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俺の涼風 ぼくと涼風

作者:おかぴ1129
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14. 二人だけの夜(1)

「……今朝、ヤツが脱獄したそうだ」

 ゆきおとの外出のあと、私は提督に執務室に呼ばれ、そして、知りたくなかった事実を告げられた。その途端、私の身体の芯に、氷水が流された感覚が走り、手に力が入らず、足がガクガクと震え始めた。

 提督の話によると、刑務所に収監されていたノムラの脱走が発覚したのは、今朝だそうだ。刑務官がノムラを呼びに独房に向かったところ、すでにノムラの姿はなかったらしい。手口は分からない。だがその場には、ノムラの囚人服が脱ぎ捨てられていたことから、周到に計画された脱獄であることが、見て取れたそうだ。

「あ、あのさ……提督」
「ん?」
「ゆきおは……?」
「……この話はまだゆきおに聞かせたくないだろう。自分の部屋に戻ってもらった。お前のことをひどく心配してたけどな」

 帰り際、バスの中でゆきおは、ずっと私の手を握ってくれていた。そればかりか、恐怖で身体をガクガクと震わせる私を気遣って、自分のダッフルコートを私に羽織らせてくれ、握った手を必死にさすり、なんとかして私を温めようとしてくれていた。確かに私は、ゆきおのダッフルコートを羽織ってみたいと思ったけれど、それは、こんな絶望下でのことじゃない。もっと、二人で笑顔を浮かべながら羽織りたかった。それなのに……。

「……実はな。摩耶にお前たちの監視を頼んでいた。お前たちでは対処出来ない事態に備えてのことだったが……」
「……」
「その摩耶が言うには、お前が雑貨屋の前で急に身体を震わせ始めた時、何人かの人間がお前とすれ違ってたらしいな」
「う、うん……」
「その中の一人がノムラだったんじゃないかと言っていた」

 摩耶姉ちゃんが私たちのことを見守ってくれていたということも知らなかったけれど……あの雑貨屋の前ですれ違った人たちの中に、ノムラがいたのか……たくさんのお客さんがいたから、私は全然気が付かなかった……

「お前に接触してきたということは、お前にまだ固執しているんだろう」

 私の胸が、誰かの手にギュッと鷲掴みされたかのような感覚……息苦しく、不快な感触が胸を襲う。

「この鎮守府にいる以上余計な心配はいらないが……念の為だ。以前に渡した発信機は、常に身につけておけ」
「うん……」
「一人で部屋に戻れるか?」
「大丈夫」



 執務室をあとにした私は、そのまま一人で自分の部屋へと戻る。一人で歩く夜の廊下は、カツカツと私の足音が必要以上に鳴り響くほど静かで、それが私の恐怖をかき立てた。

 いつも以上に、廊下に響く私の足音がうるさい。それこそ、お昼のスーパーの中の喧騒以上に騒がしく感じる。このうるさい音にまぎれて、あの男の息遣いが聞こえてくるようで……ノムラが微笑むニチャリという音が紛れているようで、私は歩きながらも耳をそばだて、神経を研ぎ澄ませ、そしてすり減らす。

 曲がり角では、死角からノムラが姿を見せそうで……まっすぐなところでは、奥の暗闇に紛れてノムラがニチャリと笑ってそうで……提督には大丈夫だと言ったが、一人で廊下を歩くという行為そのものが、今の私には恐怖以外の何者でもなかった。

 恐怖に苛まれながらやっとのことで自室に戻り、急いでドアを閉じて、カギをかける。部屋の明かりをつけ、室内に誰もいないことを確認し、やっと安堵のため息がこぼれた。

「ふぅ……」

 途端に私の身体に、疲労感がドッと押し寄せる。これは身体の疲労ではない。神経を必要以上に研ぎ澄ませ、すりへらし過敏になってしまった、私の心の疲労だ。

 ドアの向こうから、ギシッという、誰かの足音が聞こえた。心臓が口から飛び出てきそうなほどの衝撃が私の全身を駆け巡り、私は慌ててドアを振り返る。

「……!?」

 私はジッと動かず、ドアの向こうを睨みつけた。緊張と恐怖の中、数十分とも数時間とも思えるほどの長い数秒のあと……

『……ったく……濃口醤油のくせに……』

 ドアの向こうから聞こえてきたのは、いつかの空母のお姉さんの声。ノムラではないその声に、全身から緊張が抜け、安堵のため息をこぼした。緊張をといた身体からは必要以上に力が抜け、私の身体はガクガクと震え始める。

