銀河英雄伝説~新たなる潮流(エーリッヒ・ヴァレンシュタイン伝)
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第二百九十二話 悪名
帝国暦 490年 11月 3日 オーディン リヒテンラーデ侯爵邸 エーリッヒ・ヴァレンシュタイン
「珍しいの、卿が自ら訪ねて来るとは」
「いささか、表では話せぬ事を相談したいと思いまして」
「そんな事だと思ったわ」
爺さんが笑い出した。まあそうだな、俺も爺さんも仕事抜きで会った事など一度も無いだろう。極めて無味乾燥な関係だが俺は嫌いじゃない。爺さんも同じだと思う。そのうち趣味の話でもしてみるか。でもこの爺さん、何の趣味が有るのか。まさかとは思うが悪巧み?
応接室に通され紅茶を出された。一口、二口飲む。十一月の夜ともなれば流石に冷える。温かい紅茶が身に沁みた。
「奥方が待っていよう」
「少し遅くなると言ってあります」
「そうか」
もう一口、紅茶を飲んでカップをソーサーに置いた。
「いささか困惑しております」
「反乱軍の事か」
「リヒテンラーデ侯、その言葉は……」
「なるほど、拙かったの」
リヒテンラーデ侯が苦笑した。人生の大半を反乱軍と呼んで過ごしたんだ、そう簡単には直らない。問題はそこだ。
「侯の目から御覧になって今の帝国と十年前の帝国、同じ王朝の帝国と見えましょうか?」
「いや、見えんの。よくまあここまで変わったものよ」
侯が詠嘆した。本心だろう、俺だって良く変わったと思うくらいだ。
「そうですね、帝国人なら皆がそう思います。しかし同盟人はそう思いません」
侯がフムと鼻を鳴らした。鼻を鳴らすと国家の重鎮というより人相の悪い爺さんになるな。
「ゴールデンバウムの悪名がいささか強過ぎるようです」
リヒテンラーデ侯が目を剥いた。
「卿、とんでもない事を言うの。五年前なら不敬罪で治安維持局が卿を逮捕するところじゃ」
「そう、それなのですよ。同盟人が持っている帝国の印象は」
「なるほど」
侯が大きく頷いた。
「我々がどれほど帝国が変わったと認識しても同盟人はそう思わない。劣悪遺伝子排除法が廃止され治安維持局が無くなったにも拘らず同盟人が持つ帝国の印象はその古い帝国の姿なのです」
「なかなか人の心は変わらんか」
「変わらないのか、変わるのを拒んでいるのか……」
「百五十年、暴虐なる銀河帝国と非難してきたからの。簡単には行くまい」
リヒテンラーデ侯が大きく息を吐いた。
「少々不愉快な仮定かもしれませんがお聞きください。仮にローエングラム伯が帝国を簒奪したとします。そして劣悪遺伝子排除法を廃し同盟を下し三十年後に統一すると宣言した場合、果たして同盟人が帝国に対して持つ印象はどのようなものか? 今と同じなのか?」
侯がまたフムと鼻を鳴らした。
「ローエングラム伯を例えに使うとは随分と酷い例えよな。だが卿の言いたい事は分かる。当然だが違うであろうの。ローエングラムには卿の言う悪名は無い」
リヒテンラーデ侯が一口紅茶を飲んだ。それにしても、ラインハルトの名を口にしたら露骨に不愉快そうな顔をした。余程に嫌いなのだろうな。
「陛下が為された事はゴールデンバウム王朝、いえルドルフ大帝からの決別と言って良いと思います。帝国の政治、社会体制は根本から変わった。もう同じ王朝とは言えません。しかし王朝の名義はゴールデンバウムです。家の中身は変わっても外見は変わらない。そして同盟人はその外見しか見ていない」
