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世界最年少のプロゲーマーが女性の世界に

作者:友人K
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17話


 ―――さて、たっちゃん先輩に簪さんの話題を持ち出してもいいのか?

 自室の机でノートを開き、右手の掌の上でシャープペンシルを弄びながら鬼一は1人考える。部屋の明かりは最低限に抑えられており、机の上のライトとサブの電灯しかついていないため部屋は薄暗い。部屋を暗くするのは、考え事があるときの鬼一の無意識の癖だ。

 今まで楯無は鬼一に対して色んなバリエーションに富んだ話題を提供してきたが、そこには1回たりとも家族に関する話題が出てこなかった。自身の家族についての話題を出さないというのは、鬼一からすれば2つの考え方が存在する。即ち、

 家族を心底どうでもいいと思っている。
 なによりも大切だから、触れられたくない思いが、感情が眠っているから話さない。

 前者なら特に気にせずに話すことが出来るが、後者なのであれば楯無の心に土足で入り込みかねない。それは鬼一にとって避けなければならないことでもある。自身だって他者に踏み入られたくない。鬼一は家族のことを話したくないし『考えたくない』。初日だけ家族のことに触れたが、それは鬼一が自分から話したことだ。

 時刻は夜8時を回った所。

 部屋には鬼一がいるが同室者の楯無の姿はない。帰りが遅くなる、という内容のメールが携帯電話に入っていたからだ。

 シャープペンシルをノートの上に放り投げて、空いた右手でパソコンの電源を立ち上げる。

 更識 簪に対して鬼一は少々変わった印象を抱いている。一言で言うなら『自信』がない、ないように見えた。同時に思いつめたような、何かに追い詰められているような焦燥感が見て取れた。それが何から来ているのかまではいくらなんでも分からないが。

 そして、姉である更識 楯無とはまったく似ていないとさえ思った。楯無は明るく気さくな印象があり、簪は内気で静かな印象がある。そして簪には人を遠ざける、近寄らせない雰囲気があった。相手が鬼一でなければすぐに姿を消していただろう。

 電源が立ち上がったパソコンを操作して、日本の代表候補生に関するページが表示される。複数の顔写真の中には簪の姿もあった。

 ―――……代表候補生、にも関わらずなんであんな自信がない、弱い雰囲気なんだ? 今まで見てきた代表候補生はみんな自信とプライドに満ちているのに。

 能力はあるんだろう。競争の激しい代表候補生に能無しがなれるはずもない。そして身内に国家代表がいるといっても、それとこれとはまた別だろう。しかし、更識 簪には競技者として致命的な欠陥があると鬼一は見ていた。

 他者との競争において最後に求められるのは、ギリギリの極限状態の人を壊しかねないほどの強大なプレッシャーの中で実力を出し切ることや、意地でも勝利に食らいつこうとする極めて強力な精神力が問われる。

 そして、そんな中で勝ち得た自信というのは隠すことが出来ないものだ。必ず身体から発せられる。

 セシリア・オルコットも。

 更識 楯無も。

 織斑 千冬も。

 山田 真耶も。

 鳳 鈴音も。

 IS関係者だけではなく、鬼一がいた世界。e-Sportsの世界にいた人間たちも全員そうだった。大小の差はあれども、全員がそれを身体から発している。
 にも関わらず更識 簪にはそれがない。鬼一はその違和感が心の片隅に引っかかっている。凄まじいまでの違和感。その違和感を鬼一は気づくことが出来ない。

 更識 簪は究極的には『自分の勝利』などどうでもいいのだ。彼女は自分と比較され続けてきた姉である更識 楯無にコンプレックスを抱き、そのコンプレックスに苦しめられている限り簪が『自分』を最上位に置くことはありえない。常に別人が自分より上にいる以上、別人に振り回されるだけの存在だ。

 自信を得るためには自分を常に最上位に置かなければならない。つまりは自分を確かなものとして認識し、人の影を追いかけて自分を『薄れ』させている限り意味がない。そんな状態でどれだけ困難な勝利を重ねても、自信というものは身につかないのだ。

 鬼一からすれば信じ難い事実、同時に気付き得ない真実。

「ただいま、鬼一くん」

 その声に鬼一は思わず飛び上がる。楯無の声の方向に視線を向けず、目にも止まらない素早さでパソコンの電源を落とす。落としたあとは何事も無かったかのように楯無に振り返る。

