銀河英雄伝説~新たなる潮流(エーリッヒ・ヴァレンシュタイン伝)
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第二百二十六話 安らぎ
帝国暦 488年 9月 15日 オーディン ミュッケンベルガー邸 ユスティーナ・ヴァレンシュタイン
この家で夫と一緒に暮らし始めて半月が過ぎようとしている。結婚式も挙げていないけど傍に居られるだけで私は十分に幸せだ。でも彼はどうなのだろう、もしかしてこの結婚を不満に思っているのではないだろうか? 時々そう考えて不安に思うときがある。
皇帝陛下からの頼みだった。何かにつけて無理をしがちな彼を少しでも抑えて欲しい、傍で見守って欲しいと。宇宙艦隊司令長官、国政改革の推進者。どちらか一つでも激職だと思う。その両方をこなすなど無謀と言っても良い。頑健な養父でさえ心臓に病を持ったのだ。
最初は断わった。私は自分がごく平凡な女だと分かっている。彼の傍には私などより相応しい女性が居るだろう、彼を助け共に歩ける女性が。私は彼を見ているだけで良い、時々話をするだけで良い、あの人の傍に立とうとは思わない……。
“お前があの男の孤独を癒してやれるのなら良い。しかしその自信が無いのなら、あの男の事は諦めろ。それがお前のためだ、そしてあの男のためでもある”
養父の言葉を思い出す。私にはあの人の傍に居る資格は無い、だから陛下にもそう答えた。“自分はごく平凡な女です。あの方の傍に居る資格は有りません”と。
でも陛下のお考えは養父とは違った。
“平凡で良い、あれは非凡だが平凡でありたいと願っている。傍に居る妻が非凡では心が休まるまい。せめて家の中だけでもあれの望むものを与えてやろう……”
私でもあの人の役に立てるのだろうか? あの人の傍にいる事が許されるのだろうか? 縋るような思いで陛下を見た。陛下は優しく微笑んでいた。何処かあの人の笑顔に似ていると思った。
“ヴァレンシュタインを頼む”
“はい”
気がつけば私は夫との結婚を承諾していた。
キュンメル男爵邸での事件は本当に怖かった。私と養父があの人を誘き寄せる人質として利用された。自分がそんな事に利用されるなど考えた事も無かった。でもそれ以上に怖かったのはあの人が来た事だった。
何故来たのか……、帝国のためを思えば私達など見殺しにして良かったのだ。あの人の姿を見たとき私の心を支配したのは、帝国はあの人を失ってしまうという恐れとあの人が来てくれたという喜びだった。何と言う愚かさだろう……。
事件の後、養父が夫を叱っていた。国家の重臣としての自覚が無いと……。それに対し夫は自分が死んでも帝国には問題ない、歴史は変わらないと答えた。強がりではなかった、本心からそう思っているのが分った。悲しかった……。夫は何処かで自分の命を捨てている、見限っている、そうとしか思えなかった。
多分夫は帝国の進むべき道を示した事、そして帝国がその道を進む事を確信しているのだろう。だから国家の重臣としては何の不安も不満も無い。でも、分かっているのだろうか? 皆は夫と共に未来を作りたいと思っているのだ。道を示した人と共に進み、その喜びを分かち合いたいと思っている。
この屋敷に住むようになってから夫は帰宅するのが早くなったそうだ。そうフィッツシモンズ大佐が言っていた。これまで一人夜遅くまで仕事をしていたのが無くなったと喜んでいた。少しは結婚が夫の生活を良い方向に変えたのだろうか? そうであれば嬉しい。
この屋敷も雰囲気が明るくなった。養父は軍を退役して以来少し寂しそうだった。尋ねてくる人が有ってもその人が帰ってしまうと何処となく寂しそうだった。でも最近では養父と夫は良く二人で話をしている。二人とも楽しそうだ。私と夫の結婚を一番喜んでいるのは養父かもしれない。何時までもこんな穏やかな日々が続けば良いと思う。
二人の間では暗黙の決め事があるらしい。書斎で話すときは仕事の話、それ以外の話は書斎では話さない。二人が書斎に行くときは私は飲み物を二人に出して話が終わるのを待っている。
先日、養父と夫は書斎で話をしていた。飲み物を出そうとした時、たまたま二人の声が聞こえた。“イゼルローン”、そう聞こえた。紛争が起きたのはフェザーンだった。それなのにイゼルローン……。戦争になるのだろうか、今此処にある穏やかな日々が無くなってしまうのだろうか……。何時かはそんな時が来るとは思っていたけどこんなにも早く来てしまうのだろうか……。