「なるほど、悪名高きゴールデンバウムか。卿の言う通りよな」
「……」
「考えてみると簒奪というのも悪くないのかもしれん。過去の悪事とは決別出来るからの」
おいおい、そんな事言って良いのか。そう思っていたらリヒテンラーデ侯がニヤリと笑った。この爺さん、楽しんでるな。まあ俺くらいしかこんな物騒な話はしないか。他の連中は何処かでゴールデンバウムの名に遠慮が有る。それにしても食えない爺さんだ。
「残念ですが帝国は簒奪ではなく改革を選びました。まあ改革というより革命に近いものですが王朝の交代は有りません。王朝の始祖はルドルフ大帝です。つまり我々は過去の悪名を引き摺らざるを得ない」
「面倒な事よの。……で、如何する? 何の考えも無しにここへ来たわけでもあるまい」
「新王朝成立を宣言してはどうかと」
「あと僅かで新年か、やるとすればその時だな。しかし何処まで意味が有るか……」
「それと歴史学者、政治学者を使って現在の帝国がかつての帝国とは違う事を発表させるのです。ゴールデンバウム王朝は改革により全く別の帝国を創り上げた。新たな帝国を創り上げた王朝もかつての王朝とは違う、新たな王朝であると」
リヒテンラーデ侯が笑い出した。
「卿、面白い事を考えるの。新王朝成立の理論付けか」
「そうです。学者達にはルドルフ大帝の批判をさせても良い。その事自体、新王朝成立と見做す根拠になる。そして講演会、討論会を帝国、フェザーン、同盟の彼方此方で大体的に行わせるのです。当然ですが帝国政府主催です」
「同盟もか」
「そうです。エルスハイマーの最初の仕事になるでしょう」
「まるで洗脳だの、反発するぞ」
また笑った。俺も笑った、確かに洗脳に近い。
「構いません。そのくらいやらなければ同盟人の意識は変わらないと思うのです。例え受け入れられなくても帝国は自分達の王朝が過去のゴールデンバウム王朝とは違うと言っているとは理解するでしょう」
「分かった。ゼーフェルト学芸尚書に話しておこう。適当に学者を選んでくれよう」
「宜しくお願いします」
新王朝論。少なくとも同盟内部で帝国に協力しようという人間には受け入れ易い理論だ。そして自らの立場の正当性を主張し易い理論でもある。長期に、広範囲に広めていく。それによって徐々に受け入れさせよう。
宇宙暦 799年 11月 5日 ハイネセン 最高評議会ビル ジョアン・レベロ
「帝国の大使が到着するのは一月だったな、ホアン」
「ああ、オーディンとハイネセンは遠い。そのくらいにはなるだろう。如何した?」
「彼が来なければ国債の発行が儘ならん」
「ああ、そうだな」
ホアンが顔を顰めた。
「軍人を民間へ戻す。そのためには経済状況の安定が必要だ。景気高揚対策を執らねばならんがそのためには財源が必要だ。それ無しでは失業者を増やすだけだろう。現状では先延ばしせざるを得ない」
「やれやれだな。失業者を恐れて税で養うか。已むを得ぬとはいえ財政赤字が増えるだけだな」
その通りだ、財政赤字が増えるだろう。だが已むを得ぬ。失業者の増加は単なる経済問題には留まらない。失業者の存在は大きな社会不安を引き起こす。現状、政権基盤の弱い政府にとって社会不安は危険すぎる。反帝国運動、反政府運動に簡単に結び付くだろう。受け皿無しでの軍からの放出は混乱を引き起こすだけだ。
TV電話の受信音が鳴った。受信ボタンを押すとトリューニヒトの顔が有った。多少は気分転換になるだろう。少々表情が厳しいな、何かあったか?
