Dragon Quest外伝 ~虹の彼方へ~
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Lv29 ルーヴェラにて
[Ⅰ]
俺達は馬車の中で、テト君達が戻って来るのを待っていた。これには勿論、理由がある。
さっきテト君から色々と事情を聞いたのだが、彼等はこの付近で休憩していた時に、魔物に襲われたようである。しかし、思っていたよりも魔物が強かったので、慌ててここまで逃げてきたというのが、これまでの経緯のようだ。
そんなわけで、テト君達は今、自分達の馬車が無事かどうかを確認しに向かっているのであった。
無事な事を祈るばかりである。
話は変わるが、テト君はやはりイシュラナの神官のようだ。ちなみに今は見習いだそうである。
一応、この冒険者達のリーダー的な存在のようだが、俺からすると、お堅いイシュラナの神官が冒険者みたいな事をしてるのが不思議だったので、それをさっき訊いてみた。
するとテト君から、こんな言葉が返ってきたのである。
「イシュラナの神官は悪事には加担しませんが、世を乱す魔物の退治には協力しますよ。女神イシュラナの啓示した光の聖典の第10章にも、こう書かれておりますからね。――世に災いをもたらす悪しき存在が現れしとき、恐れず、そして勇気をもって戦いなさい。汝の御霊はイシュラナと共にあります――と。だからです」
テト君の話を要約すると、悪しき存在には武器を手に取れという教義らしい。
つまり、冒険者と共に行動するイシュラナの神官というのは、このイシュマリアにおいて、珍しくもなんともない事のようである。これは覚えておいた方が良さそうだ。
それからテト君は、商人の護衛の他に、神殿にも用があるような事を言っていた。
俺も何の用かまでは訊かなかったが、テト君曰く、今のイシュラナ神殿は色々と慌ただしい事になっているそうである。もしかすると、ヴァロムさんの件が影響しているのかもしれない。
というわけで、話を戻そう。
彼等が確認に向かったところで、アーシャさんが俺に話しかけてきた。
「あの方達の馬車が無事だといいですわね……。でもコータローさん、もし駄目だった場合は、どうするのですか?」
中々難しい質問である。
「駄目だった場合ですか……まぁその時は、俺達の馬や馬車を利用してなんとかするしかないでしょうね。でも、今はとりあえず、彼等を待ちましょう」
「そうですわね」
俺はそこで空を見上げた。
すると、空は相も変わらず、灰色の雲で覆われたままであった。
太陽が見えない為、日没までどのくらいの時間が掛かるのか分からないが、今まで経過した大体の時間を考えると、恐らく、後4時間から5時間といったところだろう。
(彼等の馬車が無事ならば、日没までにはルーヴェラに着ける筈だ。無事だといいが……ン?)
などと考えていると、十字路の右側から、テト君達が乗った2台の荷馬車がやって来たのである。
見たところ、馬車は無事なようであった。
「どうやら大丈夫みたいですよ」
「ええ、馬も元気そうですので、あれなら旅に支障はなさそうですわ」
アーシャさんの言うとおり、馬は軽快に足を動かしていた。
とりあえずは一安心といったところである。
彼等の馬車は、俺達の後方でゆっくりと停車する。
と、そこで、テト君が馬車から降り、こちらへ駆け寄ってきた。
「コータローさん、遅くなって申し訳ありません。僕達の馬車は無事でした。なので、いつでも出発は出来ますよ」
「それはよかった。なら、そろそろ出発しようか」
「はい、ではよろしくお願いします」
テト君は自分達の馬車に戻る。
俺はそこでシェーラさんに指示を出した。
「シェーラさん、彼等の後方に回って、殿を引き続きお願いできますか?」
「わかったわ」
シェーラさんは頷くと馬に跨り、後方へと移動を開始する。
それを見届けたところで、俺はレイスさんに出発の合図を送ったのである。
「ではレイスさん、お願いします」
「了解した。ハイヤッ」
レイスさんの手綱を振るう掛け声と共に、馬車はゆっくりと動き始めた。
と、その時である。
――パタパタパタ――
なんと、あのドラキーが俺達の馬車に乗り込んできたのだ。
ドラキーは空いてる席に座ると、陽気な口調で話しかけてきた。
「ついでやさかい、ワイもここに乗せてぇな。道草食ったから疲れたんや。フゥゥ」
「つーか、もう乗ってるやんけ。まぁ空いてるから、別に構わんけどさ」
「へへへ、あんちゃん、中々ええツッコミするなぁ。ワイと気が合いそうやわ」
「なんじゃそら」
人懐っこいドラキーだ。
この様子を見る限り、赤いドラキーと人の共存してきた歴史は、相当長いのかもしれない。
まぁそれはさておき、道中、種族名で呼ぶのもアレだから、自己紹介でもしておくとしよう。
「そういえば自己紹介がまだだったな。俺の名はコータローだ。見ての通り、冒険者というやつだな」