その日の夜、思い切って夫に尋ねた。“戦争が起きるのですか”と。夫は驚いたように私を見た。訊いてはいけない事だったのか、私は慌てて書斎での会話を聞いてしまった事を話した。
怒られるかと思ったけれど夫は笑っていた。そして“当分戦争は無い、心配する事は無い”、そう言ってくれた。優しい笑顔と声だった。思わず見とれてしまった。何時までもその笑顔を見せて欲しい。私だけにとは言わないから何時までもその笑顔と声を忘れないでいて欲しい……。
帝国暦 488年 9月 25日 オーディン 宇宙艦隊司令部 エーリッヒ・ヴァレンシュタイン
一昨日、ラインハルトが死んだ。ラインハルトだけじゃない、アンネローゼ、キルヒアイス、オーベルシュタイン、内乱に乗じ簒奪を企んだとして皆死を賜った。ラインハルトとアンネローゼは自裁を許され毒酒を呷った。だがキルヒアイスとオーベルシュタインは銃殺だった。
刑が執行される前日、オーベルシュタインと会った。彼に劣悪遺伝子排除法が廃法になる事を伝えた。多分既に知っていただろう、だがどうしても皇帝がそう決めたのだと俺の口から伝えたかった。
オーベルシュタインはそれを聞いても何の反応も示さなかった。無愛想な奴だと思ったが不満には思わなかった。元々返事など期待してはいない、ただ伝えたかっただけだ。面会は五分と経たずに終わった。
ラインハルトには会わなかった。会っても話す事が無いのだ、会う必要は無いと思った。だが彼が死んでから会うべきだったと思うようになった。俺には話す事は無くても向こうには有ったかもしれない。
怒声かもしれない、恨み言かもしれない、それでも俺はラインハルトに会って話を聞くべきだったのだろう。それが出来なかったのは多分会うのが怖かったからだ、だから無意識に避けた……。情けない話だ、一生後悔するに違いない。
義父には俺からラインハルトの死を伝えた。義父はしばらく無言だったが“あまり気にかけるな、やむを得ぬ事だ”と言った。どうやら俺の事を気遣ってくれたらしい、有り難い事だ。義父が居なければ、俺は落ち込む一方だっただろう。そんな暇は無いというのに……。
そろそろ艦隊司令官達も帰って来る。フェルナーも後十日もすればイゼルローン要塞に着くだろう。忙しくなるだろうな、帝国も同盟も忙しくなる。同盟がどう反応するか。特にトリューニヒト、あの男がどう考えるか……。
捕虜交換も具体的に詰めなければならない。此処まではフェザーン経由でやっていたが、ここからは軍が行なうべきだろう。エーレンベルク元帥に頼むべきだな。軍務省でタスクチームを作ってもらい、場合によってはイゼルローンに行って向こうと調整してもらうことになるだろう。
宇宙暦 797年 10月 5日 イゼルローン回廊 戦艦ユリシーズ ニルソン中佐
此処最近イゼルローン回廊は平穏だ。一時期、帝国の内乱が終結した直後は亡命者というお客さんがぞろぞろやってきたが今はそういうことも無い。今帝国と同盟のホットスポットはフェザーンだ。イゼルローン回廊は以前ほど宇宙の注目を集めてはいない。
注目を集めてはいないが油断していいということではない。戦艦ユリシーズは現在イゼルローン回廊を単艦で哨戒中だ。上からは“敵を発見してもみだりに戦端を開くな。後退してそのむねを要塞に報告しろ”と命令されているが、一隻では先ず戦闘は出来ないだろう。嫌でも命令に従う事になる。
捕虜交換を前に紛争は起せない、上層部はそう考えているようだ。これは軍というより政府の方針なのだろう。今のままでは同盟の戦力は著しく見劣りがする、捕虜交換を行い軍を再編し持久体制を整える。今は体力を回復する時期というわけだ。こちらから帝国に攻め込めない以上正しい選択だろう。
先日起きたフェザーンでの紛争はイゼルローンでも大騒ぎになった。明らかに同盟に非があり、帝国はそれを理由に攻めてくるのではないかとイゼルローン要塞では緊張が走った。当然だが捕虜交換など吹き飛ぶだろうと……。
最終的に戦争は回避され、捕虜交換が行われる事が確認された。どうやら捕虜交換を優先させたいのは同盟だけではないらしい、帝国も同じ思いのようだ。内乱での戦力消耗が意外に大きかったのかもしれない。その所為かもしれないが此処最近の哨戒活動は至って平穏だ。
カタッと音がした。音がしたほうに眼をやると先程まで寛いでコーヒーを飲んでいたオペレータが真剣な表情で計器を見ている。音はコーヒーカップを操作卓に置く音か……。どうやら何かが起きたようだ。
「艦長、前方に未確認艦船を発見! 規模、約三百隻です!」
未確認艦船か……、おそらくは敵だろうが三百? 哨戒部隊か?
