Sword Art Rider-Awakening Clock Up
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顧みられる心
黒鉄宮地下迷宮最深部の安全エリアは、完全な正方形をしていた。入り口は1つだけで、中央にはツルツルに磨かれた黒い立方体の石机が設置されている。
俺達は、石机にちょこんと腰掛けたユイを無言のまま見つめていた。ユリエールとシンカーにはひとまず先に脱出してもらったので、今は4人だけだ。
記憶が戻った、と言ってから、ユイは数分間沈黙していたを続けていた。その表情はなぜか悲しそうで、言葉を掛けるのを躊躇われたが、アスナは意を決して訪ねた。
「ユイちゃん……。思い出したの……?今までの、こと……」
ユイはなおもしばらく俯き続けていたが、ついにコクリと頷いた。泣き笑いのような表情のまま、小さく唇を開く。
「はい……。全部、説明します。ネザーさん、キリトさん、アスナさん」
その丁寧な言葉を聞いた途端、アスナの胸は遣る瀬無い予感にギュッと締め付けられた。何かが終わってしまったのだ、という切ない確信。
四角い部屋の中に、ユイの言葉がゆっくりと流れ始めた。
「《ソードアート・オンライン》という名のこの世界は、1つの巨大なシステムによって制御されています」
「……《カーディナル》のことだな」
途中で俺が口を挟み、ユイがうんと頷く。
「はい。そのカーディナルというシステムが、この世界のバランスを自らの判断に基づいて制御しているのです。カーディナルは元々、人間のメンテナンスを必要としない存在として設計されました。2つのコアプログラムが相互にエラー訂正を行い、更に無数の下位プログラム群によって世界の全てを調整する……。モンスターやNPCのAI、アイテムや通貨の出現バランス、何もかもがカーディナル指揮下のプログラム群に操作されています。しかし、1つだけ人間の手に 委ゆだねなければならないものがありました。プレイヤーの精神性に由来するトラブル、それだけは同じ人間でないと解決できない……そのために、数十人規模のスタッフが用意される、はずでした」
「GM……」
キリトがポツリと呟いた。
「ユイ、つまり君はゲームマスターなのか……?アーガスのスタッフ……?」
ユイは数秒間沈黙した後、その沈黙を破るように俺が否定の言葉を掛けた。
「違う。この子はスタッフじゃない。そして……人間でもない」
人間でもない__その一言を聞いた途端、キリトとアスナは一斉に俺に眼を向けた。
「人間じゃないって、どういうこと?」
ユイの話、そしてユイが22層のプレイヤーホームで開いたメニューウィンドウに表示されていた《Yui-MHCP001》という名。これらの情報から推理した俺は、確信していた。
その確信の訳を説明するように、ユイが後を続けた。
「ネザーさんの言う通り……わたしは人間ではありません。……カーディナルの開発者達は、プレイヤーのケアすらもシステムに委ねようと、あるプログラムを試作したのです。ナーブギアの特性を利用してプレイヤーの感情を詳細にモニタリングし、問題を抱えたプレイヤーの元を訪れて話を聞く……。《メンタルヘルス・カウンセリングプログラム》、MHCP試作1号、コードネーム《Yui》。それがわたしです」
アスナは驚愕のあまりに息を呑んだ。言われたことを即座に理解できなかった。
「プログラム……?AIだっていうの……?」
掠れた声で問い掛ける。ユイは、悲しそうな笑顔のままこくりと頷いた。
「プレイヤーに違和感を与えないように、わたしには感情模倣機能が与えられています。……偽物なんです、全部……この涙も……。ごめんなさい、アスナさん……」
ユイの両眼から、ポロポロと涙が零れ、光の粒子となって蒸発した。アスナはそっと一歩ユイに歩み寄った。手を差し伸べるが、ユイはかすかに首を振る。アスナの抱擁を受ける資格などないのだ、と言うように。
未だ信じることができず、アスナは言葉を放り出した。
「でも……でも、記憶がなかったのは……?AIにそんなこと起きるの?」
