俺の涼風 ぼくと涼風
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20. ……
朝。朝食を取るよりも早く、私はゆきおの部屋へと向かったが、その扉には昨日と同じく、『面会謝絶』の情け容赦ない立て札がかけられていた。
私がノムラに誘拐され、ゆきおに助けられたあの後、私はゆきおがつけてきた艤装を足につけ、意識を失ったゆきおをおぶって、摩耶姉ちゃんとともに鎮守府へと急ぎ戻った。
『ゲフッ……ゲフッゲフッ……』
『ゆきおがんばれ!! もう少しで鎮守府だから! まけんな!!!』
『ゲフッ……すず……か……今、助け……ゲフッ……ゴフッ!?』
意識がとぎれとぎれで戻るのか、それとも寝言みたいなものなのか、時折ゆきおは私の名をつぶやき、すべて終わったのに、咳き込みながら私を助けようとしているようだった。
摩耶姉ちゃんは、ボートの中で見つけたロープを使ってがんじがらめにしたノムラを曳航していた。ノムラは私とゆきおが抱き合ってる間、激昂した摩耶姉ちゃんに、ひたすら殴られ続けていたらしい。顔中傷だらけで前歯も何本が折れていて、さっきまでの威勢のよさが微塵もない。
今は海面から半身を出しつつ、なす術なく摩耶姉ちゃんに曳航され、海面から時折顔を出しては苦しそうにゲホゲホと咳込み、摩耶姉ちゃんや私に助けを懇願していた。摩耶姉ちゃんに容赦なく何度も何度も殴られ続けていたノムラは、顔もボロボロでところどころ腫れ上がり、発する言葉も随分と情けない感じになっていた。
『しゅじゅ風ッ! たしゅけろ!! 俺をたしゅけろ!!!』
『……』
『たしゅけるんだ!! 俺がお前を建造したんだぞ!! お前は、俺のしゅじゅか』
そして、ノムラが私たちに助けを懇願するたび、摩耶姉ちゃんが曳航をやめてノムラを思いっきり殴りぬいて、海に沈めていた。ノムラはその度に苦しそうに『ぐえっ』と情けない悲鳴をあげていたが、私も摩耶姉ちゃんも、助けるつもりはない。
『クしょッ……お前ら艦むしゅだろうが……! ガボっ……俺は提督だじょッ!!』
『あたしらの提督は今の提督だ。てめーなんか知ったこっちゃねぇ』
『鬼かッ……!!』
『いーやこの摩耶さまは優しいね。もし榛名も一緒だったら、問答無用で殺されてたぞ今頃』
『……ッ』
『もっとも今は、それでもよかったんじゃねーかって思ってるけどな。胸糞悪ぃ……』
そうして私達は鎮守府に到着。出撃ドックに戻った時、そこには、ストレッチャーを出して待ち構えてた白衣を来た数人の人たちと、憲兵さんたち、そして榛名姉ちゃんと提督だった。
『雪緒!! 雪緒!!!』
私からゆきおを受け取った白衣の人たちをかき分け、ストレッチャーに乗せられたゆきおの元に駆け寄る提督は、血でぐしゃぐしゃになったゆきおの頭を撫で、手を握り、必死にゆきおに語りかけていた。
『急げ!!』
白衣の人たちがストレッチャーを押してドックから出て行こうとし、提督もそれに付いて行こうとしたその時。
『雪緒!?』
『父さ……?』
ゆきおの意識が戻ったようだ。白衣を着た人たちが一端ストレッチャーを停め、提督も必死にゆきおの手を握っていた。
『雪緒、痛かったろ……辛かったろ……』
『父……さ……ぼくは……』
『……どうした?』
『涼風を……助けに、行くん……だッ……』
ドック内に聞こえるゆきおのうわ言が私の耳に届き、その途端に涙が溢れた。意識が朦朧としているゆきおは、記憶が混濁してるらしく、私が助かったことにまた気がついてないらしい。私を助けたのは、自分だというのに。
『涼風ッ!!!』
『は、はいッ!』
『こっちに来てくれ!!!』
ゆきおの声によく似ているけど、もっと大人な声をした、提督の声が私の名を呼んだ。今まで聞いたことないほどの大きさの声は、私に一切の反論を許さない迫力があった。私は、提督に従ってゆきおの寝るストレッチャーに近付き、ゆきおに私の姿を見せる。
