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霊群の杜

作者:たにゃお
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紙舞



肩に散る粉雪を払いながら、緩慢に動く自動ドアの隙間に滑り込む。エアコンの暖気を吸い込み、大きくため息をついた。
先日からの豪雪は多少収まったものの、寒さは厳しくなる一方だ。町の東側にある溜池では、アイススケートが出来るようになったらしい。
「こんな日に、1時間目から出て来てる奴いるのかねぇ」
襟巻で鼻まで隠した奉が、厚手の羽織の前を掻き合わせながら呟いた。
「静流さんは来てるよ多分…」
「あいつと教授のマンツーマンで授業受ければいい。俺はホットコーヒーを買いに行く」
学食に続く廊下に逸れようとした奉を引き戻し、講堂へ続く階段を昇った。



人影のまばらな朝の講堂は、エントランスよりも寒い。学校とは何故、ラウンジはそこそこ暖かいのに教室は割と容赦なく寒いのだろう。
その冷え込んだ講堂の隅っこに、静流さんがいた。
さらりと頬にかかった黒髪のせいで俯きがちな顔は見えないが、直ぐに分かった。
「流石に講堂は暖房の効きが悪いね」
冷たいベンチ席で肩をすくませて座っていた静流さんに話しかけると、彼女は力なく微笑んだ。……いや、普段から基本的に力ないんだが、ほぼ死者に近いレベルで力なく微笑んだ。
「なんだ貴様、あと数刻で死ぬのか」
「ちょ、奉!!」
何故この男は静流さんに対しては失礼極まりないのか。
「……何かあった?」
彼女は口を開きかけては口ごもるというのを数回繰り返した。奉が苛立ちを隠そうとしなくなった辺りで、静流さんはおずおずと語り始めた。


「―――私のせいで、単位を落とした方が、いたようで」


昨日の午後、4限の授業を終えてノートを清書(…清書!?)していた静流さんの前に、見覚えのない女の子が現れた。冬だというのに浅黒い肌の、とても手の込んだ爪(ネイルアートか?)の子だったという。
「あんたのせいで一年間が台無しなんだけど!!」
そう言い捨てると、女の子は見覚えのあるノートを机に叩きつけた。
「あっ…私のノート…」
「こんなの読んでも意味分かんないし!!ホントに授業聞いてたの!?」
その後も延々大声でなじられたらしいが、最初に怒鳴られた段階で頭の中が真っ白になってしまい、よく覚えていないらしい。


「つまりあれか。テスト直前に貴様のノートを奪って消えたリア充軍団が、いい点取れなかった腹いせに文句まで云いに」
「…やめろ、追い討ちは」
小声で奉を黙らせ、萎れる静流さんの隣で俺も頭を抱えた。
―――ほんとにもう、この人はほんとにもう―――!!
「…そういう時、どう思うの。静流さん」
奉ではないが、俺も少しだけ苛ついていた。そういう連中に目をつけられがちな所も、うかうかとノートを奪われてしまう所も、挙句にどう考えても見当違いな八つ当たりにまで一言も云い返せずにノート叩きつけられて帰ってくる気の弱さにも。
「えと、その…私のノート、何処が悪かったのかな…って」
「………へ?」
「縦にラインを引いて、用語解説欄にして…教授が『テストに出る』って云ったところは残さず強調線引いて、板書されなかったけど重要そうな事もコラム風に枠で囲って入れて、教科書と連動しやすいように参照ページは必ず書いて、分かりにくいかな…ってところはイラスト解説いれて、字も読みやすいようにペン習字検定1級とって…」
「…そのノート次の試験の時、よければ俺にも貸し」「おい、結貴」
奉に丸めたノートで殴られ、はっと我に返った。…いかん、そんなノート俺が欲しいわ、とか思ってしまった。
「何処が悪かったのか、そっちのほうが気になる、と」
「はい」
意外としっかりした返事が返って来たことに内心『!?』となりつつ、俺も次の講義の為に教科書を開く。人のノートを羨む前に、自分の講義ノートをしっかりせねば。
「じゃ、聞いてみたらいい」
「え」
「そいつらによ」
奉が口の端を吊り上げて笑ったような気がしたが、俺が顔を上げると、いつも通りつまらなそうに頬杖をつく奉がいた。




