SNOW ROSE
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花園の章
Ⅶ
ミヒャエルはアンドレアス、十二貴族次期当主達ら仲間と共に、ルツェンより二日で王都プレトリスへと入った。碧桜騎士団は団長のルドルフを失って、その内情は殆んど機能していなかったため、ヘルベルトにこの軍勢を止めることは出来なかったようであった。
さて、ミヒャエルらが王都へ入って初めに目にしたものは、家々に国旗を掲げて喪に服す人々の姿であった。どうやらヘルベルトは、王都に住まう者達には国王の崩御を告知しているようである。
しかし、ミヒャエルはこれに違和感を感じた。ヘルベルト自身、自ら権力を握りたければ、国王が生きていると思わせていた方が都合が良いのではないかと考えたのである。
だがそれだけではない。封鎖されていたこの王都は、既に物資が不足している筈であったが、どう見てもその様な風には見えず、寧ろ今までよりも豊かになっているように見えたのであった。
「これは…どういうことだ…?」
ミヒャエルは小さく呟いた。
一方では悪辣非道な行いをし、また一方では人々のために尽力している。この矛盾は、一体何を意味しているのであろうか?
「アンドレアス。君はどう思う?」
後ろに下がっていたアンドレアスに、この状況がどう映っているのかミヒャエルは尋ねた。
「王よ、私には計り兼ねます。この国には現在、大きな隔たりがあるように思え、それが何を意図しているのか…。本人に尋ねるしかないかと存じます。」
アンドレアスの答えは、ヘルベルト自身に問うしかないと言うものであった。ミヒャエルもそれしかあるまいと考え、皆を連れ中央にある王城へと向かったのであった。
王都内は喪に服していることもあり、さして人は居なかった。その中でミヒャエルは、兵士達を四つつに分割して城の四つの出入口を固めさせていた。その指揮を任せたのは、あのヅィートレイ・キナンであった。
「ヅィートレイ、後は頼んだ。」
「陛下、どうか御無事で。原初の神の加護があらんことを。」
ミヒャエルはヅィートレイとそう言葉を交すと、アンドレアスと十二貴族次期当主達を連れて王城へと入って行ったのであった。
「誰も…居ない…?」
城へ入ったミヒャエルらは、その不可思議な現実に戸惑った。城の中には警備兵はおろか、誰一人見い出すことが出来なかったのである。王の家臣達もそこで働く召使達さえも、誰一人居なかったのである。
「王城としての機能が完全に止まっていると言うのか?一体どうして…。」
ミヒャエルはその異常なる雰囲気に眉を潜め、同じく訝しがるアンドレアスや十二貴族次期当主達と顔を見合せて先を急いだ。
このプレトリウスの王城であるが、モルヴェリやリチェッリなどの城と比較すればかなり小規模な造りである。敷地の四隅の外壁と繋がっている塔を含めれば外観は大きく感じはするが、本体は必要不可欠なものしか取り入れず、かなり質素な造りと言える。しかし小規模とは言え、やはり城は城であり、それなりの広さはある。故に、ミヒャエルらは無人と化した王城の廊下を幾つも曲がって階段を登り、暫くしてやっと目的の部屋へと辿り着いた。
そこは王の執務室であり、以前はミヒャエルの父である前国王が執務をこなしていた部屋であった。しかし、今はその前国王も崩御し、無人の筈であったが、ミヒャエルがその扉を開くと、そこへは意外な人物が彼らを待ち構えていたのであった。
「よくお戻りになられました。」
扉の向こうでそう言ったのは、初老の男であった。その人物を見て最初に声を発したのはリカルドであった。
「何故…何故に父上がこの部屋に居られるのですか!?」
青ざめた顔で叫ぶリカルドに、初老の男はニタリと笑った。そこへのんびりと王の椅子に腰掛けていたのは、幽閉されていた筈のベッツェン公クリストフ・フォン・アンハルトであった。
「いや、実に良い気分だ。我が家系の祖たるベルクは、元はモルヴェリ帝国第十一代皇帝マリアヌスⅣ世の第二皇子であった。それがこともあろうに国を捨て、このプレトリウスへと流れ着いた。今では皇族ですらなく、ただの家臣と化してしまった…。祖先の悪口は言いたくはないが、全く無様なものだ。故に、私は家を皇族として復興することを悲願とし、ヘルベルト王子と手を組んだ。この国を我がものにするためにな。」
そのクリストフの言葉には、微塵の悪意も感じなかった。故に、ミヒャエルだけでなく、リカルドもアンドレアスも、そして十二貴族次期当主達全てに悪寒が走ったのであった。まともな話が出来る相手ではないと悟ったからである。彼…クリストフは、既に狂っているようにしか見えなかった。
「父上!あなたは何を言っているのか解っているのですか!?」
「解っておる。これは我が家系の当然の権利だ。」
「何と言うことを…!父上、今すぐミヒャエル様…いいえ、国王へ伏して全ての過ちを詫びて下さい!」
リカルドは必死に父を悟そうとしたが、クリストフはその息子の言葉を冷たくあしらった。
「小わっぱは黙っておれ。お前は私の言った通りにしておれば良いのだ。それに、誰が国王だと?何年も王城を離れ放蕩していたこの青二才が…笑わせる。私は承認などしておらぬわ。」
「ミヒャエル様への承認は、既に私が行いました。」
「何をぬかす!私の承認がなくば正式に国王と認められよう筈がない!」
クリストフとリカルドは互いにぶつかり合い、泥沼の言い争いと化していた。それを見てミヒャエルは、その無意味な争いを止めるべく大声で怒鳴ったのであった。
「二人とも止めよ!」
その一言で、二人は言い争うことを止めてミヒャエルを見た。部屋の中は静まり返り、ミヒャエルは一呼吸置いてクリストフへと問った。
「クリストフ。汝は何を思い爵位を継いだのだ?」
その問いに、クリストフは静かに答えた。
「爵位を継いだ時、私は既に祖先のことを知っていた。故に、必ずこの国を我が手にすることを誓い、この爵位を継いだまで。それがどうしたと言うのだ?」
「ベッツェン公…。貴殿は人の上に立つに相応しくない。」
「その様なことはどうでも良いことですな…。して、私をどうするおつもりですかな?王とて私の爵位は奪えますまい。」
クリストフは鼻で笑い、目の前の若き王に言った。しかし、それに答えたのはミヒャエルではなく、後ろで控えていたアンドレアスであった。
「いいや。王権は爵位を剥奪出来ないが、爵位を強制的に次期当主へ移行することは許されている。」
そのアンドレアスの言葉を受け、リカルドら十二貴族次期当主達は、クリストフの周囲を取り囲む様に移動したのであった。この時、ミヒャエルは王になって初めて正式に王権を行使したのであった。
「クリストフ・フォン・アンハルト。今より汝の爵位を、息子リカルドへ移行する。汝に拒否権は無い。直ちに公爵印と剣を差し出せ。」
ミヒャエルの言葉に、目の前のクリストフは顔を真っ赤にして憤慨した。クリストフは、未だミヒャエルを王とは認めておらず、この様な命を下したミヒャエルを罵り続けた。それ故、アンドレアスはクリストフを国王を侮辱した罪により捕縛し、彼から公爵印と剣を奪ったのであった。
「何をするか!この無礼者めが!」
「父上!いい加減目を覚まして下さい!ミヒャエル様は既に、ヴェヒマル大聖堂からの承認も受けておられるのです。ここで父上が如何に足掻こうと、それが覆ることなどありません。言わせて頂きますが、父上が王になることなど、誰一人望んでなどおりません。我々貴族は飽くまでも王の補佐役であり、主たる王より前へ出る必要などありません。我々の働きは国の民だけでなく、原初の神もご存知なのですから、それ以上を望むことが何故に許されましょうや?」
「我が家系は…」
「幻想に価値は無く、過ぎ去りし日々は還りません。父上、今の我々はただの公僕に過ぎません。妄執に憑かれた貴方は、もはや人の上に立つ資格は無いのです。」
「息子の分際で、父である私に意見するとは!」
