銀河英雄伝説~美しい夢~
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第五話 バラ園にて
■ 帝国暦486年7月12日 オーディン リルベルク・シュトラーゼ ジークフリード・キルヒアイス
ヴァレンシュタイン中将がミュラー少将と伴にラインハルト様を訪ねてきた。中将の表情は何処となく暗い翳りを帯びている。ミュラー少将は緊張気味だ。余り良い兆候とは言えない。他にも気になった事は中将には同行者が何人か居たことだ。中将は嫌そうな表情で護衛だと言っていたが中将に護衛など聞いた事がない。どういうことだろう。
ヴァレンシュタイン中将は部屋に入るとラインハルト様にケスラー少将、ロイエンタール少将、ミッターマイヤー少将を呼んで欲しいと頼んだ。皆に話さなければならない事が有ると。どうやら同行者のミュラー少将は既に知っているようだ。
ケスラー、ロイエンタール、ミッターマイヤー少将が来るまでの間、皆でお茶を飲んだ。フーバー未亡人が気を利かせてくれたのだが、用意されたのはコーヒーが四つだった。ヴァレンシュタイン中将は顔を顰めながらコーヒーを飲んで、いや舐めている。
ケスラー、ロイエンタール、ミッターマイヤー少将が来たのは十分以上経ってからの事だった。フーバー未亡人が改めてお茶を用意してくれた。今度は中将にはココアを用意してもらった。
「中将、それで話したい事とは何かな?」
ラインハルト様の問いかけに中将が大きく息を吐いた。ミュラー少将と顔を見合わせる。どうやら話し辛い事らしい。珍しい事だ、一体何が有るのか。ラインハルト様も訝しげな表情をしている。
「昨日、宮中に呼ばれました」
宮中に? 中将が宮中に呼ばれた? どういうことだろう、フレーゲル男爵の事が漏れたのだろうか?
「そこである決定事項を伝えられました」
「決定事項?」
中将はラインハルト様の問いかけに頷くと言葉を続けた。
「私がブラウンシュバイク公の養子になると言う事です」
「ブラウンシュバイク公の養子……」
ラインハルト様が唖然とした表情で呟いた。私も同感だ、中将がブラウンシュバイク公の養子? どういうことだ? 私の思いを口に出したのはロイエンタール少将だった。
「中将、閣下がブラウンシュバイク公の養子とはどういうことでしょう?」
「私がブラウンシュバイク公の養子となります。公は引退し私が新たなブラウンシュバイク公になる。軍の階級も多分上級大将になるでしょう。そしてフロイライン・ブラウンシュバイクと結婚する。そういうことです」
今度は皆が呆然とした。中将がブラウンシュバイク公の養子? 新たなブラウンシュバイク公? どういうことだ? 大体中将は平民だ、何の冗談だ?
「しかし、閣下は……」
「分かっています。私が平民だと言うのでしょう、ロイエンタール少将」
「ええ」
ロイエンタール少将が少し決まり悪げに頷いた。中将は溜息を吐くと困ったように話し始めた。
「実は私はリメス男爵の孫なのです」
「!」
「私の母が男爵の娘でした。母を産んだ祖母も平民で、私達は平民として生きてきた。私がリメス男爵を祖父だと知ったのは彼が死ぬ一週間前の事です。あのような事が無ければ一生知らずに済んだかもしれない」
中将がリメス男爵の孫……。中将の母親が男爵の娘……。皆がその事実に驚き顔を見合わせている。つまり中将は本来ならリメス男爵家を継ぐべき人間だったと言う事か。ならば公爵家の養子になっても不都合は無いのかもしれない……。しばらくの間沈黙が部屋を支配した。
「良く分からない。ブラウンシュバイク公は娘を女帝にするのを諦めたのか?」
ミッターマイヤー少将が呟くように言葉を吐いた。何人かが少将の言葉に頷く。私も同感だ、どうも良く分からない。ミッターマイヤー少将の言う通りだ。このままでは帝国はリッテンハイム侯の物になる。ブラウンシュバイク公はそれを認めるというのだろうか?