ストレッチャーの上に寝かされたゆきおは、うっすら目が開き、うなされるように頭を左右に小刻みに振っていた。何かをつかむように力なく持ち上げゆらゆらと揺らしている震えた左手を、私は両手でギュッと掴んだ。
『雪緒!! 涼風は無事だ!!!』
『……?』
『そうだ!! あたいは無事だゆきお!! ゆきおが助けてくれたんだ!!!』
『そっか……そういえ……ば……』
『ありがとう雪緒!! お前のおかげで、涼風は助かった!!! 提督として礼を言う!! ありがとう雪緒!!!』
『てや……ん……でぃ……だって……ぼくと……すずか……ぜ……は……』
『ひぐっ……二人で、一人、だもんな……ゆきお』
『あた、ぼ……う……よぉ……』
ニッコリと笑い、いつの間にか覚えたらしい私の江戸弁を口ずさんでいたゆきお。提督と白衣の人が『そろそろ……』『お願いします』と会話を交わしたのが聞こえた。その途端、提督が私の両手をゆきおの左手からはがし、その途端、ストレッチャーはガラガラと騒がしい音を立て、入り口をくぐりドックを後にした。入り口ドアが大げさに音を立てて閉じ、ドックに静けさが訪れた。
提督はそのまま帽子を深くかぶり直し、摩耶姉ちゃんが憲兵さんたちに預けたノムラの元へ、カツカツと歩いて行く。ずぶ濡れのノムラは錯乱しているのか、エヘエヘと気持ち悪い笑みを浮かべ、私たちを眺めていた。
『……』
『へへ……エヘ……しゅじゅ風……しゅじゅ風……』
提督がノムラの前で立ち止まる。ノムラをジッと見据えた提督は、自分の怒りを必死にこらえるように、右手をギリギリと握りしめていた。震える右手に、ものすごい力がこもっているのが、遠目で見ている私にも、よく分かる。
私たちを遠目で見ていただけだった榛名姉ちゃんもまた、ノムラの顔を見ている内に、次第に怒りがこみ上げてきたようだ。髪を逆立て、鬼のような形相でカツカツと歩き、ノムラと提督の元へと向かう榛名姉ちゃんの後ろ姿は、本当に恐ろしかった。
『ノムラ提督……ッ!!!』
『エヘ……涼風……へへ……』
『あなたが……みんなをッ!!!』
提督の傍らまでやってきた榛名姉ちゃんは、ノムラを殴り倒そうと震える右手を振り上げたが……
『やめろ榛名ッ!!!』
その途端、提督の怒号がドック内に響いた。さっき私を呼んだ時以上の、ドックの空気をビリビリと振動させるほどの怒気は、私はもちろん、怒り心頭の榛名姉ちゃんの拳をも止めた。
自分の頭の上に振り上げた拳をそのまま止め、ギュッと握り込む榛名姉ちゃんの目には、じわじわと涙が溜まり始めていた。涙目でノムラを睨み続ける榛名姉ちゃんは、肩を激しく上下させ、今にもノムラを殴り殺そうとする自身の体を、提督の命令に従って、必死に、押し留めているように、私には見えた。
『でもみんなが!!! 涼風ちゃんをこの男が……雪緒くんまでこの男が!!!』
『榛名!!! 摩耶の気持ちを汲んでやれ!!! あいつもお前の艤装を装備して、お前の気持ちを汲んでくれたろうが!!!』
『……ッ!!』
『その気持ちを……お前も、汲んでやれ……!!!』
榛名姉ちゃんが、怒りを押し殺して摩耶姉ちゃんを見る。体中傷だらけで、素肌には駆逐ハ級たちに齧られた痕が残り、頭のアンテナも折れた摩耶姉ちゃんが、ドックの片隅で、腰をおろして座っている。ゼェゼェと息が切れている摩耶姉ちゃんは、怒りで震えながら涙目で自分を見つめる榛名姉ちゃんに対し、フッと力なく笑っていた。
『おい榛名ー。あたしがお前の分まで、殴って殴って殴り倒しておいてやったからさ』
『……』
『だからここはこらえてくれ。ここでお前がそいつを殴り殺して解体処分にでもなったら、あたしの頑張りも無駄になる』
『……』
