銀河英雄伝説~新たなる潮流(エーリッヒ・ヴァレンシュタイン伝)
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第百三十話 闇に蠢く者
帝国暦 487年9月 30日 オーディン 宇宙艦隊司令部 ウルリッヒ・ケスラー
「先程の質問に答えましょう。オーベルシュタイン准将の持つ毒。それは呪いです。全てを否定し、全てを滅ぼそうとする呪い。彼は危険すぎるんです……」
ヴァレンシュタイン元帥はそう言うと何かに耐えるかのように眼を閉じた……。
元帥の睫毛が微かに震え、若々しい線の細い顔立ちに疲労の色があらわになった。元帥は疲れている、そして重圧に苦しんでいる。未だ二十二歳の若者なのだ。だが、彼が負う責任は彼が二十二歳に甘んじる事を許さない。
「元帥、オーベルシュタインが危険なことは分かりました。であれば、なおさらローエングラム伯をこのままにしておくことが得策とは思えません。何らかの手を打つべきではありませんか」
元帥は目を開いて私を見た、そして直ぐ眼を逸らした。私は酷い事を、惨い事を言っているのかもしれない。元帥の耳には私がローエングラム伯とオーベルシュタインを排除しろと言っているように聞こえるだろう。
「……」
「閣下はキスリング准将にローエングラム伯は心配無いと仰ったそうですが、本当にそうお考えですか?」
私の言葉に元帥が溜息をついた。私を一瞬見て視線を逸らす。そして困惑したような口調で話し始めた。
「正直に言うと、自信が有りません。ギュンターと話したときは大丈夫だと思っていました。ですが、愚かにも私はある事を見落としていたようです」
「!」
見落としていた……、この人が見落とす、そんな事が有るのだろうか、いや、一体何を見落としたというのだろう。
「ケスラー提督、オーベルシュタイン准将が私の出征中、密かに社会秩序維持局に接触したことを聞きましたか?」
「はい、陛下の健康問題を確認したと」
元帥は私の言葉に頷き、静かな口調で話し始めた。
「私は彼が陛下の健康問題を確認したのは陛下の死が間近いのであれば、それを利用してローエングラム伯の地位を高めようとしたのだと思いました」
「?」
どういうことだ? あの時点で陛下が亡くなれば国内は混乱しただろう。反乱軍が目の前に迫っているのだ。それがローエングラム伯の利益に繋がる?
「陛下が亡くなれば、その瞬間に謀反の罪をブラウンシュバイク公、リッテンハイム侯に着せ処断します」
「閣下、そんなことをすればオーディンは混乱します」
その瞬間、元帥は口元に薄っすらと笑いを浮かべた。
「ええ、それこそがオーベルシュタイン准将の狙いでしょう」
「?」
「オーディンが混乱すれば、ローエングラム伯は艦隊を動かす事が出来ません」
「……まさか、そういうことですか?」
思わず語尾が震えた。そんな私に元帥は笑いを浮かべながら頷いた。
「ええ、反乱軍がオーディンに近づいてくる以上、足止めが必要です。その役目は私が行なう事になったでしょう。五個艦隊で九個艦隊を相手にすることになります」
「……」
「私が率いる五個艦隊は戦力を磨り潰したでしょうね、その後にローエングラム伯の率いる本隊が敵を叩き潰す」
「……」
一瞬だが沈黙が落ちた。私と元帥は静かに視線を交わす。元帥が微かに頷いた。
「ローエングラム伯はオーディンの混乱を鎮め、反乱軍を打ち破った英雄としてその地位を確立する事が出来るでしょう。一方私は戦力を磨り潰し見る影も無い状態になっている。場合によっては戦死していたかもしれない」
淡々と元帥の声が流れる。なんというおぞましい話だろう。有り得ないとは言えない、オーベルシュタインにとって元帥は相容れない存在だ。あの男がそれを考えたとすれば、確かにオーベルシュタインは毒だ。敵だけではなく味方も傷つけ殺す陰惨な毒。
嫌悪を振り払うように頭を振った私に元帥の声が聞こえてきた。
「でも、本当はそうではなかったのかもしれません」
「それは、どういうことです?」
思わず私は元帥を見た。元帥は少し戸惑ったような表情で言葉を続けた。
「もしかするとオーベルシュタイン准将は、陛下が何時亡くなるかではなく、何時まで生きているかを確認したのかもしれない……」
「……」
何時まで生きているか、どういうことだろう。
