ソードアート・オンライン‐黒の幻影‐
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第2章 魔女のオペレッタ 2024/08
18話 軋む軛
軽薄でいて、飄々として、底が見えない。
これまで相対したことのない類の人間という認識はやはり覆ることはない。こうして、命を狙われることがあろうと、彼は笑みを絶やすことなく世間話でもするかのように言葉を切り出すのだ。
不気味、という言葉では当てはまらない。
異質、と言えば少しは的に近寄るかも知れない。
そもそも彼とは、前提として他のPKとは異なる節が目立つ。あくまでも直感の領域で認識したものであり、それ自体を把握するにも俺では困難を極めるところである。故に彼は誰かを惹き寄せるのだろうか。
まあ、こんな思考にはおよそ意味など求めるべくもない。
端的に、彼は善的な存在ではない。紛うことのない悪性だ。
多くのプレイヤーの倫理を犯し、狂わせた元凶だ。ならば殺されても文句は言えまい。
――――いや、俺からすれば、それさえも建前でしかないのだろうか。
「面白味に欠けるが、なかなか悪くない」
片手剣と短剣が競り合い、その最中に感心するような言葉を向けられた。
しかし間隙も僅か数瞬、刃に掛かる重みが抜けた所為で均衡が崩れる。加えて軸となっている脚を払われ、態勢の崩れた脇腹に鋭い膝蹴りを受けて吹き飛ばされる。背面の壁、およそ10メートルほどの距離にまで飛距離を伸ばす威力の一撃であったが、それでも《軽業》スキルの恩恵で壁に叩きつけられるまでは免れる。
いや、免れたのではない。追撃の機会があっても敢えて攻め込もうとしないところから察するに、明らかに手を抜かれている。純然たる技量のみで追い込まれ、その所為でむしろ苦境にあるというのが現状か。そんな有り様にも拘らず、HPは2割程度まで消耗していた。
――――残り8割、命の残量を一瞥するや、何かが内側で騒めくのを感じた。
「しかし、それだと余計に分からなくなる。………あの時のお前は、確かに見所があったんだが――――」
「シァッ!」
値踏みするような声が耳に届くも、逆手持ちによる片手剣重突進技《ヴァイスリット》で遮る。
Modによってモーションのコンパクト化が為され、且つ剣速の増したソードスキルでさえ、易々と躱されて呆気なく距離を置かれてしまう。
「何でかな、お前変だな」
「アンタには言われたくない」
「いいや、変だね。心底気持ち悪いくらいだ」
「………どういう意味だ?」
「ハッ、まあいいさ。折角のダンスパーティだ。………立ち話だけじゃシラけちまうだろ?」
「ぬぅ、く………ぉ!?」
軽装、軽量武器。
会話が途切れ、短剣のアドバンテージを十全に活かした俊足の踏み込みから、振り降ろされる包丁を受け止めて絶句する。これまで数分の間、これほどに重い斬撃を確認していない。むしろ、短剣カテゴリーに属する武器とは思えない、それこそ大剣や大槌といった大型武器もかくやとばかりの圧力を受けては苦悶の声が漏れる。
「おいおい、せっかく少しギアを上げたんだ。ノッてこなきゃ勿体ねえんじゃねえか」
「………ぐ、ぉォォォァあァあああッ!?」
再三の競り合い。しかし、相手が本気でなかった時点で既に拮抗さえしていなかった剣戟は無惨の一言に尽きた。
増した質量とは裏腹に、全く減速しない得物捌きを必死に凌ぐ。噂には聞いていたが、《魔剣》と謳われた逸品は伊達ではなかったということか。笑う棺桶の首魁の肩書きは伊達ではない。やはり尋常な実力ではないらしい。前方のあらゆる角度から振られる刃は嵐を彷彿とさせた。
刀身から伝わる振動が仮想の骨に響き、不快感が蓄積されていく。
一秒を経るたびに手の感覚が薄れ、柄を握る実感さえ既に褪せている。