「へぇ~、あんちゃん、コータローって言うんや。でも、この辺ではあまり聞かん名前やなぁ。まぁ見たところ、アマツの民のようやし、当たり前か……。さて、じゃあ、次はワイの番やな。ワイの名はラティや。ヨロシクなコータロー」
「ああ、ヨロシク」
続いてアーシャさんやサナちゃんも自己紹介をした。
「私はアーシャですわ」
「私はサナです」
「アーシャねぇちゃんにサナねぇちゃんやな。覚えたで。ルーヴェラまでやけど、ヨロシク頼むわ」
何となくだが、俺と少し差のある呼び方である。まぁいいか……。
さて、名乗り合った事だし、軽く世間話でもするとしよう。
「ラティはドラキー便を始めて長いのか?」
「うんにゃ、まだ2年ほどやから、ペーペーや。後ろにいる冒険者達みたいなもんやわ。そういうコータローは、冒険者生活が長いんやろ? さっきの戦いぶり見てたら、相当なもんやと思ったで」
「いや、俺もペーペーだよ。ついこの間、冒険者になったばかりだからな」
ラティはポカンとしながら口を開く。
「は? ついこの間って……ホンマかいな。さっきの戦いの時、他の皆にえらい的確な指示をだしとったやん。腕っぷしも凄いけど、あの手際のええ戦い方は、ごっつい熟練の冒険者がする戦い方やったでぇ」
「まぁそう思われるのも悪い気はしないけど、今言ったのは事実だよ。できるだけ効率の良い戦闘方法を心がけてるから、そう見えるだけさ」
とはいうものの、俺もある意味では、熟練の冒険者なのかもしれない。勿論、ゲーム上での話だが……。
「ふ~ん、そうなんか。ま、ええわ。それはそうと、後ろの若いあんちゃん達は命拾いしたなぁ。コータロー達が付近におらんかったら、確実に全滅しとったで。もう少し考えて、旅支度すればよかったのに」
ラティはそう言って、俺達の後方を走る荷馬車に目を向けた。
「まぁそう言ってやるなよ。彼等も情報が少なすぎて、今の街道の状況を予想出来なかったんだろ。さっきの商人も言ってたじゃん。半年ほど前に来た時は、この辺りもネルバ周辺と同じくらいの魔物しか出なかったって」
そう……彼等に事情を話してもらった時、商人の男が確かそんな事を言っていたのだ。
つまり、ここ最近になって、魔物が強くなり始めたという事である。
オッサンの説を信じるならば、この辺りに漂う魔の瘴気が濃くなってきているという事なのかもしれない。というか、最近色々とあったので、俺はもうこの説を信じつつあるが……。
「そういえば、そんなこと言っとったな。ネルバは田舎やさかい、情報伝わるのも遅いし、しゃあないか」
「ところで話は変わるけどさ。ラティはルーヴェラについて詳しいのか?」
「まぁな。ワイはルーヴェラを拠点に活動してるさかい、ある程度の事は知っとるつもりや。で、なんか訊きたい事でもあんの?」
ゴルティア卿とゼマ神官長について訊きたいところだが、直球で質問すると不審に思うかもしれない。
特にフレイさんの名前については出さない方がいいだろう。
回りくどくなるが、俺はそれとなく訊いてみる事にした。
「俺さ、ルーヴェラは初めてなんだけど、どんな所なんだ?」
「ええ所やで。バルドア地方第二の都市やから、沢山住民もおるし、外から色んな物や色んな奴等も行き来するしな。賑やかで、ええ街や」
「でも大きい街だと治安悪い場所とか多そうじゃん。その辺はどうなんだ?」
「まぁそりゃ、そういう場所も少しはあるけど、全体的に見れば治安は良い方や。街を守る衛兵もちゃんとしてるしな。ワイから見れば、王都よりも、よっぽど治安ええで」
「へぇ、そうなんだ。じゃあ、街を治める貴族は上手い事やってるんだな」
「せやで。ルーヴェラを治めるゴルティア卿は、悪事に厳しいしっかりした人やさかい、その辺はちゃんとしてるで。街の者達からも信頼が厚いしな。ええ御方やわ」
ラティの話を聞く限り、中々の善政を敷く貴族のようである。
じゃあ、次行ってみよう。
「なるほど、それを聞いて安心したよ。ところで、さっきテト君が言ってたんだけど、ルーヴェラのイシュラナ神殿が最近ゴタゴタして忙しいみたいだね。何かあったのか?」
「ああ、それは多分アレや。王都の方で起きてるゴタゴタ関連のやつやろ」
多分、ヴァロムさんの件だと思うが、知らないフリをしておこう。
「王都でのゴタゴタ?」
「なんや、コータローは知らんのか? 今、王都では、魔炎公と呼ばれた元宮廷魔導師が異端審問裁判にかけられるって話で持ち切りやで」
「ほ、本当かそれ? 初めて知ったよ」
「ホンマや。まぁそれがあるもんやから、ルーヴェラのイシュラナ神殿もゴタゴタしとるんやろ。ルーヴェラのイシュラナ神殿最高権力者であるゼマ神官長や、その取り巻き連中も王都に呼ばれておるそうやからな。だから、かなり大事やで」
「そんな事になっているのか……それは大変だな」
どうやら、ゼマ神官長は今、ルーヴェラにはいないようである。