「あなたは私の父ではない。ただの妄執に憑かれた老人だ。私の父は王を立て、民のために剣となり盾となる方であった。あなたは違う。」
息子にそう言われたクリストフは、今までとは一変して覇気を無くし、それに答えることは無かった。クリストフは息子の冷やかな眼差しに貫かれ、まるで抜け殻の様になってしまったのである。リカルドは何も話さなくなった父に代わり、ミヒャエルへと頭を垂れて言った。
「王よ、どうか御許し下さい。我が系譜はこの父のために卑しき血筋と言われましょう。しかし、父の犯せし罪を償うために今一度、私に贖いの機会を与えて頂きたく存じます。私は我が身を持って国と王にお仕えしたく存じます故に。」
ミヒャエルはリカルドの言葉を受け、彼がどれ程の想いを持っているのかを試すことにした。
「リカルド。君はこの国がどうなってほしいのだ?」
「王よ。私はこの国が…いいえ、この大陸全土が戦の無い、差別もない穏やかで活気に満ちた場所にしたいのです。」
「それは…夢か?」
「はい。しかしながら、夢とは実現させるために見るものにございます。故に、私はその夢のためならば、この身を賭しても構いません。」
「リカルドよ。君はその夢を叶えるに足る力は備えているか?」
「いいえ。私一人では到底叶わぬものと存じます。それ故、私は人々の力を借り、国の力を借り、神の力を借りねばなりません。それはこの身故に、生半可な心では得られぬでしょう。私は私の全てを持って、私の夢を成就出来ると信ずる王に仕えたいと願います。」
「私がそうであると、何故に断言出来る?」
「王よ、貴方がそう仰られた故に。」
問答を通してミヒャエルは、リカルドが何を考え行動したいかを見極めていた。全ての問いに彼は間を置かず率直に答え、それ故にミヒャエルはリカルドが信用に足る者であると確信した。
しかし、ミヒャエルは最後に自らの確信に布石をするべく、もう一つの問いをリカルドへと投げ掛けた。
「最後に問う。リカルド、私が王の器では無かったと分かった時、私を切り捨てられるか?」
その問いはリカルドだけでなく、周囲に集う全ての者達を驚かせた。いかな新米の王であるとて、己を切り捨てられるかと問う王はまず居なかろう。だが、この問い掛けには理由がある。
ミヒャエルは常々、王とは民のためにある存在であると考えていた。彼の父である前国王シュネーベルガーⅣ世はそれを良く理解しており、常に民が何を求めているかを察して国を動かすよう心掛けていた。故に、ミヒャエルにあるこの考え方は、父に多大な影響を受けたものであることは言うまでも無かろう。それは王の器を自身ではなく他者より計られるものであると言うことであり、周囲に常に希望を与えられなくば資質を問われなくてはならない。
過去、このプレトリウスの国王の中には、王にあるまじき行いをして国を揺るがせた王も存在した。故に、ミヒャエルは自らの足枷として、自分を切り捨てられる人材を傍に置きたかったのである。初心を忘れず、決して高慢にならぬための処置であり、それは戒めでもあった。
「王よ。私は貴方様を信じております。もし貴方様が我々家臣より遠く離れてしまうことがあれば、私は躊躇せずに貴方様を切り捨てるでしょう。しかしながら、そうならぬために我ら十二貴族が居るのです。王よ、我らを信じて頂きたい。」
リカルドがそう言い終えると、周囲の十二貴族次期当主達はミヒャエルへと礼を取り、自らの態度を明確に伝えたのであった。則ち、ミヒャエルを決して見放さず、万が一王が邪な路へと進もうとした時は必ず連れ戻すという覚悟の表れでもあった。
ミヒャエルはその対応から己の小ささを感じ、またこれから先、この国の王に相応しくなるべく精進せねばならぬと身を律したのであった。
「皆よ。私は聖エフィーリアより賜りし白薔薇を信ずる様に、集いし皆を信ずる。故に、皆はこれから先、私が路を見誤らぬ様に見張っていてほしい。私は私の意思で、ここに集う十二名に決議による王権剥奪の権利を与える。それは元老院の権限よりも強く、王には拒否出来ぬ不可侵の権利とする。皆よ、この国のために尽してほしい。」
ミヒャエルのこの発言に皆は暫し戸惑ってしまったが、直ぐに頭を垂れてそれを受領したのであった。
これは歴史上稀な王権より上位の権限である。しかし、この権限は結局、一度も使用されることはなかったのであった。
さて、気力を失って茫然としていたクリストフには、その後ミヒャエルから犯した罪への処罰が伝えられた。
「クリストフ。汝はその家系故に、義しき道より逸れてしまった。だが、それは多かれ少なかれ誰しにも起こり得ることでもある。」
「私は…ただ、祖先の栄光を取り戻したかっただけだ…。」
「それは違う。汝の祖先は王家の腐敗ぶりに我慢ならず、自ら王家やそれに伴う地位を棄てたのだ。それは勇気ある行動であり、汝もその勇気を知るべきであったのだ。」
「私には最早…その様な思いなどない。全て失い、私はただの老体に成り果てたのだ。その上、この私に何をしろと言うのだ?」
クリストフは光を喪った瞳でミヒャエルを見た。ミヒャエルはそんな彼にこう言ったのである。
「自ら犯せし罪は、自らの手で贖うが良い。罰せられるに委せるのではなく、罪の重さと同等の働きを持って償うのだ。」
「その様な戯れ言を…」
クリストフはミヒャエルの言葉を鼻で笑って否定しようとしたが、途中で言葉を切って黙り混んでしまった。それは、彼が今まで気付かなかったミヒャエルの剣の紋章に気付いたからである。そこへ刻まれた紋章は、クリストフには覚えがあったのだ。
「その紋章は…!まさか…失われていた筈の…」
クリストフは顔を蒼冷めさせて呟いた。ミヒャエルが今腰に差している剣は、所謂<聖マルスの剣>なのである。それには二重の意味があり、一つは現王家の祖たる旧王家の紋章を扱えるのは国王のみであること。故にこの剣は、国王と認められた者にのみ持つことを許されているのである。第二に、これは<聖人>であるマルスの剣であり、そのマルスが現王家が衰退していた時に現れ、そして国を救ったのである。その聖マルスは旧王家の直系であり、その剣は現王家にとってはかけがえのない至宝なのである。旧王家はクリストフの祖先よりも遥かに古い血筋であり、血筋を重んじるクリストフにとっては、この紋章を貶すことなど出来ようはずもなかった。
マルスが世を去った後、この剣の所在はながらく知られておらず、故にレプリカを作って宝剣として戴冠式のみに使用していたのであった。無論、奪われた宝剣とは、このレプリカのことである。しかし、レプリカには現王家の紋章が刻まれ、全く同じには作らなかった。そのため、ミヒャエルが下げている剣は、一目で本物であるとクリストフは気付いたのである。故に、クリストフはその剣を持つミヒャエルにおののいて頭を垂れようとしたのであった。ミヒャエルはそれを見て言った。
「クリストフ、我や剣に頭を垂れてはいけない。汝は原初の神に平伏して赦しを乞うべきだ。」
ミヒャエルの言葉に、クリストフは今まで自分のしてきたことの無意味さを痛感し、その場で原初の神へと平伏して祈ったのであった。
暫し後、クリストフはミヒャエルらへとヘルベルトの居場所と、王都の民や兵達、そして王妃や側近達がどうなっているかを話した。
「民の多くはシュアの町へと行っております。ヘルベルト様の指示により、そこで働いているのです。民には相応の代価と食事を与え、不自由なく暮らせるように取り計らっております。兵達はその先で民とは別の仕事をしており、王妃様方は別の街にてお過ごしです。ヘルベルト様は今、シュアにて仕事の指揮を執られているはずです。」
クリストフの話しは最初、誰一人信じる者は居なかった。話しの中でも、外のヘルベルトの印象からは程遠く、暫く皆は顔を合わせて訝しがっていた。
それ以上に、皆が集まってこの王都へ来た最大の理由は、そのヘルベルトの横暴にあるのである。仮にクリストフの言葉が真実だとすると、何故にヘルベルトは王都外に自分を悪辣な人物だと思わせたのか?何故に碧桜騎士団まで組織して、あのような非道な真似をさせたのか…?