「……2年前……正式サービスが始まった日……」
ユイは瞳を伏せ、説明を続けた。
「何が起きたのかは、わたしにも詳しくはわからないのですが、カーディナルが予定にない命令をわたしに下したのです。プレイヤーに対する一切の干渉禁止……。具体的な接触が許されない状況で、わたしはやむなくプレイヤーのメンタル状態のモニタリングだけを続けました」
その《予定にない命令》とはSAO唯一のゲームマスター、《茅場晶彦》の操作によるものだと察した。おそらくその人物に関する情報を持たないのであろうユイは、幼い顔に沈痛な表情を浮かべ、更に唇を動かした。
「状態は最悪と言っていいものでした……。ほとんど全てのプレイヤーは恐怖、絶望、怒りといった負の感情に常時支配され、時として狂気に陥る人すらいました。わたしはそんな人達の心をずっと見続けてきました。本来であればすぐにでもそのプレイヤーのもとに赴き、話を聞き、問題を解決しなくてはならない……しかしプレイヤーにこちらから接触することはできない……。義務だけがあり権利のない矛盾したした状況の中、わたしは徐々にエラーを蓄積させ、崩壊していきました……」
しんとした地下迷宮の底に、銀糸を震わせるようなユイの細い声が流れる。3人は、言葉もなく聞き入ることしかできない。
「ある日、いつものようにモニターしていると、他のプレイヤーとは大きく異なるメンタルパラメータを持つ2人のプレイヤーに気づきました。その脳波パターンはそれまで採取したことのないものでした。喜び……安らぎ……でもそれだけじゃない……。この感情はなんだろう、そう思ってわたしはその2人のモニターを続けました。会話や行動に触れるたび、わたしの中に不思議な欲求が生まれました。そんなルーチンはなかったはずなのですが……。あの2人の傍に行きたい……直後、わたしと話をしてほしい……。少しでも近くにいたくて、わたしは毎日、2人の暮らすプレイヤーホームから一番近いシステムコンソールで実体化し、彷徨いました。その頃にはもうわたしはかなり壊れてしまっていたのだと思います……」
「それが、22層の森……」
ユイはゆっくりと頷いた・
「はい。キリトさん、アスナさん……わたし、ずっと、お2人に……会いたかった……森の中で、お2人の姿を見た時……すごく、嬉しかった……。おかしいですよね、そんなこと、思えるはずないのに……。わたし、ただのプログラムなのに……」
涙をいっぱいに溢れさせ、ユイは口を噤んだ。アスナは言葉にできない感情に打たれ、両手を胸の前でギュッと握った。
「ユイちゃん……あなたは、本当のAIなのね。本物の知性を持っているんだね……」
囁くように言うと、ユイはわずかに首を傾けて答えた。
「わたしには……わかりません……。わたしが、どうなってしまったのか……」
その時、今まで沈黙していたキリトが一歩進み出た。
「ユイはもう、システムに操られるだけのプログラムじゃない。だから、自分の望みを言葉にできるはずだよ」
柔らかい口調で話し掛ける。
「ユイの望みは、なんだい?」
「わたし……わたしは……」
ユイは、細い腕をいっぱいに伸ばした。
「ずっと、一緒にいたいです……パパ、ママ……!」
アスナは溢れる涙を拭いもせず、ユイに駆け寄るとその小さな体をギュッと抱きしめた。
「ずっと、一緒だよ、ユイちゃん」
少し遅れて、キリトの腕もユイとアスナを抱え込む。
「ああ……。ユイは俺達の子供だ。家に帰ろう。みんなで暮らそう……いつまでも……」
だが、未だ後ろに立ったままの俺が、顔を俯けながら言った。
「……それは無理だ」
「「え?」」
突然の言葉に、キリトとアスナは声を揃えた。
「ユイの話が全て事実なら……もう手遅れだ」
アスナが戸惑ったような声で訪ねる。
「手遅れって……どういうこと……?」
ユイに視線を向け直した途端、説明が始まった。
「わたしが記憶を取り戻したのは……あの石に接触したせいなんです」
ユイはへ部屋の中央に視線を向け、そこに鎮座する黒い立方体を小さな手で指差した。