 その奇行に眉を潜める楯無。

「たっちゃん先輩、おかえりなさい。今お茶入れますね」

「……鬼一くん? 今何してたの?」

「……別になんでもないですよ。紅茶でいいですか? パックもんですけど」

 鬼一はそう言って楯無から視線を切り立ち上がる。そのまま机の上に置いてあるポットに近寄り、そこに置いてある2つのカップの中にお湯を注ぐ。楯無の発言は徹底してスルーの姿勢だ。それも当然だろう。言えるはずがない、

 ―――たっちゃん先輩の妹さんを調べていました、なんて口が裂けても言えるわけがないだろ。

 変態の烙印を押されても文句の言えない所業をしたことに鬼一は深く後悔する。後悔、というよりも安易な行動だったと反省した。少なくとも身内の人間が同室にいるのにそれはない。

 お茶を入れ始める鬼一に足を止めて疑惑の眼差しを向け続けていた楯無だったが、突然何か閃いたように明るい笑顔になり、そしてすぐに目を細めて猫目になる。

 抜き足差し足忍び足。鬼一の背後に音もなく忍び寄る。鬼一はそのことに気づかない。鬼一は注ぎ終えたカップを2つを机に置いて振り返ろうとした。

 瞬間。視界が反転した。

「……それー!」

 楯無のそんな呑気な声と共に。

「あああああああああっ!?」

 鬼一は楯無と共にベッドの上を転げる。ベッドのスプリングが大きく悲鳴を上げた。視界が二転三転し、最後にはベッドのシーツに顔を埋めることになった。
 『隣』からは楯無のくすくすと小さい笑い声が聞こえた。その声はイタズラに成功した子供のようだ。

 大きく音を立てる心臓。あまりの驚きに全身から汗が吹き出る。そんな身体とは余所に鬼一の頭が冷静になるにつれて、楯無に身体を掴まれてベッドにダイブさせられたことに気づく。

 ガバリ、と頭を上げて隣に視線を向ける。

 視線の先にはベッドの枕元を照らす小型ライトに照らされた楯無の視線を細めた笑顔。鬼一と同じように横になっており、その距離はとても近い。それも当然。IS学園のベッドは1人用にしては大きいが所詮は1人用だ。そんなベッドに2人も乗れば必然的に距離が近くなる。

 その笑顔に震え上がりそうになり、背筋にゾワゾワとした何かが走り抜けた。

 同時に悟る。

 これは詰んだかもしれないと。

 ならば、逃げなければ。

「……ねえ鬼一くん」

 互いの吐息が感じる距離で楯無は甘い声で囁く。じんわりとした熱が鬼一の思考に染み渡る。身体もその熱に犯されたのか鬼一の思考に反して動いてくれない。いや、実際に動けない状態であった。
 楯無の右腕が鬼一の左肩に置かれ、左腕が頬に触れる。その右腕に力は入っていないように感じられるが、鬼一の身体はまるで万力か何かに固定されたように動かすことが出来ない。楯無が逃げ道を塞いでいたのだ。

「……さっきまで何をしていたかおねーさんに教えてくれないかなぁ?」

 身体の芯に鉄棒でも打ち込まれたような錯覚を覚えた。この声に逆らったらどうなるか、ここまで生活でおおよその予想は考えられる。また泣かされるかもしれない。

 震える声で鬼一は呟く。

「……べ、別にたっちゃん先輩が気にするようなことじゃないでふ」

 思わず噛んでしまうほど今の鬼一は動揺していた。その反応から楯無は自分のカンが間違っていないことを感じた。

 笑みが濃くなる楯無。その笑みにもはや絶望感さえ感じる。

 鼻先が触れそうになるほどの距離に、楯無は自分の顔を鬼一に近づける。赤く美しいルビーのような瞳と鈍く輝く黒曜石のような瞳が見つめ合う。お互いの顔が映っているのが分かるほどの近さ。

「……ふーん、じゃあなんで、鬼一くんはそんなに焦っているのかなぁ?」

 カタカタと指先が震える。

 もはや逃げ道はない。

 どうあがいても勝ち目がない。

「……えっと、その、ですね」

 そして鬼一はその答えを告げる。

「……えっと、その、実はたっちゃん先輩の妹さんと話しまして、ちょっと気になったので、えー、ネットでちょっと調べたといいますか」

「……ふーん、簪ちゃんのことを、ねぇ……」

 楯無の顔から先ほどまでの笑みは全て消え、感情を感じさせない表情と声色で呟いた。しかし、視線は鬼一に合わせられたまま。そんな初めて見る楯無の表情に身体が凍りつく。先ほどまで感じていた熱は既に吹き飛んでいた。