「皆よ、我が兄上の元へ行こう。そこで全ての答えが解る筈だ。」
ミヒャエルがそう言うと、皆は頭を垂れてミヒャエルの言葉に従ったのであった。無論、クリストフも礼を取り、彼はその後のために王都へアンドレアスと共に残ることになった。クリストフは全く咎めを受けないわけではないが、ミヒャエルはことが終結するまで罰することはしないと言ったのである。要は、ここでの働きにより罪を軽くすることも出来ると言うことである。
「アンドレアス、王都のことは頼んだぞ。」
「王よ。我が国を想う心にかけて。」
アンドレアスはミヒャエルへ礼を取ると、クリストフを連れて外で待つ兵達のところへと向かった。アンドレアスへは北に配置していた兵を任せ、ミヒャエルは東の兵達を同行させることにした。残る南の兵達はリカルドに、西の兵達はヅィートレイ・キナンへと任せ、この二つの隊には王城の警護をさせるようにしたのであった。
王城は主不在の空城となってしまっているため、いつ国外からの侵入者に奪われてもおかしくはない状態である。故に、ミヒャエルは念には念を入れたのである。
当時の情勢は、ヨハネス公国とリチェッリ王国との同盟はあったにせよ、かなり緊迫した状況であった。その上、東のモルヴェリ帝国が軍隊を増強し始めており、プレトリウスにとってはかなり過酷な状況に陥る可能性が高かったのある。ミヒャエルは一刻も早くこの事態を解決し、王として国を強化し、民を護れるよう策を講じねばならなかった。
だが、いくら一人で急いたところで、周囲は急には動けぬのが現状と言えた。皆を急かし疲弊させようものなら本末転倒と言うものであろう。ミヒャエルは自らの急く心をなだめ、皆が疲れ果てぬように心を配り、ヘルベルトのいるシュアへと前進したのであった。
さて、ミヒャエルらが王都を出発して二日の後、何事もなく順調にシュアへと近付いていた。
「皆よ、止まれ。」
日が傾いて辺りに影が差した頃、ミヒャエルは皆の足を止めて言った。
「今日はここで野営とする。湖の近くにて準備せよ。」
ミヒャエルがそう言うや、皆は直ぐ様動きだし、無駄のない動きで野営の支度に取り掛かったのであった。
ミヒャエル自身はこの後をどう動くか話し合うため、一本の大木の下に十二貴族次期当主達を集めた。そして話しをしようとした時であった。遠くより馬車の走ってくる音が聞こえたため、ミヒャエルは不審に思い見晴らしの良い場所へと移動した。
「この様なところへ…一体誰が…?」
一人呟くようにミヒャエルは言った。最初は行商人か急いでいる旅行者位にしか考えてはいなかったが、馬車が近付くにつれ、それが誰なのか分かったのであった。
「あれは…ワッツではないか…。」
遠目ではあったが、それはミヒャエルの知る青年であると分かった。
「アンドレアスの話しでは…確かラタンへ留まっている筈…。それが何故…?」
ミヒャエルがそう呟いているうちに、馬車は野営を整えている場所へと入ってきたのであった。
ミヒャエルは直ぐ様馬車へと駆け寄り、馭者台へ座るワッツへと問い掛けた。
「ワッツ、一体何事なのだ?」
「陛下、お久しぶりに御座います。目上よりご無礼御許し下さい。私はお二方を陛下の元へとお連れするようルーン公様に申し付けられ、陛下の元へと遣って参りました。」
ワッツがそこまで言うと、馬車よりその二人の人物がミヒャエルの前へと降り立った。その二人を見て、ミヒャエルは目を丸くしたのであった。
「レヴィン夫妻!どうしてこの様な場所へ!?」
「陛下、私達は旅楽士に御座います。元来、一つの場所へ留まっている者に御座いません。」
「それは分かるが…しかし…」
「ここにあるのは、ルーン公様の願いでもあります。ルーン公様はラタンへと入られ、その折に私達にこう言われました。“楽士よ、汝等の王の元へ赴き、共に結果を見届けよ"と。」
「叔父上がラタンへ?」
「はい。トビー殿が気掛かりだった御様子で、爵位を御長男様にお預けになって参られたと。」
「そうか。して、何故にご夫妻を?私としては嬉しい限りだが、ここよりもラタンの方が安全であろうに。」
ミヒャエルは不思議そうにレヴィン夫妻へと問った。だが、ミヒャエルがそう問ったのも無理からぬことである。ここは謂わば、何が起こっても不思議ではない危険な場所と言える。戦場と言っても、決して過言ではなかろう。そこへ楽士が来るなど考えられぬことであり、ミヒャエルの叔父ルーン公もその点は充分解っていたはずである。
そんなミヒャエルを察してか、後方で控えていたエディアが言った。
「陛下。私達は考え無しに陛下の元へと赴いた訳では御座いません。ルーン公様は陛下を大変案じておられ、私達に畏れ多くも陛下の友人として陛下の力になるよう仰せになられました。故に、私達にこれを陛下へと持って行くよう申し付けられ、私達はこれと共に赴いたのです。」
エディアがそう言うと、ヨゼフとエディアは脇へ退き、馬車の中をミヒャエルへと見せたのであった。
「これは…!」
ミヒャエルが中を見ると、そこには鉢へ植え替えられた白薔薇が幾つもあった。
「ルーン公様と、共にラタンへこられていたヴェヒマル大聖堂の大司教マンフレート様が神へ讚美を捧げながら植え替えたものに御座います。この騒動が収まった後、これを王城の庭園へと植えてほしいとのこと。」
前にも語ったが、この白薔薇は邪なるものを退ける神聖な力を宿している。故に、余程のことが無い限り人々はこれに触れようとはしないのであった。自らに一片の邪心も無いと断言出来る者が、果してどれ程居るであろうか?
