Sword Art Rider-Awakening Clock Up
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
釣り自慢
湖水に垂れた糸の先に漂うウキはピクリとも反応しない。水面に乱舞する柔らかい光を眺めていると、徐々に眠気が襲ってくる。
だが、もう1人は別の意味で眠気に襲われそうだった。
「……とんだ釣りテクニックだな」
「まだ掛からないだけだ」
アスナの裁縫スキルで作られた分厚いオーバーを着衣し、竿を引き上げるキリト。そして、そのキリトに釣りの腕を披露すると誘われ、いつも通りの戦闘服を身につけた俺が隣に座り、退屈そうにキリトの釣りの様子を伺っていた。
引き上げられた竿に付いた糸の先端には銀色の針が空しく光るのみだった。付いていたはずの餌は影も形もない。
キリトとアスナが結婚して22層に引っ越し、10日余りが過ぎ去っていた。キリトは日々の食料を手に入れるため、スキルロットから大昔に修行しかけた両手剣スキルを削除して代わりに釣りスキルを設置し、太公望を気取っているのだがこれがさっぱり釣れやしない。スキル熟練度はそろそろ600を超えていた。最初は大物を釣れる自信があったので、自分の釣りテクニックを見せてやろうと俺を誘ったらしいが、大物どころか小魚1匹も釣れない。村で買ってきた餌箱を無駄に空にするだけだった。
「やってられるか……」
小声で毒づくと竿を傍らに投げ出し、キリトはごろりと寝転んだ。呆れて何も言えない俺は、時間を無駄にしたと思いながらキリトに眼を向け、ため息を吐くばかりだ。そもそも自分が釣りの誘いに乗ったこと自体がバカげているとしか思えなかった。
その思考経路によって浮かんだ無表情を隠しもせず湖水を眺めていると、不意に頭の上のほうから声を掛けられた。
「釣れますか?」
寝転がっていたキリトが仰天に飛び起き、隣の俺は顔を向けると、そこには1人の男が立っていた。
重装備の厚着に耳覆い付きの帽子、キリトと同じく釣り竿を携えている。だが驚くべきはその男の年齢だった。どう見ても50歳は超えているだろう。鉄緑のメガネをかけたその顔には初老と言ってもよいほどの年齢が刻まれている。重度のゲームマニア揃いのSAOでこれほど高齢のプレイヤーはごく珍しい。と言うより見たことがない。
「NPCじゃありませんよ」
男は、俺とキリトの思考を読んだように言うと、ゆっくりと土手を降りてきた。
「す、すみません。まさかと思ったものですから……」
キリトは慌てて弁解しようとする。
「いやいや、無理もありません。多分私はここでは突出して最高齢でしょうからな」
肉付きのいい体を揺らして、わはは、と笑う。
ここ失礼します、と言って俺の傍らに腰を下ろした男は、腰のポーチから餌箱を取り出すと、不器用な手つきでポップアップメニューを出し、竿をターゲットして餌を付けた。
「私はニシダといいます。ここでは釣り師。日本では東都高速線という会社の安全部長をしておりました。名刺が無くてすみませんな」
また、わはは、と笑う。
「………」
俺とキリトは、この男がこの世界にいる理由を何となく察していた。東都高速線はアーガスと提携していたネットワーク運営企業だ。SAOのサーバー群に繋がる経路も手掛けていたはずである。
「俺はキリトといいます。こっちはネザー。俺、最近上の層から越してきました。……ニシダさんは、やはり……SAOの回線保守の……?」
「一応責任者ということになっとりました」
頷いたニシダをキリトは複雑な心境で見やった。ならばこの男は業務の上で事件に巻き込まれたわけだ。
「いやあ、何もログインする必要はないと上には言われてたんですがね、自分の仕事はこの眼で見ないと収まらない性分でして、年寄りの冷や水がとんだことになりましたわ」
SAO世界に囚われの身になりながらなぜ笑っていられるのか、不思議だった。
