日本では一度、開業を経験をしている。
保健所への登録が必要なので、何度も足を運んで相談し、開設の届出をした。
税務署にも開業届を出し、そのほか備品を揃えたり、事業計画を持って銀行へ融資の相談にいったりと、一通りのことはやっている。
しかしここは異世界。しかも魔族の国である。
昨日飛ばされて来たばかりなので、ぼくはこの国のことをよく知らない。
当然、何をすればよいのかわからない。
資金についてはこのような話を振ってくる以上、ルーカスが出してくれそうな感じはあるが……。
ここでは前例がないことをやっていく大変さもあるだろうし、ぼくが人間であることも大きな障壁になりそうな気もする。
今は想像するしかないが、一筋縄ではいかないはずだ。
それでもルーカスが急いでの開業を勧める『事情』。
それは何なのだろうか。
「で、その『事情』とは……?」
ぼくはルーカスにその中身を聞いた。
なお、いま目の前の応接間のテーブルには、カップスープが置かれている。
最近人間の国で開発されたというものだ。ルーカスはこれが大変好みらしい。
メイド長が持ってくる時にわざわざ説明してくれていた。
魔国は大陸の南西側なのでかなり離れていることになるが、大陸の南東に小さな島国があるのだそうだ。
そこはドワーフの国であり、魔族に対しても人間に対しても中立らしい。
ルーカスはそこを通してスープの製法を入手したとか。
コーンの良いニオイがする。
まあ、これが置かれている時点で話が長くなるというニオイもするわけだが。
「実は……魔国はこのまま行くと近い将来、人間に滅ぼされそうでな。お前にこの国の力になって欲しいのだ」
「は?」
もっと軽い話かと思っていたので、驚いた。
「ネタじゃなくて?」
「ああ、本当だ」
「フフ。ルーカス様は嘘をつきませんのよ」
「そうだ。人間の国でも『コメディアン嘘つかない』と言うだろう」
メイド長がサッとメモを取る。ルーカス人間語録に加えるつもりだろう。
思いっきり間違っているので、後で訂正するよう伝えておいたほうがよいかもしれない。
いや、そんなことは今はどうでもいい。
それよりも、魔国の置かれている状況について詳しく知りたい。
ぼくは詳しい説明をルーカスに求めた。
彼はそれを受け、
「ではまず魔国の歴史から話そうか」
と、自称簡単に魔国の歴史を語り始めた。
大幅に省略すると次のようになる。
このクロ―シア大陸では、魔国の歴史は人間の国に比べると浅い。
人間の歴史については、文明の発祥までさかのぼると、それこそ万年単位で昔となる。
国らしきものを作るようになったのも、五千年くらいは前である。
一方、魔国の歴史はせいぜい二千年程度しかない。
魔族自体はもっと昔からいたかもしれないが、なぜか人間側にも文献が残っていないので、その起源などは明らかではない。
はっきりしていることは、二千年前に魔族の単一種族国家である魔国が建国され、永らく大陸の西側三分の一を支配下に置いていた、ということである。
そして、人間の国と魔国が戦争をするようになったのは、今から三十年前。
魔国は開戦以来十八連敗を喫しており、恐るべきスピードで領土が縮小。
現在は大陸南西の不毛な地を中心として、大陸全土の五分の一程度の版図となっている。
「どうだ? 理解できたか、マコト」
「うん。だいたいわかった」
「そうか、それはよかった」
「でもルーカスを見てると全然危機感がないように見えるけど」
「ふははは。危機感はあるぞ? ただ、現実は現実として、受け止めなければならないからな」
「ルーカス様はポジティブなのですよ」
あまり軍の参謀らしい感じがないが、まあネガティブよりはマシだろうと思うことにした。
「で、国の状況はわかったけど、それとぼくが開業することに、どんなつながりがあるの?」
「うむ。私は敗戦続きということ自体はそこまで気にしてはいないが――」
「いや気にしたほうがいいよね」
「ふふふ、まだまだ人間研究が甘いな、マコトよ。私が愛読している人間の書物によれば、外圧だけですぐに国が滅ぶということはありえないのだ」
「そうなの?」
ルーカスは「そうだ」と言って話を続ける。
「だが、落ち目になってくると、国全体の心が荒んでくる。そうなると内部でよからぬことが沢山発生してくることになるのだ。内輪もめがそのよい例だな」
「なるほど」
「書物には、心が荒んで発生する諸問題がきっかけとなって滅亡が加速するということは十分にありえる、と書かれている。そこで、お前に体と心を診てもらい、これ以上国が沈みこまないようにしたいというわけだ」
そういうことだったのか。
まず一人の人間として、ここまで評価されているのは嬉しいことではある。
そして、だ。
ルーカスは「体と心」という表現をしている。
これは、マッサージが体だけではなく、心のケアになるということも認めてくれていることになる。
マッサージは肉体面だけでなく、精神面にも効果があるとされている。
具体的には、脳内にセロトニンやドーパミン等の神経伝達物質が増加し、精神的な疲れが癒えたり、物事を前向きに考えたりすることができるようになると言われているのだ。
一回の施術でルーカスがそこまで感じ取ってくれたというのは、一施術者としてもこの上ない喜びである。
「うん。だいたい事情はわかったよ」
「そうか、さすが私の奴隷だ。理解が早い」
「さすがですわ」
この開業話、前向きに話を進めていきたいと思った。
だが、懸念していることについてはここで伝えておくべきだろう、とも思った。
「ええと、事情はわかったし、やってみたいとも思うんだけど。心配なこともあるね」
「心配なこと?」
「うん。ぼく、人間だけど。それは開業する際にマイナス要因にはならないの?」
「ふふ。なるどころか、特に説明なくマコトがこの屋敷から外に出たら、すぐに殺されるだろうな」
「だからさ。そういうのって笑いごとじゃないでしょ……」
「まあ、心配だというのはよくわかる」
「まだ死にたくないからね」
「ふふふ。そのあたりの社会的な問題はすべて私がなんとかする。任せるがよい」
「大丈夫かなあ」
「大丈夫だ。さっそく明日ここを出発してお前に王都を見てもらおう」
……え?
「いやいや。出たら殺されるって今言ったばかりじゃないの。なのに何も手を打たないまま、いきなり明日出発って」
「私がなんとかする。安心するがよいぞ」
もう嫌な予感しかしない。