 表情と声から楯無が何を考えているのか全く予想も出来ないため、鬼一にとってはただ胃の痛い時間が続く。処刑人がどんな処刑を下すのか、ひたすらに恐怖が長く感じた。

 そんな鬼一とは余所に楯無は目の前の愚か者の所業をひとまず置いておいて、自身にとって唯一の家族であり、そして自分の根幹である妹のことを話すかどうか考えていた。

 そして、決めた。

「ねぇ、鬼一くん?」

「……はい」

 果たしてどんな判決が下るのか、恐怖に震える鬼一は静かに、吐き出すように返事する。

「ちょっと私と簪ちゃんのお話を聞いてくれないかな? 以前、君の家族に関するお話を聞いてからどこかで話そうとは思ってたんだけど」

 そんな予想外の言葉に、思わず鬼一は間の抜けた表情になってしまった。

―――――――――

「とまあ、こんな感じかな? 鬼一くんはどう、思った?」

「……」

 疲れたように身体から力を抜くたっちゃん先輩。
 たっちゃん先輩から見て簪さんに対する思いの一部や、自身の行ってきた行為の数々が先輩自身の口から述べられた。先輩は抑えているようだったけど口々からは隠しきれないほどの感情が滲み、鮮やかな愛情があることを感じさせてくれる。ちょっと独善的かもしれないが。いや、偽悪的というほうが正しいのかもしれない。

 妹を誰かに傷つけられたくない、苦しい思いをさせたくない、そんな誰にでもありそうな感情に従い、この人はひたすらに、がむしゃらに頑張って走り続け、己を削ってきたことが感じ取れた。

 先輩の話から感じられる感情の中には後悔のような感情があるように感じる。だけどそれは自分の妹のために自分を削ったことなんかではなく、もっと相手のために行動出来たのではないか? もっと素直に考えてあげることが出来たのではないか? そんな自分を責めるような痛みがあった。

 先輩は間違っていた、無駄だったのかもしれない、そう言っていたけど僕には到底そうは思えない。

 なぜなら彼女の行動は全て『妹を守りたい』という自分の感情にどこまでも素直に従って行動してきたからだ。自分に降りかかる痛みや苦しみとかそんなものはどうでもいいと。ただ自分のことなんかよりも、唯一の家族を守ることの方が遥かに大切だから。

 想像だけど、この人にとっては自分にとっての救いや報いなんてのは心底どうでもいいと考えているように思えた。そんなことよりも家族の方が大切なんだと。家族が幸せなら、自分1人だけならどんなことでも、どんな戦いでも耐えられる、そんな悲痛な覚悟がそこにはあったと思う。

 何よりも大切にしているからこそ、自分が与えてしまった苦しみや痛みが愚かなんだと考えてしまったんだ。取り返しのつかないことをしたことが今も悔しいんだと思う。

 「……羨ましいな」 気づかれないように小さく呟く。

 ……僕はそれをある意味で、ひたすらに羨ましいと思う。

 どんな形であれ『愛情』を向けられる家族がいて、その『愛情』を受け取れる家族がいるというのは嫉妬のような、羨望のような、妬ましいような、色んな感情が複雑に僕の胸をグルグルと駆け巡る。

 短く気づかれないように息を吐く。今、重要なことはそんなことじゃない。

「……楯無先輩、やめましょうよそれは」

 僕のその言葉に身体を震わせる先輩。

「……そう、よね。私のしたことは、間違いだったよね」

 初めて、先輩が僕から視線を切った。だけど僕の言葉に耳を傾けている。僕の言葉を聞かないという選択肢があるにも関わらずだ。その様子に僕は一つの確信を抱く。
 つまり彼女は誰かにそれが間違いだった、と責めて欲しかったのではないかと思えた。裁きではなく、ただ責めて欲しいのだと。確かに、誰かに責めてもらえた方が楽になれるというのは時として真実だ。だけど、僕はこの人に対してそんなことはしたくない。

 この人は単純に誰かに聞いて欲しい、などと曖昧な理由で自分の『大切』なことを口にしたりはしない。こんな大切なことを僕に話してもらえたことは1人の人間として嬉しい。

 僕にとってもこの人は大切だからこそ、過去の行為の肯定や否定、慰めなんかは口にしたくないし、そんな安易なことは出来ない。

 この人に必要なのは自分と妹を苦しめる『過去』じゃなく、『現在』を変えたいと思う心と、本心から望める『未来』の2つだけだ。まだ遅くないはずだ。まだ、2人とも生きているんだから。手を伸ばせば、口を開けばすぐに届く距離にいるんだ。諦めるのは、思いを口にしてぶつかりあって全てを吐き尽くしたときだけでいい。