「次の皇帝はエルウィン・ヨーゼフ殿下になります。皇后はサビーネ・フォン・リッテンハイム……」
「!」
中将の言葉に皆が息を呑んだ。中将は幾分不愉快そうな表情をしている。
「リッテンハイム侯は娘を皇后にする事で勢威を維持します。リヒテンラーデ侯はこれからも国務尚書として政権を維持する。そしてブラウンシュバイク公爵家の新当主は軍の重鎮として彼らを助ける……」
「!」
つまりブラウンシュバイク公・リッテンハイム侯・リヒテンラーデ侯が組んだということか。そしてブラウンシュバイク公爵家の新当主……、ヴァレンシュタイン中将が軍の重鎮になって帝国を守る……。そう思っていると中将が幾分自嘲気味に笑いを漏らした。
「ブラウンシュバイク公、リッテンハイム侯、リヒテンラーデ侯、そして軍……。彼らはこれまでバラバラで反目していました。しかし今回彼らは協力して進む事を選択したんです。その犠牲が私です」
中将にとっては望んだことではないのだろう。そう思うと思わず溜息が出た。
「断わる事は出来ないのですか? 中将」
ケスラー少将が中将を労わるように問いかけた。無理なのは分かっている。帝国の実力者達が決めたことなのだ。中将に断われるわけは無い。事実ケスラー少将の問いかけにヴァレンシュタイン中将は力なく首を横に振った。
「無理ですよ、ケスラー少将。この件では勅許がおりているんです」
「勅許?」
ケスラー少将が鸚鵡返しに問いかけた。皆驚いたような顔をしている。勅許までがおりている。そこまで相手は本気だと言うことだ。
「ええ、勅許です。フロイライン・ブラウンシュバイクは皇孫ですからね。既に典礼省にも申請が出ています。勅許がおりているのですから却下される事は無い。おそらく明日にも認められるでしょう。私はブラウンシュバイク公爵家の人間になる」
“私はブラウンシュバイク公爵家の人間になる”、その言葉が部屋の中に重く響いた。誰もが重苦しい表情をしている。
「皆内乱を恐れているんです。ブラウンシュバイク公もリッテンハイム侯も内乱になれば負けると考えています。リヒテンラーデ侯も国内が乱れるのは避けたい、軍も内乱が何時起きるか判らない状況ではおちおち外征できない。皆内乱は避けたい、だから……」
だからヴァレンシュタイン中将を取り込み、事態の収拾を図った。ラインハルト様が私を見た。困惑したような表情をしている。これからどうなるのかが見えないのだろう。私も同感だ。中将がブラウンシュバイク公になる、そして貴族達が一つにまとまり始めた。貴族は怖くない、しかし貴族達には注意すべきだ。それが現実になりつつある。しかもこのままでは中将が敵になりかねない。これからどうなるのか……。
「ミューゼル提督、これから危険なのはミューゼル提督です」
「私?」
ヴァレンシュタイン中将の言葉にラインハルト様は訝しげに問い返した。中将が頷く。中将の表情は真剣だ、冗談で言っているわけではない。皆も驚いたような表情をして中将を見ている。
「貴族達はこれまで反目していました。だからミューゼル提督にもそれほど関心を払わなかった。しかしこれからは違います。一つにまとまれば当然他に敵を探す。最初に標的にされるのはミューゼル提督です」
「……」
中将は私と同じ事を考えている。これからのラインハルト様は非常に危険な立場に置かれる事になる。そして敵対する相手になるのはヴァレンシュタイン中将、いや新ブラウンシュバイク公だろう。公爵家の力、そして新公爵の力量、恐ろしい敵となるだろう。
「ミューゼル提督は陛下の寵姫の弟と言う事で周囲から反感を買っています。しかしそれ以上に貴族達は提督が何時か皇帝に反逆するのではないかと恐れているんです」
「!」