『……頼むよ。榛名』
振り上げた右拳を握りしめ、涙目で再びノムラを睨んだ摩耶姉ちゃんは、やがてゆっくりと拳を下ろし、そして力なくだらりと下げ、俯いて一言『わかりました』とつぶやいた。
『……早く連れて行って下さい。これ以上ここにいたら、全員がこのクソに何をしでかすかわからない。……私を含めて』
『……わかりました。ご協力、感謝します』
提督と憲兵さんたちはそんな会話を交わし、そしてノムラは憲兵さんに連れて行かれた。
『……しゅじゅ……か……』
私が今まで抱き続けた恐怖と葛藤のすべての原因のノムラは、こうして、私たちの前から永遠に姿を消した。その後ろ姿は、あんな男に私の人生を蹂躙されていたのが信じられないと思えるほど、小さく、情けなく見えた。
それが2日前の話。提督の話によると、ゆきおはそのまま自分の部屋で集中治療を受けているらしい。今も意識が戻らないそうだ。艦娘なのに入渠で傷を治そうとしないのは腑に落ちなかったけれど……ゆきおは男の艦娘だし、私達とは違う部分があるのかもしれないと、心に留めておいた。
あの日の翌日に、提督と一緒にゆきおの部屋に入らせてもらい、ゆきおに会わせてもらった。その時のゆきおは、口に変なマスクみたいなのをつけられ、腕にはチューブみたいなのを刺されてて、ピッピッと電子音が鳴る部屋の中で、呼吸の音すら聞こえないほど、静かに眠っていた。
『ゆきお……?』
小さな声で、ゆきおに呼びかけてみる。ゆきおは、ぴくりとも反応しない。顔をよく見る。包帯がぐるぐるに巻かれていて、私からは右目しか見えなかった。
フと、ゆきおの服装が気になった。ゆきおは今、いつもの白い室内着ではなくて、とてもラフなワンピースのような白い服を着ている。テレビドラマとかでよく見る、病院に入院している人が着てるような、とても簡素な服だ。
『……提督』
『……ん?』
『ゆきお、寒そうだ』
『だな』
『あたいが今着てるカーディガン、ゆきおに返してもいいかな?』
『……ああ。ただし、着替えさせるのは医者に任せよう』
『うん』
本当は私が着替えさせたかったんだけど、そう言われたら渡すしかない。私は今羽織っているゆきおのカーディガンを脱ぎ、できるだけ綺麗にたたんで、提督に手渡した。提督は私からカーディガンを受け取り、それをジッと見つめたあと、目に涙をじわっと浮かべ、無言でドアを開き、部屋から出て行った。
その後も、私は足繁くゆきおの部屋に通っている。でも一向にゆきおは目を覚ます気配がない。変わったことといえば……眠っているゆきおの身体が、カーディガンを羽織っていることぐらいか。ゆきおは私が覗く度、まったく同じ姿勢で、まったく同じ表情で、無言で私を迎えてくれた。
今日も私は、ゆきおの部屋にやってきた。『ひょっとしたら起きているかも』そんな淡い期待を胸に秘めて、ゆきおの部屋をノックし、ドアを静かに開いてゆきおの様子を伺うが……
――やっ 涼風っ
今日もゆきおは、電子音が静かに鳴り響くこの部屋の中で、昨日と同じ姿で、静かに眠っていた。私はベッドのそばのソファに腰掛け、静かに眠る、包帯だらけのゆきおの横顔を眺める。
「……ゆきお、おはよ」
「……」
「今日もお寝坊さんか?」
「……」
「疲れたってのはわかるけどさ。そろそろ起きても、いいんじゃねーか?」
「……」
ゆきおに優しく話しかける。もちろん、ゆきおからの返事はない。それがなんだか、ゆきおはここにいるのに、ここにいないような気がして。
「……じゃねーと、あたいも、つまんねーよ」
「……」
「あたいたちは、ひぐっ……名コンビなんだろ? 二人で、一人だろ?」
「……」
「ゆきおは、ひぐっ……改白露型4番艦、なんだろ……? 涼風なんだろ?」
「……」
「起きてくれよ……ゆきおぉ……」