 だから僕は、この人に対して果てしなく身勝手なことを言う。本心を口にしてもらえたのなら本心で、感情に塗れた言葉で返したい。理屈や一般論とかはどうだっていい。僕もこの人もそんなものとは無縁の道を歩いてきた。

 一般的には不可能、出来るはずがないことを僕たちは覆してきたのだから。

「違います」

 ハッキリとした言葉で力強く否定する。自分が伝えたいことはそんなことじゃない。
 僕を拘束する先輩の右腕を剥がして、動くようになった左腕と右腕で先輩の顔を包んで視線を合わせる。その濡れた紅い瞳に胸が締め付けられる。

「僕が言いたいのはそんなことじゃありません。何が間違っていて、何が正解なのか、そんなことは自分が死んだ後にでも考えましょうよ」

 過去の行いに対して間違っているとか、正解とか、ひとまずはどうだっていい。正直な話、何が間違っていて何が正解なのか僕が知りたいくらいだ。教えてもらえるなら教えて欲しい。

「反省も後悔もいいでしょう。それは先輩の勝手です」

 過去の行いを反省、過去の行いを後悔する。それは必要なことだ。自分が前を向いて現在を踏破する力に変えるために、正解だと『信じる力』に変換するための儀式とさえ言っていい。その力があるからこそ、自分が望む未来を目指せるのだから。

「ただ、ただ過去の自分を責めて、今の自分を否定することだけは止めてください」

「……え?」

 だからこそ僕はこの人が自分を責めて、苦しめて、歩けなくなっているのが辛い。確かに怖いと思う。苦しい、辛い、怯えてしまうのも当然だろう。自分を許せないと思っても仕方のないことかもしれない。

 それでも、僕は口にする。

「そうしたら未来の先輩は独りぼっちになっちゃいますよ? 例えばですが、妹さんと以前のような関係に戻りたい、もし少しでも心から願っていることがあるならそんな現在の自分を誇ってあげましょう。『私には胸を張ってしたいことがあるんだ!』って。
 許してあげましょうよ。どんな結末であれ、過去の先輩はそれが正解なんだと信じて間違えながら、ぶつかりながら歩いてきたんでしょ? そこにあった感情や、痛みや苦しみは決して裏切りません。それは自分を追い詰めるものではなく、自分を支えるものなんです」

 自分の言葉に熱が宿っていくことが分かる。力強く、ハッキリと先輩に伝えたいことを伝えていく。

「少なくとも先輩のしてきたことは間違いじゃないと僕は思っています。過去の先輩のおかげで僕は現在の先輩に助けられている、支えられているんですから」

 そう言って言葉を切る。

 呆けたような先輩の顔。

「……っぷ、あはははっ!」

 苦しそうに歪んでいた眉と表情が緩んで、いつもの先輩の笑顔が戻ってくる。同時に先輩の顔を包んでいる両手を通して、先輩の身体から力が抜けていくのが分かった。

 ただ、なんで笑われていることはちょっとよく分からない。

 先輩の両手が僕の手の甲の上に重ねられた。ヒンヤリとした冷たさが薄い手袋越しに伝わってくる。僕の手よりも一回り小さな手。

 白く柔らかい、滑らかな曲線をしている先輩の手に一瞬だけ傷が見えたような気がした。その一瞬だけ見えたそれは、この人の行いや罪を表しているようにも感じた。

「鬼一くんって、意外とロマンチストなんだね。初めて知ったわ」

「……なんですか人が真面目に話したのに、その現実を直視できないドリーマーみたいな言い方は」

 現実を直視できないドリーマー、ある意味ではそうかもしれないけど。自分の実力の温さで「優勝するーっ!」なんてアホみたいに叫んでいたことがあるくらいだし。
 まあ、でもいいか。目の前の人は無邪気に笑っているみたいだし。それだけでも話した価値はあると思いたい。

「せっかく話したんですから1個だけいいですかね?」

 僕の質問に、涙さえ浮かべて笑っている先輩は必死に笑いを押さえようとしている。……そんな笑われると逆に傷つきそうなんですが。

「いいわよ。おねーさんに答えられることならなんだって」

「じゃあ、遠慮なく。先輩は妹さんと仲良くなりたいんですか?」

 僕のその質問に先輩は引きつった笑みに変化した。だけどその笑みは、さっきの表情に比べて前向きなものに見える。引きつったのは多分、僕が予想よりも直球で踏み込んできたからだろう。とは言っても、これだけ話してくれたんだから今更変に取り繕う必要もないだろう。