「……ッ!!」

 腕に力が入らない。寒い。必死で両の二の腕をさするが、私の身体を襲う寒さが取れない。足から力が抜け、私はそのままガクンと崩れ落ち、両膝をついた。

「ちくしょ……ちくしょ……ッ!」

 寒い。冷たい。誰か私を温めて欲しい。あの男に抱かれ、冷たく冷やされた私の身体を、誰か温めて。

「ゆきおぉ……寒いよぉ……」

 ポツリと口をついて出た。私は今、誰よりも、ゆきおに会いたかった。

 しかし。その道のりにノムラが隠れているんじゃないかと思うと、怖くて怖くて、ゆきおの部屋まで行くことができなかった。



 その日からしばらくの間、私は眠ることが出来なくなった。どれだけ身体が疲れようと……どれだけ睡魔に襲われようと……ノムラへの恐怖によって、私の身体は睡眠を禁じられてしまったかのように、眠ることが出来なくなった。

 ゆきおに出会って久しく忘れていた感覚が、再び私の身体を蝕むようになった。寝ようとする度……誰かと話をする度……その声は、私の耳にべたりとへばりつく。

――涼風……

 その声が、何度でも私の頭の中で鳴り響き、心臓を縛る。聞こえた途端、私の胸は一拍だけの大きな鼓動を響かせ、そして次の瞬間、私の全身から力を吸い取り、熱を奪い去っていった。

 今日も私は、一睡も眠ることが出来ず、朝を迎えた。重い身体を引きずり、朝ご飯を食べるために食堂に向かう。最近は摩耶姉ちゃんも姿を見せない。少しさみしいが、それが『少しでも眠れるように』という摩耶姉ちゃんの気遣いであることを、私は知っている。

 鏡の前で、自分の顔を見た。今日もクマがひどい。榛名姉ちゃんのおかげで、最近は自分のクマを隠す方法もわかってきた。今日もクマを隠さなきゃ……

「うう……」

 お化粧しなきゃと思い、榛名姉ちゃんに教わった通りリキッドタイプのファンデーションを手に取ったが……身体が重く、どうしてもこれからお化粧しようという気になれなかった。私は、自分のひどいクマをそのまま放置し、朝ごはんを食べるために食堂に向かった。

 食堂に到着し、様子を伺う。摩耶姉ちゃんはゆきおと同じテーブルで朝ごはんを食べていて、榛名姉ちゃんは金剛型のみんなで談笑しているようだ。私は何も言わず鳳翔さんから朝食が乗ったお盆を受け取り、摩耶姉ちゃんとゆきおが座るテーブルに向かう。

「ゆきおー。摩耶姉ちゃん。おはよー」
「涼風ー。おはよー」
「おはよ」

 テーブルについた私を、ゆきおと摩耶姉ちゃんはいつもと変わらない調子で迎えてくれた。正直なところ、この対応はありがたい。腫れ物でも扱うようにされると、こちらも心苦しくなる。

「昨日も夜ふかし?」
「うん」

 ゆきおのなんてことない問いかけに、私もなんてことない返事を返す。きっとゆきおは私の異変に気付いているが、摩耶姉ちゃんの前だからなのか、そのことに触れてこない。でも、ゆきおの優しいまなざしが物語っている。ゆきおは、私を心配し、気遣ってくれている。

 手を合わせて、『いただきます』と宣言し、お味噌汁に口をつけた。カツオの出汁が効いた逸品……のはずなのだが、あまり美味しいと感じない。実もお豆腐とわかめで、決して嫌いてはないものなのに。