いつ滑り落ちるか分からないなか、耳を劈くようなとめどない金属音の奔流に喰らい付き、どうにか刃を振り抜く間際に剣を捩じ入れることで何度目かも知れない鍔競り合いに縺れ込ませる。苦肉の策であるが、どうにかしがみ付くしかない。
「………なるほど、だいたい見えてきた」
「こふッ゛!?」
声の直後、脇腹に衝撃を受ける。
この戦闘が開幕してようやく使用したソードスキル――――《体術》スキルによる足技を受けて横薙ぎに弾き飛ばされ、とうとう片手剣が手元から離れて遠ざかった。故に、脳天を目掛けて繰り出される、追撃の振り降ろしを素手で受け止める。左手の中指と薬指の間から手首まで食い込んだ刃は右手も用いて降下を食い止めている為、今のところそれ以上深く達することはなさそうだが、持続的なダメージを発生させる条件を十二分に満たしていた。じわじわとHPを蝕んでいく刃を睨み付けると、PoHは発言を再開する。
「お前、本当は人を斬りたいんだろう? なぁ?」
「………な、に………?」
口角の吊り上がる嗤いを浮かべるPoHを見る。
怖気が全身を駆け巡ったのは、彼の笑みの邪悪さではない。その言葉が秘める重圧によるものだ。
「殺す快感を知ってるから、斬りたくて斬りたくてどうしようもない。だが、理性で蓋をしている。こうしている間にも、お前は俺を斬ることさえ理性で躊躇っている。………しかも、その衝動を本人が理解していない。おかしいわけだ」
「………違う、絶対に在り得ない………そんな筈はない………!」
否定する。全霊を以て、全てを賭してでも、そうあってはならない。
あれほどに命を奪ったことで苦悩を味わったのだ。何を罷り間違えても、自らあの惨劇を望むわけがない。
だが、自分の言葉がどこまでも空しい。空疎で、まるで実感がない。
記憶の片隅でちらつく何かが、声高にPoHの言葉を受けて確信を得つつある。
そして、その動揺をPoHは見逃してはくれなかった。
「だったら、どうして奥の手を使わないんだ?」
「くッ!?」
右手の抵抗も甲斐なく、包丁が振るわれる。
辛うじて手首で食い止められていた刀身はアバターの腕を裂き、肘を抜け、薬指から小指に掛けての部分が削げて宙に消えた。
剥離。部分的な《部位欠損》は、発生個所のSTR判定に著しいマイナス補正を生じさせる状態異常だ。これ以上のクロスレンジに留まるのは悪手にしかならない為に、続く薙ぎ払いをバックステップで回避しつつ、後退して逃げ延びる。
「俺を殺すって息巻いた時はまだいい目をしてた。………けどな。その割にはまるでやる気がない。この間連れてた下っ端どもを皆殺しにしたように、俺にも《切り札》を使えばいい。そんな簡単な話だってのに、肝心のお前は有象無象の雑魚ドロップ品でじゃれつくだけときた。流石にガッカリしちまうねぇ」
「………それはまだ、どうか解らないだろう?」
「ハッ、今更ジョークにもならねえよ。お前が殺意を持てないことくらい見てれば解る。正直、興醒めだ」
得物を降ろし、ゆったりとした足取りでPoHは遠ざかる。
今もなお残る《殺しに対する忌避感》を見抜き、俺の戦意が挫けたと悟っての行為。興味を失したのだろう。俺に至ってはギリギリの防戦と精神の疲弊で摩耗し、ガラ空きの背中にさえ一撃を見舞えない体たらくだ。
先程から床に仰向けの格好で倒れていた幼い少女のアバター――――カラーカーソルからしてプレイヤーで、ハイレベル品の麻痺毒を盛られているようだった――――の傍まで歩み寄ると、ブーツの踵が頸の付け根に乗せられる。
「先客との約束でね。お出ましがあんまり遅いから、そろそろゲームオーバーにしとかないとシラケるだろ?」
「………そいつを、殺すのか」
