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SNOW ROSE

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間章Ⅲ
  たゆとう光


 その男の名はアヴィと言う。
 彼はロッツェンという小さな港町の出で、今は王都プレトリスで生花店を営んでいた。港町の出で、何故に生花店なのか?

 それは…。

「いらっしゃいませ!今日は何をお求めですか?」
 彼の店へ入ってきたのは、三十代中程の婦人だった。富豪の婦人らしく、いつも良い身形でこの店へと訪れる。
「そうね…今日はこのアネモネを頂くわ。」
「いつもありがとうございます。」
 アヴィはそう言うと、手早くアネモネを包み始めた。
「シュターツさん、今日も二十本ですよね?」
「ええ。もう覚えられてしまいましたね。それと…あの造花はまだありますかしら?」
 アネモネを包み終えたアヴィに、シュターツと呼ばれた婦人が尋ねた。
「ヴァイスローゼンですか?あれは音楽祭の時にしか作ってないものですので…。」
「そう…でしたわね…。」
 シュターツ婦人は俯いて呟いた。
 この女性の名はアイリーン・シュターツと言い、この国の八貴族の一つ、名家シュターツ家現当主の奥方である。
 しかし、田舎出のアヴィはその名を知らず、この婦人のことを富豪の市民としか思っていなかったのであった。
 それも無理のない話である。貴族の夫人がこのような街中へ足を向けるなど、当時では考えられなかったからである。
「シュターツさん、どうしてもヴァイスローゼンが必要で?」
「いえ、無いものを無理にとは言いませんわ。あれば頂きたかっただけですので、どうぞお気になさらず…。」
 シュターツ婦人はそう言うと、アネモネの代金を支払い、それを受け取って店を出て行ったのであった。
「ヴァイスローゼンか…。」
 それはアヴィにとっても思い入れのあるものであった。それを語るには、時を八年前まで遡らなくてはならない。
 それはアヴィが未だロッツェンに暮らしていた頃のことである。

 王暦四五七年のこと。アヴィはロッツェンで、彼の両親が経営している酒屋で共に働いていた。
 この街は小さいとは言え、毎日港には多くの船が出入りしており、無論それに伴い行き交う人も大勢いた。それゆえ、この小さな港町でも商売は繁盛していたのであった。
 そんな多忙な日々の中、毎日アヴィに会いにくる女性がいた。
「アヴィ!今日もいつものところで待ってるから!」
「ああ!仕事が終わったら行くよ!」
 その女性は、彼と結婚の誓いをしていたマリーであった。
 二人は毎日のように会っており、時にはアヴィと共に店を手伝うこともしばしばであった。そんな二人の関係を双方の両親も快く認めており、式を挙げる日を待ちわびてもいたのである。
 さて、アヴィとマリーはいつもその浜辺で、夕の星空を眺めるが日課となっていた。
 ある時は一日の話を、またある時はこれから未来の話を…。満天の星空の下、他愛もない話をするのが二人とも好きだった。
「アヴィ…。結婚したら私ね、あのお店でヴァイスローゼンを作って、旅人達に渡したいわ。無事に故郷へと帰れるように。愛しい人の元へと戻れるようにって…。」
「マリーらしい…。この間聞いた神父様のお説教だよね?それは良いアイデアだと思うよ。きっと皆も喜ぶんじゃないかな。」
 マリーの言葉に、アヴィは笑って答えた。そんなアヴィにマリーは抱き付き、淡い月明かりの下、そっと口付けを交わした。
「ありがとう、アヴィ。私、あなたがいてくれて良かった。姉さんは貴族の方に見初められて、遠いところへ行ってしまったし…。」
「またその話かい?君には兄さんが二人もいるじゃないか。」
「そうだけど、兄さん達じゃ女心は分からないんです!」
 そうマリーが言うとアヴィは目を丸くしてそれから大笑いし、そんな彼をマリーは少しムッとして見ていたが、途中から一緒になって笑い出したのだった。
 全てが幸福であった。毎日が充実し、そんな日々が永久に続くものだと信じて疑わなかった。
 アヴィもマリーも、そして…この街に暮らす全ての人々も…。
 だが、その想いを嘲笑うかのように、それは突然訪れたのである。