 そのままアジの開きに箸を伸ばした。……やはり、言うほど美味しいと思えない。身は分厚くてふっくらと焼きあがっているのに……。

 ……美味しくない。なんだか味を感じない。私の食欲が、俄然なくなってきた。

 フと、私の向かいですまし汁を飲む、ゆきおの顔が視界に入った。うっすらと目の下にクマができているように見えるが……。

「なーゆきおー」
「んー?」
「ゆきおも眠れないのか?」

 ポロッと言ってしまった。これじゃあ、私自身、毎晩よく眠れないと言っているようなものだ……。でもゆきおはそこまで考えが及ばなかったようで……いや、むしろ他のことに気を取られていたようで、私に対してそのことの追求は特にせず……

「ソ、そんなことないよ?」
「そっか」

 と両手をわちゃわちゃさせながら答えていた。余り触れてほしくない話題らしい。これ以上、そのことには触れないようにしよう。ゆきおも気にはなるけれど、気の進まない朝食を食べることに専念することにした。

「おはようございます」

 ゆきおのクマに気を取られている間に、榛名姉ちゃんが私たちのテーブルにやってきたようだ。お茶が入った湯呑を片手にやってきた榛名姉ちゃんは、ゆきおの隣に座り、私とゆきおの顔を交互に覗き込んでくる。クマが気になって仕方がない……といった感じだ。

「今日はクマ隠さなかったんですか?」
「うん。起きたのがついさっきでさ。腹減ったし、お化粧する前に来ようと思って」
「その割には全然お箸が進んでないみたいですけど……」

 う……痛いところをついてきた……

「そんなことねーよッ! あまりに美味しいから、ゆっくり食べてるだけだって!」
「ならいいんですけど……」

 つづけて榛名姉ちゃんは、ゆきおの顔も覗き込んでいる。『雪緒くんも気になるなら、榛名が隠しましょうか?』『いや、ぼ、ぼく男ですから……』と会話を続けている二人。私の隣で黙々とご飯を食べている摩耶姉ちゃんがちょっと不気味だ。いつもならみんなの中で一番騒がしいのに……。

 榛名姉ちゃんにクマのことを追求され、それを冷や汗混じりにはぐらかしながらも、ゆきおは、時折私を心配そうにチラッと見る。そしてその度に、私はゆきおから顔を背けた。ゆきおと一緒にご飯を食べていられることはうれしいけれど、今、ゆきおに見つめられると、昔の、知られたくないあの日のことまで見透かされてしまいそうで……

「ご、ごちそうさまっ!」
「すずかぜ?」

 ゆきおの心配そうな視線が耐えられない……私は朝食を中断し、自分の部屋に戻ることにした。箸を置き、お盆を持って、椅子からガタンと立ち上がる。

「全然食べてないですよ?」
「う、うん。なんか急にお腹いっぱいになって」
「?」

 榛名姉ちゃんからの、相変わらずの無邪気で厳しい追求をなんとかかわした。仲直りが出来たことはとても嬉しいけれど、こういう時の榛名姉ちゃんは、空気を読まず問答無用で追求してくるから困る。

「すずかぜ?」
「ん?」
「大丈夫?」
「……だーいじょぶだって! 心配しすぎだゆきお!!」
「そお?」
「あたぼうよお!」

 ゆきおも私に優しく声をかけてくれた。その柔らかい声が耳にとても優しくて温かくて、声を聞くだけで、涙がこぼれそうになる。今泣いたらダメだ。こらえろ。ゆきおに心配かけちゃダメだ。私はゆきおから顔を背け、顔を見られないように俯いてテーブルを離れた。

「……あんま無理すんなよ」

 去り際、摩耶姉ちゃんのお茶を飲みながらの一言が、胸にグサリと刺さる。私は今テーブルに背中を向けてるから、3人がどんな顔で私を見送っているのか分からない。だけど、不思議と今、ゆきおが心配そうな眼差しで私の背中を見つめていることだけは、手に取るように分かった。