「さっきアスナさんがわたしをこの安全地帯に退避させてくれた時、わたしは偶然あの石に触れ、そして知りました。あれは、ただの装飾敵オブジェクトじゃないんです……。GMがシステムに緊急アクセスするために設置されたコンソールなんです」
ユイの言葉に何らかの命令が込められていたかのように、黒い石に突然数本の光の筋が走った。直後、ぶん、と音を立てて表面に青白いホロキーボードが浮かび上がった。
「さっきのボスモンスターは、ここにプレイヤーを近づけないようにカーディナルの手によって配置されたんだと思います。わたしはこのコンソールからシステムにアクセスし、《オブジェクトイレイサー》を呼び出してモンスターを消去しました。その時にカーディナルのエラー訂正能力によって、破損した言語機能を復元できたのですが……それと同時に、わたしは消去されてしまうでしょう。ネザーさんが言った通り……あまり時間がありません……」
「そんな……そんなの……」
「なんとかならないのかよ!この場所から離れれば……」
2人の言葉にも、ユイは黙って微笑するだけだった。再びユイの白い頬を涙が伝った。
「パパ、ママ、ありがとう。これでお別れです」
「嫌!そんなのいやよ!!」
アスナは必死に叫んだ。
「これからじゃない!!これから、みんなで楽しく……仲良く暮らそうって……」
「暗闇の中……いつ果てるとも知れない長い苦しみの中で、パパとママの存在だけがわたしを繋ぎ止めてくれた……」
ユイはまっすぐにアスナを見つめた。その体を、かすかな光が包み始めた。
「ユイ、行くな!!」
キリトがユイの手を握る。ユイの小さい指が、そっとキリトの指を掴む。
「パパとママの傍にいると、みんなが笑顔になれた……。わたし、それがとっても嬉しかった。お願いです、これからも……わたしの代わりに……みんなを助けて……喜びを分けてください……」
ユイの黒髪やワンピースが、その先端から朝露のように儚い光の粒子を撒き散らして消滅を始めた。ユイの笑顔がゆっくりと透き通っていく。重さが薄れていく。
「やだ!やだよ!!ユイちゃんがいないと、わたし笑えないよ!!」
溢れる光に包まれながら、ユイはニコリと笑った。消える寸前の手がそっとアスナの頬を撫でた。
「ママ、笑って……」
アスナの頭の中にかすかな声が届くと同時に、一際眩く光が飛び散り、それが消えた時にはもう、アスナの腕の中は空っぽだった。
「うわああああ!!」
抑えようもなく声を上げながら、アスナは膝を突いた。石畳の上に蹲って、子供のように大声で泣いた。次々と地面に零れ、弾ける涙の粒が、ユイの残した光の欠片と混じり合い、消えていった。
親が自分の子供を心配するのは当然だと、俺も理解してる。だがユイは__キリトとアスナの本当の子供ではない。
相手は血の繋がりが一切ない上、命のないただのプログラムだ。人間だと認識するほうがおかしい。そんな歪な存在を、自分達の子だと言い切れるものか。どれだけ亡き者を思い続けても、その人は決して戻ってこない。それが心と身体に大きな傷痕を持ってしまった俺の現状だ。
ユイが光に包まれて消滅した後、石畳に膝を突いてとめどなく涙を零すキリトとアスナを見ながらも、俺は沈黙を貫こうとするが、悲惨な光景にとうとう嫌気が差してきた。
「……ぐっ!」
ギリッと歯を食い縛るや、俺は突然部屋の中央の黒いコンソールに飛びついた。表示されたままのホロキーボードを素早く叩く。驚きがほんの一瞬悲しみを遠ざけ、キリトとアスナは瞠目しながら叫んだ。
「ね、ネザー君……!?」
「何を……!?」
「今ならまだ、GMアカウントでシステムに割り込める」
冷静さを保ちながらもキーを乱打し続ける俺の眼前に、ぶんと音を立てて巨大なウィンドウが出現し、高速でスクロールする文字列の輝きが部屋を照らし出した。2人が見る中、俺は更にいくつかのコマンドを立て続けに入力した。小さなプログレスバー窓が出現し、横線が右端まで到達したかどうかという瞬間__。
不意に黒い岩でできたコンソール全体が青白くフラッシュし、直後、破裂音と共に俺が弾き飛ばされた。