 その日は静かであった。波も穏やかに揺れ、水面には初夏の陽射しが乱反射していた。
 この日、アヴィとマリーは共に連れ立って、いつもの浜辺へと来ていた。店の方はあまり忙しくなかったため、両親はアヴィに久々の休暇を与えたのだ。
 未来の娘になろうマリーに気を使ったようでもあるが、二人は久々の休日を楽しもうとランチを持って、その小さな浜辺へと来たのだった。
 浜辺に着いたマリーは大はしゃぎし、素足になって海へと入った。
「マリー。君も一応はお嬢様なんだから、もう少しお淑やかにしないと…。」
 そう言って苦笑するアヴィに、マリーは睨み付けたかと思うや波を蹴り、海の水を浴びせ掛けた。
「冷たっ!」
 海水を掛けられたアヴィはマリーのところへ行くや、手で海水をすくってマリーへと掛けた。
「冷たっ!」
 それから二人は、まるで子供のように水を掛けあい、そして笑いあった。
 太陽の光は燦々と降り注ぎ、心地好い風が二人の間をすり抜けて行く。
 アヴィとマリーは浜辺へと座り、暫くは寄せては返す波を眺めていた。
「アヴィ。私、このたゆとう海の光が好き。あなたと結婚して子供を産んで、そしてお婆ちゃんになるまで…ずっと、この海の輝きを見ていたいわ…。」
 それは、これから送る未来への希望であった。
 アヴィはその想いを聞き、マリーの横顔を見ながら答えた。
「幸せにする。君がこの海をずっと見てられるように…。俺、一人前の店主になるから。君はヴァイスローゼンを、訪れる旅人のために作りながら俺の…」
 その言葉は、途中で切らざるを得なかった。突如、大きな揺れが二人を襲ったのである。
「な、なに…!?」
 二人はその場で抱き合い、その揺れが収まるのを待った。暫くして揺れが収まると、アヴィとマリーは手を取り合って街へと駆け出したのであった。
 二人が戻った時、街の姿は変わり果て酷い状況となっていた。
「ど…どうして…。」
 先に起きた地震により大半の家屋が倒壊しており、その一部から炎が上がっていた。
 この土地はいままで地震がなく、家屋の作りは軽く設計されていたのだ。
「マリー、君は家へ戻って家族の無事を確認するんだ!俺も父さんと母さんの様子を見てくるから。」
「分かったわ!アヴィ、気を付けてね…。」
 マリーは心配そうにアヴィを見た。アヴィはそんなマリーを抱きしめ、祈るように言った。
「大丈夫だよ。きっと皆無事さ…。」
 そうして二人は各々の家へと走ったのである。
 アヴィが家へと辿り着いたのは、三十分近く経ってからのことであった。普段なら十分も掛からず着けるのだが、道に倒壊した家屋などが倒れていたために思うように進めなかったのである。
「父さん!母さん!」
 アヴィの目の前には、もう家とは呼べぬ建物の残骸が山となっている。
「どこにいるんだよ!父さんっ!母さんっ!」
 一筋の光でも見つけられないかと、アヴィはその瓦礫の山を退けようした時、近くの宿屋の店主ミッケルが彼を止めに入った。
「止せ!お前まで下敷きになっちまうぞ!それに、この街へと、もうじき津波が来る。早く山へと避難するんだ!」
「ミッケルさん、父さんと母さんが…!」
 なおも瓦礫を退かそうとするアヴィの頬を、ミッケルは思い切り叩きつけた。
「お前にゃ酷な話しだが、親父さんらはもう助からねぇ。ここで助けようとジタバタしてりゃ津波に呑まれちまうぞ?そうしたら、一体誰が死んだ者を弔うってんだよ!俺達は何がなんでも生き抜かなくちゃならねぇんだ!」
 ミッケルがアヴィにそう怒鳴った時、海の彼方から何かの音が響いてきた。
「クソッ、もう来やがった!そら、急げ!こりゃ間に合わんかも知んねぇなぁ…。」
 ミッケルはアヴィの手を無理矢理引き、山の方へと駆け出した。
 この時点で、未だマリーは家族と共に家にいた。マリーの家は倒壊を免れてはいたが、かなり酷い状態には代わりなかった。だが、両親と二人の兄は大した怪我もなく無事であった。
 皆は山へと向かうため家を出た。山の中腹まで来ると、アヴィの姿がどこにも見当たらないことにマリーは不安になり、そして事もあろうに、マリーは一人で麓へと向かってしまったのである。
「マリー!アヴィ君ならきっと上にいるはずだ!戻ってくるんだ!」
 家族の言葉も耳に入らぬまま、マリーは愛しい人の姿を探すべく、山へと登りくる人の波に消えた。
 そうしている間にも、津波は刻一刻と近付いていた。たとえ水嵩が膝ほどでも、その波に捕まれば一溜まりもない。それを知らぬ者は、それで死ぬしかないのである。それが自然の驚異というものであろう。
 だが、マリーはその恐ろしさを知っていた。一度だけ、旅行先で津波の直撃にあい、危うく命を落としかけたことがあるのだ。しかしその恐怖さえ、愛しい人への想いの前には意味を成さなかった。
「アヴィ!アヴィ!」
 マリーは彼の名を呼びながら、到頭山の入り口まで下ってしまった。津波は、もうそこまで迫っていることも知らずに…。
 その時、遠くからマリーを呼ぶ声がした。
「マリー!直ぐに山へと登るんだ!走って、走ってくれっ!」
 それはアヴィだった。マリーはその声を聞いてホッとしたが、それも束の間。直後に大きな地響きが轟いたのである。
 津波が街を呑み込む音であった。
 アヴィとミッケルはマリーを捉えると、そのまま山頂へと駆け出した。だが、人の足よりも津波の速さは勝り、その波はあろうことか山頂目指す三人を容赦なく呑み込んでしまったのであった…。