「ああ、だってこのガキは人質だからな。お前と同じで、いつの間にかつまらなくなっちまったヤツがいたんだが、そっちももう飽きちまった。猿同士の殺し合いもそろそろ幕切れだし、引き際には丁度良いだろ」
話は終わりとばかりに、PoHの《友斬包丁》を振り上げる。
ぎらついた凶刃がゆったりと大上段に掲げられるのを見遣り、目を瞑っては一つ息を吐く。記憶が正しければ、あの子はピニオラと行動を共にしていたと記憶している。要は他人だ、そう割り切れば危険を被ってまで助ける価値はない。ほんの僅かな時間、視界の片隅に紛れ込んでいただけに過ぎない。だが、それは些事だ。どんなに言葉を連ねても、諦め切れない自分がそれらを遮って聞き入れない。
目を開けていては、歪んだ視界に卒倒しそうになる。吐き気に昏倒しそうになる。
肌で感じるという表現は適切ではないだろうが、内側から漏れ出た澱みのような感情に圧壊されそうで堪らない。
――――だが、《これ》に身を委ねなければ、目の前の誰かを見殺しにすれば、俺はきっと一生後悔する。
仮想の肺から空気を吐き切り、再び満たし、目を開く。
PoHの言葉で姿を得たそれを、最後まで拒絶した一線を、自らの意思で超えるのだ。耐え難い嫌悪感だが、それでも俺は真っ当な人間ではない。ならば、見合った手段にて応じる他なくなる。
左手の人差し指は仕事を終え、床に転がる剣に代わり腰に新たな重みが生じる。
俺に与えられたもう一振りの武器。対峙した敵の研鑽を嘲笑い、惨たらしく殺す為の毒。そんな代物を、間尺に遭わない気の迷いで抜くのだから、我ながら嗤いが込み上げてくる。
「……………ッ!?」
僅かに抜いた刀身に触れ、そのままのストロークで左手から放った投剣をPoHが弾く。
紫と緑のライトエフェクトは中空で遮られ、光芒の残滓を帯びた投剣は石畳に落ちる。冷たい音が反響する直後、重さを余すことなく乗せた右手の剣も受け止められるが、対する敵の顔からは慢心にも似た余裕が失せていた。
「……ようやく、やる気になったじゃないか」
「今まで通り、オモチャだと侮ってさえいれば殺せていたのに………勿体ない………」
《秘蝕剣》スキル投擲補助技、《マリシャスギヴァー》。
厳密には投剣スキルに類するものではなく、ダメージ毒効果を保有する武器の刀身に投擲物を接触させることで《その保有する効果を一時的に転写する》というもの。Modの効果まで反映されるから、掠り傷であっても仕留めるには十分な効力を持つ。引導を渡すには誂え向きとは思ったが、殺すに足る攻撃を見極めるという意味では、確かにPoHには殺気を読む見識眼があるようだ。
「それがお前の切り札か? ハハッ、アタリじゃないか。なるほど、面構えはさっきまでとはまるで別物だ」
刹那、僅かに動くPoHの右脚に意識が向き、半ば無意識に上半身を右に逸らす。
数瞬遅れてPoHが猛烈な速度で踏み込み、凶刃が振るわれる。しかし既に見えていたそれをあしらって距離をとる。秘蝕剣の効力が適用されている間は物理的な威力に頼れない。ひりついた空気の中に留まるのも吝かでもないが、装備の性能から鑑みればSTR値算出ダメージの下方修正で打ち負けるのは明白だ。分が無ければ手を引くのも已む無しというもの。
この一合に求めるものは少ない。ほんの少しでも、俺に意識を向けてくれさえすれば意味を為す。こうして足下の子供から気を逸らして、その全てを釘付けに出来たならば上出来だ。
「ああ、おかげで吹っ切れた。もう、済んだ話だと思っていたんだが…………クハハッ、笑えてくる」
目の前の悪人を殺すのにさえ、散々な自己弁護を並べ立てても消えなかった罪悪感が呆気なく麻痺する。まるで精神の構造が変質していくような感覚を奥歯で噛み殺しながら、しかしそれを受け入れる。