動かないゆきおの手に触れる。ぴくりとも動かないゆきおの右手は、ゆきおの手とは思えないほどに冷たく感じた。しばらくゆきおの手に触れていた後、私はゆきおの部屋を後にしたが……ゆきおは、今日も最後まで、目を覚ますことはなかった。
自分の部屋まで戻る道すがら、私はゆきおが目を覚ますまでの間、自分に何か出来ることはないか考えた。
自分がゆきおのために出来ること……看病……ダメだ。あの白衣を着た、男の艦娘の体調管理を担う人たちがやってるという話だ。私が出る幕はない。
……だったら、ゆきおがいつ起きてきてもいいように、毎日、ゆきおの好物を作って待っているのはどうだろう? 起きた時に、大好物の甘いモノが目の前にあれば、ゆきおなら、すごく喜んでくれるに違いない。
決めた。ゆきおがいつ起きてきてもいいように、私は毎日、ゆきおが大好きな甘いモノを作って待とう。毎日一つ、甘いものを作ってゆきおが起きるのを待っていよう。そして起きたら、いの一番に、私が作った甘いモノを食べてもらおう。
そう決めた私は、早速榛名姉ちゃんに相談し、以前に教えてもらったマフィンのアレンジの仕方や、他にもショートブレッド、鳳翔さんから習った豆大福と冷やしおしるこ……色々なものを教えてもらい、そして一緒に作った。
そして出来上がったお菓子をその度にゆきおの病室に持っていくのだが、ゆきおは未だに目覚めない。
それでも私は、毎日作り続けた。ゆきおは今、疲れて眠っているだけだから。きっとそのうち『おはよー』って起きだして、『おなかすいた……』ともぞもぞと動き出し、キャスターの上に置いてある私が作ったお菓子を見て、『お菓子ッ!?』と途端に興奮し、もっちもちのほっぺたになって、私が作ったお菓子を食べてくれるはずだから。
そして、『あのお菓子、めちゃくちゃ美味しかったな〜……』って口ずさんだ時に、『あたいが作ったんだぜ』って言うんだ。びっくりさせるんだ。きっとゆきおのことだから、『ぇえッ!?』と目を白黒させて、びっくりするに決まってる。その顔が見たいんだ。
だから、早く起きてよゆきお。あたいとゆきおは二人で一人なんだろ? 同じ涼風なんだろ? ゆきおが起きてくれないと、つまんないよ。寂しいよ。
今日も私は、榛名姉ちゃんと一緒にお菓子を作る。今日作ってるのはスコーン。生地にラズベリーを混ぜて焼いた逸品。以前に作ったブルーベリーを乗せて焼いたマフィンよりも、もうちょっと酸っぱい感じ。だけどきっと、ゆきおの口には合うはずだ。
すべての下準備を終えて、私は今、スコーンを現在進行形で焼いているオーブンの前に、榛名姉ちゃんと一緒にいる。摩耶姉ちゃんは、私がお菓子を作っているときは姿を見せない。いつも私にゆきおの様子を聞いてきて、『そうか』と一言だけつぶやいて、あとはその話題には触れず、私と一緒にいてくれる。だけど今日みたいに、お菓子を作ってる最中は、『あたしは柄じゃねーし』と言って、榛名姉ちゃんに全部任せてるみたいだ。
「……涼風ちゃん」
「んー? どしたー榛名姉ちゃん」
「雪緒くんは、まだ目覚めませんか?」
スコーンが焼き上がるのを待つ間、私と榛名姉ちゃんは、一緒にじっと、オーブンの中を見つめ続けた。黄金色に輝くオーブンの中では、ゆっくり、じっくりと、スコーンが膨らみ始め、そして焼き色がつき始めている。
「……うん」
「……」
「でもそのうちさ。あくびしながら起きてくるって。だからあたいは、ゆきおがいつ起きてきてもいいように、こうやってお菓子作ってんだ」
「……」
「だってゆきお……あたいが作ったお菓子、まだ食ってないからさ」
「……ですね」
スコーンの焼き色が目立ち始めた。タイマーを見ると、残り時間はあとわずか。部屋の中に美味しそうな香りが漂い始め、私と榛名姉ちゃんの鼻とお腹をこしょこしょとくすぐりだした。