そんな事があってから数日。
俺達と静流さんは最近、つるんで行動することが多くなっていた。云いたくはないが、悪目立ちする三人組だ。いつもの場所でだべっていると、ふらりと静流さんが現れる。それを仏頂面ながら奉も受け入れる。そんな腐れ縁的な感じになっている。
「…でね、その坂に蝋梅が数輪、咲いてたの。なんかいい匂いするって思ったら」
「奉の実家にも咲いてるよ。今度、枝を貰ってこようか」
静流さんが、他愛無い世間話をしてくれるようになってきた。俺が相槌をうち、奉は聞き流す。その空気は意外に心地よく、俺もこの三人組を受け入れ始めていた。
「お、青島じゃね?」
聞き覚えのある声がして、軽く肩を叩かれた。語尾が僅かに上がる特徴的な喋り方だ。…誰だったか、とモヤモヤした気持ちのまま振り返った。俺の肩を叩いた男は、金色の髪を掻き上げてニヤリと笑った。
「あー、今泉!」
「そ、青島、今泉、の今泉だ」
俺たちは青島、今泉、青島、今泉とひとしきり繰り返して盛り上がった。
「…お友達、ですか?」
重度の人見知りを抱えた静流さんが、敬語になっておずおずと聞いて来た。…つくづく、金髪とかリア充が苦手な人だ。
「小学校の6年間、クラス一緒だった。出席番号が必ず1番と2番。いつも青島、今泉」
「そそ、青島、今泉!」
当時からサッカーチームに入ったり、男子が全員初心だった5年生時に既に女の子と仲良かったりと、将来のリア充ルートが透けて見えるような男だったが、不思議と気が合ってよく遊んでいた。ただ共通の友達が少なかった…というか俺たちの属性が違い過ぎて同じ遊び仲間とつるめなかったこともあり、学区の問題で中学校が別になると、あまり会わなくなってしまったのだ。
「何だよ、髪すげぇ色にしたな」
つい、口調があの頃に戻ってしまう。背伸びをしているつもりでわざとワルっぽい言葉遣いをしたものだ。
「お前はあのまま背だけ伸びたな!…てか同じ大学だったんだ」
「それな!講義も一緒だったんか!人が多過ぎて気が付かなかった!」
「俺の方はちょっと前から知ってたけどな!」
お前ら変な噂が立ってたもん、と大笑いしながら今泉は云う。…俺たちは地味に、洒落にならない状況だったんだが。
「…そっちの子は八幡ちゃん?八幡ちゃんも噂になってるよ!」
突然話を振られて、静流さんはびくりと肩を竦めて俺の背中に隠れてしまった。
「え…そんな…私…」
「あのノートなかったら俺、今回の単位やばかったわー。『八幡ノート』、マジ神だわ」
静流さんが初めて、目を見開いて今泉を直視した。
「……え」
「こういうのって普通、ノートのコピーが出回るもんなんだけど、八幡ちゃんのだけはノート本体がガンッガン回ってて、アレ?って思って覚えてたんだよ。あれどうしたの」
「………その」
「知らない人に奪われたんだってよ、試験直前に」
俺が代わりに答えると、今泉はぐっと渋面を作って肩をすくめた。
「そりゃ、駄目だな。いくらなんでも…変だと思ったのにそのまま回し続けた俺達も俺達だけど…。八幡ちゃん、試験大丈夫だったの?」
「はい、取られたのは清書用の方で、普段使いのノートは残ってたし…こういう事はよくあるから」
「よくあるのかよ!!!」
今泉と俺は同時に叫んでいた。