 摩耶姉ちゃんには返事をせず、私はおぼんを持ってその場を離れた。これ以上あの空間にいると、私はみんなの優しさに包まれて泣いてしまう。それはダメだ。そんなことをしてしまえば、またゆきおに余計な心配をかけてしまう。私はそのまま台所にいる鳳翔さんに事情を説明して、朝食をそのまま持ち帰る許可をもらって、自分の部屋に戻った。



 その日は一日中、自分の部屋にこもっていた。幸い私は今、ノムラ脱獄の件もあり出撃と遠征の任務は与えられてない。身を隠すという意味でも、自分の部屋に引きこもろうと思えば引きこもることも出来る。

 お昼になってもお腹が減らず、夕食の時間になってもお腹が減らず……8時頃になってやっと少し空腹になってきた。私は取っておいた朝食の残りをなんとか食べ終えたが、アジの開きもご飯もたくわんも何もかも、味も香りも歯ごたえも感じることが出来なかった。とても味気ない、一人だけの夕食だった。

「……」

 夕食をなんとかすべて平らげ、久々に私の目が重くなってきていることに気付いた。明日の朝に食器を食堂に持っていけるよう、準備だけを済ませ、寝巻きにも着替えず、私は床につき、部屋の明かりを消す。

「……」

 豆球だけは点けておく。ノムラ脱獄の話を聞き、すべての電気を消すことに恐怖を感じたからだ。私はそのまま目を閉じて、久々に感じる心地よい眠気に身を委ねた。

………………

…………

……

『みんな……進むのデス……』

 全身血塗れの金剛さんが、比叡さんの肩を借り、立ち上がって、私たちにそう告げた。その途端、騒然とする艦隊の仲間たちをよそに、金剛さんは比叡さんとともに、私のそばまで近づいてくる。金剛さんの足元の海面は、ポタポタと滴り落ちる金剛さんの血で、真っ赤に染まっていた。
『こ、金剛……さん……どうして……』
『みんな……あなたが……ゴフッ……』

 口を押さえ、血を吐く金剛さんは本当に辛そうだ。大破どころの騒ぎではない。金剛さんは気を抜いた途端、足元が海に呑まれ、轟沈してしまうだろう。そのような状況の中で、金剛さんは先に進もうと言う。私は、意味が分からなかった。

『バカな金剛ッ!!』

 私たちから少し離れたところで、那智さんがそう叫んでいた。那智さんは先ほど、提督に啖呵をきったばかりだ。気も少し立っていて、彼女はとても冷静ではない。

『貴様気でも触れたかッ!? このまま進めば貴様は間違いなく轟沈するぞ!!!』
『そ、そうです! 金剛さん! ここは引き返しましょう! 提督の言うことなんか……ね、涼風ちゃん!?』

 五月雨も那智さんに同調した。さっきまで私の隣で顔が青ざめているだけだった五月雨は、金剛さんの惨状を見て。ハッと我に返ったらしい。

『ノー……今、ワタシたちが戻っても、結果は同じネ……あの人は、やると言ったら、ためらいなくやる人デス……』
『だがな金剛! このまま進めば貴様は確実に沈む! だが戻れば、まだ希望はあるんだ! 入渠して、傷を癒やせばッ!!』
『ワタシが傷を癒やせば……他の誰かが、轟沈しマス……それに、このメンバーは鎮守府でも最強の面子ネ……ワタシたちでケリをつけないと……犠牲者が増えるだけデス……』
『……ッ』
『ワタシは……みんなに、辛い目に遭って欲しくはないのデス……』

 金剛さんの冷静な反論に、那智さんも黙ってはいなかった。自らすすんで死地に赴こうとする金剛さんを止めるため、那智さんも鬼の形相で金剛さんに怒号を飛ばす。

 一方、金剛さんは体中から血をだらだらと流しながら、力の篭ってない言葉で、しかし冷静に那智さんを諭す。金剛さんは、すでに死ぬ覚悟ができているようだ。その上で、自分と同じ目にあう人をこれ以上出すまいと、任務の続行を提案している。

