舞台裏
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第六章
「これで」
「そうだ。ではな」
「今からなこいつを連れて行く」
その酔い潰れているママを見下ろしての言葉だった。そしてだ。
ママの襟首を掴んでだ。車に乗せてその街の外れの肥溜のところまで行き。
ママの巨体をそこに放り込んでマネージャーに写真を撮らせた。そしてだ。
写真を劇場の門のところに飾らせた。こうしてママもその下のカモラの者達も劇場に近寄れない様にした。同時にこの街でのカモラの裏の世界での権威も地に落とした。
こうしてシャリアピンは歌劇場へのカモラのたかりを終わらせた。それから歌劇場は平和になった。
このことについてだ。テノール歌手はこう彼に問うたのだった。
「また随分と思い切ったことをされましたね」
「相手を酔い潰したことだね」
「はい、それです」
ナポリの海が見えるレストランでシャリアピンのマネージャーを入れて三人でパスタを食いワインを飲みながらだ。テノール歌手は彼に言ったのである。
「それからああするなんて」
「まあ詳しい話は食事中だから今は」
「しないですけれどね。しかし」
「思い切っていたか」
「そう思います」
ラザニアを食べながらだ。テノール歌手は言うのだった。
「下手をすれば本当に」
「私が酔い潰れていたというんだね」
「はい、あのママは本当に酒が強いんですよ」
このことをだ。彼は言うのだった。
「もうね。底なしで」
「確かにしぶとかったな」
「それを御存知だったかどうかは知らないけれど」
「いや、知らなかった」
シャリアピンもだ。そのチーズとトマトがたっぷりあるラザニアを銀色のスプーンで食べながらだ。そのうえでテノール歌手に対して答えたのだった。
「そのことはな」
「では」
「いや、酒なら私が勝っていた」
「絶対にですか」
「普通のゴロツキなら殴り飛ばして劇場からつまみ出していた」
そうした相手ならばだ。そうしていたというのだ。
「しかしだ。相手がああした場合はな」
「カモラのママならですね」
「殴り飛ばして終わりではないからな。だからな」
「酔い潰して恥をかかせてですね」
「そうしたんだよ」
やはり具体的には何をしたのかはあえて言わないのだった。理由は簡単で食事中だからだ。食事中にしていい話では絶対にないからである。
「ああしてね」
「その酔い潰したことですよ」
「それが思い切っていると」
「本当に酒の強い相手ですからな」
「確かにあの男は酒はかなり強かったな」
「ええ」
「だがそれでもな」
どうかとだ。シャリアピンはそのワインを一杯一気に飲んでからだ。
そしてだ。こう言うのだった。
「私はもっと強いからな」
「お酒がですか」
「そうだ。ワインなら全く酔わない」
そうだというのだ。自信に満ちた声で。
「絶対にな」
「ワインならですか」
「ロシアではいつもウォッカだった」
ロシア名物とも言っていいだ。その酒をだというのだ。
「それこそワインと比べるとな」
「ああ、ウォッカなら」
「ウォッカのことは知っているね」
「あれはもうアルコールですよ」
そこまで達しているとだ。テノール歌手は驚いた様な顔でシャリアピンに答えた。
「そうそう飲めたものじゃないですよ」
「しかし私は。ロシア人はいつも飲んでいるからな」
「だからですか」
「ワインでは酔わない」
それこそだ。幾ら飲んでもだというのだ。
「全くな。それでどうということはなかった」
「そうだったんですか」
「向こうも馬鹿だ。酒で私には勝てないよ」
楽しげな笑みさえ浮かべながらだ。シャリアピンは言った。そしてだ。
そのワインをまた一口飲んでだ。マネージャーに言った。
「また一本飲むか」
「そうですね。では」
「ワインは美味いのだがな」
それでもだとだ。シャリアピンは苦笑いで言ったのだった。
「しかしどうしてもな」
「そうですね。弱いですよね」
「水を飲んでいる感じだな」
彼にしてみればだ。そうだというのだ。そしてそれはマネージャーにしても同じだった。
それで二人で少しぼやきながらワインを飲んでいく。その二人を見てだ。
テノール歌手は唸りながらだ。こう言うのだった。
「お酒でも貴方には勝てないみたいですね」
「酒でも?」
「はい。歌でも舞台の姿でも人格でも」
そうしただ。あらゆるものでだと述べてからだった。
「脱帽しましたしそれに」
「その酒でもか」
「参りました。ですがそれでも」
シャリアピンのその泰然とした顔を見つつだ。そのうえでの言葉だった。
「貴方を目指しますよ。絶対にな」
「私はバスで君はテノールでまた違うが」
「それでもです。目指させてもらいます」
微笑んでだ。シャリアピンに言ったのだった。
この若い歌手は後に世界的なテノールとなってその名を残る。ベニャミーノ=ジーリの若き日の話だ。だが彼とシャリアピンのこの話を知る者は少ない。だが面白い話であるのでここに紹介したい。二人の偉大な名歌手の逸話を。
舞台裏 完
2012・3・2
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