「―――玉群は、相変わらずああいう感じなのね」
俺と今泉が盛り上がっている間に、奉はひっそり消えていた。
「いっつもそうだったよな。いつの間にか居なくなってんの」
「……おぅ」
奉なりに、あいつの家の事情に巻き込まれがちな俺に気を遣っているのか。はたまた、付き合いを広げるのが面倒なのか。ただ単に俺の監視を逃れ、かったるい講義から逃げ出すチャンスと捉えたのか。兎に角、今も昔も奉は俺が他の友人と談笑していると姿を消してしまう。例外は鴫崎と、意外にも静流さんくらいだ。
「玉群…くんも、同じ小学校なんですか」
授業中は滅多に私語を発さない静流さんが、珍しく声を掛けてきた。
「それなー。あっちは覚えてないと思うけど」
「そうですか…」
そう云って静流さんは、またノートに向き直ってしまった。…打ち解けようと努力はしつつ、やはり金髪に苦手感があるようだ。
「………なあ、やっぱ噂通り?」
今泉が突然、大きい目を見開いて、小声で意味の分からん問いを掛けてきた。
「………お前、中身は小学生のまんまだな」
「何をぅ?」
「唐突なんだよ、主語がないんだよお前の問いは」
「あーね、主語、主語は…八幡ちゃん!」
「あと噂の内容を俺は知らない」
「知らないのかよ!?」
講義中の講堂に響き渡る大声で、今泉が叫んだ。教授の板書の手が止まる。口の前に指を立てて『静かに』のハンドサインを示して軽く睨む俺と、肩を竦めて大きな目をギョロっと巡らせる今泉。まるであの頃のままだ。俺は吹きそうになった。
「……お前と付き合ってるって噂」
「いっ!!??」
再び、教授の板書が止まる。振り向かれる直前に、俺と今泉は教科書で顔を隠した。
「し、知らないよ。第一、話すようになって3カ月も経たないし…」
「相変わらず、随分オクテなんだな」
「普通だろ」
「ナンパという言葉を知っているか」
「遠い世界のファンタジーとしてな」
「じゃ、俺が狙ってもいい?」


「ふざけんなお断りだ」


思わず口をついて出た。
「……え?」
「彼女は俺の3大パワースポットの重要な一角なのだ。そうでなくても最近きじとらさんが完全に奉の所有になって精神的に参ってるタイミングなんだよ。これ以上俺の癒しの場が削られたら残る手つかずのパワースポットは縁ちゃんだけになる」
「……お、おぅ……」
「な?やばいだろ?唯一のパワースポットが16歳とか。とち狂って手を出すと淫行でお縄になる案件だ。というかその前に奉の妹だぞ。視えざる地雷が透けて見えるようだろう。」
「うっわ…相変わらず、やばいなお前…」
「そうなんだ。やばいんだよ。だからこれ以上俺の脳内ハーレムを浸食しないでくれ」
「……お、おぅ……」
何故か今泉はその後、言葉数が極端に減り、感心にも真面目に板書を写していた。写メで。




天気予報が外れ、昼過ぎから冬の嵐が吹き荒れる陰鬱な午後だった。
数日前、幼馴染と偶然出会いLINEを交換して以来、ちょいちょい互いの近況を写メで送り合っていた。奉と真逆な性質の今泉は、少しうんざりする程マメで、毎日のように何らかのメッセージが届く。小学校のグループLINEなどというのもあったらしく、この数日で大勢の幼馴染の近況に触れることになった。玉群も誘う?と一応聞かれたが、断っておいた。あいつは夜中にLINEの通知音で起こされるのが死ぬほど嫌いらしいのだ。
それはさておき。
今日の講義が終わり、ノートを清書している静流さんを待ってスマホを弄っていると、今泉からLINEが入った。
「早速、旧交復活だねぇ」
奉が喉の奥で笑うのを無視してトークを表示すると、妙なテンションの書き込みが目に入った。
≪そこを離れろ。しくった。ごめん≫
「…ダイイングメッセージかよ」
何があった、と返すと、切羽詰まった誤字だらけの文面が戻ってきた。
≪八幡ちゃんのノート取った子を怒らせた。そっちに向かってる≫
「ほぅ…修羅場の予感だねぇ」
冬だというのに滂沱の冷や汗を流している俺の横で、奉がさもおかしそうに笑った。
「笑いごとじゃないだろ!?このままじゃ、静流さんが…」
「取り囲まれて虐められると?」
す、と奉の表情から笑いが引いた。
「今ここから逃れたら、そいつは永遠に静流から手を引くかねぇ」
「………それは」
「この場合、最悪の展開とはどういう状況だと思う」
俺は思わず黙り込んだ。…最悪の、展開とは。
「一人の時に、取り囲まれることだろうねぇ。今なら」
お前が居る。そう云って再び、奉はにやりと笑った。
「俺が…って、俺に出来る事なんて鎌鼬ぶん回すこと位しか!」
「居るだけでいい。…あの女、お前が思ってるほど弱者じゃないよ」
何を訳知り顔に。静流さんのヘタレっぷりはこの3カ月で厭というほど見せつけられてきた。あの子は自分に非がなくても、責められて平気でいられる子じゃない。
「だがここで逃げても最悪なのは変わらない…か…」
腹を決めたその瞬間、俺達の周りを4~5人のちょっと可愛い女の子が取り囲んだ。