この白薔薇は、触れれば邪な者は即座に命を落とすと言われいるのである。人々は信仰はあっても、自らが完全に清らかであるとは言えず、故に白薔薇を恐れの対象としても見ていたのであった。
だが、ルーン公はそれを知っていて尚、ミヒャエルのためにと自らの手で白薔薇を鉢へと植え替えたのであった。
「叔父上…。」
ミヒャエルは叔父の優しさに感謝した。そしてその優さに大いに力付けられたのであった。
ルーン公にとってミヒャエルは、王子や王といった権力の肩書きではなく、可愛い甥であり、大切な家族なのであった。故に、レヴィン夫妻とてそう言った肩書きなどではなく、純粋に友としてここへ赴いてきたのであるとミヒャエルは分かっていた。そこへいくら言葉を重ねようとも、全く意味を成さぬのである。ただ、心より感謝するだけであった。
「ご夫妻、来て頂いて嬉しいです。」
「私達も貴方様に会えて嬉しく思っております。今宵は私達が楽を奏で、一時でも心が安らげば私達の来た甲斐があると言うもの。貴方様も今宵は心安らけくありますように。」
明日の昼前にはシュアへと入れるこの状況で、ミヒャエルはワッツとレヴィン夫妻が赴いてくれたことに、内心では安堵を覚えていた。強張った精神はそのままではあったが、もう何も案じてはいなかった。そう…アリシアですらきっと何事もなく、無事にあの笑顔で戻ってくると確信出来たのであった。
空は藍で染まって行き、その向こうには輝く星々が歌うように瞬いている。今そこへレヴィン夫妻の奏でる音楽が響き渡り、ミヒャエルだけでなく、兵もそうでない者らも皆、その疲れを忘れて聴き入っていたのであった。飽くまで緊迫した雰囲気はそのままではあったが、夫妻の奏でる音はそこから不安や痛みを取り払うように、聴く者の心へと染み込んでいったのであった。
暫くして後、夫妻の演奏が止んだ刹那に天へ一筋の光が流れた。
「なんと…!これは善き兆しだ!」
その流れ星を見た一人の老兵がそう呟いた。この国では遥か古より、流れ星は幸運を齎すものとされており、その考えはこの当時にも残っていた。
「流れ星か…。」
ミヒャエルもそう小さく呟き、満天の星空を仰ぎ見た。少し離れたところでは、レヴィン夫妻が再び演奏を始めて、人々の耳を楽しませていた。その近くにはワッツも居り、夫妻の音楽を心から楽しんでいたのであった。
皆はその一時だけ全ての憤りを忘れ、ただ流れ行く響きへとその身を委ねていたのであった。ミヒャエルはその光景を見て心が温かくなり、この国の未来がこの様になればと願った。
そんな彼の傍らには一鉢の白薔薇が置いてあり、そこから芳しい香りが漂ってミヒャエルの鼻を擽っていたのであった。
さて、翌朝陽が昇ると皆は直ぐに野営を解いて、シュアに向けての歩みを再開したのであった。レヴィン夫妻も無論、ワッツの馭する馬車で一行に加わっていた。
当初は人々の荷物を馬車へ詰めて一緒に歩くつもりであったが、人々がそれを許さなかった。人々にとって、レヴィン夫妻は有名な楽士であり、また聖人レヴィン兄弟の血縁にあたる由緒ある者なのである。いくらレヴィン夫妻がそうとは思わなくとも、人々にとっては高貴な人物であり、自分達と共に歩ませるなど断じて出来なかったのであった。
「いやはや…。何とも年寄り扱いされているようでかなわんのぅ…。」
「あなた、その様なことを仰ってはいけませんわ。あの方々にはあの方々の想いがあって、私達には私達の想いがありますもの。ここは甘えておきましょう。」
「そうだな…。長年歩き通しだったからのぅ…。」
語らう夫妻の横には、枯れること知らぬ白き薔薇が香っていた。それを見て、ヨゼフは多くの事柄を思い出しながら呟いた。
「早くこの白薔薇を王城の花園へ植えたいものだ。」
その呟きに、エディアはただ笑みを持って答えた。ワッツは馭者台でその会話を聞き、心の中で早くこの争いが終ることを切に願ったのであった。
その日の昼過ぎに、ミヒャエルらは到頭ヘルベルトの待つシュアの町へと辿り着いた。しかし、ここまで何事もなく辿り着けたことに、ミヒャエルは疑問を抱いていた。ヘルベルト配下の碧桜騎士団であれば、早い段階でヘルベルトへと情報を持って行き、何らかの妨害工作を行える筈だと考えたのである。
たとえ団長が居なくなろうと、副団長が指揮を取れば良いだけの話なのだ。それがルツェン以来、全く沈黙しているのが不気味でならなかった。
「やけに静かだとは思わないか?」
ミヒャエルは直ぐ右隣を馬に乗って付いていたナンブルク公子、ティート・アーレス・フォン・ネーゼスへと問い掛けてみた。
「はい…。ここまで何も無いことといい、何か裏があるように思えてなりません。ヘルベルト王子とて、我らがここへ向かっていることを知っているはず…。用心するに越したことはないでしょう。」
ティートはミヒャエルにそう答えた。他の皆もそう思っているだろうことは、聞かずとも伝わっては来ていた。しかし、何故にミヒャエルがティートへ問い掛けたかと言えば、このシュアの町がナンブルク地方に隣接しているからである。何か大事があった際、ナンブルクは真っ先に被害を被りかねないのである。ティートは次期当主たる身であり、ナンブルクへ火の粉が飛ばぬよう防ぎたいのが心情である。
ミヒャエルとて決して他人事ではなく、それは他十名の次期当主達にも言えることである。彼らもまた、その顔に緊迫した表情を表し、この先どう動くべきかを考えているようであった。
「王よ、よくぞ参られました。」
その様な緊迫した中に、一人の人物が姿を現して皆を驚かせた。その人物とは、今まで姿を消していたベルディナータであった。
「ベルディナータ!君が何故ここへ居るのだ!?」
ミヒャエルは彼女の神出鬼没な行動に、少々困惑させられた。彼女は常に様々な場所を巡っているようで、ミヒャエルにとっては最大の情報源でもあった。
だが、ベルディナータ個人についてミヒャエルは殆んど知らないのである。彼女はただの料理人であり、それ以外は全く分からない。ただ、ベルディナータはミヒャエルの周囲に現れては知らぬうちに消え去って、それが何なのかをミヒャエルは考えぬ様にしていたのであった。いかな馬を使ったとしても彼女の行動は速すぎ、人のそれを逸脱していると…。ベルディナータはそれを知ってか知らずか、ミヒャエルの前で礼を取って言った。
「この町に危険は全く御座いません。」
「危険は…ない?では、このシュアに兄上は居ないのか?」
「いいえ。ヘルベルト王子はこちらへ居ります。ですが、彼にもう貴方に反抗する意思は御座いません。」
「…?」
ベルディナータの答えに、ミヒャエルも次期当主達も首を傾げた。
確かに、王都からここまでに何の襲撃もなかった。中には、ヘルベルトが任されていた領地も含まれていたにも関わらず…である。それどころか、積極的に道を明け渡しさえしたのである。
だが、今までのヘルベルトの行いを、ここで帳消しにするにはもう遅過ぎていると言えた。いくら争う意思が無くとも、ヘルベルトは多くの民を苦しめ、その上、人命も数多く奪っているのだから…。
「ベルディナータ、君は一体何者なのだ?何故に私へ多くの助言を与えた?」
ミヒャエルは鋭い目付きでベルディナータを見据えた。しかし、ベルディナータはさも可笑しげに頭を下げてこう言ったのであった。
「私は私。貴方にとっては友であり、そしてただの料理人。」
「それだけではないだろう?」
「それは…もう少ししたら分かります。」
そう言うと、ベルディナータは町へ入る門を開いた。
シュアには人数人分ほどの高さの防壁があり、そこに小さな門が作られていたのである。何故にこの様な高い防壁を作ったかは、中の様子で理解出来た。そこには今まで見たこともないような光景が広がっていたのである。
「…これは…!?」
王都へ入った時も驚かされたが、このシュアでの光景はそれ以上のものであった。そこはどの町や村…いや、王都よりも整理されており、何故にこの小さな町に高い防壁が存在したのかが分かったのであった。この光景を隠しておきたかったからである。