 あー、とか、うー、とかよく分からない呻き声を上げながら先輩は視線を彷徨わせる。本人もまだ纏めきれていないんだろう。

「……そ、そうね……。その、やっぱり、一番大切な家族だし? 昔みたいに話したいなー、と思ってるよ……」

 先輩にしては珍しく歯切れの悪い口調で、声が小さくなって最後の方はもうほとんど聞こえないくらいだった。やっぱり長年のこともあってか、そうは簡単に切り替えられるわけもない。

 だけど、それが本心なのは感じた。

 だったらそれだけでいいだろう。

 それだけで人は歩いていけるんだから。

「そうですか。良いと思いますよ」

 これ以上、僕が踏み込む必要はないだろう。家族間の問題に必要以上に触れたくない。もし、先輩から手伝って欲しいと言ってもらえるなら、その時はその時で考えて行動する。

「……ところで鬼一くん? この両手はいつまで乙女の顔に触れているのかな?」

 ……あっ。

 ニヤリ、としたイタズラっ子を彷彿とさせるその笑み。冷静に今の状態を考え直す。
 薄暗い部屋、ベッドに横になっている2人の男女、男性の両手は女性の顔を包んでいる。

 爆発しそうなほどの熱が全身に走った。

「―――っ!」

 両手を離して慌てて距離を取ろうとした。だが、今僕らがいるのはベッドの上だ。つまり、離れようとしたら必然的に―――

「いった!?」

 ベッドから転げ落ちるということだ。バランスを崩してベッドから落ちた僕はゴロゴロと無様に転げ回った。

「っ、あはははは!」

 視界が上下逆になった僕はそんな風に笑っている先輩を見て、少しは力になれたなら良かった、と安堵していた。

―――――――――

「一夏っ!」

 自動ドアが開き、そんな元気な声を発しながら鈴は現れる。そんな元気な姿を見て、昔の鈴の姿と重なり、変わっていないことに安心感を抱けた。中学時代の無邪気な姿が脳裏に浮かぶ。
 右手にはスポーツドリンク、左手にはタオルが握られている。そして、そのまま手渡された。俺の為に持ってきてくれたのか?

「鈴、サンキュー。ふぅ……」

 今もなお溢れる汗がとにかく邪魔くさい。顔全体をタオルで包み、何度か上下させて汗を拭い取る。ありがたいことにドリンクもあった。

「変わっていないわね、一夏。全然若いくせに自分の身体のことばっかり気にしてるとこ」

 自分の健康を気にするのは当然だろう? 今のうちから不摂生に身体を慣らしてしまうと、後で取り返しが付かなくなる。その時に痛い目を見るのは自分と家族、千冬姉に面倒をかけるのはゴメンだ。唯でさえ今も面倒をかけているのに。これ以上、なんかあると死にたくなる。

「後でそれで泣くのも嫌だからな。千冬姉を困らせたくないし」

「……一夏、少し変わった?」

 その言葉に手が止まる。別に変わったとは思っていない。変わりたいとは思っているけどな。あれだけの大口を鬼一に叩いたんだ。弱さを見せつけられて、感じさせられて変わろうと思えなければ嘘だ。弱いことが悪とさえ、最近は思えるようになってきた。弱いままじゃ、きっと、俺は何も出来ない。

 答えはまだ見つからない。そのことに心が少し重くなる。だからと言って諦めることは出来ない。

「……別に変わっちゃいないさ」

 上手く言えた気はしなかった。この時の自分の顔がどんなものだったか、正直知りたくない。
 目の前の鈴は俺の様子を一瞬訝しんだが、すぐに表情が切り替わる。ホントに、相も変わらずコロコロと表情が変わる奴だな。今はすごいありがたいが。

「一夏ぁ、私がいないのは寂しかった?」

 鈴がにやにやとした笑顔とどことなく見透かすような瞳で俺を覗き込んでくる。その視線に心がざらつかされた。なんだ、昔と同じ目なのになんでこんな俺は落ち着かないんだ。鈴はどこか昔と変わったのか? 

 鈴を最後に見たのはいつだったっけ。確か中学2年の冬の頃だったはずだ。まだあれから1年くらいしか経っていないのに、もの凄い時間が経ったような気がした。あの頃は毎日がひたすらに楽しくてやかましかっただけの日々だったのに、今の鈴からは女の子らしさが微妙に感じる。……多分、鈴は成長したんだ。だから女性らしさを感じたのかもしれない。

 羨ましいよ鈴。俺はまだあれから何も成長していないよ。なのに昔みたいに馬鹿な言葉が何も出てこない。……本当に救えない。

「……そう、だな。こうやって鈴と会えて嬉しいと思っているから、思っている以上に寂しかったかもしれない」

 後ろにいる箒に振り向いて『先に戻ってくれ』、と手だけでジェスチャーする。鈴との時間に誰かを踏み込ませたくない。これは俺たちだけの思い出があるからこそ、他の誰かを関わらせたくないからだ。

