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蒼き夢の果てに

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第7章 聖戦
  第172話 蝶の羽ばたき

 
前書き
 第172話を更新します。

 次回更新は、
 7月26日。『蒼き夢の果てに』第173話。
 タイトルは、『古き友』です。
 

 
 辺りには気分が悪くなるほどの……鉄さびに似た臭いが充満し、うす暗い石造りの通路は冬の夜気と死の気配に支配されている。
 吐き出す息が白い。身体の芯までも……いや、魂すらも凍えさせるかのような、そんなあり得ない想像さえして来るこの場所。

「オマエさんが知っている歴史と、今のこの世界の状況。何故、然したる介入もしていないのに、其処に違いが発生しているのか。その理由を知りたいとは思わないか?」

 何故、オマエさんが想定しているよりも事件が起きるのが早いのか。何故、違う方向に向かって進んでいるのか。
 表面上は酷く穏やかな表情で。しかし、心の中ではある種の属性。高名な錬金術師であり、降霊術者でもあったとされるとある博士に、己の魂を代価に用いた契約を交わす際、その悪魔が浮かべていたと言われている笑みを口元に浮かべながら、そう問い掛けたのだった。

 そう、此奴の考え方の基本は介入さえしなければ。つまり、歴史のターニングポイントに直接干渉さえしなければ、歴史は自分が正史だと考えて居る流れのままに進む……と考えているらしい。
 例えば本能寺の変で織田信長を直接助け出さない限り、信長は本能寺で明智光秀に討たれて死亡。その後の流れは光秀の三日天下から秀吉、そして家康へと粛々と進んで行く……と言う考え方らしいのだが。

 但し、歴史の流れとはそれほど確固たる地盤の上に築かれた堅城の如き代物ではない。
 例えば、連歌師の里村紹巴(じょうは)が光秀の句として有名な『(土岐)が今』の句を本能寺の織田信長に伝えたとすると、歴史はあっと言う間に書き換えられて仕舞う。もし毛利が、信長が本能寺にて光秀により討たれた事をもっと早い段階で知って居れば、もし家康が穴山梅雪と共に伊賀越えの最中に討ち取られて居れば、その後の歴史の流れは当然のように大きく変わっていたはず。
 これは歴史を知っている人物が直接介入しなくとも起こり得た可能性。例えばもし、里村紹巴が何かの切っ掛け……ほんの些細な感情の揺れから本能寺を訪れていたならば、後の歴史は変わって居た。
 そう。これはほんの些細な切っ掛けから変わって居たかも知れないと言う歴史上での、もしもの物語。

 こう言う部分から発生するのが平行世界と言うヤツの事なのだが……。

「オマエさんの知っている歴史ではティファニアの現在の立ち位置に違いがあったり、オルレアン大公が死亡に至る経過が違ったりしている理由。
 その責任をどうしても俺になすり付けたいらしいが、残念ながらそれは間違い。
 何故ならば、俺はタバサに因り地球世界から去年の四月に召喚された日本人。其の事件が起きた頃には未だ日本の徳島で暮らす単なる小学生だった」

 流石に、未来にこの世界に召喚される事が運命だったとしても、その未来……俺によって改変される未来の()()により、世界自体の在り様……俺自身が直接干渉出来ないこのハルケギニア世界の過去が歪められるとは思えない。

 かなり大きな秘密の暴露。
 今と違う名前。両親ともに健在で、今よりもずっと人間に近い能力……普通の小学生とそれほど変わらぬ生活をしていた頃の事を思い出し掛け、一瞬だけ、言葉に詰まる俺。
 いや、失った物を悔やむのは何時でも出来る。今は、この道化を舌先三寸でだまくらかすのが先だ。

「その両者の運命が変わった瞬間にこの世界に居て、その変わる前の歴史を知っていた人物がその歴史を変えた犯人。そのオマエさんの読みは良い線を突いて居たと俺は思う」

 そう、目の前の道化を一度持ち上げて置く俺。
 そして――

「この世界の在り様を……。歴史を歪めて仕舞った張本人。それはオマエ自身や、匿名希望のチンチクリンさんよ」

 オマエの知っているハルケギニアの歴史に登場しない人間。その中で明らかにこの世界に取って異分子と言えるのはオマエ自身だけ。
 そう口先では断言する俺。但し、心の中ではこの言葉に対する疑問点が浮かんでいる。
 それは俺に関係している転生者の存在。タバサを始めとする地球の神々の思惑と、本人たちの想いが重なってこのハルケギニア世界に転生して来た人物たちと、俺に反発する事を目的とし、その思いを、望みを成就させる為にクトゥルフの邪神たちの手に因って転生して来た者たち。例えば、今回の反乱騒ぎを起こしたアルザス侯シャルルなどの存在が、このチンチクリンの言う正史から歴史の流れを外させる原因となった可能性が高い事。
 もし、その影響で歴史の流れが正史から外れたとするのなら、その原因の一端は俺にも存在しているのだが……。

