大淀パソコンスクール
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責任とります
朝
外がだいぶ明るくなってきた。カーテンの隙間から朝日が差し込んでくる。時計を見ると、朝の8時。
「くわぁぁ……久しぶりの徹夜仕事だ……」
座ったまま思いっきり上に伸び、大きなあくびをして目を涙目にした。完徹でコーディングなんて随分久々だったが、川内のおかげで、俺の身体を蝕む疲労感は、心地よく清々しいものだ。
「スー……スー……」
俺の背後では、昨日の深夜に散々『夜戦する!?』『はい!!』とはしゃいだ挙句、『なんか疲れた……』と自業自得の疲労に苛まれてしまった川内が、気持ちよさそうに寝息を立てている。子供のようにはキャッキャキャッキャとしゃぎまくった川内は、あのあと『寝る』と一言言ってコロンとベッドに横になり、睡魔に秒殺されていた。布団をまったく被ってなかったから、そのあと布団をかぶせるのが大変だったのだが……
「ま、いっか」
俺に、PCの面白さを思い出させてくれた恩人だから、多少の煩わしさは我慢してやろうか。それに体調が上向きになったとはいえ、川内はまだ病人で、本調子にはまだ程遠い。それなのにあれだけ大騒ぎしてたんだから、そら疲れただろう。ぐーぐー眠りこけるのも分かる。
何でもいいから何か飲み物が飲みたくて、台所に向かうために俺は立ち上がった。川内の寝顔を振り返ると、実に気持ちよさそうに寝てやがる。昨晩のような、苦しそうな様子はまったくない。
そのまま台所に向かい、冷蔵庫を開けた。中にある飲み物は、俺が買ってきたポカリと麦茶以外には何もない。
「んー……」
なんとなくコーヒーが飲みたくて台所を見回すが、コーヒー自体が見当たらない。こいつはコーヒーは飲まないのかもしれん。
「ま、仕方ない」
ポカリでも飲むかと冷蔵庫の中に手を伸ばした時、玄関から、ドアの施錠を外すガチャリという音が聞こえた。家主がここにいるのにドアのカギが開くというありえない状況に動揺したが、その動揺は取り越し苦労だとすぐに分かった。別の意味ですぐ不安がいっぱいになったけど。
「……ぁあ、カシワギ先生」
「ハッ……じ、神通さん?」
ドアのカギを外して部屋に入ってきたのは、あのアホの妹にしてあのヘンタイ太陽コスプレ野郎ソラール先輩の教え子、神通さんだった。まさかこんな時間にアホの妹がやってくるなんて思ってなかったから、俺は相当にうろたえ、冷や汗がとめどなく流れ始めた。ひょっとして……
『ま、まさか病気で弱った姉を……む、無理矢理……!?』
『姉の無念は果たします!! にすいせん旗艦、神通!! 参ります!!!』
とか言いながら、襲い掛かってくるんじゃあるまいな……なんて身構えていたら、神通さんの反応は、それとは大きく異なるものだった。
「姉と大淀さんから話は聞いてます。昨夜はありがとうございました」
神通さんは、そう言って丁寧にお辞儀をしてくれる。
「あ、あ、いやいや……」
慌てて俺もお辞儀をし返す。人間、目の前の相手に予想外の反応をされると、どうすればいいのか分からなくなってうろたえるよねぇ。
「姉はどうですか?」
「なんとか峠は超えました。今は気持ちよさそうに眠ってます」
「よかった……ソラール先生も心配してましたし……」
俺のそばまで来た神通さんが、こそこそと小声で俺に問いかけるもんだから、おれもつい小声で返答してしまう。よく見ると、神通さんはその手にコンビニの袋をぶら下げていた。袋が透けてうっすらと見えるその中身には、サンドイッチや日用品に混じって雪印コーヒーのパックが確認できた。
「ぁあ、飲みます? 以前に姉から、カシワギ先生は甘党だって姉から聞いて、ひょっとしたら好きかもって思って買ってきたんです」
「大好きですっ」
「ではよかったらどうぞ」
「ありがとうございますっ」