と、ここでアーシャさんが話に入ってきた。
「ラティさんでしたわね。ちょっとお訊きしてもよろしいかしら?」
「ええで、アーシャねぇちゃん」
「今、魔炎公の話が出てきましたけど、王都の方で何か進展はあったのかしら?」
アーシャさんは言葉を選んで訊いている感じであった。
俺が知らないフリしたのを見て、アーシャさんも察したのだろう。
「う~ん……その辺の事はあまり聞かんなぁ。ワイが知ってるのは、八支族である太守と八名の大神官に加え、主要な神殿の神官長が王都に召集されている事くらいや。これ以上の事はワイもわからんわ」
「そうですか。どうもありがとうございました」
「ところで話は変わるんやけど、コータロー達はルーヴェラに何か用事でもあんの?」
「いや、特にこれって用事はないよ。俺達はアルカイム地方に向かっているから、とりあえず、今日の宿泊地ってだけさ」
するとラティは目を大きくし、驚いた表情を浮かべた。
「なんやそうなんか! なら、丁度ええわ。ワイの次の書簡配達場所がオヴェリウスやねん。つーわけで、明日もワイ、コータロー達と一緒に行ってもええか? ワイ等ドラキー便は信用第一やさかい、基本単独行動なんやねんけど、コータロー達は信頼できる気がするわ。それにコータロー達はなんか話しやすいしな。で、どやろ? 一緒に行ってもええかな?」
俺はそこで、アーシャさんとサナちゃんに視線を向けた。
2人は頷く。
「私は別に構いませんわ」
「私も良いですよ」
(2人が良いなら、別にいいか)
俺は返事した。
「じゃあ、明日も一緒に行くか、ラティ」
「道中長いけど、明日もよろしく頼むわ」
とまぁそんなわけで、ラティが王都への旅に、加わることになったのである。
[Ⅱ]
俺達が移動を再開してから2時間程経過すると、マルディラントとよく似た街並みが見えてくるようになった。ラティ曰く、あれがルーヴェラのようである。
ルーヴェラはバルドア地方第二の都市というだけあって、確かに大きな街だが、マルディラントと比べると少し規模は小さい感じであった。
とはいえ、建物の建築様式が古代ギリシャや古代ローマ風なので、非常にマルディラントとよく似た街並みである。この分だと、王都もこんな街並みなのかもしれない。
また、ルーヴェラに近づくにつれ、街道を行き交う馬車や人々の姿も多くなってきていた。
大きな街なので当然といえば当然だが、俺にとってこれらの光景は、すごくありがたいモノに映った。なぜなら、やはり、これだけの人がいると、魔物が襲ってくることは滅多にないからである。もうここまで来たら、街に着いたも同然に近いのだ。
それから程なくして、ルーヴェラへと入った俺達は、馬車のスピードを落とし、街道から続く石畳の大通りをそのまま真っ直ぐと進んだ。
そして、その先にある大きな広場が見えてきたところで、俺はレイスさんに指示したのである。
「レイスさん、あの広場なら馬車を停めれると思います。広場の脇に寄せて一旦停めてもらえますか」
「了解した」
広場に入ったところで、レイスさんは馬車を脇に寄せ、ゆっくりと停車させる。
後続のテト君達も馬車を停めた。
と、そこで、テト君は馬車から降り、俺達の方へとやってきたのである。
テト君は俺の前に来ると、深々と頭を下げた。
「ここまでくれば、もう一安心です。今日は本当に、色々とありがとうございました。僕達が無事に辿り着く事が出来たのは、これもひとえに、皆さんのお力添えのお蔭です。本当にありがとうございました。このご恩は一生忘れません」
俺はとりあえず忠告だけしておいた。
「まぁそれは良いけど、ネルバに帰る時は、もう少し準備をしてから出発した方がいいよ。敵は何が出てくるかわからないからね。それと出来るならば、出没する魔物の情報を街で調べて、対策を立ててから出発するといい。根拠のない自信は、足元を掬われる元だよ」
続いてレイスさんも。
「コータローさんの言うとおりだ。慣れないうちは慎重に行動した方がいい。命を落としてしまっては元も子もないからな」
「ご忠告ありがとうございます、コータローさんにレイスさん。今の言葉を肝に銘じておきます。それと話は変わりますが、この道中、皆さんの様な上級の冒険者に僕達が出会えたのも、恐らく、女神イシュラナの導きなのだと思います。イシュラナに感謝しますと共に、これからの皆さんの旅にイシュラナの加護がありますようお祈り致しまして、僕達は失礼させて頂こうと思います」
テト君はそう告げると、目を閉じ、空にイシュラナの紋章を描く動作をする。
それからテト君は胸の前で掌を組み、イシュラナへの祈りを捧げたのであった。
「――遥かなる天上より、慈愛の光にて世を包み、我等を見守りし女神イシュラナよ……願わくば、この者達の旅に加護と祝福の光を―― では、僕達はこれで失礼させて頂きます」
そして彼等は、この場を後にしたのである。