 但し、それはソレ。高が在り得たはずの未来のひとつがそう成らなかっただけで、面と向かって犯罪者扱いされなければならない謂れはない。むしろ道義的責任としては、この目の前に立つ正義の味方面をした道化の方がずっと重いと思う。

「もっとも、ある程度の年齢のように見えるけど、実はアンタが産まれたのは俺が召喚された時よりも後。未だ産まれてから一年も経っていないのなら、俺の仮説はその瞬間に崩壊して仕舞う程度の脆い物なんやけどな」

 最後に皮肉を込めてそう締め括る俺。当然、その意味はデカい図体をして居る割には頭の中身は赤ん坊並みだな。……と言う意味を込めている。
 そう。少なくとも俺と同じ時代に生きて居た元日本人ならば平行世界や多元宇宙。それにカオス理論と言う言葉を一度ぐらいは聞いた事があると思うのだが……。

「何を馬鹿な事を言っている。少なくとも俺は歴史に直接関わるようなウカツな動きはしていない!」

 かなりひび割れた声。大きな声を出す事に因って、此方がビビると思って居る、もしくは自分は常に正しいと思い込もうとしている人間の典型的な例。
 これでは、ちゃんとした観察眼を持っている人間から見ると、虚勢を張って居るのが丸分かりの状態。
 後一押しと言うトコロか。ならば……。

「確かに、オマエさんが言うように……匿名希望のチンチクリンさんが本当に歴史に関わっていないのならば、そのオマエさんが言う歴史の歪みにオマエさん自身が関わっていない可能性もあるとは思う」

 かなり余裕を持った仕草で胸の前で腕を組み、まるで目の前の道化者を値踏みするかのように上から下まで一周分見つめてから、そう言ってやる俺。
 その瞬間、当然のようにホッと安堵したかのような気配が目の前の道化から発せられる。

 ……と言うか、此奴、どう考えても術に対する耐性が無さ過ぎる。
 相手。今の俺は此奴に取っての敵と言うべき存在。その敵の言葉に簡単に揺さぶられるようでは術者としての程度も知れている。少なくとも、その人物の言葉を丸呑みするような危険な行為は真面な術者ならば為すべきではない。
 その言葉の中にも術や呪いが籠められている可能性だってなくはないのだから。

 術の基本は化かし合い。虚と実を織り交ぜた駆け引きが主。その場合、矢張り素直な人間はその分だけ向いていない。少なくとも相手の言葉の裏側を常に考えるようにならなければならない……と俺は思うのだが。

「例えば、このハルケギニア世界で産まれたけど、この世界の大気を吸う事もなく今まで暮らして来たのなら。
 例えば、この世界の生命体を一切、殺す事もなく暮らして来たのなら。
 例えば、この世界の生命体と一切、関わる事なく暮らして来たのなら。
 例えば、この大地を一度も踏み締めていないのなら」

 もし、この内のひとつでも行って居たのなら、その時、オマエさんは世界と関わりを持った事となり、その結果、少なからず世界に対して影響を与える事と成っている。
 およそ生命体として暮らして来たのなら、これをやらなければ生きて行く事は出来ない。そう言う内容を口にして行く俺。
 当然、

「何を馬鹿な事を。その程度の小さな事で歴史が変わったりするモノか」

 歴史には修正能力と言う物があって、その程度の事なら誤差の範囲内として呑み込んで仕舞い、大きな影響など出る事はない。
 そう吐き捨てるように言い切るチンチクリン。

 何をくだらない事を。一体、何を基準にしてその程度……と言い切る事が出来ると言うのだ。そう心の中でのみ吐き捨てる俺。此奴は自分がどれだけ大きな影響を世界に与えて来たのか考えた事はなかったのか。