「現在この宙域に味方の艦船はいるか?」
「いえ、一隻もいません」
オペレータが俺の問いに答えた。その答えに艦内が緊張する。
「では敵だな、単純な引き算だ。全員、第一級臨戦態勢をとれ!」
「戦うのですか?」
「それは無い、本艦は後退する、急げ!」
フェザーンの件がある、オペレータは心配しているのだろうが臨戦態勢は念のためだ。
「艦長、敵艦から通信です」
「通信?」
通信士官が小首をかしげながらプレートを俺に渡した。
“吾に交戦の意志なし。願わくば話し合いに応ぜられん事を”
話し合いか……。亡命者か? しかし三百隻だ、亡命にしては多すぎる。
「妙ですな、亡命者にしては多すぎるような気がしますが」
俺と同じ疑問をエダ副長は感じたらしい。腕を組んで考え込んでいる。
「まあ、詮索は後だ。臨戦態勢は解くな、あちらさんに機関を停止し、通信スクリーンを開くように伝えろ」
向こうのほうが戦力は大きい、本当に話し合いを望むのなら機関停止に応じるだろう、そうでなければさっさと逃げるだけだ。
宇宙暦 797年 10月 5日 イゼルローン要塞 ジャン・ロベール・ラップ
会議室には幹部たちが集合している。帝国軍がこの要塞を保持していたときは要塞司令部と艦隊司令部がいつも角突き合わせて喧嘩別れに終わったという会議室だ。ムライ参謀長はヤンがこの会議室を使うのは皆に協力させる事の重要さを認識させるためだろうと言っているが俺はそうは思わない。ただ面倒なだけだろう。
「もう知っているだろうと思うが、哨戒活動中の戦艦ユリシーズが帝国軍の艦隊と接触した。向こうのフェルナー准将という人物が私との会談を求めている」
ヤンの言葉に皆が顔を見合わせた。
「提督との会談ですか、一体何の話か、ニルソン中佐は訊いていないのですか」
「確認したが、フェルナー准将は極秘だと言って答えなかったそうだ」
ムライ参謀長とヤンが話している。参謀長は不満そうな表情だ。当然だろう、用件も分らずに会わせる事は危険だ。
「そのフェルナー准将という人物は何者です?」
「詳しい事は分からない、しかし彼を此処へ寄越したのはヴァレンシュタイン司令長官らしい」
ヴァレンシュタイン……。その名前に皆が不安そうな表情を見せた。厄介な相手だ、同盟軍にとって最大の脅威と言われる相手がヤンに話を持ってきた。
「危険では有りませんか? そのフェルナー准将という人物が暗殺者だという事もありえる。第一、同盟がイゼルローン要塞を攻略したのは敵の司令官を捕虜にし司令部を抑えた事が原因です。今度はあちらさんが同じことを考えても可笑しくは無い」
アッテンボローの言葉にシェーンコップ准将がニヤリと笑った。それをムライ参謀長が不機嫌そうな表情で睨む。また始まった、いつもの事だ。
「まあ大丈夫だろう。今の帝国は国内の体制を整える事を優先させているようだ。少なくとも捕虜交換を実施するまでは攻勢をかけてくる事は無いと私は考えている」
ヤンの言葉に皆が頷いた。ムライ参謀長も反論はしない。ヤンの判断が下されるまでは色々と意見を言うが下された後は従う。これもいつもの事だ。
「アッテンボロー少将、彼らを迎えにいってくれ。三百隻ものお客さんだ、ユリシーズ一隻ではニルソン中佐も不安だろう」
「はっ」
五時間後、イゼルローン要塞の外には帝国軍の三百隻、それを監視するアッテンボロー率いる二千二百隻がいた。司令室のスクリーンには帝国軍三百隻の中から一隻の連絡艇がイゼルローン要塞に向かって進むのが見える。もし帝国軍がこちらを騙したときはあの三百隻は一隻残らずアッテンボローに殲滅されるだろう。
「帝国軍の艦艇は全て新造艦です」
オペレータが驚いたような声を出した。確かに妙だ、わざわざ新造艦をこちらに見せるのは何故だ。思わずヤンを見た。俺だけじゃない、皆がヤンを見ている。
「よっぽど大事な使者らしいね」
なるほど、そういうことか。