チンという小気味いい音が鳴り響き、オーブンが、中のスコーンが焼きあがったことを告げた。
「よーし。んじゃ出すぞー」
キッチンミトンを両手に装着し、私がオーブンの蓋を勢い良く空ける。そしてそのまま中の天板を取り出した。私達の前に、綺麗に焼けたスコーンが6つ、胸の奥まで届く甘い香りと共に姿を表した。
「んー……いいにおい……」
「うん。いい香りです」
「これだけいいにおいしてたら、ゆきお、起きちゃうかもな!!」
……起きろよ。こんなにいいにおいなんだから。
「……ですね。きっと雪緒くん、この香りに包まれたら、お腹すいて起きちゃいますね!」
「うんっ!」
榛名姉ちゃんも満面の笑みでそう言ってくれてるし、焼きたてをゆきおの部屋に持って行きたい。そう思った私は、笑顔で見送ってくれる榛名姉ちゃんを残し、ゆきおの部屋へと焼きたてのスコーンを二つ届けることにした。残り2つのスコーンは、自分の部屋に置いておく。あとで自分で食べるために。
スコーンのいいにおいを周囲に漂わせながら、私はお皿に二つの焼きたてスコーンを乗せ、ゆきおの部屋のある宿舎へと足を運ぶ。いつもの入り口の、つい先日出来た自動ドアを通りぬけ、私はいつものように階段を駆け上がり、三階へと急いだ。
三階に到着したら、迷わずゆきおの部屋へと足を運ぶ。ドアの前に立ち、念の為、ドアをコンコンとノックした。
「おーい! ゆきおー! ゆーきーおー!!」
――はーい 涼風?
そしてやっぱり、ゆきおからの返事はない。
少しガッカリとした気持ちを上向きに修正し、私はドアノブに手をかけようと、お皿を支えた右手を離し、ドアノブを回そうと手をかけたその時。
「……!?」
「……提督?」
私が手をかけるよりも早くドアノブが回り、ドアが開いた。その向こうにいたのは、提督。
「……涼風」
「よっ。提督っ」
ほんの少し目を赤く腫らした提督が、私の持っているスコーンの皿を見た。私が持つ二つのスコーンは、今も周囲に、香ばしくてちょっと甘酸っぱい、とてもいい匂いを漂わせ、見る人の食欲を刺激し続けている。
「……これは?」
「いい匂いだろ? 今日もゆきおがいつ目を覚ましてもいいように、お菓子持ってきたんだ!!」
「……そっか。ありがと」
「うんっ」
提督がうつむき、帽子を深くかぶり直した。そして私の手からスコーンが乗った皿を優しく受け取り、部屋の中に入る。
私も続けて入ろうとしたが、提督はそれを手で制止した。本当は私も入りたかったけれど、当の提督すら、ドアのすぐそばで足を止めているし、私もここは遠慮しておくべきだ。そう思い、無理に中に入るのはやめることにした。
「すまない。雪緒の相方がスコーンを作って持ってきてくれたんだ。ベッドのそばに置いてもいいだろうか」
「いいですよ。むしろその方がいい。置いてあげて下さい」
「……感謝する」
部屋の中からこんな声が聞こえる。それが何を意味しているのか私には分からない。だけど、スコーンがゆきおのすぐそばに置かれるのは分かる。よかった。スコーンのこのいい匂いをゆきおに届けることが出来る。ひょっとしたら、これでゆきおは目を覚ますかも知れない。
一度部屋の中に戻った提督が、再びドアから姿を表した。提督はそのままドアを閉じて背を向け、私とドアの間に立ちふさがるように、静かに俯いて、立っている。
「……」
「……提督?」
「……ん? ああ、どうした?」
その時の提督の声は、私の気のせいかも知れないけれど、少し震えているような気がした。
「あたいのスコーン、置いてくれたか?」
「……あ、ああ! 置いておいた。いい香りだったな」
「うん。あの匂いかいだら、ゆきおも起きてくるんじゃねーかな?」
「……ッ」
「?」
「……そだな!」
提督は、一度息を大きく吸い、そしてフゥッと息を吐いた後、私の頭に震える右手を乗せ、私をいたわるように、優しく頭をなでてくれた。