『涼風……確かに、金剛の言う通りだ。あたしたちが任務達成出来なかったとなると、他の誰にもこの任務は出来ねえ』
『……ッ』
『クソっ……』

 那智さんの隣で、今の私たちの言い合いをじっと聞いていた摩耶姉ちゃんが、歯ぎしりをしながら悔しそうに、そう吐き捨てた。真っ黒な空をにらむその姿からは、押し殺した怒りがにじみ出ている……。

 私は、決断が出来ず、ただその場に立ち尽くした。このまま進めば、金剛さんは確実に轟沈するだろう。その意味では、ここで撤退する以外に選択肢はない。

 だが金剛さんも言ったとおり、提督は、『やる』と言ったことは、ためらいなくやる男だ。もし私たちがこのまま撤退したとしたら、提督はきっとそのまま私たちを再度出撃させるだろう。それこそ、間宮のアイスを無理矢理私たちに……いや、私以外のみんなに必要以上に食べさせ、麻薬を摂取したかのように不自然に戦意を高揚させたのち、出撃させるはずだ。そしてその時の面子は、私たちの鎮守府で考えうる最強のメンバー……つまり、この面子。

 そしてもし私たちが、金剛さんを犠牲にしてこの海域の制海権を奪取出来れば……金剛さん以外の犠牲は……きっと、ない。

 伏し目がちに金剛さんを見る。金剛さんは微笑みながら、私をジッと見据えていた。肩で息をし、時折苦しそうにむせ、その度に口から血をはいているが、その澄んだ眼差しは、私をジッと見据え、そして『行きましょう』と言っていた。

『……比叡さん』
『はい……』
『あたい、どうすればいいかわかんねー……比叡さんはどう思う?』
『金剛お姉様の決断は……私の決断です』

 止めてくれると思っていた比叡さんも、金剛さんの決断を肯定した。ダメだ。このままでは、私は金剛さんを犠牲に、任務続行の決断をしてしまう……

『みんな……あのさ……』

 私は口を開いた。那智さんが私を見た。五月雨もすがるような眼差しで私を見つめる。金剛さんと比叡さんの眼差しは、共に私の決断を促している。摩耶姉ちゃんは私に背を向け。拳をギリギリと握りこんでいる。

『任務は……』
『涼風ちゃん!!!』

 不意に五月雨が私の前に飛び出し、両手を大きく広げ、大の字になって私の前に立ちふさがった。その途端……

『さみだ……』

……

…………

………………

「五月雨ぇぇえエエエ!!!」

 ……誰かに首を上から絞められているような息苦しさの中、私は五月雨の名を絶叫し、目が覚めた。右腕を天井に向かって精一杯伸ばし、心臓が痛いほどの鼓動を繰り返していた。胸のバクンバクンという音が、身体を通してではなく、外から聞こえる音のように感じるほど、私の心臓は今、激しくもがいていた。

「……くッ」

 上に伸ばしていた右腕をだらりと下げ、私は周囲を見回した。今私が横になっているのは自分の部屋だ。海の上でも戦場でも……まして、忌まわしいあの日でもない。

 上体を起こし、身体の感触を確かめる。季節はもう冬だから室温は低いはずなのに、体中はべっとりと汗をかいている。

「ハッ……ハッ……」

 思い出したように息が切れた。息苦しさに拍車がかかり、浅い呼吸しか出来ない。自分が吐いた息が白い。身体が震える。あの日の恐怖が、私の身体を今、取り囲んでいる。

「……っく……ひぐっ……っく……!!」

 あまりの恐怖に涙がこぼれてくる。自分の二の腕をさすり、寒さに震える身体を温めようとしたが、身体はむしろどんどん熱を失い、そしてさすればさするほど、凍えるくらい寒くなっていった。

「寒い……寒いよ……」

 布団にうずくまろうと掛け布団に手をかけ、氷のように冷たい掛け布団の感触に手をひっこめた。改めて、自分の周囲を見回す。私の部屋のはずなのに、この場が何か別の空間……まるで、忌まわしいあの日の海のように感じた。