「オマエさんがオギャーと産まれてから、これまで暮らして来た中で消費して来た酸素の量はおそらく五十メートルプールでふたつ分ほど。
 その身体を維持するのに必要なカロリーは四千キロから五千キロカロリー。それ掛ける三百六十五日×生きて来た年数分。
 関わって来た人間の数は分からないが、そんなアロハシャツやバーミューダパンツのような洋服をこのハルケギニアの職人が作る事が出来る訳もないので、それもオマエさんのアイデアやな?」

 そもそもこのハルケギニア世界にファスナーは未だない。……と言うか、地球世界の旧日本軍の軍服にすら付いていなかった物が、中世ヨーロッパに等しい技術レベルのハルケギニアにある訳がない。
 大体、余程の味音痴。いや、むしろ悪食と言うレベルの日本人でなければこのハルケギニア……中世ヨーロッパの食生活に耐えられるはずはない。少なくとも俺は、単調な味付けのハルケギニア世界の料理では満足しなかったし、更に言うと、中には涙を隠して無理矢理に丸呑みしなければならないクラスの代物さえ存在していた。まして此奴は前世の記憶を持った状態で転生して来たと言い切った以上、前世では俺と同じレベルの食生活を営んでいたはず。
 此奴の見た目……走るよりも転がった方が素早く動けるような体型の人間が食事に無頓着な訳はない。そのような人間が同じ重さの黄金と交換するしか方法がない胡椒を手に入れるとか、砂糖の大量購入とか、更に其処から一歩余分に進んで大豆から醤油や味噌を作り出すなどと言う事を行って居る可能性すら存在していると思う。

 どう考えても、此奴がこれまでの人生で一切、世界と関わり合う事もなく暮らして来たとは思えないのだが。

「確かに、そのひとつひとつは小さな齟齬に違いない。しかし、それが小さな齟齬だったとしても少しずつそれが蓄積される事により、やがては大きな歪みとなる」

 何処の国で産まれたのか知らないが、オマエさんの知っている歴史の流れから外れだしたのは産まれてから数年経った後の事ではないか?

 普段の自らの声に比べると心持ち低いトーンの声。所謂、よそ行きの声でそう問い掛ける俺。何時もなら無意識の内に相手を睨むようになって仕舞う視線も出来るだけ焦点を合わせず、射すくめるような、と表現されるタイプの視線を送らないように心掛けながら。

「北京で発生した蝶のはばたきが一か月後のニューヨークで嵐を巻き起こすと言う。
 其処から考えると、オマエさんの場合は生きて行くだけで、それよりもずっと大きな影響を世界に対して与え続けて来たんだ。そりゃ、歴史に悪影響だって与えて当然だろう?」

 本来接する事のなかった情報。その情報に人々が接触する事によってその分だけ余分にその人物の知識は増大する。その僅かな知識の蓄積が更なる新たな知識を産み出す可能性が増大して行く。
 例えば、去年の秋以降このハルケギニア世界で大流行しているペストの正しい予防方法や治療法を俺はガリアの医療関係者に伝授して行ったが、この歴史の改変。……本来なら大航海時代以前の時代にそのような先進的な知識や医療技術が存在していない世界に対して、そのような働き掛けを行えば、その後の歴史に間違いなく影響を与える事となる。
 ……この場合、おそらく医療技術や知識の進み具合が正史と比べると少し加速される可能性が出て来る。そう言う事。

 そして、その進んだ医療技術によって本来、その病で死ぬべき可能性のあった人間が生き延びる可能性が発生。その人間がまた新たな何かを為す可能性が有り、世界の進歩は少しずつ加速して行く事となる。
 当然、それは医療技術や知識にのみ限定された進歩と言う訳ではない。それ以外の有りとあらゆる事象に対して影響を与え、その事により更に歴史の流れは加速して行く事となる。
 ゆっくりと。しかし、確実に。

 流石にここまで大きな事をこのチンチクリンと名乗った男が為したとは思えない。しかし、例え僅かな接触であったとしても、本来、彼がもたらせる現代日本の知識や技術と言う物はこのハルケギニア世界に取ってはまったく異質な技術や知識。その技術や知識に、この世界の人々が接触する度に少しずつ蓄えて来た齟齬が徐々大きくなる事で、この匿名希望のチンチクリンが知っている歴史と、この今、俺が暮らしているハルケギニア世界の歴史に狂いが生じて来ているのではないか、と言うのが俺の仮説。
 それに、そもそも論として此奴が前世の記憶を持ったまま転生させて来たのが、這い寄る混沌に因る悪意だと考えるのならば、彼奴が何の見返りも要求せず、そのような美味しい話を用意するとは思えない。表面上は確かに何の見返りも要求していないように見えたとしても、それ自体が既に罠。今回の場合はこのバタフライ効果を発生させるのが目的である可能性も大きい。
 何故ならば、何の変化もない……過去から決まりきった未来に到達する歴史よりは、何が起きるか分からないカオスに満ちた未来の方が奴の嗜好には合っていると思われるので。