笑いながら、すい、と竿を振る動作は見事なものだった。年季が入っている。話し好きな人物のようで、俺とキリトの言葉を待たず喋り続ける。
「私の他にも、何だかんだでここに来てしまったいい歳の親父が2、30人ほどはいるようですな。大抵は最初の街でおとなしくしとるようですが、私はこれが三度の飯より好きでしてね」
竿をクイッとしゃくってみせる。
「いい川やら湖を探してとうとうこんな所まで登ってきてしまいましたわ」
「な、なるほど……。この層にはモンスターも出ませんしね」
ニシダは、キリトの言葉にはニヤリと笑っただけで答えず、「どうです、上のほうにはいいポイントがありますかな?」と聞いてきた。
「うーん……。61層は全面湖、というより海で、相当な大物が釣れるようですよ」
「ほうほう!それは一度行ってみませんとな」
その時、ニシダの垂らした糸の先で、ウキが勢いよく沈み込んだ。 間髪かんはつ入れずニシダの腕が動き、ビシッと竿を合わせる。本来の腕もさることながら釣りスキルの数値もかなりのものだろう。
「……デカいな」
身を乗り出す俺の隣で、ニシダは悠然と竿を操り、水面から青く大きな魚体を一気に抜き出した。魚はしばしニシダの手元で跳ねた後、自動でアイテムウィンドウに格納され、消滅する。
「お見事……!」
キリトに言われ、ニシダは照れたように笑うと、
「いやぁ、ここでの釣りはスキルの数値次第ですから」
と頭を掻いた。
「ただ、釣れるのはいいんですが、料理のほうはどうもねぇ……。煮付けや刺身で食べたいもんですが、醤油無しじゃどうにもなりませんね」
「あー……っと……」
キリトは一瞬迷った。他人から隠れるために移ってきた場所だが、しかしこの男ならゴシップには興味があるまいと判断する。
「……醤油にごく似ている物に心当たりがありますが……」
「何ですと!」
ニシダは眼鏡の奥で眼を輝かせ、身を乗り出してきた。
__おいおい、まさか。
俺は何となく嫌な予感がした。
この世界の煮魚と刺身を食べてみたい、というニシダを伴って帰宅したキリトを出迎えたアスナは、少し驚いたように眼を丸くしたがすぐに笑顔を浮かべた。
「おかえりなさい。それと、いらっしゃいネザー君」
ただ笑顔で、2人を迎えてくれた。
そう、正直に言うと俺もSAO世界の刺身や煮魚を食べたいと思い、キリトの誘いに乗ってしまったのだ。だがキリトの下手な釣り自慢の誘いに乗った時よりは全然マシだと思い、アスナの待つ22層の家に来たのだ。
アスナはニシダに眼を向けると、キリトに訊ねた。
「それで、そちらの人は?」
「ああ。こちら、釣り師のニシダさん。で……」
ニシダに向き直ったキリトは、アスナをどう紹介したものか迷って口籠もった。するとアスナはニヤリと老齢の釣り師に微笑みかけ、
「キリトの妻のアスナです。ようこそいらっしゃいました」
元気よく頭を下げた。
ニシダはポカンと口を開け、アスナは見入っていた。地味な色のロングスカートに麻のシャツ、エプロンとスカーフ姿のアスナは、《血盟騎士団》時代の凛々しい剣士姿とは違えどその美しさに変わるところはない。
何度か瞬きした後、ようやく我に返った様子のニシダは、
「い、いや、これは失礼。すっかり見とれてしまった。ニシダと申します、厚かましくお招きに預かりまして……」
頭を掻きながら、わははと笑う。
ニシダから受け取った大きな魚を、アスナは料理スキルを如何なく発揮して刺身と煮物を調理し、食卓の並べた。例の自作醤油の香ばしい匂いが部屋中に広がり、ニシダは感激した面持ちで鼻を 盛さかんにひくつかせた。
魚は淡水魚というよりは、旬の鰤のような脂の乗った味だった。ニシダに言わせるとスキル値95はないと釣れない種類だそうで、3人とも会話もそこにしばらく夢中で箸を動かし続けた。
たちまち食器は空になり、勢いお茶のカップを手にしたニシダは陶然とした顔で長いため息をついた。