「今日、宮中で陛下に拝謁したとき思いました。御元気になられた、陛下は私の予想よりずっと長生きをされるかもしれないと」
「それは、小官も同感ですが」
私の言葉に元帥は柔らかく微笑んだ。
「そうなると、グリューネワルト伯爵夫人はずっと後宮に居る事になりますね」
「!」
思わず私は元帥の顔を見た。元帥も私を見ている。元帥の顔からは微笑みは消えていた、視線も先程までの静かな視線ではない。強く厳しい視線だ。
「私は、どうすれば反乱軍を退け、国内問題を解決できるかを考えていました。オーベルシュタイン准将は、どうすればローエングラム伯を覇者に出来るか、それを考え続けていた」
「……」
「彼にとって大事なのは、どうやって自分の思うようにローエングラム伯を動かすか、です」
「その鍵が、グリューネワルト伯爵夫人ですか」
元帥は静かに首を縦に動かした。
「このままでは、ローエングラム伯は覇者になれない。そして、グリューネワルト伯爵夫人も宮中に居続けることになる。それを止めるためには……」
それを止めるためには……、簡単なことだ。元帥を殺す、それしかない。思わず溜息が出た。元帥も同じように溜息を吐く。
陛下が存命である限り、グリューネワルト伯爵夫人は後宮に居るだろう。元帥が生きている限りローエングラム伯は頂点に立てない。頂点に立てなければ陛下からグリューネワルト伯爵夫人を取り返せない。
「私はローエングラム伯は暗殺といった手段は取らないと思っていました。彼は私を超えたいと思ってはいても、殺したいとは思っていない、そう考えていたんです。だから心配は要らないと」
「……」
「しかし、グリューネワルト伯爵夫人が絡めば話は変わる。あの二人の伯爵夫人への執着は普通ではない、そうは思いませんか?」
「確かに」
確かに元帥の言う通りだ。ローエングラム伯、ジークフリード・キルヒアイス准将、あの二人のグリューネワルト伯爵夫人への執着は尋常ではない。結局、その執着が元帥とローエングラム伯の決裂を決定した。
ローエングラム伯もジークフリード・キルヒアイス准将も伯爵夫人に対して罪悪感を抱いているのだろう。伯爵夫人を犠牲にすることによって、自分達が栄達する事になったと。伯爵夫人の犠牲の上に自分たちの栄達があると。
弱いから姉を後宮に連れ去られた。弱いから伯爵夫人を解放できない。あの二人にとって伯爵夫人が後宮に居る事は自分たちの弱さの証明でしかない。あの二人が武勲に出世に拘ったのはそれが原因だろう。少しでも早く強くなり姉を解放する……。
オーベルシュタインがあの二人のそんな想いに気付かないとは思えない。彼があの二人の耳に何を吹き込むか……。
ヴァレンシュタイン元帥が居る限り伯爵夫人が解放される日は来ない……。この内乱を機に元帥を暗殺し、軍の実権を握る。そうすれば伯爵夫人を解放できる、ローエングラム伯の皇帝への道も開ける……。
耐えられるだろうか、その誘惑に。ローエングラム伯、キルヒアイス准将は耐えられるだろうか。日々健康になっていくように見える陛下と日々その地位を磐石な物にしていくヴァレンシュタイン元帥……。
「元帥閣下、やはりここは……」
「ケスラー提督、未だ時間は有ります。今ここで決めなくてもいいでしょう。私も多少、考えている事があります」
「元帥閣下、何故ローエングラム伯を庇うのです。前から不思議に思っていたのですが」
「庇ってなどいませんよ」
元帥は苦笑とともに言葉を出した。元帥は昔からローエングラム伯に好意的だった。周りから見てもおかしなくらい好意的だったと思う。あの事件で決裂しても、決定的に対立する事を避けてきたように見える。
元帥ならいつでもローエングラム伯を排斥できたはずだ。だが、私が知る限り元帥がローエングラム伯を排斥しようとしたのは一度だけだ。それも一瞬の事で、私のほかに知るものはロイエンタール提督だけだろう。
イゼルローン要塞失陥の責めを負わせて軍から追放することも出来ただろう。しかし現実には、元帥の口添えにより宇宙艦隊副司令長官に就任している。ローエングラム伯に遠慮しているとしか思えない。
私が納得していない事に気付いたのだろう。元帥は苦笑したまま言葉を続けた。
「まあ、ずっと見てきましたからね。それなりに想い入れは有ります」
「ずっとですか」
「ええ、ずっとです」
