける》スタンスを固持していたばかりに《ヒヨリちゃん自身の努力を軽視していた》ことが露呈した場面でもあります。守る側の意地も視点によってはエゴでしかなくなるという好例になれば面白いと思ったのですが、なんか雰囲気が暗いですね。オカシイ。
次回、いつか公開します。
ではまたノシ
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