銀河英雄伝説~新たなる潮流(エーリッヒ・ヴァレンシュタイン伝)
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第百一話 人ではない何か
■ 帝国暦487年7月 4日 オーディン クラウス・フォン・リヒテンラーデ侯爵邸 ヴァレリー・リン・フィッツシモンズ
「それでは公爵閣下は大分慌てておりますか?」
「それはそうじゃろう。身に覚えがあるからの」
「確かにそうですね」
ヴァレンシュタイン司令長官とリヒテンラーデ侯は顔を見合わせて苦笑した。侯と司令長官の間には穏やかな雰囲気が漂っている。こうしているとこの二人が帝国屈指の実力者にはとても見えない。ティータイムを楽しんでいる祖父と孫のような感じだ。
私達三人は侯爵邸の応接室で話をしている。これまでリヒテンラーデ侯とヴァレンシュタイン司令長官が話をするとき、私は何時も別室で待機だった。つまり今日は政治的な密談ではなく雑談なのだろう。二人とも忙しい身だ、偶にはそんな日も必要かもしれない。
二人が話している公爵閣下とは財務尚書、オイゲン・フォン・カストロプ公爵の事だ。今、オーディンでは一つの噂が駆け回っている。
反乱軍が攻め込んでくる事が確実になった今、平民達が反乱軍に協力して蜂起するようなことになれば帝国は未曾有の危機にみまわれる。そうなる前に平民達の帝政への不満をかわすために有力貴族の不正を糺し、不満を宥めるべきではないのか?
この噂に直撃されたのが財務尚書、オイゲン・フォン・カストロプ公爵だった。私は詳しくは知らないが、財務尚書に就任以来、十五年も職権乱用をし続け、同じ貴族たちからも非難され続けてきたのだと言う。
よくまあ失脚もせず、権力の座に就いていたものだと思うが、悪徳政治家とはそういうものなのだろう。皆から嫌われてもしぶとく生き延びる。帝国でも同盟でも同じだ。
「カストロプ公は自領に戻るようじゃな」
「……では財務尚書は罷免ですか?」
「生きて戻れればの」
「!」
私は驚いて二人を見た。しかし侯も司令長官も何の変化も無い。二人の間には穏やかな雰囲気が漂ったままだ。私の聞き間違いだろうか?
「財務、司法、両省の準備は如何です?」
「問題ない。カストロプ公爵家を潰せるだけの材料は揃っておる」
「となると反乱は必至ですね。問題はフェザーンがどう関わるか、ですか……」
反乱? 同盟が攻め込んで来るというのに反乱が起きる? 侯も司令長官もそれを望んでいる? どういうこと?
「動くかの、ルビンスキーは」
「動くと思います。罠かもしれないと思うかもしれません。それでもこちらの予測の上を行って鼻を明かしたい、そう思うでしょう。そう仕向けましたから」
「しようの無い男じゃの……、卿の事ではないぞ」
司令長官と侯は顔を見合わせて軽く苦笑している。どういうことだろう? 今までの話だとカストロプ公が反乱を起すのもフェザーンがそれに関わるのも二人は予測している。いやそう仕向けている、そう言う事なのか?