 以上、説明の終了。
 しかし――

 石造りの回廊に小さく響く笑い。それは当初の押さえられた冷笑の類から徐々に大きく成って行き……やがて哄笑へと変わる。
 そして――

「御説ごもっとも。確かに、歴史を歪めたのは俺の方かも知れなかったな」

 哄笑から嘲りの含まれた笑いへと層を移した匿名希望のチンチクリンが、そう笑いの合間に呟くように言った。

「しかし、それはもういい」

 ここまで変わって仕舞った歴史では最早、原作の流れなど何の役にも立たない事は俺にも理解出来るからな。

「そもそも最初は俺の能力アップの時間をどう稼ぎ出すか、そちらの方が重要だったんだが」

 貴様の無駄話の御蔭で十分な時間を稼ぎ出す事が出来たよ。
 原作? 何を訳の分からない事を言い出すのだ、この道化は。目の前に立つアロハにバーミューダパンツの男を改めて見つめ直す俺。その俺に対して、そう続けるチンチクリン。

「俺が転生の際に神に与えられた能力は時間経過と共に自らの能力を徐々にアップさせて行く能力」

 神はその能力を『アンプ能力』と言っていたか。
 更に続くチンチクリンの言葉。
 成るほど。現われてからずっと何らかのエンハンスト系の術を行使し続けていたのはそう言う理由か。別に自らが危険に晒されているように感じない以上、心にかなりの余裕を持った状態でそう考える俺。
 確かにどれぐらいの能力アップ系の魔法か定かには分からないのだが、ここに奴が顕われてからずっと掛け続けられた魔法だけに、事に因ると人間の限界を超えた動きを、今の此奴が行える可能性はあるが……。

 ただ……気になるのはその『アンプ能力』と言う言葉。この言葉には記憶の深い部分に何か引っ掛かりがあるのだが……。

「そして、もうひとつ大きな能力を与えて貰えた」

 俺や、更に言うと俺の左右に立つ二人の少女たちすら何の反応を示そうとしない事に対して、まったく気にした風もないチンチクリン。この辺りの鈍感さについては見習うべき点もあるのかも知れない、などと非常にクダラナイ事を一瞬考える俺。

「それは――」

 そう叫んだ瞬間、それまで暗闇の中でも頑なまでに掛け続けていたサングラスを外すチンチクリン。
 刹那、怪しい輝きを発する奴の瞳。

「汝の正体見たり、汝の正体は――――」

 そう言った瞬間、しかし、何故か固まるチンチクリン。そして……。
 ………………
 …………
 ……

 ゆっくりと過ぎ去って行く時間。何故かその間ずっと固まったまま動こうとしないチンチクリン。
 そして俺の方はと言うと、此奴が現われた際の言葉を思い出し、その結果あまりにもアホらしい落ちが見えて仕舞い、動く気すら起きない時間。

 とあるインスタントラーメンならお湯を注いでから食べごろになるぐらいの時間が無意味に過ぎて行き――
 そして……。

「なっ、ば、ばかな! 何故、貴様らの能力値が分からない?」

 俺に与えられた能力は相手の能力の数値化。そして、その相手以上に自分の能力を上げた後に俺様つえ~状態のワンパンチに因る制圧だったはず!

 もうアホ臭くて相手にするのも面倒になって来るような事を騒ぎ立てるチンチクリン。
 そもそも、機械ではない人間の能力の数値化などに何の意味があると言うのだ? 特に魔法や術と言うのは、その時の気分やノリで威力や発動率に差が起きやすい技術。こんな不安定な能力の数値化って……某宇宙の彼方からやって来た巨大ヒーローの身長と同じような表記方法。例えばミクロから四十メートルとでも表現されるのだろうか?