「……いや、堪能しました。ご馳走様です。しかし、まさかこの世界に醤油があったとは……」
「自家製なんですよ。よかったらお持ち下さい」
アスナは台所から小さな瓶を持ってきてニシダに手渡した。その際素材の解説をしなかったのは賢明だろう。恐縮するニシダに向かって、こちらこそ美味しいお魚を分けていただきましたから、と笑う。
アスナは隣に座る俺に、自信なさげな声で訊ねる。
「ネザー君……美味しかった……?」
「………」
一瞬だけチラッとアスナに眼を向けた後、しばらくの間沈黙したが、
「……旨かった。魚を食ったのは、久しぶりだ……」
と呟くように答えた。
それを聞いたアスナは、微笑みながらよかったと内心で喜んでいた。
次いでニシダを見て続けた。
「ニシダさんは釣りの名人なんですね。キリト君はロクに釣ってきたためしがないんですよ」
唐突に話の矛先を向けられて、キリトは憮然として茶を啜った。
「この辺の湖は難易度が高すぎるんだよ」
「いや、そうではありませんよ。難度が高いのはキリトさんが釣っておられたあの大きい湖だけです」
「な……」
ニシダの言葉にキリトは絶句した。アスナがお腹を押さえてくっくっと笑い、隣の俺は呆れるしかなかった。
「なんでそんな設定になってるんだ?」
「実は、あの湖にはですね……」
ニシダは声を潜めるように言った。
「どうやら、主がおるんです」
「「「主?」」」
異口同音に聞き返す3人に向かってニヤリと笑って見せると、ニシダはメガネを押し上げながら続けた。
「村の道具屋に、1つだけやけに値の張る釣り餌がありましてな。物は試しと使ってみたことがあるんです」
思わず固唾を呑む。
「ところが、これがさっぱり釣れない。散々あちこちで試した後、ようやくあそこ、唯一難度の高い湖で使うんだろうと思い当たりまして」
「釣れたんですが?」
「ヒットはしました」
深く頷く。しかし、すぐ残念そうな顔になり、
「ただ、私の力では取り込めなかった。竿ごと取られてしまいましたわ。最後にチラリと影だけ見たんですが、大きいなんてもんじゃありませんでしたよ。ありゃ怪物、そこらにいるのとは違う意味でモンスターですな」
両腕をいっぱいに広げてみせる。あの湖で、キリトがここにモンスターはいないと言った時にニシダが見せた意味深い笑顔はそういうことだったのか。
「わあ、見てみたいなぁ!」
眼を輝かせながらアスナが言う。ニシダは、そこで物は相談なんですが、とキリトに視線を向けてきた。
「キリトさんは筋力パラメータのほうに自信は……?」
「う、まあ、そこそこには……」
「なら一緒にやりませんか!合わせるところまでは私がやります。そこから先をお願いしたい」
「ははぁ、釣り竿の《スイッチ》ですか。……できるのかなぁ、そんなこと……」
首を捻るキリトに向かって、
「やろうよキリト君!面白そうじゃん!」
アスナが、ワクワク、と顔に書いてあるような表情で言った後、傍らの俺に視線を移して訊ねる。
「ネザー君も一緒に行く?」
「釣りに興味はないが、湖の主とやらは見てみたい気もする」
「じゃあ行くってことでいいね」
相変わらず愛想のない物言いだが、アスナは構わず笑顔で対応する。初めて会った頃は俺に対して文句ばかりぶつけてきた堅物女が、今では親しく接するようになった。冷徹な俺に慣れてしまったということだろう。
その夜。
俺は50層《アルゲート》の貧相な宿屋の一室のベッドに横たわり、今日を含めたSAOでの今までの出来事を振り返った。
……この世界にも……普通に生活をする人間は、多くいる。
夕方に会ったニシダや、第1層《はじまりの街》で子供達と過ごすサーシャなど、仮想世界で普通の生活を送っている人達を、俺は今まで奇妙だと思ってきた。強要されたデスゲームという環境でも普通らしい生活を送るのは可能。それに気づくのに時間が掛かったのは多分、俺1人だけだろう。