そこには理論的に水路が通され、効率良く作物が育てられるように工夫が凝らされていた。その一面には収穫を待つ黄金の穂が風に揺れており、その先を見ると、町の中心付近には城ではなく、小柄ではあるが立派な教会が建てられていたのであった。
どうやらその教会を中心に町が展開されているようで、麦畑の他には葡萄や李などの果樹園や、野菜を中心とした畑などが広がっていたのであった。それらは日が陰らぬよう予め計算して作ったようで、どれだけ考えを尽くし手を尽くして造り上げたか解るものであった。その一角では未だ町の整備が行われており、人々は畑や町を動き回っていた。
ミヒャエルらは暫く立ち尽くしていたが、ベルディナータに先導されて町の中へと入って行った。近くで見れば見るほど、その町は細部に至るまで考え抜かれて作られており、ミヒャエルは感心するばかりであった。
「たが…何故にこのような町を…。」
「そうですね…。ですが、これは素晴らしい設計です。少ない水でも充分に作物を育てられるようになっているばかりか、遠くまで行かずともこの水路で水を確保出来るため、働く人々にゆとりが出来ます。この設計…どこか書物で読んだことがあるのですが…。」
ミヒャエルの言葉に返したのは、リーテ地方次期当主ハンス・ルートヴィヒ・フォン・リューヴェンであった。
「確か…祖先の中に水路や農地開拓などに関わる書を残した者が居りまして、館の書庫へ収められていたものを読んだのです。そこにはこれと同じ仕組みの水路の造り方も記してあったかと…。」
「だがハンス。それがどうしてこの町で実践されているのだ?以前にリーテ地方を訪れたこともあるが、このような水路は無かったと記憶しているが。」
「はい。我が地方は、その昔一つの小国でした。六国戦争の際、国は壊滅的な打撃を受け、整備されていた水路はおろか、古い造りの建造物や橋なども破壊され、復元不可能になったそうです。それを造った技術者が亡くなってしまい、資料が散逸してしまったためと聞いております。ですが、これは星暦の終わりの話であって、ここでそれが再現されているのは私にも理解しかねます。」
ミヒャエルはルートヴィヒの話を聞き、とある聖人の話を思い出していた。それは聖シュカの話である。
現在のリーテ地方は以前、リューヴェンと言う小さな王国であった。それは星暦時代の話であって、未だ国や王が星の動きに合わせて全てを仕切っていた時代の話。
聖シュカとは最後の乙女にして、聖エフィーリア以前の大地を司る女神とも言われている。彼女は聖人の中でも特異な生涯で、リューヴェン国王に見初められて妃となっている。彼女は数人の子供をもうけているが、その一人の息子が建築や水路などの設計理論に多大な功績を残していることはよく知られているところである。しかし、実際彼が残した書物は殆んど無く、全て散逸してしまったのである。
しかし、彼はリューヴェンだけでなく、他の国や地域でも仕事をしており、建築家や農地開拓者などはそこから勉強しているという。ミヒャエルはそれを思い出す傍ら、トリスで出会った大工職人ハッシュの顔を思い浮かべていたのであった。
「怒っているだろうな…。」
「はい?」
「いや…何でもない。とにかく先に進もう。」
ミヒャエルはそう言うと、人々が集まる一角へと向かったのであった。
ミヒャエルは民を恐れさせぬため次期当主達のみを連れ、他は外へと待たせてあった。あの大人数でぞろぞろ入れば、さすがにヘルベルトに気付かれてしまうのは言うまでもなかろう。人々はそんなミヒャエルらを不思議そうに見ていたが、人々は決してその手を休めることはなく、皆仕事をこなしながら何事かと彼らを観察していたのであった。
「何かご用ですか?」
暫くすると、その中より一人の男性が姿を現してミヒャエルへと問い掛けた。いかにも町の住人と言った風情であったが、服装は仕事着にしては良い生地であつらわれており、彼がこの現場の指揮官であると考え、ミヒャエルは彼に問い掛けたのであった。
「私の名はミヒャエルと言う。この町にヘルベルト王子が来ていると聞いたのだが。」
ミヒャエルがそこまで言うと、目の前の男は蒼くなり、働く人々の手が止まった。
「ご無礼を御許し下さい、国王陛下!御顔を知らぬとは申せ、平に御容赦下さいませ!」
目の前の男がそう言って礼を取ると、周囲の民も皆ミヒャエルへと礼を取ったのであった。
「何故、私が王になったことを知っているのだ?」
人々の態度に困惑し、ミヒャエルは男へと問い掛けた。すると、男は顔を下げたまま、恐る恐るその問い掛けに答えた。
「ヘルベルト様が皆に告げられたので御座います。我が弟、ミヒャエルが国王となったと。その時、ヘルベルト様は民に勿体なくも祝賀の席を設けて下さり、それは大層なお喜びようであられました。」
「兄上が…私が王になったことを喜んだ…だと?」
「はい。」
この答えにミヒャエルはおろか、次期当主達も唖然とする他なかった。ミヒャエルの傍らに居たウィンネ公子クレメンスは、囁く様にミヒャエルへと問い掛けた。
「ヘルベルト王子は、貴方様を暗殺しようとしていたと…そう聞いておりますが…。」
「ああ…、何度も殺されかけた。一度は、自ら剣を取って赴いて来たこともあった程なのだが…。」
だが、その言葉に答えられる者は、その場には一人も居なかった。答えを知っているのはただ一人、ヘルベルト自身に他ならない。
ミヒャエルは考えていた。全てがおかしい…。ここまでの出来事を総合して考えても、やはり全く辻褄が合わないと…。
「殺そうと画策した本人が…殺そうとした相手を祝すなど…。」
本来ならば有り得ないはずである。だが、目の前の民達は、ヘルベルトがミヒャエルの王位継承を喜んだと言っている。それも祝賀の席まで設けてだ。
ヘルベルトの行動の矛盾は、一体どこから来ているのであろうか?
「ベルディナータ、兄上は今はどこへ?」
「彼は中央の教会へおいでです。」
「あの兄上が…教会に?」
「あの教会はヘルベルト様自らが設計され、それをこの町の民が造り上げたもの。」
「兄上が教会を…!?」
もう話が分からない。ヘルベルトは教会嫌いで、無神論で通していた。それがどのような心境の変化か、この町に教会を建て、人々が住みやすいように町ごと土地を改革している。これが生半可なことではなし得ないことだとは、ミヒャエルは頭の中では理解しているものの、兄であるへルベルトの真意を掴みかね、全てを鵜呑みにして信ずることなど出来なかった。故に、ミヒャエルはベルディナータに案内を頼み、次期当主らと共にその教会へと向かったのであった。
教会はこの町の規模からみれば、意外と大きかった。その外壁は白く、また屋根は蒼く塗られた美しい外観を持っており、教会と言うよりも、寧ろ大聖堂を縮小したような造りをしていた。壁には聖人などが浮き彫りにされ、それらを植物の浮き彫りで囲った美しい外壁は、ここへ来たミヒャエルらを驚嘆させた。
「これは…聖文書大典に記されている、聖グロリア教会の様だ…。」
嘆息しつつ、リーテ公子ハンスはそう呟いた。
聖グロリア教会は、北皇暦時代にトレーネの森(現シュルスの森)の奥にあったとされる古宗教の教会である。数冊の外典にはその詳細が記されいるが、現在ではその場所は定かではない。六国大戦時に森ごと焼けてしまい、その名は聖文書大典とその外典とに僅かに残るのみとなっている。
しかし、その内装と外装は、現在は廃墟となっているカルツィネ地方の町の教会に、その復元の試みが成された形跡があると言う。
さて、見とれている皆をベルディナータは中へ入るよう促し、皆はそれに従って教会内に移動した。
その中もまた素晴らしい出来であり、天井には聖文書大典から題材を取った聖画が描かれ、壁には十二の聖人が描かれていた。