 津波から二日後、アヴィは全身の痛みで目を覚ました。
「君、大丈夫かい?」
 そこには見知らぬ青年がいた。周囲を見渡してみても、アヴィに見覚えのあるものは一つもなかった。どうやら、アヴィはこの青年に助けられたようである。
「傷の手当てはしてある。もう少し休め。」
 青年の言葉にアヴィは再び目を閉じかけた時、急に全ての事柄を思い出した。
「あ…あぁ…!マリーは?マリーはどこにいるんだ!?」
 そう叫んで起き上がろうとしたアヴィは、頭に激痛を感じてそのまま倒れ、目の前の青年に怒鳴られた。
「休めと言っただろうが!君はそんな躰でまともに動けると思っているのか!?」
 そう言われたアヴィは、ふと自らの躰を見ると、躰中包帯だらけであり、足には骨折用の固定具が付けられていたのであった。
「全く…あの大津波に呑まれて折ったのは右足だけとはな…。大した強運だ。しかしな、この街に流れ着いたのは君だけなんだよ。残念だが、他にはいなかった。」
 アヴィは青年の言葉を聞き、絶望に打ちのめされた。最愛の人はもう、この世には居ないのである。
 それからすぐ、アヴィは躰の痛みに耐えかねて、そのまま深い闇へと意識を落としたのであった。
 アヴィを助けたこの青年、名をクルト・ヴァン=フレミングと言い、ロッツェンから西へ四つ程街を挟んだところにあるリリーという港町を治める伯爵であった。
 地震のあった翌日、伯爵は海岸沿いの被害を視察すべく出向いていた。
 この街の海には沢山の小島があり、それが防波堤の役割を果たして大した被害はなかった。そして視察を切り上げようとしたその時、アヴィが打ち上げられていたのを発見したのである。
 最初は死体かと思って近付いてみたら息があったので、伯爵は直ぐ様供の者に館までアヴィを運ばせ、彼を医者に診せたのであった。
 さて、アヴィは一月後には体調も回復し、机の上ではあるが仕事を始めていた。アヴィが世話になるだけではならぬと、伯爵に仕事はないかと頼み込んだのである。
 幸いにも、アヴィは読み書きや計算が出来たため、伯爵は喜んで仕事を与えた。アヴィは既に帰る家も失っており、その上、伯爵の館では人手が不足していたため、伯爵にしてみれば願ったり叶ったりであった。
 アヴィは伯爵の好意を無にしないため、懸命に仕事へと取り組んだ。時にマリーや家族のことを思い出し、涙を溢しそうになることもあったが、それを忘れようとするかのように仕事へと没頭していたのである。
 彼は伯爵が思った以上の働きぶりを見せ、助けられてから九ヶ月後には、アヴィは正規の執事として月金貨二枚で雇われるようになった。
 それから月日が経ち、ある時アヴィは伯爵に呼ばれ、彼の私室へと向かった。