 ダメだこりゃ。そう言う気分に苛まれながらも、しかし、この迷える子羊に有無を言わせぬ無慈悲な一撃を与えて無力化する事は、流石に俺の所属する洞の戒律に違反する可能性があるので……。
 如何にも面倒臭いですよ感を醸し出しながら……。具体的には口をへの字に曲げ、視線は目の前の道化の斜め四十五度ほど前方の足元に。右手で頭を掻きながら――

「なぁ、チンチクリンさんよ。アンタ、本当にそんなショウもない能力が実戦で有効だと本気で思っていたのか?」

 例えばプロ野球のエースが投げる直球は時速百五十キロ以上。こいつと、プロボクサーのパンチ力は二百キロ以上。この場合、どう言う数値に差が現われる?
 プロテニスプレイヤーの二百キロオーバーのファーストサーブ対幕内力士のぶちかましの勝負は? ちなみに幕内力士は軽トラ程度なら跳ね飛ばす事も出来るらしい。
 それに人間の場合は機械じゃないから、その時々に因って結果が違う事もある。握力を計る時に一度目の計測結果よりも二度目の方が結果の良い時があるのがその例かな。

 ――そう話し掛ける俺。そして相手に立ち直る機会さえ与える事もなく放つ追撃の一打。

「まして火事場の馬鹿力の例もある。身体が壊れて仕舞う事を恐れて無意識の内に脳がリミッターを掛けている場合などはどう言う数値的な判断を下すんや?」

 最早憐みにも似た視線で目の前の道化者を見つめながら、そう問い掛ける俺。
 そう、俺が目の前の相手を恐れなかった最大の理由はコレ。確かに強化系の魔法により身体能力が強化され続けていた事に気付いてはいた。
 しかしソレだけ。此奴の能力では世界にあまねく存在する精霊を従える事が出来ない事も、周囲の精霊の反応から理解出来て居た。

 そりゃ関節や筋肉のすべてを金属やセラミックなどに置き換える事が出来ない以上。体液を瞬間に沸騰させない為の処置にも限界がある以上、いくら強化系の魔法を行使し続けていたとしても現実の身体の動きや強度に関しては自ずと限界と言う物が存在する、と言う事。

 つまり、どれほど能力をアップさせて行ったとしても、此奴の能力の限界は有機生命体の限界まで。体温で言うのなら、タンパク質が変質する四十二度が限界。そして俺やタバサ。それに長門有希の能力の限界はその更に向こう側。
 そもそも俺やタバサが精霊の護りもない状態で、全速力で走り出せば脆弱な人間の身体では一歩目で足が砕ける。仮にジャンプが出来たとしても空中で身体が潰れて燃え始める。
 俺たちの能力と言うのはそのレベルの能力。

 通常の物理現象が支配する世界の中で生きているチンチクリンと、それを越えた神の領域で戦って来た俺たち。これでは最初から立ち位置が違い過ぎて能力の数値化など不可能でしょう。
 もし無理に数値化するとするのなら、十の数十乗倍……などと言う天文学上の数値となるのは間違いない。

「大体、その能力をくれたのがオマエさんを転生させた神様なら、その能力で俺をどうこうする事はかなり難しいと思うぞ」

 そんなお気軽に貰える能力。まるで試供品として提供される粗品程度の能力で、どれだけ長い時間、世界を歩んで来たのか分からない魂に刻み込まれた記憶を蘇らせた……最終的にはその神様自体を封印して仕舞う心算で居る俺を倒す事は。
 何故ならば――

「その神様自体が、もし自分に対してその与えた能力を振るわれた場合でも自分が死なない程度に抑えて能力を与えている可能性の方が高いからな」

 至極一般的な答えを返す俺。そりゃ当たり前。何処の世界に自分を殺せる能力を他人に与える存在が居ますか、って言うんだ。
 長いこと生きて来た心算だが、そんな自暴自棄となった神と呼ばれる存在に出会った事は未だかつて一度もない。大抵の場合、その神と呼ばれる奴らの方が生に対する執着心が強い物だったぐらいなのだから。
 もっとも……。
 もっとも、此奴に能力を与えた相手が這い寄る混沌だった場合は、もしかすると自らを倒して仕舞えるような能力をこの匿名希望のチンチクリンに対して与えている可能性もゼロではないとも思うが。
 但し、今の此奴。匿名希望のチンチクリンが精霊を友とする事も出来なければ、問答無用で使役する事も出来ない。所詮ハルケギニア独特の系統魔法の使い手なので、其処から推測すると、とてもではないが見鬼の才を持っているとも思えない人間である事は間違いない……と思う。
 つまり、精霊の存在を感知出来ず、当然のように友とする事が出来ない以上、精霊の護りを身に纏う事は絶対に出来ないので、もし何かの拍子に這い寄る混沌と戦う事となったとしても瞬殺されるのがオチとなるのでしょうが。