彼等が去ったところで、ラティが口を開いた。
「さて、ワイもルーヴェラ物流組合に行かなアカンから、ここで一旦お別れや。ところで、コータロー達は今から宿を探すんやろ?」
「ああ、そうだけど。どこか良い宿を知ってるのか?」
「せやなぁ……まぁコータロー達が気に入るかどうかわからへんけど、この大通りの先にマイラっちゅう旅の温泉宿があるんや。結構大きな宿やから、部屋はあると思うで。厩舎もあるし。それにマイラは、物流組合が運営してる旅の宿やさかい、ワイの顔も効くしな。で、どうする? そこにするか?」
「……」
マイラ、温泉、メイジドラキー……何だろうこの既視感は……。
ドラクエⅠにもこういうのあったが、マイラのカテゴリが違うので少し戸惑ってしまうところである。宿屋に行ったら、妖精の笛や大サソリなんかも出てきそうな雰囲気だ。
ふとそんな事を考えていると、ラティが不思議そうに俺を見ていた。
「なんや、コータロー……口をポカンとあけて。嫌やったら、別にええんやで」
「違う違う、そうじゃないよ。ただ、懐かしい響きだなぁと思ってさ。なんでもないよ。ところで、どうする皆? ラティの薦める宿にする?」
「私はコータローさんの判断に任せますわ」
「私もアーシャさんと同じです」
「レイスさんとシェーラさんもそれでいいですか?」
2人はコクリと頷く。
というわけで、ここはラティにお願いする事にしたのである。
「じゃあ、ラティ、よろしく頼むよ」
「ほな行こうか。宿はコッチや」――
[Ⅲ]
マイラはラティが言っていたとおり、結構大きな宿屋だったが、飾りっ気のない四角い石造りの建物で、割と庶民的な感じのところであった。
旅人の宿でもあるので、当然といえば当然かもしれない。多分、貴族はここに宿泊なんぞしないだろう。
まぁそれはさておき、俺は今、この世界に来て温泉に入れるとは思わなかったので、少しテンションが上がっているところであった。俺の中に脈々と流れる日本人の血が騒いでいるのである。
どんな温泉なのかはまだ見てないのでわからないが、周囲の建物の様式を考えると、テルマエ・ロマエに出てきそうな温泉浴場なのかもしれない。
だがしかしィィィィ! そんな事はどうでもいいのである。とにもかくにも、今の俺は、温泉につかってゆっくりと身体を休め、鼻歌でも歌いたい気分なのだ。
ラティに受付へと案内され、チェックインを済ませた俺達は、早速、部屋に向かう事にした。
ちなみに借りた部屋は、6人部屋を1つだけだ。話し合った結果、皆で一緒にいる方が安全という結論に達したからである。
部屋に入った俺は、荷物をその辺の床に置くと、ベッドに腰かけて横になり、まずは身体を休める事にした。
この道中、魔物との戦闘も何回かあったので、流石に疲れたのだ。
他の皆も同じで、室内に置かれた椅子やベッドに腰掛け、楽にしているところである。
まぁそれはさておき、暫くそうやって体を休めていると、アーシャさんが俺に耳打ちをしてきた。
「コータローさん、お疲れのところ申し訳ありませんが、一度マルディラントに戻りたいので、ついて来てもらいたいのですが」
「ああ……そういえばそうでしたね」
俺はそこで立ち上がり、サナちゃん達に視線を向けた。
「少しばかり、アーシャさんと出掛けてきますんで、皆は暫く、ゆっくりと休んでてもらえますか」
「わかりました」
「うむ。了解した」
「そうさせてもらうわ。私も疲れちゃたから」
とまぁそんなわけで、俺はアーシャさんの一時帰宅に付き添うことになったのである。
――それから1時間後――
俺達が部屋に戻ると、サナちゃん達の他にも待っている者がいた。ラティである。
後で部屋に来ると言っていたので、チェックインの時に部屋番号を教えておいたのだ。
ラティは俺達の姿を見るなり、ニカッと笑みを浮かべ、気さくに話しかけてきた。
「おっ、帰って来たな。悪いけど、上がらせてもらってるで」
「物流組合での用事とやらはもう終わったのか?」
俺はそう言って、自分のベッドに腰掛けた。
アーシャさんも俺の隣に座る。
「まぁな。それはそうとコータロー、明日なんやけど、いつ頃出発するつもりなん? ワイも、その辺の事を訊いとかなと思って来たんや」
「出発は……そうだな……ここにもイシュラナ神殿があるから、イシュラナの鐘が鳴る頃なんてどうだ?」
するとラティは目尻を下げ、微妙な表情を浮かべた。
「イシュラナの鐘かぁ……少し遅い気もするなぁ……」
「え、遅いのか?」
「コータロー達はともかく、ワイは王都に向かわなあかんからな。まぁアルカイム地方に入るだけなら、1日あればええけど」
そういえば、ラティには、アルカイム地方に向かっているとしか言わなかった。
用心の為に伏せたのだが……こうなった以上は仕方ない。
ここは誤魔化さず、ハッキリしておいた方がいいだろう。
「そういえば言い忘れてたけど、実は俺達も王都に向かっているんだよ。だから目的地はラティと同じさ」