だ__…俺は1日ごとに同じことを考える。
SAOをクリアして現実に帰還できたとしても、10年間も追い続けた《黒いスピードスター》を見つけ出すまでひたすら生き永らえるだけの人生に逆戻りとなるだろう。
死を恐れてはいない。死ぬことで自分が犯した過ちを正せるなら、それでも構わないと思ってきた。復讐を成し遂げられるなら、何も望まないと。しかし、長い年月が経つにつれてそのことを心のどこかで諦めたのかもしれない。
生きる、とはどういうことなのか?俺はその答えを、未だに見出せずにいる。
ニシダから主釣り決行の知らせが届いたのは3日後の朝だった。どうやら太公望仲間に声を掛けて回っていたらしく、ギャラリーが30人から来るという。
「参ったなぁ。……どうする、アスナ?」
「う~ん……」
正直、その知らせは迷惑だった。情報屋やらアスナの追っかけから身を隠すために選んだ場所なので、大人数の前に出るのは抵抗がある。
「これでどうかな……」
アスナは栗色の長い髪をアップにまとめると、大きなスカーフを目深に巻いて顔を隠した。更にウィンドウを操作して、だぶだぶした地味なオーバーコートを着込む。
「おお。いいぞ、生活に疲れた農家の主婦っぽい」
「……それ、褒めてるの?」
「もちろん。俺は武装してなければ大丈夫だろう」
昼間に、弁当のバスケットを下げたアスナと連れ立って家を出た。向こうでオブジェクト化すればいいだろうと思ったが、変装の一環だと言う。
そして、巨大な針葉樹が立ち並ぶ中をしばらく歩くと、幹の間から煌く水面が見えてきた。湖畔には既に多くの人影が集まっている。やや緊張しながら近づいて行くと、見覚えのあるずんぐりした男が、聞き覚えのある笑い声と共に手を上げた。
「わ、は、は、晴れてよかったですなぁ!」
「こんにちは、ニシダさん」
キリトとアスナも頭を下げる。年齢にバラつきのある集団は、ニシダの主張する釣りギルドのメンバーだと言うことで、内心緊張しながら全員に挨拶したがアスナに気がついた者はいないようだった。
ネザーは大丈夫だろうか、と思い2人は周りを眺めた。
「あれは……?」
湖からそう遠くない位置に、頭にフードを被って顔を隠し、棒立ちする1人の男の姿が見えた。フードを被ったその恰好は、今のアスナのように自分の正体を隠しているようだった。
フードの男が誰なのか、2人はすぐにわかった。わかったところで、2人が到着する前から景気付けに釣りコンペをやっていたそうで、既に場は相当盛り上がっている。
「えー、それではいよいよ本日のメイン・イベントを決行します!」
長大な竿を片手に進み出たニシダが大声で宣言すると、ギャラリーは大いに沸いた。キリトは何気なく彼の持つ竿と、その先に太い糸を視線で追い、先端にぶら下がっている物に気づいてギョッとした。
トカゲだ。だが大きさが異常ではない。大人の二の腕くらいのサイズがある。赤と黒の毒々しい模様が浮き出た表面は、新鮮さを物語るようにヌメヌメと光っている。
「ひえっ……」
やや疲れてその物体に気づいたアスナが、顔を強張らせて2、3歩後ずさった。これが餌だとすると、狙う獲物というのは一体どんなものだろうか。
だがキリトが口を差し挟む間もなく、ニシダは湖に向き直ると、大上段に竿を構えた。気合一発、見事なフォームで竿を振ると、ぶん、と空気を鳴らしながら巨大なトカゲが宙に弧を描いて飛んでいき、やや離れた水面に盛大な水しぶきを上げて着水した。
SAOにおける釣りには、待ち時間というものがほとんどない。仕掛けを水中に放り込めば、数十秒で獲物が釣れるか、餌が消滅して失敗するか、どちらかの結果が出る。キリトは固唾を呑み込んで水中に没した糸に注目した。
果たして、やがて釣り竿の先が2、3度ピクピクと震えた。だが竿を持つニシダは微動だにしない。
「き、来ましたよニシダさん!」