「八幡!!…あんたさぁ、翔にちくった?」


だん、と机を叩いた地黒な肌に明るい髪色の女の子には見覚えがなかった。…同じ授業を選択している筈なのに。
「翔に説教されたんだけど!!」
重ね付けした付けまつげさえ毟れば、そこそこ可愛い子だと思う。云っていることの理不尽さを差し引いても。そんなことを考える余裕があったのは、カンカンに沸いちゃってるその子以外の4人は、静流さんとその子を少し遠巻きに見ていたからだろう。分厚い付けまつげの下は、意外と気弱そうな普通の女の子達だ。
いかん、俺は何をぼんやりしているんだ。俺が静流さんを守らねば。
「なっ…何ですか…?」
思わず立ち上がった俺に寄り添うようにして、静流さんは目を上げた。震えて何も云えない状況を想像していたのだが、意外にも彼女は弱々しくも、しっかりと女の子に向き直っていた。
「この前は何にも云わなかった癖に、陰でコソコソちくるってさぁ、卑怯なんじゃない!?云いたいことあんなら、ハッキリ云いなよ!!」
「ちょっと、ほんとやめなよ…」
「タオが悪いって…」
彼女について来ていた女の子達が、おずおずと声をかけるがその声は届かない。…あぁ、激高しやすい子なのだな、と妙に納得がいった。激高してしまうと、自分に分がないことが分かっていても怒りが止まらないのだろう。
…迎え撃つという選択は間違いだったかもしれない。これはクールダウンを待つべき相手だった。
「大体さぁ、あんなノート全く役に立たなかったんだけど!なのに何であたしばっかり責められなきゃいけないの!?」
「責めてないじゃん…」
「次からコピー借りようよって云っただけで…」
次からコピーじゃねぇよ勉強しろよと思ったが、どうも俺が口を出すような状況でもなさそうだ。これ以上ヒートアップして本格的な危害を加え始めない限り様子を見てても…と俺が密かに日和り始めたその時だ。


「私のノートの、何処がいけなかったんですか?」


思わず、背後の静流さんを振り返った。
俺の袖を掴みながら、おずおずと、伏し目がちにだが、静流さんは確かにそう云ったのだ。
「……はぁ?」
じり、と僅かに気圧されて、タオと呼ばれた女の子が後じさった。
「ページを3分の1分割して用語集もつけて、分かりにくい用語は別に解説もつけて、出題頻度が高い部分はしつこいくらいアンダーライン引いて、板書されなかった部分はコラムで入れて、教科書ともリンクしやすいように…」


ばさり………


紙の束がふわり…と空を舞った。余って教壇に置かれたレジュメ、俺のルーズリーフ、誰かの薄いノート。紙という紙がふわりと舞い上がり、俺達の頭上を覆い尽した。
「授業を受けた事ない人でも分かるように…私、こういう事多かったから、分かりにくいって怒られる度に全部改良して、そのうち私のノートに不満を云う人なんて一人も居なくなって…」
努力の方向間違ってない!?と場違いな感想が頭をよぎったが、空を舞う紙は仲間を呼び寄せるように、更に舞う紙を増やしていった。タオという子を始め、教室に残っていた数人の生徒達は、短く悲鳴を上げながら出口に殺到したが、それを阻むように無数の紙はドアに張り付いた。
紙の舞う教室に、俺たちは閉じ込められた。
「……奉」
頬杖をつく奉に視線を走らせたが、奉は微動だにしていない。口元には笑いすら浮かべていた。
「くっくっく…面白いねぇ…」
「分かりにくそうな部分にはイラストや図も入れて、字も読みやすいようにペン習字検定、取ったんです。…あ、イラストが却ってわかりにくくしちゃったのかな…」
「静流さん!?」
俺は気が付いてしまった。