「なんや、コータロー達も王都かいな。ン……って事は、もしかして、王都に向かうのは初めてなんか?」
「ああ、初めてだ。話を戻すけど、ここから王都までは結構かかるのか?」
ラティは天井を見上げて考える仕草をする。
「せやなぁ……馬車なら、最低でも2日はみといた方がええかもしれんな」
「2日か……」
「まぁ日数はそんなもんや。でもな、1つ問題があんねん。実はこの先、王都に着くまで、街や村が無いんやわ。せやさかい、必要なモンがあるんなら、ここで今の内に調達しとかなあかんで」
ここでレイスさんが話に入ってきた。
「という事は、道中は野宿になるのか?」
「いや、野宿はせんでもええわ。まぁ時と場合によっては、それもあるやろけど」
「どういう意味ですか?」と、サナちゃん。
「ここから王都に向かう場合はな、普通、アルカイム地方に入ってすぐにある巡礼地ピュレナを目指すんが、旅人達の間では常識なんや。せやから、野宿はせんでええと思うで。とはいっても、道中、要らん事が起きたりすると、野宿もあるかも知れんけどな」
「ピュレナ?」
初めて聞く単語なので、俺は思わず首を傾げた。
すると、アーシャさんが答えてくれた。
「光の女神・イシュラナが、イシュマリアに自らの意思を伝えたと云われる、啓示の地の1つですわ。私は行った事がありませんが、噂によりますと、ピュレナには断崖に彫りこまれた巨大な女神像があるそうですわよ」
「へぇ、そうなんですか」
岩壁に彫りこまれているということは、バーミヤンの石仏みたいな像なのかもしれない。
「まぁそういうこっちゃ。で、話を戻すけど、そのピュレナには巡礼者が寝泊まりできる大きな建物があるさかい、そこで一晩休んでから旅人達は王都に向かうんや。ただ、宿屋みたいに部屋はないから、皆で雑魚寝になるけどな」
「なるほどね、巡礼地ピュレナか……で、その巡礼地まではどれくらいかかるんだ?」
「ワイが気にしてんのは、そこやねん。実はな、ここからピュレナまでは結構距離があるんや。相当朝早く出発せんと、日が落ちるまでに着けへんねん。せやからさっき、イシュラナの鐘の鳴る頃では少し遅いと言ったんや」
「そうか……。ところで、ラティはいつ頃がいいと思うんだ?」
「せやなぁ、夜が明け始める頃には出た方がええと思うで」
俺はそこで皆の顔を見た。
「どうする皆?」
「私達はこの土地には疎いですから、ここはラティさんの意見に従った方がいいかもしれませんね」
「私もそう思うわ」
「コータローさん。私も同意見ですわ」
「私もだ」
皆はラティの意見に賛成なようだ。
まぁそれが一番無難だろう。
「じゃあ、明日は少し早いけど、夜明けと共に出発って事でいいね?」
皆はコクリと頷く。
「じゃあ、そういう事になったから、明日はヨロシク頼むよ、ラティ」
「こっちこそ、ヨロシクや」
その後、打ち合わせを終えた俺達は、善は急げという事になり、旅に必要な道具や武具を近くの店で仕入れる事にした。
そして、それらを粗方揃えたところで宿に戻り、温泉で旅の疲れを癒す事にしたのである。
[Ⅳ]
仕入れから帰ってきた俺達は、ラティに案内され、宿の1階にある温泉浴場へと向かった。
(久しぶりに温泉に入れるな……今日もう湯船にドップリとつかって、ゆっくりしよう)
通路を暫く進んでゆくと、目的地の所在を告げるラティの声が聞こえてきた。
「この先が温泉浴場や」
俺は前方に視線を向ける。
すると、T字路となった通路突き当たりの壁に、この国の文字で、男湯と女湯と書かれているのが目に飛び込んできたのである。
混浴を少し期待していたところだが、さすがにそんなうまい話は無いようだ。残念……。
まぁそれはさておき、通路の突き当たりに来たところで、アーシャさんが俺に振り返った。
「ではコータローさんにレイスさん、私達はこちらですので、ここで。もし貴方がたが先に上がられたならば、部屋で待っていてください」
「わかりました。そうさせてもらいます。じゃあ、またあとで」
「ええ、またあとで」
そして女性3人は、女湯へと歩み始めたのであった。
3人を見送ったところで、俺はラティに礼を言っておく事にした。
「ラティ、ありがとうな。わざわざ、案内してくれて。お蔭で助かったよ」
「ええんや。気にせんといてくれ」
「さて、それじゃあレイスさん。俺達もゆっくりと疲れを癒すことにしますか」
「ああ」
俺達も男湯に向かって歩き出す。
と、そこで、ラティが突然、俺を呼び止めたのである。
「あッ、ちょっと待った、コータロー。そういえば……言い忘れた事があったわ」
「ん? なんだ、言い忘れた事って?」
するとラティは、レイスさんをチラ見し、少し言いにくそうに話し始めたのである。
「これはな……ワイ自身の相談事やさかい、コータローだけに話したいんやが、ええやろか?」