ヴァレンシュタイン中将の言葉に部屋の空気が緊迫した。皆がラインハルト様と中将を交互に見ている。
「私に協力していただけませんか、ミューゼル提督」
「……卿に協力?」
中将が妙な事を言い出した。協力? 一体何を協力しろと言うのだろう。
「国内を改革します。貴族達の権力を制限し平民達の権利を拡大する。一部の特権階級が弱者を踏みにじるような今の帝国を変えるんです」
皆が驚いて中将を見た。しかし中将は気にする事も無くラインハルト様を見ている。
「そんな事が」
「出来ます。ブラウンシュバイク公もリッテンハイム侯もリヒテンラーデ侯も反対はしません。彼らは私が帝国を変えたがっている事を知っている。そこまで決めた上で私を養子にと言ってきたんです」
「……」
有り得ない話だ、さっきまで驚いていた皆が今度は呆然と中将を見ている。もしかすると中将は彼らを信じてはいないのかもしれない。だからラインハルト様に協力を求めてきた……。有り得ない話ではないだろう。
「伯爵夫人を奪った陛下が許せませんか?」
「……」
「陛下はミューゼル提督が陛下を憎んでいる事をご存知です、簒奪の意志がある事も。その上で提督を引き立ててきた……」
「馬鹿な……」
ラインハルト様が呆然としたように言葉を出したが中将は首を振って言葉を続けた。
「本当のことです。あの方は凡庸ではない、凡庸な振りをしてきただけです。このままでは帝国は立ち行かなくなる。そう思ったからミューゼル提督に帝国の再生を委託しようとした……」
「……」
誰も声が出せない。あの凡庸と言われる皇帝が実際には違う? そんな事があるのだろうか。
「一度お二人で会ってみては如何です」
「それは」
「会って見ても損は無いと思いますよ。本当の陛下を知っておくべきだと私は思います」
ヴァレンシュタイン中将が熱心にラインハルト様を説得する。ラインハルト様はしばらく迷っていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「……会ってみよう」
■ 帝国暦486年7月12日 オーディン 新無憂宮 バラ園 ラインハルト・フォン・ミューゼル
会ってみようとは言ったがその日のうちに皇帝に会う事になるとは思わなかった。ヴァレンシュタインは時間を無駄にしなかった。俺の同意を取り付けるとすぐさまリヒテンラーデ侯に連絡を取り、皇帝との面会を取り付けたのだ。しかも非公式と言うことでバラ園で会う事になっている。
バラ園に向かうと皇帝は既に俺を待っていた。驚いた事に姉上もいる。近付いて跪き、挨拶を言おうとすると皇帝がそれを押し留めた。
「挨拶は無用じゃ、立つが良い。此処では虚飾は無用の物よ」
「はっ」
どうすべきだろう、挨拶はいらないのだろうが立って良いのだろうか。それとも此処は跪いたままでいるべきか。迷ったが姉上を見ると微かに頷くのが見えた。思い切って立ち上がった。そんな俺を見て皇帝は満足そうに笑みを浮かべて頷いている。
「そちが予に会いたいとは珍しいの、予に何を聞きたい?」
「……ヴァレンシュタイン中将がブラウンシュバイク公の養子になるとのことですが……」
俺の言葉に皇帝は黙って頷いた。傍にいる姉上が驚いたような表情で俺と皇帝を見ている。
「あの男もやるものよな、もっとも手強い敵を味方に取り込むとは。流石にブラウンシュバイク公として宮中を凌いできただけの事は有る」
「……」
フリードリヒ四世は楽しそうだ。俺はどう答えてよいか分からず黙っていた。
「そちは残念よの」
「は?」
「もっとも頼りになる味方を敵に取られた」
もっとも頼りになる味方……。確かにそうだ、多少面白くないところはあっても頼りにはなる。彼が敵に回れば厄介な事になるのも確かだ。