コンコンッ…

「アヴィだね?入りなさい。」
「失礼致します。」
 アヴィは伯爵に招かれて中へと入った。
「旦那様、何かご用でしょうか?」
「アヴィ。君がこの館に来てから、もう二年もの月日が経った。君の故郷であるロッツェンも復興し、戻ることも可能になったよ。そこで聞きたいのだが、君はどうしたい?」
 伯爵に突然そのようなことを言われたので、聞かれたアヴィは慌てふためいた。
「旦那様、私目に何か不手際でも御座いましたか!?」
「いやいや、そうじゃないんだ。君だってまだ若いのだし、どうしたいかと思ってね。元来、執事はもう少し高齢の者に任せるものなんだし、君にはもっと自由に生きてほしいんだよ。こんな小さな箱の中じゃなく、もっと多くの人々と触れ合ってほしい。」
 それは、あの大津波で人生を狂わせたアヴィの心を、まるで見透かしたような言葉であった。
 事実、アヴィは人と触れ合うことを極端に恐れている節があった。それ故、伯爵はアヴィに表へと出ることを勧めたのである。
 伯爵自身の心を言えば、アヴィをずっと手元に留めて置きたかったが、それではアヴィの力を削ぐことになりかねないと考えたのである。
 しかし、当のアヴィはそれとは気付かず、ただただ恐れていたのであった。この館から追い出されるのではないかと…。
 不安げなアヴィを察し、伯爵は話を続けた。
「アヴィ、よく聞くんだ。僕は君のことを友と思っている。だからファーストネームで呼んでいるんだ。これは友からの言葉だと思ってほしいんだよ。」
 伯爵はそこまで言うと、窓から晴れ渡る空を眺めて続けた。
「確かに、君は恋人も両親も、そして住む家も失ってしまった。しかし、君は生きている。それは、君が何かをせねばならない証であり、これから出会うべき者がいるということなんだよ。」
 伯爵のその言葉を聞き、アヴィはハッとして顔を上げた。伯爵はそんなアヴィに微笑み掛けていた。
「旦那様…。」
「その“旦那様"は止めにしよう。僕のことはクルトと呼んでもらいたい。な、アヴィ。」
 伯爵は未だ不安げなアヴィを見て苦笑いしている。それは友への気兼ねない素振りであり、アヴィはそれに気付くと安堵して、やっと笑みを見せたのだった。
「旦那…いや、クルト様。貴方様は私の命の恩人であり、私を助け職を与えて下さった伯爵様であり、そして、私のかけがえのない友人です。確かに、私は幸福です。それでは、一つのお願いをお聞き下さいますか?」
「ああ、言ってみろ。君はそれだけの働きをしたのだ。遠慮は無用だよ?」
「では…」
 この後に語られたアヴィの願いに、伯爵は大層驚かされた。だが、その願いは伯爵によって快く承諾され、アヴィはそれから二月の後、伯爵の館を去ったのであった。
 アヴィがクルトに伝えた願いとは…。