連絡艇が入港し、一人の帝国軍人が司令室に現れた。どうやらこの男がフェルナー准将らしい。シャープな印象を与えるが何処となく油断できない不敵さが漂う。どこかシェーンコップ准将に似ているだろう。
「アントン・フェルナー准将です」
「ヤン・ウェンリーです。私に話があるとのことだが」
「ヴァレンシュタイン司令長官から直接ヤン提督に話すようにと言われています。これは提督への親書です」
そう言うとフェルナー准将は懐から封筒を出した。グリーンヒル大尉が受け取りヤンに渡す。ヤンが読み始めるのを見ながらキャゼルヌ先輩が口を開いた。
「話は此処ですれば良いだろう、我々も聞かせてもらう」
「残念ですがそれは出来ません。ヴァレンシュタイン司令長官からはヤン提督だけに話すようにといわれている」
「しかし」
「キャゼルヌ少将、フェルナー准将の話は私だけが聞く。准将、付いて来てくれ、私の部屋で話そう」
そう言うとヤンは司令室を出た。表情が厳しい、どうやら親書には重要な事が書かれていたようだ。ヤンの後をフェルナー准将がシェーンコップ准将が追う。シェーンコップ准将は護衛のつもりだろう。
二時間後、フェルナー准将はイゼルローン要塞を去った。何事も無く終わった事にほっとしたが、准将を見送るヤンの表情は厳しかった。シェーンコップ准将に尋ねたが、彼も会談には参加できなかったらしい。司令官室の外で控えていたそうだ。一体帝国からの話とは何だったのか? 皆がヤンに物問いたげな視線を向けたがヤンは答えなかった。
宇宙暦 797年 10月 6日 ハイネセン 統合作戦本部 ジョアン・レベロ
統合作戦本部の応接室に呼ばれた。しかも夜の十時に極秘に集まれとのことだった。トリューニヒトからの要請だったがそれ以外は何も分からない。応接室には既にトリューニヒト、ホアン、ネグロポンティ、ボロディン、ビュコック、グリーンヒルの六名が、私を入れて七名が集まっている。
「ボロディン本部長、そろそろ始めよう。私達をこの時間に呼び出したのは何故かね」
トリューニヒトがボロディンに話しかけた。どうやら今回の集合は軍の要請だったらしい。
「以前、フェザーンには裏の支配者がいるのではないかと話した事が有ります」
「うむ、分ったのかね。それが」
「分ったというか、何というか……」
ボロディン本部長の歯切れは悪い。かなり困惑している。会議を招集したのは彼のはずだ、それなのにこれはどういうことだ。彼だけではない、ビュコックもグリーンヒルも困惑したような表情をしている。どういうことだ? トリューニヒトも不審そうに彼らを見ている。
「我々がフェザーンに不審を持ったように帝国でもフェザーンに不審を持った人物がいます」
「……」
「エーリッヒ・ヴァレンシュタイン元帥。彼は密かに使者をイゼルローンに派遣しました。そしてフェザーンの裏の支配者についての自分の推論をヤン提督に知らせたのです」
「では今回の会議の招集は君ではなくヤン提督の依頼かね」
「正確にはヴァレンシュタイン元帥の依頼です、議長。彼はヤン提督に政府、軍上層部に知らせて欲しいと頼んだそうです」
妙な話だ、帝国が同盟にフェザーンの裏の支配者について知らせてきた。普通に考えれば謀略だろう、そうでないならかなりフェザーンの裏の支配者について危機感を持っているということか……。
「それで、ヴァレンシュタイン元帥はなんと言っているのだね」
「それが……」
ボロディンが一瞬言葉に詰まったが、意を決したように口を開いた。
「フェザーンの裏の支配者は地球だと言っています」
トリューニヒト、ホアン、ネグロポンティ、皆がポカンとした表情をしている。おそらく私もそうだろう。地球? それがフェザーンの裏の支配者? 一体何の冗談だ?
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