「……そ、そうなんだ」

 鈴は嬉しそうに、だけどどこか恥ずかしそうに視線を逸らして右手で自身の髪の毛をクルクルと遊ぶ。なんか色々と言いたいことが在ったはずなのに、上手く言葉にできないのがすごくもどかしく感じる。

「鈴」

 俺の声に髪の毛を弄ったまま、視線を一瞬だけ俺に戻す。

「ん? なになに?」

「元気だったか?」

 弄っている手を止めて一瞬だけキョトン、とした表情に染まった。馬鹿か俺は。なんでこんな言葉しか出てこないんだろうか。もっと気の利いた、もしくは昔のような馬鹿みたいな言葉があっただろうに。

 呆然とした鈴だったがすぐに笑いを堪えるような顔になる。くすり、と小さな笑いがその口元から溢れた。その笑いが鈴を異性だというのを強く実感させてくれる。

「一夏ったら、さっきと同じこと言ってるわよ。他にも色々と言うことがあるでしょうが」

 分かってるんだ鈴。でも、今はなぜか上手く言葉に出来ないんだ。たくさん言おうと思っていたことがあるのに、なんでこんなときに限って。

「……ねぇ一夏? 約束覚えてる? ……覚えてる、よね?」

 ……約束? ……小学校の頃に確かしたような気がする。だけど、俺はそれを漠然としか覚えていない。いや、覚えているんだ。だけど、それを正しく覚えているかという自信がない。今、その約束の内容を口にしたらダメなような気がする。きっと、鈴を傷つける。

「……」

 ……きっと、鈴にとっては大切な約束なんだとなんとなく理解できた。鈴は顔を伏せて、上目遣いで俺の目を真剣だけど、どこか恥ずかしそうにしている。鈴にとっては聞きにくいことだけど、でも、重要なことだから聞いてきたんだろう。

 なんて、答えればいいんだろう? 俺にとっては平凡な、どこにでもあるような約束だったんだろう。じゃなかったらこんな曖昧であるはずがない。強く覚えているはずなんだ。本来ならば。

 俺はきっと鈴が望んでいる答えを返してあげることは出来ないんだ。自分が間違っているのに、正しい答えを返せるはずがない。

 どっちにしても鈴を傷つけることになる。でも答えないといけない。今、ここで逃げてしまったら俺は。ならせめて、真剣に答えないと。

「―――ごめん、鈴」

 覚えていなくて、本当にごめん。鈴にとって大切なことなのに。

 そうやって謝ることしか出来なかった。大切だから曖昧な言葉で濁せない。濁したくない。

 怒りに満ちた鈴の顔が見えた。が、それはすぐに姿を無くし、悲しそうに表情を崩して目を細める。身体が小刻みに震えて、唇が固く結ばれていた。そのことに罪悪感が溢れそうになった。

「……鈴にとって大切なことだったんだよな? 本当にごめんな、約束したことは覚えているんだ。だけどきっと、俺の覚えている内容と、鈴の望んでいる言葉は違うと思うんだ」

 だから言えない。

 千冬姉は言葉を吐きつくせ、って言っていたけど少しだけ違うような気がした。出してはいけない言葉も存在すると、俺はこの時漠然とそう思った。

「……そう。本気でぶん殴ってやろうかと思ったけどそんな顔を見せられたら、殴れないじゃない……」

 俯いて泣きそうな声で鈴はそう呟いた。注意していなかったら、本気で聞こえなかったと思える程の小ささだった。表情は見えなかったけど、この時の鈴は泣いていたような気がする。

 そしてそれを慰めることは出来ない。他ならない、俺が鈴を傷つけたのだから。

 鈴の小さな肩に手を置こうとしたが、それは出来ずに力なく落ちた。

 鬼一だったらなんて答えたんだろう。あいつなら上手くやれたんじゃないか?