空を舞う紙の渦は、静流さんを中心に渦巻いていた。


自分を軸に舞い続ける紙の渦など目に入らないかのように、彼女はうわごとのように繰り返す。
「何処が悪かったのかな…私のノート…」
紙は舞いながら、徐々に増え始めていた。恐慌状態の生徒たちは、まだ静流さんの状態に気が付いていない。だがそれはもう時間の問題に思えた。部屋から出られない事を理解した奴らが数人、教室内を観察し始めたのだ。
「―――鎌鼬」
口の中で小さく唱える。静流さんを中心に弧を描く紙の群れを、閃く白刃が千々に乱し、斬り落とした。更に白刃はゆっくりと空を舞う紙を切り裂き、いつしか教室を紙吹雪が満たし始めた。細かく千切れた紙片はドアを抑え込む力を失い、ドアは白い蛾の群れを振り払うようにゆっくりと隙間を見せ始めた。その隙間に滑り込むように、俺達以外の生徒たちは脱出していった。


「静流さん!!!」
軽くぴしゃりと頬を叩くと、静流さんは一瞬だけ俺と視線を交わして、そっと目を閉じて崩れ落ちた。
白い紙吹雪が、ゆっくりと俺達の上に舞い落ちる。それらは静かに、静かに床や机を覆い尽くし…やがて教室は、雪が降ったように白に覆われた。
ぐったりと白い床に横たわる静流さんを抱き起こし、教室のベンチ席に寝かせてから俺は傍らでにやついている奉を見上げた。
「―――紙舞い…ってな、聞いたことあるか」
「神無月…十月になると、風もないのに紙が一枚ずつ舞い上がる現象を妖怪に例えて…」
うろ覚えの情報をそのまま口にすると、奉は紙吹雪に覆われた教室内を見渡して、言葉を続けた。
「紙舞の元ネタとされる『稲生物怪録』では7月に起こっているんだよねぇ。必ずしも、10月とは限らない。それよりよ、この現象に非常によく似た現象があるだろ?」
―――こりゃ、要はポルターガイストだねぇ。そう云って奉は頭を2,3度、ぶるぶると振った。黒い髪から紙吹雪が数片、舞い落ちた。
「霊の仕業とでもいうのか」
「そういう場合がないとは云わないがねぇ。…激しいストレスによる、潜在能力のヒステリックな発露、という見方もある」
『キャリー』やら『ローズマリーの赤ちゃん』やら、そんなホラー小説で題材にされがちな超能力の暴走というわけか。ベンチ席に横たわる静流さんの頬に落ちる、長い睫毛の影をぼんやり眺めながら、俺は……。
「―――10月ってな、嘗ては米の収穫やら酒の醸しやら冬支度やらで特に忙しい時期だった。加えて神無月の由来でもあるが、土地の神が伊勢に集まり、留守にする『神の無い月』でもあった。…本来、守るべき神が無いこの月は、本来抑え込まれていた『魔』が沸きだすと、信じる者もいた」
「魔が沸き出す?」
「普段、土地の神が要石で抑えている鯰が暴れ出し、地震が起こりやすい…なんて云う者もいたねぇ…」
奉は何かを思い出すように遠くを睨んだ。奉自身も、迷信に惑わされる人々を目の当たりにしてきたのだろうか。
「そういった伝承は無学な連中を抑圧し、加えて多忙な状況は確実にストレスになっただろうねぇ。中にはこういう」
静流さんを指して、奉は言葉を続けた。
「カンの強い奴が居て、力を暴走させたわけだ。…この現象自体は年中あったんだろうが、神無月に起こった不吉な現象は、多少誇張されて伝わりがちだったんだろうねぇ」
「じゃあ、静流さんは…」
「云っただろう、こいつはお前が思うほど弱者じゃない。自慢のノートを馬鹿にされて」