「じゃあ、コータローさん。私は先に行っているよ」
ラティの様子を見て、レイスさんは気を利かしてくれたみたいである。
「ええ、後から行きます」
レイスさんがいなくなったところで、ラティはニヤニヤしながら、小声で話しかけてきた。
「コータロー……大きな声では言えんのやけどな。ワイ、エエ場所を知っとるんや。今からそこに行かへんか?」
俺もつられて小声で訊き返す。
「は? なんだよ、エエ場所って?」
「そんなん決まっとるがな。女湯が覗けるところや。超穴場やでぇ。今から行けば、アーシャねぇちゃんや、シェーラさんの裸も拝めるかもしれんで。どや?」
「な!?」
俺はその言葉にドキッとしたので、思わず周囲をキョロキョロと見回した。
誰もいないのを確認したところで、俺はラティに言った。
「な、何を言ってんだよ、お前は……。お、俺にそんな性癖は無いぞ。お前は俺をそういう奴だと思っていたのか」
とはいうものの、覗きたかったのは言うまでもない。
俺も男だから、こればかりは仕方がないのだ。
「あれ、変やな……コータローはそうなんか?」
「へ、変って……何がだ?」
「コータロー達のような種族のオスは、若いメスの裸見るのがごっつい好きやって聞いてたんやけどな……。まぁええわ。ほんじゃ、ワイだけで見てくるわ」
ラティはそう言って、くるりと反対方向に向きを変える。
俺は思わずラティを呼び止めた。
「ちょ、ちょっと待て!」
「なんや。コータローは、行かんのやろ?」
「ドラキーのお前が、女の裸なんか見て面白いのか?」
「おもろいっつーか、なんやろな、この気持ち……とりあえず、何かを制した気分になるんや。まぁそういうわけやから、ちょっくら行って覗いてくるわ」
「ま、待て! い、行かないとは言っていないぞ」
「ほな、行くか?」
思わず首を縦に振りそうになったが、とりあえず、少し確認だけはしておく事にした。
「その前に少し訊いておく事がある。見つかったりはしないんだろうな?」
「勿論や。でも、木の板が腐ってるところが少しあるから、そこだけは注意せなあかんけどな」
「そこにだけ注意すればいいんだな?」
「せや」
俺は次に、一番の疑問点を問いかけた。
「じゃあ、もう1つ。ズバリ訊くけどさ、なぜ、俺にこんな誘いをしてきたんだ。何か下心があるのか?」
「下心なんてないって。ワイはコータローと友達になりたいから、お近づきの印にと思うて、この話を持ってきたんや。ワイはコータローの事、ごっつい気に入ってるんやで」
多少、野心的なモノが見え隠れする言い方だったが、なんとなく嘘は言ってない気がした。
7割ぐらいは信用してもいいのかもしれない。
「で、どないする? 行くか? ホンマは好きなんやろ? アーシャねぇちゃんはともかく、シェーラさんはええ身体しとるでぇ、見る価値ありや」
「そうだな……」
俺は目を閉じ、アーシャさんの裸体とシェーラさんの裸体を想像した。
彼女達の一糸まとわぬあられもない美しい姿が、俺の脳裏に展開される。
(小ぶりなお椀型のチッパイと、やや張りのある豊かなオッパイ……見るべきか、スルーすべきか……)
どうしようか悩むところだ。が、しかし!
ここはラティと友好を深めておいた方がいいと考え、俺は暗黒面の誘いにホイホイと乗る事にしたのである。
というわけで……。
「ゆこう」
「ゆこう」
そういうことになった。
[Ⅴ]
俺はマイラの2階にある、とある部屋へとラティに案内された。
そこは、この宿の物置のようで、室内には毛布やシーツみたいな寝具類が沢山積まれていた。要するに、関係者以外立ち入り禁止の部屋というわけである。
まぁそれはさておき、部屋の中に入ったところで、ラティが小声で俺に囁いた。
「奥の壁にある窓から女湯の屋根に出られるんや。せやさかい、女湯はもう、目と鼻の先やで」
「うむ。苦しゅうない。ではラティ隊長、よろしく頼む」
「ハッ! コータロー将軍! こちらになります」
ラティも俺の口調に合わせてきた。中々、ノリの良い奴みたいだ。
部屋の中に入ったラティは奥へと進み、木製の窓の前へと俺を案内してくれた。
窓は押上げタイプのようで、今は閉め切った状態である。
「では将軍、暫しお待ちを」
ラティはそう言って、物音立てず、そっと窓を押し開けた。
すると次の瞬間、夕日に照らされるルーヴェラの街並みが、俺の視界に入ってきたのである。それは美しい光景であった。思わず、見入ってしまうくらいに……。
この美しい光景を見た所為か、一瞬、俺の中に罪悪感のようなモノが芽生えてきた。
(何やってんだろ、俺……こんな事をしていていいのだろうか……ああ、もう!)
俺はそこで頭を振り、雑念をなんとか振り払った。
(ええい! こうなった以上、もはや後には引けぬわッ! 男子たるもの、一度決めた事はそれに邁進するのみじゃ! 今はすべき事に集中せねばならんのじゃぁ! 我が生涯に一片の悔いなしじゃァァァ!)