不思議な表情だった。遠くを見るような、何かを思い出すような、何処か切なく、哀しい表情。それなのに口元には微かに笑みがある。一体二人には何が有るのだろう。
どのくらい時間が経ったのだろう。元帥が私を見た。先ほどまでの不思議な表情は無い、何処か笑い出しそうな、おかしそうな表情をしている。
「ケスラー提督、私を騙しましたね。皇帝の闇の左手は解散していないでしょう」
そう言うと元帥は耐えられないように笑い出した。
「元帥閣下……」
「嘘は無しですよ、一度騙したんです、もう十分でしょう」
とうとうばれたか、思わず苦笑が出た。
「やはり宮中での御落胤騒動が原因ですか」
「軍務尚書も統帥本部総長も不思議そうな顔をしていました。憲兵隊も情報部もお二人の命令で動いていないということです。にも関わらず陛下はブラウンシュバイク公達の動きを知っていた。そしてケスラー提督が私のところに来た。逆効果ですね」
逆効果か、確かにそうだ。どうやら思いのほかに焦っていたらしい。陛下から事の顛末をTV電話で聞いたとき、こちらも笑わせて貰ったが、どう考えても元帥が疑いを持つだろうと思った。何とか元帥の疑惑を逸らそうとしたのだが、彼にとってはむしろ確証を得たようなものか……。
「解散を決定したのは事実です。その準備もしました。ですが事情が変わって存続する事になったのです」
「というと」
「元帥閣下が小官をローエングラム伯の参謀長に推薦した事が原因です」
「?」
元帥は訝しげな表情をした。
「実は小官がグリンメルスハウゼン子爵の後を継いで皇帝の闇の左手を率いる事になっていました」
「それで?」
「当初、グリンメルスハウゼン子爵の死後も小官はオーディンにいる予定でした。ところが、当時憲兵隊にいた小官を快く思わない有力者がいました。彼らの意向によって小官は辺境星域に行く事になったのです」
「……」
「もし小官が辺境星域に行っていたら、いえ行くはずだったのですが、そうなると統率者がオーディンに居ない事になります」
「なるほど、それは少々不便でしょうね……」
元帥は軽く頷きながら答えた。
「はい、しかし、だからといって無理に小官をオーディンに置こうとすると不自然な人事に誰かが気付くかもしれません」
「……」
「陛下も当時はあまり政治に関心をお持ちではありませんでした。それで面倒だと仰って解散することになったのです」
「ところが私がケスラー提督をローエングラム伯の参謀長に推薦した。つまり統率者がオーディンに居る事になった」
「そうです。それで解散は急遽取り止めになったのです」
元帥は苦笑している。あの時元帥は純粋に好意からローエングラム伯の参謀長に私を推薦した。まさかその事が闇の左手の存続に繋がるとは思わなかったのだろう。
「閣下に関する文書も一度廃棄されました。あの文書の内容を知っていたのはグリンメルスハウゼン子爵と陛下だけです。そして陛下から改めて調査の命が下りました」
「ブラウンシュバイク公が調べていたからですね。あの馬鹿げた噂を」
元帥は苦笑をさらに深め、私に問いかけた。
「そうです。ブラウンシュバイク公は元帥閣下と陛下の血縁関係を疑っていました。我々も調べましたが結局判りませんでした。あれは本当なのですか?」
「まさか、嘘ですよ、そんな事は。私はエーリッヒ・ヴァレンシュタインです。それ以外のものではありません」
元帥はとうとう笑い出した。どうやら本当に嘘のようだ。少なくとも元帥は嘘だと思っている。
「もう一つ、元帥閣下を欺いていた事があります」
「……ギュンターの事ですか」
「御分かりでしたか。閣下の仰るとおり、ギュンター・キスリングは闇の左手です」
「ギュンター・キスリングがアントンとオーベルシュタインの接触に気付かなかったのは、例の馬鹿げた噂の調査に気を取られたからでは有りませんか?」
私が頷くと元帥は笑いを収め真面目な顔になった。
「どうやら、私の周りには油断も隙も無い人たちが集まっているようですね。やれやれですよ、だんだん性格が悪くなっていくようです」
肩をすくめてそう言うと元帥はまた笑い出した。元帥の言葉に苦笑しながら、ふと思った。元帥は何処かで騙される事を望んでいたのではないか、楽しんでいるのではないかと。そう思うくらい元帥の笑い声は明るかった……。
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