彼願白書
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
リレイションシップ
キャンユーキープアシークレット?
前書き
書き始めた時は光作戦中だったんや……
「……蒼征……そうか、酔狂で名乗り直した忌み名をそのまま貴官に押し付けてしまったのだったな。」
「酔狂でも、忌み名でも、押し付けられたのでも、ありませんわ。私は、貴方達の留守を守っていたに過ぎませんわ。他の皆もまた、同じようにお待ちしておりますわ。二人の復帰を、心から。」
熊野は居住まいを変えることなく、表情も変えることなく、その口調はまるで立板に水のごとく。
本当にそう、考えているかはわからない。
本心だと言いながら、その本心が見えてこない。
単に彼女の貞淑さを深読みし過ぎている、それだけなのだが。
「なぜ、私の復帰が必要なのだ?君を中心として、隊は既に回っているハズだ。」
「簡単な話ですわ。私には出来ないことが、とりわけ政治工作の面では多々あります。そこで頼ることが出来るのは、他ならぬ貴方しかいませんわ。」
そこで熊野が初めて、足元のカバンを膝の上に載せて、鍵を開けて、広げて、中身を出す。
「一月27日、トラック泊地が、沖合いで発生したネガスペクトラムを観測していますわ。そして、発生源の特定前にその反応は消失。次の日に、新たにネガスペクトラムを観測したのは、ウルシー環礁。そして同時に、発生源と思われる敵の大規模艦隊が出現。そして領海内で敵の艦隊が分散しているとはいえ、多数出現。これを攻撃すべく現在、展開している……これが光作戦。これが表向きの光作戦であり、その裏向きも、もちろんご存じですわね。」
「最初のネガスペクトラムは、潜水タイプの大型深海淒艦……ここではA1としよう。A1の息継ぎ浮上をキャッチしたもの。そして、二回目のネガスペクトラムはA1がウルシー環礁を泊地化させたもの……と本部は発表しているが、これは違う。実際は一度目の時点で既にウルシー環礁は泊地化していたのだ。トラックはその時点でスクランブルするも、敵の急襲のほうが遥かに早かった。」
その惨状こそが、壬生森がアイマスクにしていたレポートに書かれていた内容だ。
惨状は理解している。
トラックは施設的な被害はもとより、よりにもよって初撃でそこの司令官が敵の攻撃で負傷し、意識不明の重体。
そして指揮系統が麻痺したまま、ズルズルと防衛戦を強いられ、近くにたまたまいた他の泊地所属の艦隊が救援に辿り着いた頃には、襲撃した敵は既に撤収しており、トラックに残された惨状は撃沈だけで全体の4割、そもそも負傷者か死体しかないと言ったほうが早いという近年では最悪の被害状況だという。
トラックの司令官は確実に名誉の二階級特進となるだろうが、それで済む話ではなく。
そこで市ヶ谷は光作戦というカバーストーリーを用意した。
「で、海軍発足以来の最大のスキャンダルになりかねないトラック壊滅の発覚を怖れて、トラック周辺海域までまるごと作戦中封鎖処分。事態解決を見て、『作戦中に孤立無援ながらも最期まで奮戦した勇敢な泊地』としてトラックを解放する。市ヶ谷の書いているカバーストーリーはそうだったハズだ。」
壬生森がアイマスクにしていたレポートはまさにその内容が書かれていた。
壬生森にとっては別段、興味もない話だったので中身だけさっと読んで書類棚の迷宮に埋めてサヨナラする予定だった。
「提督の耳に、市ヶ谷のカバーストーリーしか入ってないとは……呆れますわ。」
「“元”提督だよ。それに、誰だって自分から進んでメンツを潰したくないものだ。今回の件がこの程度の裏で済まないことはわかっている。そして、私が探りを入れても余計なちょっかいにしかなるまい。」
壬生森の言葉に、熊野がむすりとしている。
まるで、壬生森の態度が正しくないと言わんとしている。
「私は今や、ただの内務省の小役人だ。作戦行動中の海軍とは本来は無縁なハズだよ。それ自体が違法なスキャンダルならともかく、作戦行動中の軍機にまではタッチする訳にはいかんだろう?」
「……貴方が言うことは尤もですわ。ですが、私が持ってきたものは、貴方の知る更にその裏側。そして、貴方ならこれを見過ごすことはない、四の五の言っていられない。そうわかっていてこれを見せる……罪深い私を許してはくれませんか?」
熊野が差し出した、赤色の表紙で閉じられた書類が一綴り。
「……無理をしたな、熊野。」
「このくらいのことがなければ、貴方を連れ戻そうとは考えませんわ。それほどまでに、事態は逼迫してますの。」
「とりあえず見てやる。見たことにするかは、見てから考えさせてもらう。」
「構いませんわ。そして……」
壬生森は叢雲から使い捨てのビニール手袋を貰い、それを填めた上で、その軍機に手を掛ける。
「やはり貴方は怒らないのですね。」
「なぜ、今の時点で怒る必要が?君は必要だと思った行動をした。それが問題かどうかは、これから判じるのだよ?」
「……そうでしたわね。貴方は、そういう人でしたわ。」
熊野はどこか落胆したような、安堵したような、落ち着いた声で答える。
熊野はきっと、相応の覚悟をしてここに来た。
壬生森はそのことをわかった上で、その赤い書類を見ることにした。
その後ろにいる叢雲は、どこかつまらなさそうな顔で飴玉をかじっていた。
この、お人好しめ。
口から出そうになった、その言葉を擂り潰すように飴玉をかじる叢雲は、しばらくは機嫌の喫水線が斜めに傾いたままだった。
ページ上へ戻る