「陛下は御病床にあり、財務尚書が反乱、それに乗じて反乱軍が攻め込んでくるか、困ったものじゃ」
「おまけに司令長官は病弱、副司令長官は大敗を喫したばかりです。軍は頼りになりません。帝国始まって以来の危機でしょう」
二人とも他人事のように言った後で声を上げて笑った。ようやく私にも分った。同盟軍を油断させるために二人は罠を仕掛けている。おそらく私が今知った事は謀略のほんの一部なのだろう。
「ようやくカストロプ公爵家も帝国の役に立つの」
「この日のために取っておいた切り札ですか?」
「まあ、そうじゃ」
帝国の役に立つ? 切り札? 私の混乱に気付いたのだろう。司令長官が答えを教えてくれた。
「十五年も職権乱用をし続け、同じ貴族たちからも非難され続けたカストロプ公が何故財務尚書の地位にあり続けたのか? 平民の不満をそらすためにいつか犠牲になってもらう、そういうことです」
おぞましい真実だった。司令長官は穏やかな表情で告げる。そのことが余計に私を震え上がらせた。政治の世界の非情さに、それを穏やかに話す司令長官に……。自分と同じ人間とは思えなかった。人ではない何か、別の何かだった。
「私が怖いですか、少佐。でもこれからはもっと怖くなりますよ」
「小官は……小官は怖くありません。閣下を信じております」
「ほう、司令長官、卿は良い副官を持っておるようじゃ」
「そうですね。私には過ぎた副官です」
私がヴァレンシュタイン司令長官に返事をするとき、一瞬だけどリヒテンラーデ侯の顔が哀しげに見えた。それを見たとき私の心は決まった。司令長官を一人にはしないと。
リヒテンラーデ侯はヴァレンシュタイン司令長官を哀れんでいる。私が司令長官を恐れ、彼が孤独になるのを哀れんでいる……。
侯も司令長官も帝国を守るために謀略を振るっている。まるで謀略を振るうことに生きがいを感じているかのように。でも本当は違うのだろう。やらなければならないことをやる、それだけなのかもしれない。
だがその事が侯を恐れさせ、侯を孤独にした。同じ孤独が今、司令長官を襲おうとしている。侯にとっては、かつての自分を見ているかのような気持ちだったろう。
私は逃げない。私には特別な能力などない。だから他の皆が恐れても私は恐れない。ヴァレンシュタイン司令長官を決して一人にはしない、それだけが私に出来る事だから……。
■ 帝国暦487年7月 4日 ローエングラム艦隊旗艦 ブリュンヒルト ジークフリード・キルヒアイス
七月になって宇宙艦隊はラインハルト様の下、合同訓練に励んでいる。おそらく反乱軍は遅くとも今月の末には帝国領に攻め込んでくるだろう。宇宙艦隊は七月中旬までに訓練を終わらせなければならない。
此処までの道のりは決して平坦ではなかった。五月中旬から六月一杯までかかってほぼ全滅といってよい艦隊を一から作り直したのだ。問題になったのはやはり分艦隊司令官の人事だった。
少将、中将の階級を持つものでめぼしい人物は既に宇宙艦隊の各艦隊に配属になっている。さすがにこれを取り上げる事は出来なかった。ラインハルト様は思いきって若手の准将を六人集め、それぞれに千五百隻ほどを指揮させることにした。
ブラウヒッチ、アルトリンゲン、カルナップ、グリューネマン、ザウケン、グローテヴォール、ラインハルト様が集めた六人だ。本来なら二百から三百隻を指揮する立場だ。それがいきなり千五百隻を指揮する事になった。
当然、混乱し試行錯誤を繰り返した。それでも六月の終わりにはラインハルト様を満足させるだけの艦隊運用を見せた。ようやくラインハルト様の愁眉も晴れたといって良い。
“俺は皇帝になることを諦めたわけではない。しかし、今は駄目だ。俺には力が無い。今は実力をつけるときだと考えている” ラインハルト様の翼は折れていない。強く羽ばたくために力をつけようとしている。
“幸い目の前に良い手本がある。俺に何が不足しているのか、俺は何を身につけるべきなのか、じっくりと観察させてもらおう”
今ラインハルト様が一番気になっているのは、ヴァレンシュタイン司令長官がどうやって反乱軍を挟撃しようとしているのかだ。ラインハルト様は自室にオーベルシュタイン大佐を呼び確認したが大佐も分らなかった。
むしろ大佐は別のことに気を取られているようだ。
「司令長官閣下は何故年内に反乱軍を撃滅するのでしょう」
「? どういうことだ、オーベルシュタイン」
ラインハルト様が訝しげに問いかけると大佐は抑揚の無い声で
「余りにも慌し過ぎます。敵の誘引はもう少し後でも良かったのではないでしょうか。そうであれば訓練も十二分に出来たはずです」
と答えた。
確かにオーベルシュタイン大佐の言うとおりだ。いささかあわただしすぎる。時間に余裕が無い。大佐は不満に思っているのだろうか?