「ネザー!!」
「ネザー君!!」
キリトとアスナが慌てて床に倒れた俺の傍ににじり寄る。
頭を振りながら上体を起こした俺は、憔悴した表情の中に薄い笑みを浮かべると、アスナに向かって握った右手を伸ばした。訳もわからず、アスナも手を差し出す。
俺の手からアスナの掌中に零れ落ちたのは、大きな涙の形をしたクリスタルだった。複雑にカットされた石の中央では、とくん、とくんと白い光が瞬いてる。
「こ、これは……?」
「……ユイが起動した管理者権限が切れる前に、ユイのプログラム本体をシステムから切り離し、オブジェクト化した。言い換えれば、ユイの心をシステムから切り離した」
それだけ言うと、俺は精根尽き果てたかのように床にごろんと転がりかけた。キリトは、アスナは手の中の宝石を覗き込んだ。
「ユイちゃん……そこに、いるんだね……わたし達の……ユイちゃんが……」
「ああ……ユイの心は……ここにある」
再び、とめどなく涙が溢れ出した。ぼやける光の中で、アスナに答えるように、クリスタルの中心が1回、強くとくん、と瞬いた。
キリトとアスナがクリスタルを慈しむように眺める中、俺は立ち上がり2人の後ろへと移動した。2人が気づかない内に転移結晶を出し、右手に掴んだ。そしてこの場の空気から急いで逃れるように小声で言った。
「転移……アルゲート」
俺の仮想体はたちまち青白い光に包まれた。テレポートが完了する寸前まで、2人を見ていた。
昨日までの冷え込みが嘘のような、暖かい微風が芝生の上を吹き抜けていく。陽気に誘われたのか、小鳥が数羽庭木の枝に止まり、人間達の様子を興味そうに見下ろしている。
サーシャの教会の広い前庭には、食堂から移動させた大テーブルが設置され、時ならぬガーデンパーティーが催されていた。大きなグリルから魔法のように料理が散り出されるたび、子供達が盛大な歓声を上げる。
「こんな旨いものが……この世界にあったんですねぇ……」
昨夜救出されたばかりの《軍》最高責任者《シンカー》が、アスナが振るったバーベキューにかぶりつきながら感激の表情で言った。隣ではユリエールがニコニコしながらその様子を眺めている。最初の印象では冷徹な女戦士といった風情の彼女だったが、シンカーの横にいると陽気な若奥様にしか見えない。
そのシンカーは、昨日は顔を見る余裕がなかったのだが、こうして改めて同じテーブルについてみると、とても巨大組織のトップとは思えない穏やかな印象の人物だった。
背はアスナより少し高い程度、ユリエールよりは明らかに低いだろう。やや太めの体を地味な色合いの服に包み、武装は一切していない。隣のユリエールも今日は軍のユニフォーム姿ではない。
シンカーは、キリトの差し出すワインのボトルをグラスで受け、改めて、という感じでグッと頭を上げた。
「キリトさん、アスナさん。今回は本当にお世話になりました。何とお礼を言っていいのか……」
「いや、俺も向こうでは《MMOトゥディ》に随分お世話になりましたから」
笑みを浮かべながらキリトが答える。
「懐かしい名前だな」
それを聞いたシンカーは丸顔を綻ばせた。
「当時は、毎日の更新が重荷で、ニュースサイトなんてやるもんじゃないと思ってましたが、ギルドリーダーに比べればマシでしたね。こっちでも新聞屋をやればよかったですよ」
テーブルの上に和やかな笑い声が流れる。
「それで……《軍》の方はどうなったんですか?」
アスナが訊ねると、シンカーは表情を改めた。
「キバオウと彼の配下は除名しました。もっと速くそうすべきでしたね……。私の争いが苦手な性格のせいで、事態をどんどん悪くしてしまった。軍自体も解散しようと思っています」
アスナとキリトは軽く眼を見張った。
「それは……随分思い切りましたね」
「軍はあまりにも巨大化しすぎてしまいました……。ギルドを消滅させてから、改めてもっと平和的な互助組織を作りますよ。解散だけして全部投げ出すのも無責任ですしね」
ユリエールがそっとシンカーの手を握り、言葉を継いだ。