確かに華やかではあるが、しかし華美になりすぎることはなく、言葉を視覚で理解しやすいように工夫されていた。ここが美術館ではなく、飽くまでも祈りの場であると改めて認識させてくれるものであった。
「やっと…来てくれた。我が弟よ…。」
皆が内装に目を奪われている中、祭壇脇の通路から一人の男が姿を現した。ミヒャエルも次期当主らも、その男へと直ぐ様視線を向けた。
すると、そこには見覚えのある男が悠々と立っていたのであった。
「ヘルベルト…兄上…。」
「ここまで来て、まだ兄上と呼んでくれるのか…。私はミヒャエル、お前を殺そうとまでしたと言うのに…。もう兄と呼ぶに相応しくなかろう。」
ヘルベルトはそう言って自嘲気味に笑うと、間を取ってミヒャエルらの前に歩み寄った。皆はその行動に緊張を走らせたが、ヘルベルトには全く危害を加える様な素振りはなく、剣すら携えてはいなかった。
「そう牽制せずとも、私は何もしない。ま、そうされても仕方ないことではあるがな。だが、ルツェンの一件は私の指示ではない。あれはルドルフが私的に騎士団を動かして起こしたものだ。まさか暴走するとは思いもしなかったが…。」
「兄上…それを信じろと?」
「いや。もはや信じてもらおうとは思わない。終わりは近いからな…。これで良い…。」
ヘルベルトの言葉に、ミヒャエルは何か違和感を感じた。まるで死に逝く者の呟きに聞こえたからである。
ミヒャエルは彼がこの場で裁かれるのだと考えてると思ったが、それも違う様な気がした。曲がりなりにも王族の一員であるヘルベルトを、十二貴族現当主らを召喚せずして罰することは出来ず、ヘルベルトもそれを知っている筈だからである。にも関わらず、ヘルベルトは「終わり」という言葉を口にし、ここで何一つ反抗する意思を持っていないことを明確に表してしるのである。
「兄上、一体何を考えているのですか…?」
ミヒャエルは、目の前に佇むだけの兄に問い掛けた。目の前に立つ者は民の敵であり国への反逆者、そして愛した者を殺した憎むべき相手である。だがミヒャエルはその裏側に、彼が隠し通そうとしている何かを感じ取っていた。
確かに、ミヒャエルは兄であるヘルベルトを憎んでいる。それはどうしようもない感情であり、それを捨て去ることなど出来ようもなかった。
だが反面、家族として過ごした日々を無かったことにすることも出来ず、優しかった兄のことをミヒャエルは思い出していた。
ミヒャエルは元来、王になることなど出来よう筈はなかった。それ以前に、ミヒャエルには王になる気もなかったのであるが、一つ上の兄であるヘルベルトは、そんなミヒャエルを幼少の頃よりずっと可愛がっていた。ミヒャエルに読み書きや算術、植物や天体など多くの学問を教えたのは、他ならぬヘルベルトであった。
第一王子ヴィーデウスは次期国王になるべく別棟に移されて勉学を教えられていたため、ミヒャエルにはあまり会う機会はなかったのである。故に、ミヒャエルにとって兄はヘルベルトであり、幼少時の思い出もヘルベルトとのものが大半であった。
一方、ミヒャエルの母、前国王の第三妃はと言えば、病がちでいつも床に着いていた記憶しかない。今は回復してはいるものの、以前はとても出歩くことなど出来なかった。ヘルベルトとは母親が違うも、この第三王妃であるミヒャエルの母は、我が子を気遣ってくれるヘルベルトを、ミヒャエルと同様に愛していた。
ミヒャエルはあの幼き頃の記憶を思い出し、如何にしてもヘルベルトの内にある思いを聞き出したかった。
「兄上は私が幼い頃、とても優しく聡明な方でした。それなのに…何故この様なことを…?」
「ミヒャエル、それを聞いてどうする?私の手は血に塗れ、魂は夜の闇に染まったのだ。今更だ…。もうあの頃には戻れない。」
「いいえ。兄上、それでも優しかった兄上は確かに居ました。私は聞かなくてはなりません。兄上、貴方は何を苦しんでいたのですか?私には…そう、私にはそれを聞く権利がある。」
「権利…か。」
ヘルベルトは淋しげに微笑んだかと思った刹那、彼はいきなり吐血して倒れ伏してしまったのであった。
「兄上!?」
それは一瞬の出来事であった。ミヒャエルだけでなく、後ろで控えていた次期当主らも目を見開いて驚愕したのであった。
皆は直ぐ様ヘルベルトへと駆け寄り、ミヒャエルは倒れ伏した兄を抱え起こした。
「兄上!貴方は…。」
「もう終わり…そう言った筈だ…。この病は…生まれつきなのだ…。父上は…この様な私を疎んで…近付こうともしなかった…。そんな中にあって…私はお前を…自分と重ねていたのやも知れんな…。」
「どうして…どうして早くに言って下さらなかったのですか!」
「ミヒャエル…お前は大きくなって…家を…城を出て行ってしまったからなぁ…。」
そこまで言うと、ヘルベルトは再び吐血をし、意識も朦朧とし始めた。
その顔は蒼白で、最早手の施しようもない程に病に冒されていることは言わずとも解った。今から医師を呼び寄せても、もう助かる見込みは薄いと皆は理解していたのであった。
- こんなとき、ユディが居てくれたなら…。 -
ミヒャエルは心からそう思った。いかな悪人と言えど、家族は家族なのである。死に逝くのを見ているしか出来ない無力感は、拭っても拭い切れるものではなかった。
「ミヒャエル…我が弟…。私は…お前が国王になることを望んだ。お前はヴィーデウス兄上よりも国を愛し…人々を愛していた。父上や兄上が愛していたのは…貴族だけだった。民など…さして愛してはいなかったのだ…。」
「そんなはずは…」
「いいや…貴族の視線だけが…気になっていたのだ。故に、ここ数十年…貧困に喘ぐ者が何倍にも増えていたのだ…。」
ミヒャエルも次期当主らも、このヘルベルトの言葉で、この町がある理由が理解出来た様な気がした。この町の造りであれば、この国の大半の民を貧困から救える。ヘルベルトはそのモデルとして、このシュアの町を造り直したのだと…。
「しかし…何故に民を犠牲にし…自らを貶めてまで…!?」
「誰かが悪人であれば…それを皆が知れば…皆は一つになれる…。大方はルドルフの独断だったが…止められなかった私の責任…。あと…アリシアと言ったか…。あの娘は…サミルの町にいる…。」
ミヒャエルは目を見開いた。ここで彼女の名が出てこようとは、考えてもいなかったからである。
「何故…アリシアを連れ去ったのですか?」
「真意が…知りたかっただけだ…。ミヒャエル…お前はかの娘を…好いておるのだろ…?あの娘は…貴族とは無縁。故に…妃に相応しいか…知りたかったのだ…。」
「そんな…!」
ミヒャエルは唖然として言葉も出なかった。話の前後から察し、ヘルベルトはミヒャエルに相応しい妃候補を見つけたかったらしいのだ。
さすがにミヒャエルはどう返して良いか分からなかった。怒り、憎しみ、哀しみ、淋しさ…。ミヒャエルの内には様々な感情が入り交じって、自ら判別することが出来なかった。
「そう…驚くこともなかろう…。ミヒャエル…我が愛しい弟…。お前は貴族の目など…気にするな…。同じ過ちを…繰り返すな…。罪は…全て私が…持って逝くさ…。もう…何も案ずるな…。ミヒャエル…済まなかった…。」
「こんなところで謝らないで下さい!」
「あぁ…お前さえ…傍に居れば良かったんだ…。お前だけ…愛していた…。ただ…ただ…それだけの…ことだったのだ…。だが…終わる…この苦しみも…消える……。」
そう言うと、ヘルベルトはその瞳を静かに閉じた。それと同時に、彼の体からは力が抜けてだらりとミヒャエルの腕に垂れ下がった。
「兄上…兄上!?」
ミヒャエルは力なきヘルベルトの体を揺すったが、ヘルベルトはもう何も答えることはなかった。周囲に佇む次期当主らも、ヘルベルトの死を知って片手を胸へとあてて死者への祈りを捧げたのであった。だが、その時であった。
「預言は成就した!」
後ろへと身を退かせていたベルディナータが、皆の前で高らかに言った。それを見て、ミヒャエルも次期当主らも唖然としてベルディナータを見た。
「ベルディナータ…君は一体…。」