 勢いよく顔を上げる鈴。そこには先ほどまで存在したであろう悲しさなどは少しも無かった。記憶の中にある鈴の顔だ。今でも思い出せる。

 ―――顔は思い出せるのに、大切な約束は思い出せないのかよ。

 呪うようにそう自嘲する。

「別にいいわよ。小学校から何年も経っているんだし、そんなことを気にしないわ」

 俺から見ても鈴が強がっているのは明らかだった。でも、鈴は俺に対して気を使ってくれたのは間違いなかった。女の子との約束を忘れた馬鹿に、まだ優しくしてくれていることに苦しい。
 嬉しそうな、悲しそうな顔で鈴は俺の目を見る。泣いていないのに泣いているように感じた。いや、泣いている。

「……やっぱり、アンタ変わったわね。昔、そんな顔を見せなかったのに。ううん、出来なかったのに」

 鈴から見たら俺は変わったのだろうか。俺からすればその変化は良いものではないと言える。

 ―――こんな、目の前の女の子を泣かせているのに良いはずがない。そんな変化が許されるはずがない。

 俺の表情を見て察したのか、鈴が苦笑する。俺の考えは間違っていると、それは間違いなく良いことなんだと、鈴は言う。

「……昔のアンタは人のことを考えているようで、考えていないところがあったわ。だけど、今は私のことを考えてそんな言いたくないことを言っている。自分が間違っていると分かっているから、これ以上傷つけたくないから、そんなお互いにとって痛い言葉を言えるのよ。
 でも、それは間違いなんかじゃなく成長よ一夏。どんなに頑張っても人は人を傷つけることになるの、望む望まず関わらずにね。重要なのはその後をどうするか」

 そう言って、俺の手を握る。小さくはあるが硬く強靭な意志を滲ませる手。それに比べて俺の手は大きいが、柔らかい。鈴のそれとは全然違う。たったこれだけのことでも、鈴は代表候補生になるためにどれだけの努力を積み重ねたのかが読み取れた。

「自分を追い詰めるんじゃないわよ一夏。反省も後悔も悪いものじゃないし、過去の自分には価値がないようで実は大きな価値があるんだからさ。
 でも、今の自分を責めるのだけは止めなさい。それは何も生み出さないわ。それに私はアンタのそんな顔を見たくないから」

「……鈴」

 鈴、俺はどう進んでいいか分からないんだ。自分が今まで考えもしなかった現実を現実に、俺は何をしたらいいのか全然分からない。俺は強くならなくちゃいけないのは確かなんだけど、でも、今やっていることが本当に正しいかすらも定かじゃないんだ。

 そう考えている自分にも嫌気が差している。

「……こんな辛気臭い話は私たちには似合わないんだけどね。いいわ一夏、アンタがなんで変わったのか聞かせてよ。アンタの力になれると思うわ。ううん、力にさせなさい」

 ―――昔のアンタが私の力になってくれたように、さ。

 鈴は口にしなかったけど、そう語りかけられたような気がする。
 背伸びしているようにも見えたけど、鈴の姿は今までよりも大きく見えることに俺は恥ずかしいことに安堵していた。

 自分の弱さを一瞬だけ忘れることが出来たからだ。

―――――――――

「……ふーん、一夏さんと鈴さんが一回戦からぶつかるのか」

 翌日の放課後、僕は生徒玄関前の廊下に張り出されている張り紙を見てそう呟く。
 考えながら向かう。今頃、一夏さんたちはトレーニングに励んでいることだろう。たっちゃん先輩に呼び出され色々と話していたら結構な時間になっていた。

 さて、どうしたものか。公開されている範囲の鈴さんの情報や甲龍、鈴さんの専用機については調べていくつか対応策を考えているが、それを一夏さんが実行できるかどうかというのはまた別の問題だ。

 僕にとって鈴さんは絶望的なまでに最悪の相性の相手だから極めて不利な戦いになるだろうけど、一夏さんなら零落白夜の事故を狙って起こすことで勝算は小さいけど一応ある。現実的なラインで戦えるとも思えた。

 とはいえ、相手はIS競技人口を最多を誇る中国の代表候補生だ。しかも近接寄りのISでその座を勝ち得るほどの実力者である以上、近接戦に絡むスキルは間違いなく代表候補生の中でも指織りだ。真っ向勝負になれば一夏さんに勝ち目はまずない。

 となると結局、最終的な答えはいつぞや教室で言った内容通りになるだろうな。打ち合いを避けて、騙し合い、化かし合い、零落白夜のプレッシャーを盾に試合を進めることになる。……だがそれを行うには大きな壁が存在している。

 衝撃砲、別名龍砲。

 空間そのものに圧力をかけて砲身を生成し、生成で生み出した衝撃をそのまま砲弾化して撃ち込む。セシリアさんのブルーティアーズと違ってこいつの厄介なところがある。
 砲身も砲弾も目に見えないことだ。発射のタイミングも弾速もその軌道も分からない。おまけに砲身の斜角は全方位に向けれて、とどめに燃費も良い。射線が直線的なのは救いだと思いたいが、これだけ揃っているのなら正直弱点にも思えん。