「なんの、まだまだ!」
メガネの奥の、普段は好々爺の眼が爛々と輝かせたニシダは、細かく振動する竿の先端をジッと見据えている。
と、一際大きく竿の穂先が引き込まれた。
「今だっ」
ニシダが全身を使って竿を煽った。傍目にもわかるほど糸が張り詰め、びぃん、という効果音が空気を揺らした。
「掛かりましたよ!!後はお任せします!!」
ニシダから手渡された竿を、キリトは恐る恐る引いてみた。びくともしない。まるで地面を引っ掛けたような感覚だ。これは本当にヒットしているだろうかと不安になり、ニシダにチラリと視線を向けた瞬間、突然猛烈な力で糸が水中に引き込まれた。
「うわっ」
慌てて両足を踏ん張り、竿を立て直す。使用筋力のゲインが日常モードを軽く超えている。
「こ、これ、力いっぱい引いても大丈夫ですか?」
竿や糸の耐久度が心配になり、キリトはニシダに声を掛けた。
「最高級品です!思い切ってやってください!」
興奮しているニシダに頷き返すと、キリトは竿を構え直し、全力を開放した。竿が中ほどから逆Uの字に大きく撓る。
キリトは踏ん張った両足をジリジリと後退させ、遅々としながらも確実な速度で謎の獲物を水面に近づけていった。
「あっ!見えたよ!!」
アスナが身を乗り出し、水中を指差した。キリトは崖から離れ、体を後方に反らせているので確認することができない。見物人達は大きくどよめくと、我先にと水際に駆け寄り、崖から急角度で深くなっている湖水を覗き込んだ。キリトは好奇心を抑え切れず、全筋力を振り絞って一際強く竿をしゃくり上げた。
「……?」
突然、キリトの眼前に身を乗り出していたギャラリー達の体がぴくりと震えた。皆揃って2、3歩後退する。
「どうしたん……」
キリトの言葉が終わる前に、連中は一斉に振り向くと猛烈な勢いで走り始めた。キリトの左のアスナ、右をニシダが顔面蒼白で駆け抜けていく。呆気に取られたキリトが振り向こうとしたその時__。
突然両手から重さが消え、キリトは後ろ向きに転がって尻餅をついた。
糸が切れた、と咄嗟に思い、竿を放り投げて飛び起き、湖に向かって走り寄る。その直後、キリトの目の前で、銀色に輝く湖水が丸く盛り上がった。
「な……」
眼と口を大きく開けて立ち尽くすキリトの耳に、遠くからアスナの声が届いてきた。
「キリトくーん、あぶないよー!」
振り向くと、アスナやニシダを含む全員は既に岸辺の土手を駆け上がり、かなりの距離まで離れている。ようやく状況を呑み込みつつあるキリトの背後で、盛大な水音が響いた。途轍もなく嫌な予感を感じながら、俺はもう一度振り向いた。
__魚が立っていた。
詳細に言うと、魚類から爬虫類への進化の途上にある生物、シーラカンスのもう少し爬虫類寄りといった様子の奴が、全身から滝のように水滴を垂らし、6本のがっしりとした脚で岸辺の草を踏みしめて俺を見下ろした。
見下ろして、という表現になるのは、そいつの全高がどう少なく2メートルはあるからだ。牛さえも丸呑みしそうな口はキリトの頭より高い位置にあり、端からは見覚えのあるトカゲの足がはみ出している。
すると、魚もどきの頭上に黄色いカーソルが表示された。ニシダはこの湖の主はある種のモンスターだと語っていたが、本物を間近で見て、ある意味どころではなくなった。この魚もどきは、モンスターそのものだ。
キリトは引き攣った笑顔を浮かべ、数歩後退した。そのままクルリと後ろを向き、脱兎の如く駆け出す。背後の巨大魚もどきは轟くような咆哮を上げると、当然のように地響きを立てながらキリトを追ってきた。
敏捷度全開で宙を飛ぶようにダッシュしたキリトは、数秒でアスナの傍まで達すると猛然と抗議した。
「ず、ずるいぞ!!自分だけ逃げるなんて!!」
「わぁ、そんなこと言ってる場合じゃないよキリト君!!」
アスナに言われて振り向くと、動作は鈍いが確実な速度で巨大魚もどきがこちらに駆け寄りつつあった。