「大佐はヴァレンシュタイン司令長官の作戦に反対なのですか?」
「いえ、そうではありません、キルヒアイス大佐。敵を大軍で攻め込ませそれを撃滅する。正しい戦略だと思います。それをこの短い期間で実現しつつある、見事としか言いようがありません。ただ、何故今なのか? 何故年内なのか?」
「……」
確かにそうだ。何故今なのか? 何故年内なのか? 私とラインハルト様はオーベルシュタイン大佐の言葉に顔を見合わせた。
ヴァレンシュタイン司令長官はラインハルト様の敗北後、恐ろしいほどの素早さで反乱軍の誘引、撃滅作戦に取り掛かった。そして帝国をそのために一つにまとめつつある。
今反乱軍撃滅に向けて帝国を動かしているのは、リヒテンラーデ侯と帝国軍三長官の四人だ。この四人の間に不協和音は無い。今ではシュタインホフ元帥もヴァレンシュタイン司令長官に協力している。
司令長官は強引ではないが、圧倒的な力で帝国を動かしていると言っていい。まるで何かに追われているかのようだ。司令長官は決して無謀な性格ではない。果断な所はあるが慎重で冷静な性格だ。反乱軍の撃滅は来年でも良かったはずだ。確かに大佐の言うとおり、何かがおかしい。
「司令長官は年内に片付ける必要があると考えている。卿はそう言うのだな」
「むしろ、年内でなければ片付けられない、そう考えているのかもしれません」
確かめるようなラインハルト様に慎重な口調でオーベルシュタイン大佐は答えた。
年内でなければ片付けられない、どういうことだろう。反乱軍の回復を恐れている、そういうことだろうか。ラインハルト様は一瞬私を見てからオーベルシュタイン大佐に話しかけた。
「卿の言う事は、年を越すと帝国には反乱軍を相手にしている余裕は無い、いや、無くなると言う事か?」
「……はい」
「内乱が起きると言うのだな」
「……司令長官はそう考えているのではないでしょうか」
「!」
一瞬だが、空気に緊張が走った。いや、走ったように思えた。内乱が起きる、つまりフリードリヒ四世が死ぬと言う事か。確かに皇帝は最近病気がちだ。しかし司令長官が反乱軍の撃滅に動き出したのは皇帝が病気がちになる前だ……。
「オーベルシュタイン、キルヒアイス、これから話すことは他言を禁じる」
「はっ」
「先日の会議で司令長官は陛下のお命は長くないと考えていると言われた。だから今敵を撃滅すると」
「!」
「ただし、年内という言い方はしなかった」
「……」
思わず私達は顔を見合わせた。お互いに何を考えているのか読みあうかのように沈黙が落ちる。
「卿は司令長官が陛下の御病気を予測していたと思うか」
「いえ、今の御病気はおそらく謀略でしょう、敵を誘引するための。余りにも敵に都合が良すぎます」
「……」
「ただ、やはり小官は司令長官が陛下のお命を年内一杯だと考えているのではないかと思います。その判断材料が何なのかは分りませんが」
「……」
今の病気が敵を誘引するための仮病だというのなら、フリードリヒ四世の余命が年内一杯という判断は何処から出たのだろう? ヴァレンシュタイン司令長官が根拠も無しに判断したとも思えない。
何か宮廷医に伝手が有るのだろうか? それともリヒテンラーデ侯から何か聞いたのだろうか? 分らない、分っているのは司令長官が私達の知らない何かを知っているという事だ。
不意に司令長官の予測が外れて欲しいと思った。ヴァレンシュタイン司令長官は余りにも完璧すぎる。全てが彼の思うとおりに動いているように思える。どこかで失敗や思い違いが有って欲しい。
他人の失敗を願うのは本来正しい事ではないだろう。だが私は彼も私達と同じ人間なのだという確証が欲しかった……。それはいけないことだろうか?
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