「いらっしゃいませ。あ…クルト様!この様な場所へ来られずとも…。」
「いや、君がどうしてるかと思ってねぇ。どうやら繁盛してるようで良かったよ。君が王都で生花店を開きたいなんて言うから、こっちはどうなるかって心配したんだぞ?」
 そう、アヴィはこの王都プレトリスで生花店を開きたいと申し出たのである。両親と営んでいた酒屋ではなく、場所も故郷のロッツェンではなく…。
「クルト様、そんなに私のことが信用なりませんか?」
「そうじゃなく、君は王都になんの縁もないからさ。それがいきなり王都で、それも生花店ってのはねぇ…。大変だったんじゃないのか?」
 クルトはさも心配そうにアヴィを見た。だがアヴィは、そんなクルトに向かって笑いながら答えた。
「それは大変でしたけど、この街の方々はとても親切で、開店時には手伝って頂いた方も大勢います。それに、今では定期的に通ってくれるお客様もおりますし…あ、いらっしゃいませ!」
 アヴィは話を中断し、入ってきた客へと挨拶をした。いつも来店しているシュターツ夫人であった。
 アヴィがシュターツ夫人の接客に行くと、クルトは何気無くその夫人へと視線を向け、夫人を見るなり目を丸くして叫んだ。
「シュターツ侯爵夫人ではありませんかっ!」
 クルトの声を聞くや、彼女はビクッと体を硬直させ、徐に声のした方へと振り返った。
「あ…あの…どちら様…」
「惚けても無駄ですよ?ご主人であるミヒャエルとは長い付き合いですからねぇ。つい先日も伺ったばかりじゃないですか。」
 クルトは半眼でシュターツ夫人を見ている。
 アヴィは何が何だか解らず、首を傾げながらクルトに言った。
「クルト様?この方は確かにシュターツ夫人ですが…まさか貴族の御夫人がこの様な…」
「いいや、この方は歴とした侯爵夫人だよ。」
 きっぱりとクルトに言い切られたアヴィは顔を青ざめさせ、背中には冷や汗を流すことになった。まさか王都とはいえ、このような小さな生花店に侯爵夫人が来るとは、さすがにアヴィは考えていなかったのだから…。
 そんなアヴィを見て、当のシュターツ夫人は溜め息を洩らした。
「アヴィさん、そんなに驚かれなくとも宜しいでしょ?確かに、私はミヒャエル・フォン=シュターツ侯爵の妻ですが、このお店に来るのは気に入ったからですわ。ここにある花ばなは、あなたの人柄か皆、とても生き生きとしてますからね。それは身分なぞ関係ありませんわ。」
 確かに、花にとってはそうであろう。しかし、今のアヴィには別問題である。
 もし仮に、侯爵夫人に普通の話し方で接すれば、一般的には不敬罪に問われてしまうのである。今まで通りにと言われても、はい分かりましたとは行かないのも道理と言えよう。
 そんなアヴィの心に気付いてか、クルトが突然笑い出した。
「いやいや、これは…!君はまた随分と幸福だよ!この王都で侯爵夫人のお気に入りになるとはな。これは評判になるぞ?あ、そう言えば…侯爵夫人の故郷もロッツェンでしたね?」
「ええ。地震があった時には既に嫁いで王都に居りましたから、あの大災害からは逃れられましたが。」
 アヴィは二人の会話を聞き、その顔を曇らせた。
 彼は故郷の思い出をあの大災害の記憶とともに胸の奥深くへとしまい込み、この生花店を始めてからは誰にも話すことはなかったのである。
「シュターツ侯爵夫人。このアヴィもロッツェンの出なんですよ?これもまた奇遇としか言えないが、何か縁があるのでしょうね。」
「そうなのですか!?」
 クルトの言葉に、侯爵夫人は驚いてアヴィを見た。
 アヴィは話したくはなかったが、まさか知らぬとも言うわけにもゆかず、仕方なく話をすることにした。
「はい。私の家は小さな酒屋を営んでおりました。港の中に店があったもので、随分と繁盛しておりました。あの時に全てを失ってしまいましたが、私の心の中では今でも、在りし日の両親やお客さんの愉しげな笑い声が聞こえてきます…。」
 淋しげに語るアヴィの言葉に、今度はシュターツ侯爵夫人の顔色が変わってしまった。
「アヴィさん?もしや、婚約者とよく浜辺へ行きませんでしたか…?」
「…なぜ…そのことを!?」
 恋人のマリーと二人で浜辺へと行っていたことは、二人の身内と一部の人しか知るはずはなかったのである。
 あの思い出の浜辺はマリーの家の土地であり、あの一帯は誰も近付くことは有り得なかったのである。船が通るにしても、大型船は遥か遠くを過ぎるだけであり、漁を営む者とて浜辺近くを漁場とはしていなかった。
 アヴィは考えていた。いや、思い出そうと記憶を辿っていた。
確か、貴族へと嫁いだ姉がいたと…。名は…
「そう、アイリーン…。あなたは、まさか…!」
 そうアヴィが言うと、シュターツ侯爵夫人はいつも被っている帽子を取り、はっきりと顔を見せた。
「はい。私はマリーの姉のアイリーンですわ。妹は手紙であなたのことを“彼"としか書かず、名は今度会った時にと…。それが…アヴィさん、あなただったなんて…。」
 そう言うと、シュターツ侯爵夫人…いや、アイリーンは涙を溢した。
 二人の会話を聞いていたクルトも目を潤ませた。まさか、この様な形でこの二人が出会っていたとは思いもしなかったのである。
 少しして、アイリーンが二人の前から顔を背けて涙を拭いた時、彼女の目に見知ったものが映った。
「あら…ヴァイスローゼンが…。」
 アイリーンがそう呟いた時、アヴィは静かな声で答えた。
「あなた様がそれを…ヴァイスローゼンを必要としている御様子だったので…。」
「ええ…。今度郷を訪れる際、妹のために持って行きたかったの…。」
 アイリーンはアヴィの言葉に、震える声で答えた。どうやら近々、ロッツェンへ帰郷するようであり、それを聞いたクルトはアヴィに言った。
「アヴィ。君もそろそろ里帰りしてみてはどうだい?家は無いにしろ、生まれ育った場所だ。無論、私も一緒に行く。」
 クルトの言葉に、アヴィは暫く考えてから答えた。
「そう…ですね。良い機会ですし…。本当はこのヴァイスローゼン、マリーが作るはずだったんですよ…。僕と一緒になって、店でこれを作って旅人にあげるのだと…。それが…」
「そうね。姉である私を引寄せたんですもの…奇跡としか思えないわね…。」
 アヴィとアイリーンはヴァイスローゼンを見つめながら話すと、側で聞いていたクルトも感慨深げにこう呟いた。
「神は如何なる場所へもおわします…か。僕は信心深いわけではないが、この出会いを見れば、誰もが神の存在を信じるだろうな…。」
 外には暮れの夕日が射していた。もう夜が近付いてきており、空には淡い月も見えていた。