ミヒャエルがベルディナータに問い掛けるや、ベルディナータの体がいきなり目映い光に包まれ、皆は慌てて目を覆った。
暫くして恐る恐る目を開くと、皆は自らの目を疑ってしまったのであった。
そこには既にベルディナータの姿はなく、代わりに白い衣を纏った女性が、その栗色の瞳で皆を見ていたからである。
「貴女は…。」
ミヒャエルは何とか気力を振り絞り、その女性へと問い掛けた。その女性は軽く微笑み、ミヒャエルを見詰めて言った。
「私の名はエフィーリア。自然の調和を保つ者、神の言葉を告げる者。」
その女性エフィーリアがそう答えると、次期当主らは慌てて頭を垂れようとしたが、ミヒャエルはそれを止めた。
「皆よ、この御方に頭を垂れてはいけない。この御方にその行為は非礼となるからだ。」
「神に選ばれし者、信仰厚き者よ。汝は義き行いを知っています。故に、私は汝をずっと見守ってきたのだから。」
「ベルディナータが…貴女様だったのですね…。」
ミヒャエルがそう言うと、聖エフィーリアは微笑んで言った。
「そうです。ベルディナータの料理はいかがでしたか?」
「心に残る料理でした。あまり食したことのない、風味豊かな味付けは…懐かしい感じさえ致しました。」
「それは良かった。あれは…私の故郷の味。既に失われて久しいけれど。」
聖エフィーリアは、ミヒャエルの言葉を大変喜ばれたと言う。だが、次には凛とした表情に戻り、周囲に視線を向けた。そうして後、徐に言葉を紡ぎ始めたのであった。
「これより先、汝らの世の最後にして最大の艱難が訪れ、人々は乱れ惑います。この艱難は二つの年を跨いで居座りますが、これを乗り越えてのち、長きに渡り平安が齎されるでしょう。これは原初の神の約束であり、聖文書大典に記されし預言の成就でもあるのです。故に、人々は愛を持って神に感謝と栄光を捧げなさい。しかし、二代先の王は災悪となるでしょう。それはこの大陸全ての王に言えるのです。その後、この世界にある四大陸と七十七の島とは行き来出来る様になり、新たな時代が到来するのです。ですが、私がそれを見ることはありません。私はこの未来への言葉を紡いで後、原初の神の花園へと行かねばならないからです。ですが、汝らが死して後、汝らは必ず私に再び会うこととなりましょう。」
聖エフィーリアはそこまで言うと、そこで言葉を切ってミヒャエルへと視線を向けた。
「選ばれし者よ、汝の心に掛かりし事柄を告げましょう。先代の王の妃らは、ブルーメにて神聖騎士団と共に民を助け、村や町の復興に力を注いでいます。城の警備兵らはヘルベルトの指示により、ルツェン、ノーイ、キシュ、ラッカス、ツェステ、ミューア、ドイの町や村へと散っています。それは自らの終わりを告げ、新たな王が国を治めるという布告なのです。故に、これより二十を数えて後、皆を汝の手の内に呼び戻し、王都にて戴冠の儀式を行わねばなりません。そして再び会う娘を妃とし、汝の成すべき路を歩みなさい。神は必ず汝と共にあり、汝の口に義を、汝の行いに勇気を、汝の心に平安をお与えになります。そして一つ。この先の艱難には、私の夫が必ずや力を貸してくれましょう。では…暫しの別れを…。」
そう言って微笑むと、聖エフィーリアの体から再び目映い光が溢れ出し、皆はまたその瞳を手で覆ったのであった。だが、ミヒャエルだけはあまりのことに、瞳を閉ざせずにいたのであった。
「兄上…。そして…」
ミヒャエルは目映い光の中に、多くの聖人と見知った者を見た。そこには未だ床に冷たく眠る兄ヘルベルトと、遺体の消え去っていた白薔薇騎士団のシオン・バイシャル。そして碧桜騎士団長ルドルフに、この事件で命を落とした者らが安らいだ表情でこちらを見ていたのであった。(ここで触れられてはいないが、原文にはマーガレットも書かれていたと思われる。)
これを見た者はミヒャエルだけではなかったようで、リーテ公子ハンスは、後世に残した手記の中でこう書き記している。
「そこには痛みも苦しみも哀しみもなく、穏やかで満たされた表情で皆は我らを見ていた。それはまるで神の園の様であり、乙女シュカの姿も見い出すことが出来た。それは至福そのものであった…。」
さて、その後にミヒャエルは次期当主らにヘルベルトの死を民に報せるよう命じ、自らは兄の骸を洗い浄め、その身を白き布で包んだ。
報せを聞いた民達は、直ぐ様教会へと詰め掛けて、ミヒャエルが浄めた亡骸を丁重に柩に入れたのであった。その翌朝には町の民全てが教会の周囲へと集まり、盛大な葬儀が執り行われたという。そこではレヴィン夫妻が葬送音楽を奏で、ミヒャエル自身が聖文書大典を朗読したと伝えられている。
「兄上…帰ろう…。」
葬儀が終わると、ミヒャエルは一輪の白薔薇を入れ、柩の蓋を閉めて後にこう呟いたのであった。
ヘルベルトの亡骸は王都へと運ばれた。この時、レヴィン夫妻とワッツは行くところがあると言って早朝に町を出立し、ミヒャエルらは昼前に町を出たのであった。
柩は兵によって交代しながら運ばれ、王都着くや再度葬儀を行って、やっと王族の眠る墓所へと葬られたのであった。こうしている間にも、ミヒャエルは戴冠式を行うために多忙を極めていた。
先ずは各地へ送る書簡をしたため、白薔薇騎士団とキナン率いる新たな「紫陽騎士団」にそれを託した。その後、ミヒャエルは元老院を召集し、国の役職を全て変更し、新たな制度を作る決定を下したのであった。元老院もこれに賛同し、戴冠式後に原案を作ることに決まった。
そうして七日の後、それを受けた十二貴族当主らは、新たな時代へと移行すべく、皆当主の座を息子へと明け渡したのであった。それには幾つかの理由があるが、一番大きな要因は、現国王ミヒャエルを支えたのが息子達であったと言うことであろう。
さて、ミヒャエルは聖エフィーリアの告げた二十日の後、各地に散っていた前王の妃達と神聖騎士団、そして警備兵らを呼び戻し、皆の前にて国王の承認儀式である戴冠式を執り行った。前王は崩御しているため、王冠を被せるのはルーン公が代役をしてミヒャエルへと正式に王冠が譲られたのであった。
「ミヒャエルⅠ世陛下。この度の戴冠の儀、おめでとう御座います。」
戴冠式後の祝賀で一番にミヒャエルの前に姿を見せたのはレヴィン夫妻であった。
「祝いの言葉、感謝する。しかし、ご夫妻はあの後、一体何処へ行かれていたのですか?」
ミヒャエルはそれとなく夫妻へ問うと、夫妻は顔を見合せて微笑み、一人の兵に外へ待たせてある人物を呼んで来るよう頼んだ。
ミヒャエルには何が何だか分からず、暫くそのまま待っていると、彼の前に多くの見知った人々が姿を現したのであった。ミヒャエルはそれに大いに驚かされ、そして大いに喜んだ。
「そんな…参ったなぁ…。」
始めに姿を見せたのは、シュアで待つことの出来なかったアリシアであった。
彼女はサミルよりシュアへ向かっていたが、崖崩れで道が途中で塞がれており、シュアへ入れたのはミヒャエルらが出立した二日後のことであった。
「国王陛下…いえ、ミック。とても会いたかったわ!」
アリシアはそう言うや、いきなりミヒャエルへと抱きついたのであった。周囲の者は皆、ミヒャエルの想いに気付いていたため、真っ赤になってあたふたしているミヒャエルを微笑ましく眺めていた。
「ア、アリシア…!こんな所で抱きつかなくても…!」
「ふふ。今位は良いでしょ?でも、まだまだ貴方を祝したい人は沢山いるんですものね。」
アリシアがそう言って笑いながら離れると、次にラタンを任せていたトビーと、途中で合流したワッツがそこへ控えていた。
「国王陛下。戴冠の儀、おめでとう御座います。ラタンの民も大層な喜びようで、陛下の宴にとワインを預かり持って参りました。後程お召し上がり下さい。」
「なんと二十八樽もあるそうですぞ。」
そう笑いながら付け足したのは、ミヒャエルの後ろへ控えていた叔父のルーン公であった。
「叔父上、知っていたのですか!?」
「さてのぅ…。何のことじゃか…。」