「寒いよ……寒いよ、ゆきおぉ……」

 布団に潜り込むことも出来ず、身体を温めることも出来なくなった無力な私は、ゆきおの名をポツリと口にした。

「ゆきお……あたいを温めて……ゆきおぉ……」

 ゆきおに会いたい。ゆきおに会って、冷えきった手を温めて欲しかった。カーディガンを肩にかけてもらって、ゆきおの暖かい笑顔に、心を温めて欲しかった。

 私は、凍える身体をなんとかベッドから起こし、そのまま部屋の入り口を開いて、外履きを履いて廊下に出た。

「……ッ」

 窓の外の月明かりだけが頼りの暗闇の廊下が、私の視界いっぱいに広がった。曲がり角の暗闇が恐ろしく、かすかに聞こえる窓を揺らす風の音が、私の心をすり減らす。

 でも、このままここにいては、私は凍え死んでしまう。あの男の恐怖に取り殺され、あの日の罪悪に潰されてしまう。私の心が勇気を振り絞り、震えて動かない身体に鞭打って、ゆきおの部屋へと足を向けさせた。

 物陰が視界に入る度、私の心臓が悲鳴を上げた。風の音が聞こえる度、私の身体がビクリと過剰に波打った。何も音が聞こえなければ、ここにいるはずのないノムラの雰囲気を感じ、物音が聞こえれば、その音の鳴った方向にノムラの姿が見えた気がした。それでも、私は必死に足を動かし、一歩一歩、ゆきおの部屋へと歩を進めた。

 今までとはまるで違う世界のようにも見える、ゆきおの部屋への道のりは、私の神経を過敏にさせた。桜の木の影からノムラがこちらを見つめているような気がした。そんなはずないと桜の木を凝視したとたん、桜の木そのものがノムラの姿に見え、心臓が鼓動を一瞬止めた。

「……ッ!?」

 その直後、それがただの桜の木であることに気付く。心臓の鼓動が再開した。さっきまで止まっていたとは思えないほどバクンバクンと痛々しく鼓動を続ける私の心臓は、その音に反して、驚くほど少ない血液しか体中に送ってくれない。私の足が寒さと恐怖で歩を止めそうになる。

 渾身の力を振り絞り、桜の木の下から上を見上げた。ゆきおの部屋の明かりは……付いている。ゆきおはまだ起きている。あと少しだ。あと少しで、ゆきおに会える。ほんの少しだけ勇気をもらえた私は、震える足をなんとか前に出し、再び歩き出した。

 宿舎入り口をくぐり、受付のガラス扉にうつる自分の姿に恐怖を感じ、私はエレベーターの乗降口の前まで来た。行き先ボタンを押し、エレベーターが到着するのを待つ。

 『チン』という音とともに、エレベーターの扉が開いた。『扉の向こう側にノムラがいたら……』と一瞬恐怖にかられたが、その向こう側には誰もいなかった。私はそのエレベーターに飛び乗り、三階のボタンを押した。扉が閉じ、エレベーターが動き出す。

 上を見上げた。非常口なのだろうか。押せば外れそうな天井の蓋を見つけた。

――どこいくんだ……涼風ぇぇえええ!!!

 その蓋がバタンと開き、今にもノムラが顔を出しそうで……あの、狂気を具現化したような笑顔で、私の前に現れそうで……

「早く……早く……!!」

 恐怖に抗い寒さをこらえて、私は三階に到着するのを待つ。果てしないほど長く感じる数十秒の後、『チン』という音とともにエレベーターが止まった。ドアが開き、三階の廊下に出る。私の宿舎の廊下と同じく真っ暗だけど、一つの部屋の扉からだけは、明るい光がすきまから漏れていた。

「……ゆきお……!!」

 私の足がふわっと軽くなった気がした。勢いのまま、だけど周囲に気を配りつつ、私はゆきおの部屋まで足音を殺して歩いて行く。ドアの向こう側は明るい。隙間からこぼれる優しいクリーム色の光が、それを物語っている。