 十日後のことである。
 アヴィとクルトは、新しく作られたロッツェンの街へと赴いていた。一足前にアイリーンも、懐かしき故郷へと戻っていたのである。
「随分と変わったな。でも、海はあの時のまま…。」
 アヴィは眩しさに目を細め、港から遥かに広がる海を眺めていた。その隣には友人としてのクルトがいた。
「アヴィ…。」
 クルトはアヴィに話し掛けようとして止めた。ここで何を言おうと、全く虚しいだけだと思ったからであった。
 総てを生みせし海。しかし、時として総てを奪いゆくものでもある。自然とは、元来そのようなものであり、与えすぎず、されど奪いすぎることもない。
 だが、その場で生きる者にとっては、その力はあまりにも強大過ぎるのである。
「アヴィさん!それにフレミング伯爵!」
 二人がたよとう海の輝きを静かに眺めていた時、少し離れた場所から誰かが呼んだ。
「シュターツ侯爵夫人!」
 二人を呼んだのは、先に帰郷していたアイリーンであった。
 二人はアイリーンをみるなり顔を見合せ、すぐにアイリーンの元へと駆け寄った。
「どうされたんですか?今は御実家の方で…」
 側に来るなり、クルトは早々に質問した。普通であれば、このような場所で侯爵夫人が供も連れずに外出するなぞ有り得ない。まぁ、王都でも供は連れてはいなかったのであるが…。
「父様に、マリーを偲んで浜辺へ行くと言ってきましたの。お二方もご一緒するかと思いまして…。アヴィさんには、是非来て頂きたかったので。」
「え…?僕があの浜辺に入っても良いのですか?」
 アヴィは驚いた。前にも語ったが、あの浜辺一帯はマリーの家、つまりノベール家所有の土地なのである。マリーを失った今では、アヴィに浜辺へと入る権利はないのである。
「何を言ってますの?父様にアヴィさんが生きていることを話しましたら、大変喜んでいましたわ。浜辺へ入るななどと、誰も申しません。」
 それからアイリーンは、もう一つのことを告げてアヴィを驚かせた。
「父様は、あなたをノベール家へ養子として迎えたいとも言っていたわよ?」
「え!?」
 あまりのことに、アヴィは言葉に詰まった。確かに、アヴィは天涯孤独の身となった。家族と呼べる人は一人もいないのである。
 考え込むアヴィを見兼ね、クルトは彼の肩を叩いて言った。
「アヴィ、今すぐどうこうという話じゃないんだ。ゆっくり考えてから結論を出しても良いじゃないか。今は浜辺へ行こう。」
 クルトにそう言われたアヴィは、「そうですね…。」と言って微笑んだ。
 暫くは無言で歩き、秋の紅き陽射しに染められた美しい街並みを、三人はそれぞれの想いで見ていた。
 街並みを少し離れると、岩影から白い砂浜が見えてきた。あれだけの大津波にあったというのに、この浜辺は何一つ変わることなく広がっている。
 アヴィにとってこの浜辺は、幸福と絶望の象徴とも言えよう。しかし、過ぎ去りし時は、やがては美しく輝くものである。
「マリー…。」
 浜辺に立ち、アヴィは堪え切れずに涙を流した。その右横には、マリーの姉としてのアイリーンがヴァイスローゼンを持って、また左横には、アヴィの友人としてのクルトが寄り添うように立っている。
 先ず、アイリーンが波打ち際まで歩み出て、手にしたヴァイスローゼンを光たゆとう波間へと投げた。
「我が妹、マリーへ…。私と、あなたが唯一愛した殿方より捧げん。海よ、マリーの魂を安らけくし、神の祝福を齎し給え。来るべき日、また懐かしき姿にて見えんために…。」
 それは、海で没した者への祈りであった。アイリーンの瞳からもまた、涙が零れ落ちていた。
 アイリーンの祈りが終ると、次はクルトがその波打ち際へと歩み寄り、持っていた袋より酒瓶を取り出した。
「多々の生命を奪いし者よ。この先、奪いし分だけ生命を育み、幸福を齎さんことを。涙を笑みに変え、哀しみを喜びに変えんため、我ここに原初の神に祈りを捧げん。」