その滑稽な掛け合いに、集まりし人々より笑みが溢れた。だが、これで終わりではない。次に姿を現したのは、トリスで知り合った二人がミヒャエルの前に立った。
「ルース!それにハッシュさんまで!」
「さん付けて呼んで下さいますな…身分を知っていたならば、あの様な…」
「いいんだ!あの時は大変世話になった。いつかは礼をと思っていたのだが、ここまで先になろうとはな。よく来てくれた。それにルース、君にも随分世話になったな。」
「勿体無い御言葉です。陛下、貴方様がこの国を治めてくれるというだけで、どの様な苦労も報われると言うものです。」
「それは違いない。」
ハッシュとルースはそう言って後、ミヒャエルへと礼を取って後続の者へと場を明け渡した。
次に姿を見せたのは、フォルスタの宿のケリッヒ夫妻と、歴史学者のディエゴであった。
「ディエゴより話を聞き、御祝いを述べに参らせて頂きました。戴冠の儀、誠におめでとう御座います。」
三人はそう言って礼を取ると、直ぐ様顔を上げてミヒャエルへと言った。
「国王陛下。私共の宿は再建され、フォルスタの町は平穏を取り戻しております。いつかお越し下されるならば、何なりとお声掛け下さい。きっとディエゴもサボりに来てると思いますので。」
「そりゃひどい言われようじゃないか!」
「あらぁ…そうかしら?いつも入り浸ってますのに?アスパラは美味しいですのよ?」
「それは関係ないじゃないですかっ!」
ミヒャエルは今、目の前で起こっていることが、まるで夢の様だと感じていた。出会えた人々が、こうして自分の祝儀に集まって来てくれている。こんなに幸せで良いのかと、ミヒャエルは目頭を熱くさせた。
しかし、これで最後と言うわけではなかった。
「国王よ、何とめでたき日か!我等、心より御祝い申し上げますぞ!」
そう言って微笑みながら姿を見せたのは、現法王リチャードと、ルツェンに留まっていた前法王ファッツェであった。
「お二方、よくぞお越し下さいました!」
ミヒャエルがそう言って立ち上がろうとした瞬間、二人は直ぐに端へと道を開き、そこへ二人の人物を招いたのであった。ミヒャエルはその二人を見て、あまりの驚きに声も出なかった。
「国王陛下、お久しゅう御座います。この度の戴冠の儀、心より御祝い申し上げます。」
それはアリシアの両親、そしてミヒャエルの恩人たるウォーレン夫妻であった。
「な…なんと!お二方には、こちらより礼を持って伺うべきなのに!」
ミヒャエルは後に続ける言葉が見付からずに慌てふためいてしまった。この様子があまりにも幼く見えたため、ルーン公などは可笑しくなって笑ってしまったという。
ミヒャエルは少しムッとしたが、暫くして心を落ち着けると、ウォーレン夫妻を玉座の前まで上げてこう言ったのであった。
「この場で申し上げるのも失礼とは思うのですが…。」
ミヒャエルはそこで言葉を切り、この先を言うべきかどうかを考えている様子だったため、マルコはミヒャエルへと言った。
「国王陛下。陛下が我らにへりくだることは御座いません。我らに出来ることがあれば、何なりとお申し付け下さいませ。」
「では…告げよう。汝らの娘、アリシアを我が妃に迎えたい。」
ミヒャエルは少し恥ずかしげにそう伝えると、ウォーレン夫妻は驚きのあまり、もう少しで腰を抜かすところであった。
予てより娘アリシアが好意を寄せていたことは知っていたが、まさかミヒャエルがそれを受け入れるとは考えもしていなかったのである。
「な、なんと!我が娘をで御座いますか!?」
「あなた、どうしましょう!一介の民の娘が、国王に嫁ぐなんて…。」
ウォーレン夫妻はなんと返答してよいものか思案に暮れ、ミヒャエルの前で右往左往していた。そこにレヴィン夫妻が微笑みながら二人に言ったのであった。
「ウォーレンさん、お嬢様の心に従えば良いのではないですかな?」
「そうですわ。プレトリウス初代国王陛下は、貴族ではない民の娘を自らの妃に選んだのですもの。悪いことではありませんし、愛は自由なものでしょ?」
そう言われたウォーレン夫妻は、その場にアリシアを呼び寄せてどうしたいかを問い掛けたのであった。
アリシアは暫く両親とミヒャエルの顔を交互に見詰めてはっきりと言った。
「私は…ミヒャエル様のお側に居たいですわ。」
そのアリシアの言葉に、ウォーレン夫妻は顔を見合せて溜め息を洩らし、そしてミヒャエルへと膝を折って言った。
「陛下。我らが娘で宜しければ、どうかお側に置いて頂きたく存じ上げます。」
「では、お二方は私の義父母になられるのですね。」
「そんな勿体無い!」
この会話に再び笑いが溢れ、そして拍手が沸き起こったのであった。
この祝賀に集まりし者らは、この後ミヒャエルを助け、ミヒャエルと共に国を黄金期に導く者となるのである。
- 父上…私は幸せ者です。こんなに多くの人々に祝福されているのですから…。 -
ミヒャエルがそう胸の内で呟いた時、壁際に二人の人物がいることに彼は気が付いた。
「…!」
しかし次の瞬間、その姿は霞の如く消え去っていたのであった。その一人は黒い外套を羽織っており、騎士のようであった。だがもう一人は、忘れもしないベルディナータの姿…。
- 聖エフィーリア様に…時の王…!? -
そう思ってはみたものの、それを確かめる術をミヒャエルは持ってはいなかった。だが、この二人の聖人も民の笑顔を喜んでくれるに違いないとミヒャエルは思い、善き王になろうと再び自らの心に堅く誓ったのであった。
そんなミヒャエルの周囲には他に、ラタンで出会ったネヴィル夫妻にレクツィの医師ツェラー、それにミヒャエルの親友であるユディにレヴィン夫妻の旧友ジーグの姿もあった。皆ミヒャエルを心より祝福し、この国の未来に希望を見い出していたのであった。
皆が宴を各々楽しんでいるとき、ふと誰かが言った。
「あ…あれは!?」
皆がその声に引かれるように窓の外へと視線を向けると、何か雰囲気に違和感を感じて一人がバルコニーへと出てこう叫んだ。
「これは…何と言うことか!」
皆は慌ててバルコニーへと出てみると、そこには今まで見たことのない風景が広がっていたのであった。
その下は丁度前王の妃達が手入れしている花園があるのであるが、皆はその花園の風景に声を出すことすら忘れるほどの驚きを覚えていた。
「白…薔薇が…!」
そこには埋め尽くさんばかりの白薔薇が、まるで未来まで光を射さんと咲き誇っていたのであった。
ミヒャエルはそれを見て直ぐに膝を折り、愛を齎す原初の神へ感謝と畏敬の念を持って祈りを捧げ、皆もそれに倣って神へと深い祈りを捧げたのであった。
さて、戴冠式より十日の後、北の地方では雪がちらほらと舞い始めた頃に、ミヒャエルとアリシアの婚儀の祝賀が行われることとなる。
この時、その様なめでたき場に水を差すような報告がなされたのである。
この日、隣国リチェッリが、このプレトリウス王国に宣戦布告したのである。だが、この章はここで終幕となり、この後の話は時の王、聖リグレットの物語に描かれることとなる。
この章の最後に出てきた白薔薇の園は、現在でも旧プレトリス城に残っている。
だが、現在ではその力は喪われ、一種の薔薇として人々の心を潤しているのである。それは聖エフィーリアが神から与えられた役目を終え、神の御下へと還られたことを意味している。
この一つの書物は、この聖エフィーリアの話によって成り立っており、彼女が愛した者と共に安らけく天にあるまでを描いているとも言えよう。しかし、時の王だけは十年近く続いた「三国大戦」にも干渉しており、そこまでが現在の聖文書大典「時の王の書」の全文に記されている。
だが、それはまた別の者が語ることである。私が語るべきは、ここまでである。
原初の神に栄光が帰されんことを。全ての人々が神によりて平安が齎されんことを。代々に渡り、原初の神が崇められんことを。そして、全ての人々が愛で満たされんことを。
「花園の章」 完
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