「おお、陸を走っている……肺魚なのかなぁ……」
「呑気なこと言ってる場合じゃないですよ!!速く逃げんと!!」
今度はニシダが腰を抜かさんばかりに慌てながら叫ぶ。数十人のギャラリー達も余りのことに硬直してしまったらしく、中には座り込んだまま呆然とするだけの者も少なくない。
すると。
動揺することも逃げようともせず、キリトの後ろからスタスタと歩いてきたプレイヤーが1人いた。
キリト達の前に達したところで足を止めたそのプレイヤーは、なんとキリトとアスナがこの湖に来た時に見たフードの男性プレイヤーだった。
眼にした時と変わらずフードを被って顔を隠しているそのプレイヤーは、慣れた手つきで素早くウィンドウを操作する。
ニシダや他の見物人達が呆然と見守る中、再び放たれた巨大魚モンスターの咆哮によって気圧の差による風が生じ、男が被るフードが靡きながら外れていく。
すると、陽光を反射してキラキラと輝くダークブルーの髪が風の中で綺麗に舞い、顔の右側に2つの傷痕が現れた。右手で腰から片手剣を音高く抜き放ち、地響きを上げて殺到する巨大魚もどきを悠然と待ち構える。
キリトの横に立っていたニシダは、ようやく思考が回復した様子でキリトの腕を掴むと大声で叫んだ。
「キリトさん!ネザーさんが危ないですよ!」
「いや、任せておけば大丈夫ですよ」
と言ってる間にも、巨大魚もどきは突進の勢いを落とさぬまま、無数の牙が並ぶ口を大きく開けると俺を一飲みする勢いで身を躍らせた。その口に向かって、体を半身に引いた俺の右手が白銀の光芒を引いて突き込まれた。
シャーン!!
爆発じみた衝撃音と共に、巨大魚もどきの口中で眩い《ヴォーパル・ストライク》が炸裂した。魚は宙高く吹き飛ばされたが、俺の両足の位置はわずかも変わっていない。
モンスターの図体にはかなり心胆寒からしめる物があったが、レベル的には大したことは無かろうとキリトは予想していた。こんな低層で、しかも釣りスキル関連のイベントで出現するからには理不尽に強敵であるはずがないのだ。SAOというのは、そういうお約束は外さないゲームなのである。
地響きを立てて落下した巨大魚のHPバーは、俺の強攻撃一発で完全に減少。結果、巨大魚は膨大な光の欠片となって四散した。一瞬遅れて巨大な破砕音が轟き、湖の水面に大きな波紋を作り出した。
チン、と音を立てて俺は片手剣を腰の鞘に納め、すたすたとキリト達のほうに歩み寄ってきても、ニシダ達は口を開けたまま 身み 動じろぎ1つしなかった。
「よ、お疲れ」
「別に疲れてない。こんなんじゃ準備体操にもならない」
俺にとっては先ほどの巨大魚モンスターは余りにも弱すぎた。
2人で緊張感のないやり取りをしていると、ようやくニシダが眼をパチパチさせながら口を開いた。
「……いや、これは驚いた……。ネザーさん、ず、随分お強いんですな。失礼ですが、レベルは如何ほど……?」
キリトとアスナは顔を見合わせた。この話題はあまり引っ張ると危険だ。
「そ、そんなことよりネザー君、今のお魚モンスターから何かアイテムは出なかった?」
アスナにそう言われてネザーはウィンドウを操作すると、その手の中には白銀に輝く釣り竿が出現した。イベントモンスターから出現したからには、非売品のレアアイテムだろう。
「お、おお、これは!?」
ニシダが眼を輝かせ、それを手に取る。周囲の見物人達も一斉にどよめく。どうやらうまく誤魔化せたようだ。
一同が白銀の釣り竿に注目する間、俺の元に1件のメッセージが届いた。
「ん?」
差出人は、《ヒースクリフ》からだった。
アイコンを人差し指でタッチしてメッセージウィンドウを開いてみると、内容は第75層のボスモンスター攻略戦への参加要請だった。
だが最後の一部の文章にこう書かれていた。
《今度のボス戦では、君も死ぬかもしれない》__と。
ページ上へ戻る