 そう言うと、クルトは酒瓶の蓋を開いて中の液体を海へと注いだ。それは最も高価な酒とされる、ドナというワインであった。
 最後に、アヴィが波打ち際まで進み出た。アイリーンとクルトは静かに後退し、彼に祈りの場を明け渡したのであった。
「マリー。君を失って、もう五年もの歳月が流れたよ…。僕は未だ、君のことを想い続けてる。きっとこの先も、君以上に愛せる人はいないだろう…。マリー…だからこれだけを持ってきたんだ。君に渡すはずだった…この指輪だけを…。」
 アヴィはそう言って、手にしていた指輪を海へと高く放ったのであった。
「ただの自己満足かも知れないけれど…。神よ、どうかこの想い、このたゆとう光に乗せてマリーの元へと届けて下さい…。」
 そうアヴィが波間に囁いた刹那、海にたゆとう光が一際眩しく輝いた。
「汝が願い、確かに聞いた。」
 その眩しい光の中より、聞き慣れない女性の声が聞こえてきた。
 眩しさに顔を覆ていた三人は、その声を聞いて大いに驚いた。
 暫くして光が収まると、三人は声の主を探そうと目を開くと、海の上に一人の女性の姿を見い出した。その女性の髪は美しい金色で、大きな栗色の瞳をしていた。
 その女性は白い衣を纏い、その衣を揺らして海の上に立っていたのである。
「あ…あなたは一体…」
 クルトが女性に向かい、恐る恐る声を掛けた。すると、女性は優しく微笑んで答えた。
「我が名はエフィーリア。自然の調和を保つ者、神の言葉を伝えし者。」
 それを聞いた三人は目を見開き、その場に平伏そうとした。しかし、エフィーリアはそれを即座に止めさせた。
「我に平伏すなかれ!原初の神に平伏すが善い!」
 エフィーリアはそう言うと、海の上から浜辺へと移動し、恐れおののく三人の前へと歩み寄った。そして、中央に座していたアヴィの前へと来ると、徐に彼へと告げた。
「我、汝が願いを叶えよう。汝の混じりけなき心、真の願いを…。神は汝等を見ておられた。神は汝を善き者とされ、それ故、我は汝に遣わされたのだ。」
「し…しかし…、私は教会に通ってはおりません…。」
 あまりのことにアヴィは震え上がった。エフィーリアは大地の女神として、この地の信仰を集めている聖なる方である。恐れるなと言う方が難しいと言えよう。しかしエフィーリアは、そんなアヴィに優しく微笑んで言った。
「人よ、教会とは神が居わす場に非ず。神は如何なる場所にも居わすのです。心清き者よ、恥じることなかれ。汝は願いを叶うるに足る、善き行いをしてきたのだから。」
 エフィーリアはそう告げると、少し後退して再び口を開いた。
「それ故、汝の願いを叶えよう。汝が愛しき者を、汝の元へ還そう。これは、原初の神が御決めになられたことである。」
 そう言い終えると、エフィーリアの体から目映い光が放たれ、三人は眩しさのあまり顔を覆った。
 暫くすると光は収まり、三人は恐る恐る目を開くと、そこには最早エフィーリアの姿は無かった。しかし、三人は女神の姿を見た時よりも目に映るものに驚き、自らの目を疑わざるを得なかった。
「マリー…!」
 三人の目の前には、津波に呑まれ死んだはずのマリーが立っていたのである。
 その姿は大人びており、この五年間をまるで生き続けていたようにさえ感じられた。
「原初の神の慈愛により、私はあなたの元へと還されました。あなたの愛が、私を呼び戻してくれたんです…アヴィ!」
「マリー…マリー!」
 アヴィはマリーへと駆けて行き、その体を強く…強く抱き締めた。
 アイリーンも涙を流しながら妹の元へと歩み寄り、少しはなれた場所では、クルトがこの神の奇跡に感嘆し、そして感銘しつつ高き空を仰ぎ見ていた。
「人の命なぞ、水辺にたゆとう光の如く…。しかし、それ故に輝きを増して美しい…。」
 クルトはそう一人呟き、優しき瞳を喜ばしき三人へと向けたのであった。