「ありがとな。涼風」
「んーん。ゆきおはあたいを助けてくれたし、あたいとゆきおは、二人で一人だから」
「だな。……お前、もう雪緒の相方だもんな」
「相方?」
「二人で一人ってことだよ」
「うん」
提督は、震える右手で私の頭を撫で、そして震える声で私に話しかけてくる。時折『ふぅーっ』と大きなため息をついて、なんだか必死に平静を装っているように見えるけど……
「ところで提督」
「ん?」
「あたいもさ。ゆきおに会いたいんだけど……」
私を見下ろす提督の眼差しが、少し険しくなった気がした。大きく深呼吸をする提督の姿が、なんだか見ていてとても痛々しい……。
「ふぅー……」
「提督?」
「……ごめんな。今、ちょっと会えないんだ」
「そうなのか?」
「ああ。アイツ今、治療中でさ。パンツ姿になってるんだ」
「そっか……」
「あいつのパンツ姿を見るのは、アイツ自身がお前に見せるまで、待ってやってくれ」
……なんだか、以前にも同じセリフを聞いたような……でもゆきおのパンツならもう見たんだけど……でもそれは、今は提督には黙っておこう。
その後『落ち着いたし、そろそろ事情聴取がしたい』ということで、私は提督とともに執務室に足を伸ばすことにした。本当はゆきおの部屋に居たかったのだが、ゆきおの父親に『パンツ姿は待ってやってくれ』とお願いされたのなら仕方ない。私は、私の後ろを歩き、私の背後で時折『……ッく』と声を上げてる提督とともに、廊下を歩き、そして執務室の前のドアの前に到着する。
「んじゃ提督、先にはいるぜー」
「……んー」
私は執務室のドアノブを握り、それを回して、いつものように、でもいつもより少しだけ静かに丁寧に、ドアを開いた。
――バキッ
「あ……」
「……」
静かに、注意深く開けたはずなのだが、蝶番がだいぶもろくなっていたのだろうか。私がドアを開いた途端、そんな痛々しい音と共にドアがはずれた。そしてガタンという音と共に、私が握っているドアノブがはずれ、ドアが床にバタリと落ちた。
「ごめん、提督……」
「……いいよ。俺が直すから、ドアノブくれ」
「あい」
帽子を目深に被った提督に、ドアノブを渡す。提督は以前のように、ポケットから接着剤を取り出すと、それを慣れた手つきでドアノブの接合面に塗っていき、そして倒れたドア本体にぺたりと接着した。
「……やっぱ提督、すげーな」
「すごくなんかねーよ……」
目深に被った帽子のせいで、提督の視線が見えない。そのまま提督はドアノブをガシャガシャと回し、キチンと動くか確認したあと、『……っく』と震えたような声を上げ、ドアを持ち上げて、蝶番をガチャガチャと合わせ始めた。
「……なんでだ……」
でも、以前のようにスムーズに蝶番を合わせる事が出来ない。提督は『……っく』と時折声を上げ、重いドアを必死に持ち上げ蝶番を合わせようとするけれど……
「……なんでだ」
「……提督?」
「なんでだよッ……」
なぜか今回は、うまく蝶番が合わなかった。提督は必死に蝶番を合わせるべく、力いっぱいドアを持ち上げ、必死にガチャガチャと蝶番を合わせようとするけれど、そんな提督の頑張りをあざ笑うように、蝶番ははまらない。
「……ちくしょっ……なんでだよ」
「手伝おうか?」
「なんで……なんでなおらないんだよッ……なんでだよッ」
提督の声に、次第に苛立ちが感じられるようになってきた。『なんでだ』と何度も口ずさみ、ガチャガチャと乱暴に蝶番を合わせようと頑張るけれど、蝶番は一向にはまらない。
必死に蝶番を合わせる提督の横顔を見た。提督は、泣いていた。
「ちくしょッ……なんでだよッ……なんでなんだよッ!!!」
「提督!?」
私の見ている目の前で、提督は持ち上げていたドアを壁にたたきつけた。バカンという大きな音が廊下に鳴り響き、私はびっくりして提督を見た。