 これに加えて大型の青龍刀である双天牙月。これを十二分に活かせるだけの近接スキルと身体能力の高さ。これらを支える異常なまでのスタミナ。ダメ押しと言わんばかりにメンタルの強さも特筆すべき点であろう。中国という競争が激しい場所で戦い続けてきたのであれば、生半可なプレッシャーなど逆に仇になりかねない。

 甲龍の燃費の良さと相まって、長期戦においては無類の強さかもしれない。

 必然的に一夏さんが勝つための戦略は固まる。

 敗北覚悟、リスク上等の短期決戦あるのみ。時間が経てば経つほど、一夏さんの勝ちの目は無くなるのが容易に想像出来る。

 幸い、試合までの時間はまだある。この時間をどれだけ活かせるか。

 色々と考えていたらアリーナ周りの観客席に到着していた。今日は参加出来ないと伝えていたためピットやアリーナには直接向かわず、観客席に向かっていた。1度外から一夏さんの動きを見たかったというのもあるが、1番大きな理由としては身体の調子があまり良くないからだ。

 一夏さんと戦い保険室でセシリアさんと話した日から、僕の身体は重く感じることの方が多くなっていた。原因は未だに分からない。でも、確かに身体の調子は良くない。動いてくれるしトレーニングにもついていけてるが、時折、意識と身体のズレを感じることが日に日に大きくなっていた。

 観客席には一夏さんを見に来ていた女生徒たちの姿がちらほらと見える。観客席の1番上から1番下、アリーナに近い席に向かって階段を降りていく。降りていく途中で女生徒たちの小声が聞こえてきたが、雑音と判断して歩みを進める。

 アリーナに近づいていくに連れて3人の声が聞こえてくる。何かを言い合っているようだった。いや、3人だけではなく今日は他にもう1人加わっているようだった。

 この声は鈴さんか。

 僕が観客席からアリーナを見ていることに気づいた一夏さんが困ったような顔でこっちを見た。その表情からは、目の前の問題に対して自分では手に余しているようだった。……ホントに何があったんだろう。

 オープンチャンネルで4人に話しかける。内容はどうあれ、トレーニングを中断するような所業は放置しておくわけにはいかない。唯でさえ時間を無駄に出来ない状態なのだから。

「……何やってるんですか?」

 僕の声にセシリアさんが返事しようとして口を開けたが、その前に鈴さんの声が僕の耳に入ってきた。

 余りにも予想を超えた発言に僕は驚くことになる。

「あ、鬼一。ようやく来たわね。ちょっとお願いがあるんだけどさ、私と模擬戦しない?」

 ……え?

 一瞬、言っている意味が本気で分からなかった。今ここで僕と鈴さんが試合をするということがどういうことなのか分かっているのだろうか?

「あー……安心してよ、別に私との試合経験を活かして一夏を強くするのは別に問題ないからさ。別に試合しなくてもアンタなら私への対策を考えてくるでしょ? 世界最年少にして世界王者のプロゲーマー、月夜 鬼一という操縦者(プレイヤー)は。その対策がもっと深いものになるならそっちにだって悪い話じゃないでしょ?」

 分かっていて、か。僕が鈴さんを調べたように、鈴さんも僕を調べたのか。

 確かにここで鈴さんと僕が試合したなら、僕は間違いなくその対策を一夏さんの今後のトレーニングに活かすだろう。活かさない理由はない。

 だけど、自分の不利を承知でこんなことを言えるのは難しい。少なくとも鈴さんには不利なことでしかないのだ。そんなことは代表候補生の鈴さんだって嫌というほど理解しているはず。対策される怖さは半端なものではない。それを超えるのも、それを越えられないというのもだ。

 鈴さんに何の意味があるのか? この戦いに。

 鈴さんの視線が一瞬だけ一夏さんに向けられる。その視線を受けて一夏さんは困惑の表情が強くなった。

 ……僕個人としては断るつもりはない。身体の調子が悪いことを差し引いても、この模擬戦にはメリットが多い。だけど、あくまでもこの時間の主役は僕じゃない。

「……一夏さん、この戦いを決めるのは貴方です。このアリーナを使える時間はあくまでも貴方のトレーニングのためにあります。貴方が良いと言うのであれば、僕は受けようと思っています。断る理由がありません」

 僕の言葉に一夏さんはぎこちなく頷いた。……なんだ? 一夏さんの様子が昨日よりおかしいような気がする。

 一夏さんの頷きを了承と捉えた鈴さんは力強い笑みを浮かべて僕に指を突きつけた。

「なら決まりね。鬼一もアップや準備があるだろうから30分後に始めましょう」
 
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