とまぁそんなわけで、覚悟を決めた俺は窓からソッと顔を覗かせ、とりあえず、周囲の確認をすることにした。
すると窓の桟から50cm程下がった所の壁から、1階部分の屋根が伸びているのが俺の視界に入ってきたのである。
屋根の形状は、東屋とかでよく見掛ける四角錐型で、茶色の木板を鎧張りにしてあるタイプのモノであった。結構面積も大きく、パッと見でも100㎡くらいありそうな感じだ。
「将軍、この下が女湯になりますが、ここからは少し足元に気を付けて進む必要があります。なるべくならば、屋根の上側を歩いて頂きたいのであります」
「ほほう。……して、そのわけは?」
キリッとしながらラティは告げた。
「実は、こちら側の浴場は日当たりが悪い事もあって、屋根が少し腐りかけている所があるのでございます。しかし、そこを注意さえすれば、素晴らしい光景をお見せする事が出来ると、私は約束します」
「屋根が腐っているとな……。確かにそれは注意せねばならぬ。だが、隊長……外は夕暮れ時とはいえ、まだ若干明るい。上の方だと少し目立たないか?」
これは当然の疑問であった。
ラティはウインクする。
「将軍、それについてはご安心を。一度、窓から降りて周囲をご確認ください」
「うむ」
俺は物音をたてないよう注意しながら女湯の屋根の上に降り立ち、周囲をゆっくりと見回した。
(おお、これは!?)
すると、なんと驚いた事に、周囲には背の高い浴場の柵がバリケードのように張り巡らされており、それが死角になって、下からこちらは見る事が出来ない様相となっていたのである。
それだけではない。もう一つ驚くべき事実があったのだ。
それは何かというと、今、俺達が出てきた宿の壁には、窓が1つしかないという事であった。そうなのである……今潜った窓だけが、ここに来るための唯一の道なのである。
つまりッ! 今の俺達の姿は、空飛ぶ鳥ぐらいしか見ることが出来ないのだッ。
これはこう呟かざるを得まい……。
「震えるぞハート……燃え尽きるほどヒート……」
と、ここで、ラティが俺に囁いた。
「コータロー将軍、いかがでございましょうか。これならば、心行くまで、覗きが出来まっせ……じゃなかった。出来ると思われます。それに、今出てきたこの窓は換気用ですので、閉めてしまえば、もはや我々がここにいるなどとは、誰も思いませぬでしょう」
「確かに、そなたの言うとおりだ。ここならばじっくりと堪能できよう。つーわけで、ラティ隊長、そろそろ目的地へと出発しようぞ」
「畏まりました、将軍。では、私の後について来てください」
「うむ」
ラティは移動を開始する。
俺は忍び足でラティに続いた。
程なくしてラティで立ち止まる。
そして、俺に振り返り、ニカッと笑みを浮かべたのであった。
「コータロー将軍、こちらです。この少し窪んだ所に小さな穴が開いておりまして、そこから美しい下界の様子が見渡せるのです」
「うむ。案内、ご苦労であった。後で褒美を遣わすぞ」
俺は喜び勇んで一歩足を前に出した。
だがそこで、ラティは俺を呼び止めたのである。
「将軍、お待ちください。その前に1つ、言っておかなければならない事があるのです」
「言っておかなければならない事とな? して、それはなんであろうか?」
「実は、この窪みの下側は温泉の湿気の影響で、かなり脆くなっておりますので、窪みの上側から覗かれた方が良いかと思われます」
「ほう、上側からとな……」
俺は窪みの下側に目を向ける。
すると、ラティの言ったとおり、窪みの周辺やその下側にある板は、少し黒ずんで瑞々しい色をしていた。どうやら、湿気で腐っているような感じだ。ここは確かに注意が必要である。
つーわけで、俺は暫し考える事にした。
(むぅ……窪みの上からだと屋根の傾斜と重力の影響で、相当苦しい前屈み体勢での見学になるのは必至。いや、恐らく、体勢を維持するのが精一杯で、見学どころではないだろう。何か良い方法はないだろうか……。何か良い方法は……ハッ!?)
と、その時、俺の脳裏に、ある道具が過ぎったのである。
ちなみにそれは、昨日手に入れたあのアイテムの事であった。
そう……魔導の手である。
使うなら今でしょ、てなもんだ。
「ふむ、なるほど。では、隊長の忠告には従うとしよう」
とまぁそんなわけで、俺は早速、魔導の手に魔力を向かわせ、屋根の天辺に見えない手を伸ばし、それを命綱のように使いながら、窪みへと近づいて行ったのである。
窪みの手前にやって来た俺は、そこから更に近づく為に、足を一歩前へと踏み出す。
だが、その刹那ッ!
――ズルッ――
ななな、なんとッ!
バナナの皮の上に足を乗せたかの如く、ズルリと俺の足は滑ってしまったのだ。
そしてあろうことか、俺は体勢を維持する為に、窪みへと足を乗せてしまったのである。
その直後、メシッという板の割れる音と共に、俺の右足は屋根板を踏み抜いた。
(ヤ、ヤバッ!)
俺は慌てて、屋根の下側に手を付き、足を引き抜こうとする。
だがしかし!
