君のため(仮)
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自我
その日、その男は函館-五稜郭に立っていた。
「(…やっと、これた)」
その思いだけが胸の中で渦を巻く。
懐かしい、とか、悲しい、とか、そんな簡単な形容詞だけで済まされるものではない感情が、彼の胸の中を渦巻いていた。
平成の五稜郭は、彼の記憶の中の五稜郭とはまるで違っていた。
当時ここは本当に貧しい場所だった。
時期的なこともあって、雪が吹きすさぶ中、仲間たちはみな飢えながら戦っていた。
決して、自ら選び取った「最後の城」ではなかった。
誰が好き好んでこんな辺境の地を墓場にしようか、当時の仲間うちでは、皆口に出さずとも心の中でそう思っていた。
それが今では、家族やカップルが喉かに散歩する、一大観光地となっている。
あまりの違いに、もう言葉も出なかった。
復元されたという函館奉行所の中を歩く。
その懐かしい構造をした建物に、目頭が熱くなる。
だけど、微妙に、何かが違う。
そう、ここには、「仲間」がいない。
自分は一人なんだと、改めて思い知らされる。
ほかの観光客の数倍は時間をかけて、その小さな奉行所内を一通り回ったあと、砂利石が敷かれた中庭に出ると、「おもてなし隊」なる連中がいた。
新政府軍の服装をしたやつらが5人、そして、旧幕府軍側の服装をしたやつらが5人、それぞれが観光客に「一緒に写真撮影を」とせがまれている。
はじめ、新政府軍の服装を見て、胸の内が、ざわり、と波打ったが、すぐに収まった。
「(…顔つきが、比べ物になんねぇよ)」
軍服を着るにはあまりに平和的な表情を浮かべた男たちを見て、そうか、と気づく。
「(そうか、もう、戦は終わったんだ)」
自分は、いったい何を求めてここに来たのだろうか。
一言で言ってしまえば、物心ついた時から感じていた違和感の正体を確かめたくて、来た。
のほほんと、「平和ボケ」しきった周囲の連中に、常に腹がたっていた。
けれども、そのいらだちはどうやら自分ひとりだけが感じているものらしく、周囲にぶつければ奇異の目で見られるだろうことも容易に想像できた。
だから、今まで、誰にも漏らさずに、ここまで来たのだ。
小さいころからのあてどもないいらだちに、初めて外形を与えたのは、日本史の教科書だった。
“新選組”
その言葉が目に入ったとたん、世界は反転した。
いらだちも、違和感も、何もかもが一本の線でつながった。
そして、その延長線上に導き出される、非科学的でばかげた答えを、一瞬で理解した。
理解したとたん、精神が安定した。
やっと、そして、初めて自分の自我が安定した気がした。
そしてこの春、親の反対を押し切って、東京の大学に進学した。
東京、八王子にあることが、その大学を選んだ理由だった。
大学に入って最初のまとまった休みである5月の連休に、ここ、五稜郭に来ることは、進学先の大学を選んだ時点で決まっていた。
「…ごめんな」
男は、誰に聞こえるでもなく、つぶやいた。
自分が、一生をかけて大将にしてやる、と心した男は、自らの手をすり抜け、江戸で斬首となった。
弟のようにかわいがっていた剣の天才も、途中で、まるで捨てるようなかたちで、別れてしまった。
自分が作り上げてきた最大の作品「新選組」のために、斬ってきた人間の影が、今も脳裏にちらつく。
「(…俺は、いったい誰なんだろうか)」
過去の人格と現在の人格が混ざり合う、奇妙な感覚は、泥で濁り切った底なし沼に引きずりこまれる感覚に似ているかもしれない、と思う。
一度、完全に飲まれてしまえば、もう二度と青空を見て、息つぐことはできないだろう、と。
男は、深く、深く呼吸をする。
集中して神経を研ぎ澄ませていけば、周囲の喧騒も聞こえなくなる。
深く、深く、水の中に潜り込んでいくような、この感覚を、男は好んだ。
そうして、どれくらいの時間がたったのか。
目を閉じる前は高かったはずの太陽が、もう傾きかけていた。
腕にしている時計にちらり、と目をやると、もう3時間ほどがたっていた。
思わず、苦笑する。
3時間もここにたっていたら、ただの不審者だ。
男は、一度大きく伸びをすると、歩き出した。
「(俺が、誰かだって?そんなの、わかりきったことじゃねえか)」
「(俺は、○○○○、だ))
後書き
完全に、実験的小説でした。
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