 原書はここまでで話を終えているが、幾つかの文書に、その後の話が記されているものがある。
 その一つに聖マルガリータが残したものがあり、それにはこう記されている。
 後に、アヴィは祝福を受けしマリーと婚姻を結び、ノベール家へ家族として迎え入れられた。
 この二人の間には二人の子が生まれ、双方共に男児であった。
 一方の名はゴットフリートと名付けられ、後にノベール家当主となる。
 このゴットフリートは貿易と、それに使う帆船の改良に才覚を表して国の重役に抜擢された。経済にも才覚があったようで、新たな時代を築いた一人として名を残した。
 もう一方はアンドレアスと名付けられ、建築や水路、防波堤などの設計に才があり、地震に耐える家屋の設計や津波に強い防波堤の建設など、現代に伝わる多くの技術を産み出した。
 現在ある運河橋も、このアンドレアスが設計の基礎を作ったものであり、耐久設計の父と呼ばれている。
 さて、父であるアヴィであるが、彼は伯爵であるクルトと、侯爵婦人であるアイリーンの推挙によりロッツェンだけでなく、領主不在であった二つの街をも兼任して領主の地位を与えられた。
 そのため、時の国王より伯爵の地位を授かったが、それまでには多くの艱難があったのであった。
 しかし、それらが如何なるものであったかは知られてはいない。
 フレミング伯とシュターツ侯及び侯爵婦人の連名による推挙は、王暦四七九年に成されているが、アヴィが爵位を授けられて領主となったのは、七年後の四八六年になってからのことである。
 アヴィはその間、ノベール家当主として港の管理やロッツェンの街役員、また海上警備隊の指揮などで手一杯働いていたはずである。恐らくその傍らでは、妻のマリーが白き薔薇の造花を造っていたに違いない。
 だが、伝えられている事柄全てが事実とは限らない。しかしながら、一つだけ知り得ることがあるであろう。

“彼らは幸福の内にあった”と言うことである。

 この短い物語は、堪え忍んで一つの愛を貫くことの尊さを説いたものであろう。
 このロッツェンの街は今でも残っており、この街の港にはアヴィと妻のマリーの像が立てられている。そして二人は今なお、たゆとう海の光を優しき笑みを浮かべ眺めているのである。



  「たゆとう光」
        完


 
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