そうだ、始めから悩むことなんてなかった。俺に与えられた行動原理なんて所詮は《守る》だけ。そしてそれを達成せしめる手段を選べるほど高尚な人間ではない。始めから変わることはなかった行動指針だ。
だから、決めたのではないか。敵を殺してでも守ると、既に堕ちるところまで堕ちた俺には手段を選べるほど真っ当な概念など持ち合わせてはいないというのに、こんなことに悩んでいたとは滑稽でならない。
――――いや、そもそもこれも建前に過ぎないか。思い出して見れば、なんと他愛ないことだろう。
グリセルダさんの救出に向かった時も、黄金林檎を狙った笑う棺桶の一団と対峙した時も、俺は一切の躊躇を差し挟むことはなかった。なにしろ、靄の掛かった記憶の中で俺は歓喜していたのだから。この身体さえ紛い物でしかない虚構の空間で、確かな生きる実感を与えてくれたのは《命を賭した戦い》の只中だった。殺意に満たされた斬撃の嵐の中にこそ充足を見出したのだから。
思えば、ヒースクリフにPoHの暗殺を依頼されたあの時から、心の奥底で笑みを浮かべていたのかも知れない。そうでなければ、これまでの俺では死地に向かうような真似はしないだろう。どこかで、理性の軛から解放されようと策謀を巡らせていたとすれば、この巡り合わせも偶然ではなくなってくるだろうか。
………なるほど、我ながら悍ましい限りだ。
………何も乗り越えられていない。何も、好転していない。
「余所見はやめろ。望み通り、本気を見せてやる」
緑と紫の色彩が絡み合う、禍々しい毒剣を逆手に持ち替える。
忌々しく、それでいて怖いくらいに手に馴染む柄を親指で撫で、…………ふと、口元に違和感を覚えて欠損した左手に残る指先でなぞると、奇妙なくらいに吊り上がった口角だと認識する。
感情を顔に表すのが苦手ではあったと記憶しているが、どういうわけだろうか。今の昂りにはしっくり当て嵌まる。悪い気はしないが、そんな自分に嫌気が差す。
「さあ、戦闘開始だ」
――――ああ、吐き気がする………
後書き
燐ちゃん、覚醒回。
殺人に対しての忌避感の麻痺。
燐ちゃんが抱える異常は、厳密には《誰かを守る》という目的を果たす過程で発生する《相手の死》さえも必要経費と割り切る麻酔染みた覚悟でした。ですが、命を奪った罪悪感は誤魔化すことが出来ないほど重いものでもあります。実際にグリセルダさん救出後の燐ちゃんの精神状態から鑑みて、かなりの過負荷であったように描写させていただきました。
ですが、そもそも殺人を犯した燐ちゃんに対して《麻酔》として機能したモノは何か。それは今回の燐ちゃんの変質そのもの、《極限状態において沸き立つ歓喜》がその正体となります。
記憶に靄が掛かっていたとあるように、当人はその時の感情を忘れていたことになりますが、夢の中など無意識下で想起されることは度々あったようです。これも圏内事件編で描写した内容となります。
グリセルダさんを救出する際にどのような表情をしていたか。その結果として命を救った相手に拒絶されたというならば、その実態はたしかに悍ましいものだったのでしょう。自害を思い立つ動機としても、もしかしたら充分なものだったのかも知れません。
というわけで、文章力の問題で、曖昧な部分の補足とさせていただきました。一応はそれぞれの布石を経た結果となります。何に代えても誰かを守ろうと苦心して、誰かを容易く殺めることが出来る力を得て、人知れず摩耗と破綻を経た主人公の至った姿がアレですね。誰かを頼るのが遅過ぎたといったところでしょうか。裏側にこの性質があることを念頭に書いてきましたが、結構解りづらいですね。
ということで、今回はここまで。
ではまたノシ
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