「なんでだよッ!!! なんでなおらないんだよ!!!」
「提督! 落ち着けって!! 提督!!!」
「ずっと頑張ったんだぞ!! 必死に頑張ったんだぞ!! なのになんでだ!!! なんでなおらないんだよ!!!」
壁に立てかけられたドアを殴り、蹴り、口から唾をたくさん飛ばし、涙をボロボロと流して、提督は必死に叫んでいた。
提督の叫び声はとても大きくて、廊下全体に轟いていた。何事かと曲がり角から顔を覗かせる子もいた。でも提督はそれをまったく気にせず、何度も、何度も、ガツガツとドアを拳で殴っていた。次第に提督の拳に血が滲み始め、皮膚が破れたことを私に伝えたが、それでも提督は、ドアを殴る拳を止めなかった。
「提督!!! やめろ!!! 手が壊れちまう!!!」
「構うか!!! 俺の手なんか壊れたっていい!!! これでなおるんならいくらでもぶっ壊してやる!!! ぶっ壊れりゃいいんだこんな役立たずの手なんて!!!」
「ダメだよ提督!!! 痛いだろ!? やめろって!!!」
「なおせよ!!! なおれよ!!! なんでだよ!!! がんばったんだぞ!!! ずっとがんばってただろうが!!!」
「もうやめろ!!! 提督!!! やめろ!!!」
私の声をきかず、提督は右拳を大きく振り上げ、そしてドアに向かって振りぬいた。これ以上ドアを殴り続ければ、提督の手はこわれてしまう……私は提督の拳がドアに当たる寸前、提督の右拳を両手で抱きとめ、そしてギュッと抱きしめ、提督の右腕を制止した。
「……!?」
「提督……ッ」
「涼風……」
「もうやめろ……手が……ダメになっちまう……ッ」
提督が私を見た。目が真っ赤に腫れ、鼻水も出て、口から唾もいっぱい出して叫んでいた提督の顔は、ぐしゃぐしゃに汚れていた。見開いた両目で私を見る。いつもの提督からは想像もつかないほど、その目はとても弱々しく、そして怯えていた。
「わりぃ提督……もう、ドア壊さねーから……」
「……」
「壊れたら、あたいも手伝うから……だからもう、やめてくれ……ッ」
私は必死に、提督を諭すように、声をかける。提督を落ち着かせるように……
「………ゃないよ……」
ポツリとつぶやく提督の言葉が、よく聞き取れなかった。
「提督?」
「……違うんだ……違うんだよッ……!!」
「……」
「違うんだよ涼風!!! 違うんだ……違うんだッ……!!!」
「落ち着けって! 提督!!!」
「ぁぁぁぁああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!」
提督の膝がガクリと落ちた。そのまま両膝を尽き、涙と鼻でぐしゃぐしゃになってしまった顔を、ボロボロに傷ついた両手で覆い、大きな声を上げ、子供のように泣き出した。
「提督……提督……ッ!」
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!! あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!」
私はどうしていいのか分からず、大声で泣き叫ぶ提督の頭を必死に抱きしめ、提督を落ち着かせようとした。何度も何度も提督を呼び、ギュッと抱きしめ、提督を落ち着かせようとした。
だがそれでも提督は止まらず、私の胸の中で、涙をボロボロと流し、鼻を垂らし、唾を吐きながら、それでも大声で、泣いて、泣いて、泣き続けた。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!! ぁぁぁあああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!」
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