「軍が蓄積した資財は、メンバーだけでなく、この街の全住民に平等に分配しようと思っています。今まで、酷い迷惑をかけてしまいましたから……。サーシャさん、ごめんなさい」
いきなりユリエールとシンカーに深々と頭を下げられ、サーシャはメガネの奥で眼をぱちくりさせた。慌てて顔の前で両手を振る。
「いえ、そんな。軍の良い人達にはフィールドで子供達を助けてもらったこともありますから」
率直なサーシャの物言いに、再び場に和やかな笑いが満ちた。
「あの、そういえば……」
首を傾げて、ユリエールが言った。
「ネザーさんはどうしたんですか?昨日から1回も顔を見ていないのですが……」
アスナとキリトは顔を見合わせた後、少々苦笑いで言った。
「実は……わたし達の知らない間に、上の層へ帰っちゃったみたいで……」
それを聞いた途端、ユリエールとシンカーはお互いガッカリとした表情になった。
「そうですか」
「ネザーさんの噂は、私の耳にも何度か届いていましたが……昨日の一件を聞いて、決して悪い人ではないとわかりました。会ってお礼を言えなかったのが、残念で仕方ありません」
キリトとアスナは、すまない、という顔で2人を見た。
例えネザーに、ユリエールとシンカーに会ってあげて、と頼んでも本人が素直に了承するとは思えない。普段下の層に現れることもないため、ユリエールとシンカーが会える機会はないだろう。このことは2人に決して言わない方がいいかもしれない、という罪悪感に押し潰されそうだった。
すると、ユリエールが再び言った。
「そういえば、もう1人……ユイちゃんはどうしたんですか?」
ネザーのことを訊かれた時と違い、キリトとアスナは顔を見合わせ、微笑しながら答えた。
「ユイちゃんは……お家に帰りました」
右手の指をそっと胸元に持っていく。そこには、昨日まではなかった、細いネックレスが光っていた。華奢な銀鎖の先端には、キリトがカーディナルシステムから切り離したユイの心のクリスタルだった。涙滴型のクリスタルを撫でると、わずかな 温もりが指先に沁みるような気がした。
別れを惜しむサーシャ、ユリエール、シンカーと子供達に手を振り、転移ゲートから第22層に帰ってきたアスナとキリトを森の香りがする冷たい風が迎えた。わずか3日の旅だったが、随分長く留守にしてきた気がして、アスナは胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
なんという広い世界だろう__。
アスナは改めてこの不思議な浮遊世界に思いを馳せた。無数にあるといっていい層1つ1つに、そこに暮らす人々がいて、泣いたり笑ったりしながら毎日を送っている。いや、ほとんどの人にとっては辛いことのほうが遥かに多いだろう。それでも、皆が自分の戦いを日々続けているのだ。
わたしのいるべき場所は__。
アスナは我が家へと続く小道を眺め、次いで上層の底を振り仰いだ。
前線に戻ろう。不意にそう思った。
近い内、再び剣を取り、戦場に戻らなくてはならない。いつまでかかるかわからないが、この世界を終わらせて、皆がもう一度、本当の笑顔を取り戻せるまで戦うのだ。みんなの笑顔、それがユイの望んだことなのだから
「ね、キリト君」
「ん?」
「もしゲームがクリアされて、この世界なくなったら、ユイちゃんはどうなるの?」
「ああ……。実はさっき、ネザーからメッセージが届いたんだ。システムからユイを切り離した時に、クライアントプログラムの環境データの一部として、俺のナーブギアのローカルメモリに保存されるように設定したんだとさ。向こうで、ユイとして展開させるのはちょっと大変だろうけど……きっとなんとかなるさ」
「そっか」
アスナは体の向きを変え、ギュッとキリトに抱き着いた。
「じゃあ、向こうでまたユイちゃんに会えるんだね。わたし達の、初めての子供に」
「ああ。きっと」
アスナは、2人の胸の間で輝くクリスタルを見下ろした。ママ、頑張って……。耳の奥に、かすかにそんな声が聞こえた気がした。
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