「予はこの帝国を再生できる人間を探していた。そしてそちを見つけた。嬉しかったぞ、ラインハルト・フォン・ミューゼル。そちならこの帝国を新しく生まれ変わらせることが出来るだろうとな」
「……」
「そちはおそらくゴールデンバウム王朝を滅ぼすであろうの」
「陛下! 弟はそのようなこと……」
「良いのじゃ、アンネローゼ。此処はバラ園じゃ、我等のほかには誰もおらぬ……」
「陛下……」
俺は黙って皇帝と姉上の会話を聞いていた。否定することよりも、俺の野心を知られていたことのほうがショックだった。確かにこの男は凡庸などではない、俺は一体何を見てきたのだろう。
「それでも良いと思っていた。帝国が生き返るのであればの」
「陛下、陛下は帝国が滅ぶとお考えでしょうか?」
恐る恐る皇帝に問いかけた。どう考えても皇帝は帝国の滅亡を前提に話をしている。本気なのだろうか。
「滅ぶであろうの、そちはそう思わぬか」
「……」
答えようが無かった。確かに帝国は混乱している。大貴族が勢力を伸ばし勢力を張り合い始めた。いずれは内乱になる。俺が皇帝になるためにはその内乱が起きる前に確固たる地位を固めなければならない。
「そちには済まぬ事をしたと思うておる。そちを引き立てながら、此処に来てそちを切り捨てるようなことをした」
「切り捨てる……」
姉上が息を呑むのが分かった。だがそんなことよりも皇帝の言葉に興味があった。俺を切り捨てるとはどういう事だろう。考えていると皇帝は俺を見て笑った。
「そちは肝心な所でまだ甘いの」
「……」
俺が甘い? 思わず言い返したくなったが堪えた。今口を開けばとんでもないことを言いそうだ。
「ヴァレンシュタインはこの国を改革するつもりじゃ。そしてブラウンシュバイク公、リッテンハイム侯、リヒテンラーデ侯、そして軍もそれを支持している。分かるか、そち以外にも帝国を再生できる人間がいると言うことじゃ」
「……」
「帝国を再生出来るのはそちかヴァレンシュタインであろう。その方らは正反対よな。そちが火なら、ヴァレンシュタインは水よ。そちは全てを焼き尽くして新たな帝国を作るに違いない。犠牲は多かろう……。だから予はヴァレンシュタインを選ぶ……、皇帝として犠牲の少ない方法を選ぶ……、済まぬ」
「……」
俺はどう言えばいいのだろう。ふざけるなと怒鳴るべきなのだろうか? だが俺が皇帝の立場ならどうしただろう……。やはり犠牲の少ない方法を選ぶのではないだろうか……。
「ヴァレンシュタインから何か言われたか?」
「……自分に協力して欲しいと」
「そうか」
皇帝は俺の答えにゆっくりと頷いた。
「ラインハルト・フォン・ミューゼル、ヴァレンシュタインに協力するのじゃ、それがそちの命を救う事になる」
「!」
俺にあの男の下に付けというのか?
「アンネローゼの事を考えよ……。そちが滅ぶ時、アンネローゼも滅ぶ事になるぞ。それで良いのか?」
「……」
俺が滅ぶとき、姉上も滅ぶ……。
「そちにローエングラム伯爵家を継がせる話じゃが」
「はっ」
「あれは撤回する」
「!」
皇帝は俺を悲しそうな眼で見た。俺を侮辱しているわけではない、となれば……。
「そちを守るためにはむしろ爵位は不要じゃ。頼むぞ、ミューゼル大将。アンネローゼを守ってやってくれ。予の寿命は持ってあと三年、遺言と思うて聞いてくれよ……」
「はっ」
「久しぶりであろう、アンネローゼと話して行くが良い」
そう言うと皇帝は俺と姉上に背を向けバラ園を去っていった。俺は去り行く皇帝の姿を見つめた。自然と頭が下がっていた……。
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