―――怒ってたんだよ。紙が舞う程にねぇ。


くっくっく…と低く笑って、奉は羽織の袖に入り込んだ紙吹雪を振り払い、踵を返した。
「怖い女だよ、静流は」




奉が立ち去った後も俺はここを離れがたく、静流さんが目覚めるのを待った。逃げ出した生徒の誰かが事務局に報告するんじゃないかとビクビクしていたが、どういう訳だか誰も現れない。今日はこの後、この教室を使う講義もないはずだが…紙吹雪は明日まで残るんではなかろうか。
「………あ」
いつの間にか起き上がった静流さんが、起き抜けの眠そうな目で辺りを見渡した。起き上がった際に、黒髪から、細い肩から、さらさらと紙吹雪が滑り落ちた。
「……これ、どうしたのかな」
「……突風が、舞い込んでね」
迷ったが、結局真相は告げないことにした。本当の事を知れば、きっと罪悪感で押しつぶされてしまう。俺と奉以外は真相など知らないし、知る必要もないのだ。
「その拍子に本か何かがぶつかったみたいで、気を失ってたんだ。…覚えてない?」
「……ん、よくわからない」
彼女はまだ眠そうに、俺の肩に身を寄せて来た。…いつもより近い気がした。紙吹雪に覆われた教室の真ん中で、俺たちは何故か肩を寄せ合って座っていた。
「ありがとう」
静流さんが俺を見上げた。30センチもない距離で、眼鏡越しとはいえ見つめられるのは初めてだ。
「……え」
「居てくれて」
そう云って、微笑んだ。彼女はもしかして。
「それに、庇ってくれて」
……やっぱり。
「知ってたのか。その…紙のこと」
「分からないけど。…もしかしたら私かなって。あ、ノートの事も気になってたけど私その…」
肘の辺りに、静流さんの柔らかい指が絡みついた。突然の事に固まる俺を、静流さんは不安そうに見上げていた。
―――分からない。彼女は俺に、何を伝えようとしているんだ。
「……ずっと、考えごとしてました。ノートの事だけじゃなくて」
「な、何を」
声の上ずりを感づかれなければいいが…俺は冷静を装って静流さんを見下ろした。
「青島君のこと」
「俺!?俺なんかした!?紙が舞うほど悪さした!?」
悪さ、とかじゃなくて…と消え入りそうな声で静流さんが呟いた。
「今泉さんと、お話ししてたこと」
「俺と今泉の話?…なんか、馬鹿な話しかしてなかった気がするけど」
静流さんは耳まで赤くして、視線を落とした。
「ふざけんな、お断りだ……って、云ったこと」
「へっ!?」
静流さんを狙ってもいいか、と冗談交じりに今泉が訊いてきた時に、俺が『お断りだ』と半ば本気で返した話か!?
「え、あの…ごめん、もしかしてその…今泉に…興味が…?俺、余計な事した?」
云いながら胃液とか吐きそうになる。そ、それだけは、その展開だけは勘弁してくれ…!!


「私、期待してもいいのかな…って」


俺の肘に添えた掌に、もう一つの掌を祈るように重ねて静流さんが呟いた。
「え…あ…」
俺はどんな間抜けな顔をしていたことだろう。静流さんの潤んだ瞳を、どんな阿呆面で見つめ返していたことだろう。そして。
ふと脳裏をよぎった縁ちゃんの屈託のない笑顔を、どう説明すればいいんだろう。
「少しは私のこと…その…そういう風に想ってくれるって。…あの、いいんです」
『あの子』の事も、知ってるから…。
俺の心を見透かしたようなことを口ごもり、俺の腕を抱きかかえるようにして静流さんは俯いてしまった。…俺からでは、今彼女がどんな表情をしているのかが見えない。
いつからだろうか。
静流さんはこれが云いたくて、俺が時折縁ちゃんに向ける視線も知っていて、ずっと溜めこんでいたのだ。ノートは切っ掛けでしかなかった。


―――俺は真綿で首を絞めるように、柔らかく二択を迫られている。


ふいに先ほどの奉の言葉が脳裏をよぎった。
『怖い女だよ、静流は』
その言葉と、今現在俺の肘を支配する柔らかいものの感触と、脳裏をよぎる縁ちゃんのすらりと伸びた脚とが激しい紙吹雪のように俺の思考を乱しまくる。結論など出よう筈がない、こんな短時間で。
「その、急な事で俺、その…」
「…それでも、いいから」
この子は俺の心が読めるのか。俺はそれ以上何も云えずに彼女に腕をあずけていた。
これが限りなく罠に近い状況と知りつつ、振りほどくなど出来る筈がなかった。それどころじゃない。俺は更に彼女の感触や体温を欲している。
俺は彼女の柔らかい指先を机の下で握りしめ、呟いていた。
「――――静流」
さらり、と静流の黒髪が俺の肩を覆った。

 
 

 
後書き
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