神通さんが柔らかい笑顔で袋の中から雪印コーヒーを取り出し、俺はそれを笑顔で受け取る。俺は、朝はアイスコーヒーが飲みたくなる。特に、甘ったるいコーヒーを起き抜けに飲むのが好きなのだが、それには、この雪印コーヒーはうってつけだ。早速パックを開き、腰に手を当ててぐぎょっぐぎょっと音を立てて飲んでしまった。昨夜の川内ではないが、俺も結構喉乾いてたのかなぁ。
「うまいですっ」
「よかったです」
「ありがとうございます神通さん」
「いいえ」
……ところで、なぜ神通さんは、俺がここにいたことを知っているのか。……あ、待て。確かみんなから話を聞いたって言ってたな。ついでに、ソラール先輩もこの事をしってるということは、ひょっとしたら二人は……
「神通さん」
「はい?」
「ソラール先輩はこのことを……」
「ええ。私が話しました」
「ソラール先輩とは……」
気になって、先輩との関係を問いただしてしまったのだが……どうやら愚問なようだ。俺が質問した途端、神通さんは顔を真っ赤っかにして恥ずかしそうにうつむいた。
「え……あ、あの……」
「……」
「そ、その……」
「……おめでとうございます」
「あ、ありがとう……ございます」
うん。もう、皆まで言うな。教室での二人の様子。そして今のこの神通さんの様子で分かるじゃないか。お二人共、末永くお幸せに。
そして、神通さんはもうひとつ、気になることを言っていた。
「川内からも、俺がここにいることを聞いたんですか?」
「ええ。ちょうどカシワギ先生が買い出しに出てるときでしょうか。一緒にいたソラール先生から姉の調子を聞いて、心配になって電話をしてみたんです」
そういや昨日、川内が神通さんを呼ぶのを頑なに拒否してたっけ。ソラール先輩と一緒にいた神通さんを気遣ってたのか。あのアホにあるまじき気遣いだ。でも、俺が買い出しに出ている間に、二人で話をしてたとは驚いた。アイツ、そんな話を全然しなかったから。
「何か言ってました?」
「すごく辛そうな声でしたけど、『せんせーが診てくれるから大丈夫だよ。だから神通は気にしなくていいからね』って」
「ふーん……」
「姉さん、私には来て欲しくなかったみたいだったので、私もカシワギさんのご好意に、甘えさせてもらいました」
そう言って、神通さんはくすくすと笑う。最近、俺に対してよく見せる、意味深な微笑みだ。その意味を問いただす勇気は俺にはないが。
二人で、居間へと続く引き戸を見る。眠れる夜戦バカは今、この引き戸の向こうで、スースー寝息を立てて気持ちよさそうに寝ている。まさか自分がいる部屋の隣で、自分の妹と先生が、自分の話をしているだなんて夢にも思ってないだろう。
「……カシワギ先生」
「はい?」
居間の方から目を離さず、神通さんが俺に語りかける。カーテンの隙間から差し込む光が強くなってきた。この調子でお日様が照っているのなら、今日は暖かい一日になるかもしれない。
「冷蔵庫の中、気付きました?」
「へ?」
はて? 昨晩から何回か冷蔵庫の中は覗いたが、不審なものなんて何かあったっけ? 俺は忘却の彼方から記憶を必死に呼び戻すが、それらしい不審物は思い出せない。
「……何か変なものでもありましたっけ?」
「変なものというわけではありませんが……」
必死に思い出そうとするが、まったく見当がつかない。神通さんは、そんな俺を微笑みながらしばらく見守り続けたが、やがて答えが出ないと諦めたのか、苦笑いを浮かべながら答えを教えてくれた。
「……あずきがありませんでした?」
「ぁあ、そういえばありましたね」
あの、ヨーロッパの片田舎のおばあちゃんがジャムを詰めてそうな瓶の中に、そういえばあずきが入ってた!
「それがどうかしました?」
「何も思い当たりませんか?」
うーん……正解にたどり着いたと思ったのだが、神通さんの意識では、答えへの道筋は間違ってないものの、正解にはたどり着いてないようだ。腕を組み、頭を傾け、懸命に考える。自分の記憶をたどり、あずきで連想出来るものを探す。んー……あずき……あずきといえばあんこ……んー……
……あ。
――おいしいですよ! すごくおいしい!