 非常に気まずい沈黙が戦場を包む。
 未だ能力アップ系の術の行使が続いているが、幾ら能力を上げたとしても奴が有機生命体である限り、俺と正面から戦っても勝てる見込みはない。

「さて、少し余計な時間を使って仕舞ったが、そろそろ先に進ませて貰おうか」

 素直に道を開けて貰えると非常に助かるのだが。
 最後通牒。これ以後は戦いに成るしかないと言う意味の言葉。
 但し、口調やその内容とは裏腹に、俺はこの目の前の道化を本当に倒して仕舞って良いのか実を言うと迷って居たのだが……。
 確かに簡単に倒して仕舞える相手だと思う。更に言うと、表面上は良く分からないが、それでも能力アップ系の魔法の行使を止めない以上、この匿名希望のチンチクリン自身に未だ戦う意志はあるのだと思われる。

 ただ……。

 ただ、非常に曖昧な感覚なのだが、今まで敵対して来た相手と比べるとどうも雰囲気が違うのが気にかかる。どうにも言葉に出来ない、心の奥深くに何かが引っ掛かる部分がある、と言う感じ。もしかすると、此奴を送り込んで来たのが這い寄る混沌なら、この匿名希望のチンチクリンがこの場に現われた事にも何らかの意味がある。その部分を深く考えてみろ、と言う警告なのかも知れないのだが……。

 ほんの僅かな逡巡。表面上からは分からないが、優柔不断な心の表れ。その俺の迷いを感じ取ったのか、それまで大人しく俺の右肩の後ろのただ立ち尽くしていたタバサが半歩分だけ前に出た。
 普段通りの淡々とした表情で……。

 一瞬、かなり怯んだような気配を発するチンチクリン。自分の能力に自信を持っていたハズの此奴が怯むと言う事は、矢張り、今まで現われた敵とは少し違うみたいだな。
 何にしても――
 僅かに苦笑を浮かべながら、ずいっと一歩、チンチクリンに向かって踏み出す俺。
 そして、

「いや、タバサ。オマエさんは手出しする必要はないで」

 ……と言うか、自身も手出しする心算もないのだが。
 そう言いながら、右肩の後ろにタバサを置く俺。

「一応、もう一度聞くが、素直に引き下がってくれると非常に助かるんやけど、どうかな?」

 そして再びの。いや、今度こそ本当の意味での最終確認を行う俺。気分としては素直に道を譲ってくれ。そう考えながら。
 しかし――

「そうですか、じゃあ、そう言う事で――
 などと言える訳がないだろう?」

 大体、大見得を切って出て来た以上、ここですごすごと逃げ帰る訳には行かない。
 諦めて終わなければ可能性はゼロじゃない。そうチンチクリンが言った瞬間、奴の心意気に呼応するかのように、奴が行使し続けているエンハンスト系の術。……奴が言うトコロの『アンプ能力』が発動した。

 成るほど。そう考え小さく首肯く俺。何と言うか、ある意味、非常に男らしい意地や見栄の為に廊下の真ん中で仁王立ちとなっているチンチクリン。
 そう言う考え方も嫌いではない。嫌いではないが、しかしそれは蛮勇。所謂、匹夫(ひっぷ)の勇と言うヤツ。
 確かに未だ行使し続ける能力アップ系の術は此奴が諦めていない証だと思う。それに、もしかすると俺の事を甘く見ている可能性もある。
 簡単に人間を殺す事など出来ないだろうと……。

 どうもにやり難い相手なのは事実。それに、肉体強化が何処までのレベルなのかが分からない以上、最悪の場合、自滅する可能性すら存在している。
 普通、人間の場合、自らの筋肉によって自らの身体が壊れて仕舞わない為に、脳の方で限界を超えた動きが出来ないようにリミッターが設定されているのだが、無暗矢鱈と強化された能力と、現実の脳の判断の間にギャップが存在していると、脳の方の判断では安全と認識された行為が実は非常に危険な行為となる可能性すら存在している。
 確かに非常に利己的な奴なのだが――

 麒驥(きき)も一躍に十歩すること(あた)わず、と言う言葉もあるのだが……と小さくため息を吐くかのように呟く俺。
 何事も一足飛びに。簡単に得られると言う訳ではない。
 そして一度視線を在らぬ方向へと外した後、再び目の前の漢に戻した時、既に腹は決まっていた。

「今からここに最凶の荒御霊を呼び寄せる」

 
 

 
後書き
 それでは次回タイトルは『古き友』です。 
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