 私は、凍える右手で拳を作り、やっとのことでドアを弱々しくノックした。

『はーい?』

 ゆきおの声が聞こえた途端、安堵で崩れ落ちそうになる。がくがくと震える身体を持ち直し、私は再度ドアをノックして、中のゆきおに声をかけた。

「……ゆきお」
『すずかぜ!?』

 ゆきおが、ガタガタという音と共に、私の名を呼ぶ。突然の来客に慌てているようだ。何かを大急ぎで片付けているような音だと思える程度に、私の頭は平常心を取り戻しつつあった。

『ケフッ……ど、どうしたの!?』

 大慌てしているようにも感じるゆきおの声は、さっきまで恐怖に囚われていた私の心に、平穏をもたらしつつあるようだった。ゆきおの一言一言が、私の胸を沈めてくれる。すり減らされた私の心を、ゆっくりと優しく包み込んでくれる。暖かく心地いい空気が、私の周囲に広がり始めたことを感じた。

「ごめんゆきお……あけて……」
「う、うん……」

 ドアの向こうから、パタパタというスリッパの音が聞こえ、そして次の瞬間、ドアが開いた。

 開いたドアの向こうで私を出迎えてくれたもの……それは、真っ白い上下の室内着の上からクリーム色のカーディガンを羽織った、私が大好きな、優しいゆきおだった。

「すずかぜ……」
「ゆきお……部屋に入れて」

 『どうぞ』というゆきおの返事を待たず、私はゆきおの部屋に入った。

「……ふぁ」

 途端に、身体がぽかぽかと温まり始めた。さっきまであんなにひどかった身体の震えがピタリと収まり、むき出しの私の両肩にぽかぽかとした心地よさを感じ始めた。ノムラによって傷つけられた私の身体と心は、今、ゆきおによってゆっくりと癒やされ始めたことを、私は実感した。

 私はベッドのそばのソファに、静かに腰掛ける。ふわっと柔らかいソファは私の身体を包み込み、そして優しく受け止めてくれた。

「……どうしたの?」

 ゆきおが私の様子を伺い、両膝をついて目の高さを合わせてくれる。そして私の両手を取り、優しくさすってくれ、あたためようとしてくれた。

「どうしたの……寒かったでしょ……」
「……うん」
「手がこんなにつめたい……ちょっと待って」

 私の手を離し、ゆきおがカーディガンを脱いで、私に羽織らせてくれた。ゆきおのカーディガンは、私を優しくふわりと抱きしめてくれ、そしてノムラの恐怖に冷えきった私の身体を、じんわりと温めてくれた。

「ゆきお……」
「ん?」

 ゆきおの名を呼んだ。『ん?』と優しく相槌を打つゆきおの声がとても耳に心地よく、私の心にじわりと暖かい。

「……ゆきお」
「ん?」

 もう一度、涙と共にゆきおの名を呼ぶ。そしてゆきおも、再び相槌を打った。いつもの、優しく、柔らかい笑顔と声で。

 私の心のタガが、今、外れた。

 私は、ゆきおの首に手を伸ばし、そしてゆきおの身体をギュッと抱きしめた。

「ゆきお……ゆきお……!!」
「……」

 服越しに感じるゆきおの身体は、さっきまで恐怖に震えていた私の身体には、とても熱かった。それこそ暑さで汗が出てきそうなほど熱く、そしてふかふかと柔らかく、優しかった。私はその温かさに全身を委ねたくて、ゆきおの首に回した両腕を一度離し、そしてゆきおの胸に顔をうずめた。

「ゆきお……あたい……あたい……ッ!!」
「涼風……」

 ゆきおは私の身体を抱きしめ、そして頭を優しくなでてくれた。その感触が誰よりも何よりも優しくて、私は全身が安堵に包まれていくことを感じた。

「怖くて……あたい、怖くて……」
「……」
「だからゆきおに会いたくて……でも、ここまで、すごく怖くて……ッ!!」
「そっか……」

 そうしてしばらくの間、私はゆきおに身体を委ね、温めてもらった。その間中、ゆきおは何も言わず、ずっと私を包み込み、そして頭をずっとなでてくれていた。 

 
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