お店で食べるものよりも、ずっと美味しいです!!
――ありがとうございます。……私も、よく出来てると思います
そういえば少し前、神通さんがおはぎを作ってきてくれたっけ。
「おはぎですか?」
「はい」
どうやら俺の推理力が導き出した答えは、間違いではなかったらしい。あの鷹の爪が入ったあずきは、元々は神通さんのおはぎに使われたもののようだ。でも、なぜ神通さんのおはぎに使われたあずきが、ここにあるのか疑問が残る。
「カシワギ先生。あんこときなこ、どっちが美味しかったですか?」
「両方とも美味しかったですけど、きなこのほうが俺は好きですね」
味的には甲乙つけがたい二種類のおはぎだったが……ここはもう、好みの問題だし。どっちも美味しかったことに変わりはないから、俺は素直に答えたわけだが。
俺の答えを聞いた神通さんは、やはりクスクスと意味深な笑みを浮かべる。最近、この人は俺を見るたびに、こんな感じの表情をする。そろそろ突っ込んでもいいですか。いい加減、意味も分からずこんな笑みを向けられているのも、不愉快ではないけど気持ちが悪い。
「……なんですか」
「いや、ごめんなさい……クスっ」
なんだろう、この感じ……決して嫌な気持ちはしないんだが……まるで、みんなの話題に俺一人だけ取り残されているような……
「きなこのおはぎ、作ったのは私じゃなくて姉ですよ?」
「……え!?」
唐突に告げられる驚愕の事実。あまりに突然のことで、俺はついアホみたいに大口を開け、大声を出してしまう。神通さんが慌てて自分の人差し指を自分の口に当て、『静かにっ』とジェスチャーを俺に示した。
自分の声の大きさにびっくりした俺は、慌てて自分の手で自分の口を塞ぎ、そして神通さんと二人で居間の方を見た。
「……」
……よかった。川内は起きてないらしい。一安心だ。
「……元々ね。みんなにお礼がしたくて、だったら先生たちお二人が好きな食べ物を作ろうってなったんです」
「……」
「で、姉が目をキラキラさせて言ったんですよ」
――せんせーはきなこのおはぎが好きだっていうから、
きなこの方は私が作るよ!!
「……って」
「……」
「楽しそうに、鼻歌歌いながら作ってましたよ?」
……目に浮かぶ。いっちょまえに赤いバンダナを頭に巻いて黄色いエプロンをつけた川内が、あのけったいな鼻歌を歌いながら、上機嫌でおはぎにきなこをまぶしてるところが。
あの日、俺におはぎの感想を聞いてきた川内を思い出す。あれは、妹のがんばりを確認する姉じゃなくて、自分のがんばりの成果を確認していたのか。それもわざわざ、俺が好きなきなこのおはぎを選んで……。
「色々と思うところもあるでしょうが……」
「……」
「……私に言えるのは、姉はあなたにとても感謝しているということだけです。そのことは、分かってあげて下さい」
……感謝してるのは俺の方だ。川内は、俺にHello Worldのワクワクを思い出させてくれた。PCは、俺にとって『何でも出来る魔法の箱』だということを、再び気付かせてくれた。あいつには、どれだけ感謝しても、し足りない。
「……感謝するのは、俺の方です」
「……?」
神通さんは俺のつぶやきを聞き取れなかったようで、不思議そうに首を傾けていたが……これは、川内自身に言うことだ。彼女を通して伝えることではない。だから、彼女の耳には届いてなくてもいい。
俺は再び、引き戸で仕切られた居間を見つめる。そして、年甲斐もなく恥ずかしい誓いを、心にたてた。
いつか、あいつに言おう。『俺に、PCの楽しさを思い出させてくれてありがとう』『Hello Worldのドキドキを思い出させてくれてありがとう』ってさ。
「……でも、姉はおはぎを作りながら、『これでせんせーを夜戦に誘って……張り倒す!!』て言いながら作ってましたね」
「前言撤回。やっぱあいつアホ以外の何者でもないわ」
「夜戦バカですからね」
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