それがいけなかった。それが、事態をさらに悪化させてしまったのだ。
なぜなら、脆い下側に体重をかけてしまった為に、今度は下側の板からもメシメシという音がし始め、最後にはバキバキという音を立てながら、板が割れてしまったのである。
こうなると後はもう、絶体絶命の最悪な展開が待つのみだ。
「しょ、しょしょしょ、将軍ッ!」
ラティの慌てる声も聞こえてくる。
そして次の瞬間、俺の身体は万有引力の法則に従い、下界へと落ち始めたのであった。
(あわわわッ! おッ、落ちるゥゥゥ!)
だが、しかしぃッ!
この時の俺は冷静であった。
すぐさま魔導の手に意識を向かわせて、魔力をマキシマムに籠め、俺は宿の屋根に向かって見えない手を伸ばしたのである。
そして、自分の身体を引き上げるような形で、一気に地上20mの高さへと飛び上がったのだ。
無我夢中であった。もはや、あれこれ考えている場合ではなかった。
そして、魔導の手を使って一気に宿の屋上へ飛んだ俺は、への字になった屋根の天辺にしがみ付き、「ゼェゼェ」と息を荒くしながら、ホッと胸を撫で下ろしたのであった。
(な、なんとか危機を脱することが出来た……)
下からはガヤガヤと騒ぐ、慌ただしい声が聞こえてきた。
恐らく、俺が踏み抜いた屋根の破片が、浴場に降り注いだからに違いない。はぁ……最悪である。
程なくして、ラティがこちらへとやってきた。
するとラティは敬礼をするかのように片側の翼を曲げ、キリッとした仕草で俺に告げたのであった。
「将軍! ワイは貴方の命がけの行動に敬意を表しますッ。というか、あないな風に飛んだ人、初めて見ましたッ!」
「と、飛びたくて飛んだんじゃないわ!」
そして俺は思ったのだ。
あまりアホなことはするもんじゃないな、と……。
[Ⅵ]
想定外の事態になった為、俺は女湯見学を諦め、温泉へと向かう事にした。
その道中、ラティが俺に謝ってくる。
「コータロー、ごめんな……。足元がヌルヌルになってるのは、予想外やったんや。勘忍してや」
ラティはショボンと目尻を下げた。
この様子を見る限りだと、悪気はないのだろう。
「いや……まぁあれは、俺も注意不足やったわ。良く考えたら、木が腐っている状態だというのを忘れていたよ。不用意に足を乗せた俺も悪いから気にすんな」
そう、木が湿気て腐っている場合は、殆どの場合、ヌルヌルなのである。
某総合格闘技の試合でもあったが、ヌルヌルでは捕まえる事すらままならないのだ。
「そ、そうか。ほんなら、ええわ。今度また、埋め合わせはちゃんとするさかいな」
「いいって別に。そんなに気にすんなよ。ン……あれは」
俺はそこで前方に目を凝らした。
なぜなら、温泉の入り口付近に人だかりができていたからである。
しかも、何やら物々しい様相となっていた。
「もしかすると、さっきのやつかもしれへんなぁ。コータロー、ここは知らんふりしとこうな」
「ああ、そうしよう」
俺とラティは、何食わぬ顔でそこへと向かった。
すると近づくにつれ、なにやら緊迫した声が聞こえてきたのである。
【おい、しっかりしろ!】
【ゲイル! アンザ! ヒュイ! 返事をして!】
どこかで聞いた声であった。
俺は近くにいる野次馬のオッサンに、白々しく訊いてみる事にした。
「あの、何かあったんですか?」
「ン? ああ、なんか知らんが、温泉の屋根が落ちてきて、下にいた客に直撃したんだそうだ」
「ほ、本当ですか!?」
「なんやてッ」
それを聞いた俺とラティは、人ごみを掻き分け、負傷者の所へと急いで向かった。
俺達の所為で女性に怪我を負わせてしまったかと思うと、いてもたってもいられなかったからである。
それにもしかすると、アーシャさんやサナちゃん達に被害が及んでいるかも知れないのだ。
程なくして負傷者の所へ辿り着いた俺は、そこで意外な者達の姿を見る事となった。
なんと床には、腰にタオルを巻いて股間を隠した素っ裸の若い男が3人倒れており、またその傍には、彼等を介抱する3人の若い男女の姿があったのだ。
俺はこの者達を知っていた。
「テト君達じゃないかッ」
「あ、コータローさん」
「どうしたんだ、一体?」
倒れている3人と同様、素っ裸で腰にタオルを巻いたテト君は、困ったように話し始めた。
「そ、それがですね、突然、屋根が崩れてきて、この3人に破片が直撃したんです。戦いの傷を癒そうとこの宿に決めたのですが、まさか、こんな事になるとは……」
俺はそれを聞き、顎が外れそうになるほど、口をあんぐりと開けた。
それからラティに詰め寄り、小声で捲し立てたのである。
「ど、どういう事だよ。俺が覗こうとしてたのは男湯だったのか! どうなんだよ」
ラティは目を泳がせながら口を開く。
「そ、そういえば、あの場所……今日は男湯の日やったんや。5日おきに変更されるの忘れてたわ」
俺は脳内で叫んだ。
何じゃそりゃァァァァァ! と……。
そして、俺は脳内で、彼等に謝罪したのである。
すまん、と……。
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