「如何したトリューニヒト」
『如何したじゃない。君達は何時になったら新暦に同意するんだ。帝国では同盟が何時までも同意しない事に批判が出ているぞ』
ホアンの顔を見た。顔を顰めている、多分私も同様だろう。
「いや、新たな暦が必要なのは理解出来るんだ。その事に反対はしない。だが祝日がね、ルドルフ大帝生誕記念日、議会の反発が酷いんだよ。君だって分かるだろう」
トリューニヒトが顔を顰めた。
『馬鹿な事を。君達こそ分かっているのか? 祝日には自由惑星同盟建国記念日、銀河連邦建国記念日が有るんだぞ』
「……いや、それは分かっているがね」
ホアンが言うとトリューニヒトが大きく息を吐いた。
『本当にその意味が分かっているのか? 帝国は自由惑星同盟を国家として認めると和平条約で約束した。そして暦にもその名前を使った祝日を入れようとしている。これから先も銀河連邦、自由惑星同盟という国家が有ったと伝えていくと言っているんだ。この宇宙に民主共和政国家が存在した事を否定しないと言っているんだぞ』
「……」
なるほど、そういう意味が有るか。ホアンが二度、三度と頷くのが見えた。
『レベロ、ホアン。帝国では地方自治には民主共和政を導入しようという意見が有るんだ。その声は決して小さくない。君達はもっとその事を重視すべきだよ。極端な事を言えば目的は民主共和政の存続で自由惑星同盟はそのための手段として利用する、そのくらいの覚悟を持つべきだ』
「随分な言葉だな」
『私は本気で言っているよ、レベロ。君達はごねて帝国の譲歩を勝ち取ろうとしているのかもしれんが……』
「そんなつもりは無い。いくらなんでもルドルフの誕生日が祝日にならないとは思っていない。だが議会が五月蠅いんだ。もう少し時間が欲しい」
私が答えるとトリューニヒトが“何も分かっていない”と首を横に振った。
『帝国は来年から新しい暦を使いたいと考えていた。フェザーンに遷都し新帝国成立を宣言する。分かるだろう、新しい国家に新しい帝都、新しい暦。全宇宙に新たな時代が来たと宣言するつもりだったんだ。それを君達がぶち壊した。帝国は新暦は再来年からの使用になると諦めている』
「……」
『気付かなかった等と言うなよ。帝国はスケジュールを公表していたんだからな。君達は当然気付くべきだったんだ。もし気付かなかったのだとすれば君達は自分達の立場を、自由惑星同盟が帝国の保護国なのだという事を理解していない。余りにも無神経過ぎるぞ』
「……」
『以前話した事が有るな。同盟政府には二人の主人が居ると。一人は同盟市民、そしてもう一人は帝国だ。その事を君達は忘れていないか?』
「そういうつもりは無いが……、同盟の内情を優先しすぎた、帝国との関係を疎かにしたという部分は有るかもしれない」
内心忸怩たるものが有った。ヴァレンシュタイン元帥が帝国に去った事で多少帝国を軽視したかもしれない。トリューニヒトがまた大きく息を吐いた。
『この件を進めているのはヴァレンシュタイン元帥だ。君達は見事に彼の顔を潰した』
「そんなつもりは本当になかったんだ、トリューニヒト。そうだろう、ホアン」
「ああ」
『だったらきちんと認識すべきだ。君達は彼の顔を潰したとね』
怒っている。或いはトリューニヒトはヴァレンシュタイン元帥から叱責されたのかもしれない。
『君達がどれ程嫌おうと彼は帝国最大の実力者なんだ。おそらくここ数年のうちに政治家に転身しリヒテンラーデ侯の後任者になるだろうと言われている。そうなれば名実共に帝国の第一人者だ』
「……」
『そして彼ほど同盟を、民主共和政を理解している人間は帝国に居ない。彼は君達の最大の理解者であり庇護者なんだ。その彼の顔を潰して如何する? 改めて市民に主権など不要だと確信させただけだ』
「……」
言葉が出なかった。ヴァレンシュタイン元帥は最大の理解者であり庇護者。トリューニヒトの言う通りだ。だが何処かで彼を敵視していたかもしれない。彼を無視しようとしたかもしれない。彼を困らせる事を望んでいたのかもしれない。だから交渉を引き延ばした……。有り得ないとは断言出来なかった。
『帝国の改革派の殆どが彼のシンパだ。彼らは民主共和政に好意を持っているが君達がヴァレンシュタイン元帥の顔を潰し続けるならば間違いなく民主共和政から顔を背けるだろう。帝国最大の実力者の顔を潰し続ける、そんな馬鹿げた政治制度を地方自治に取り入れる事が出来ると思うか?』
「いや、難しいだろうな」
『その通りだ。そんな事をすれば帝国は中央と地方の間でとんでもない混乱が生じかねないと判断する筈だ。分かるか? 君達の行為は民主共和政の存続を危うくしているんだ』
なるほど、自由惑星同盟の内情に拘るのは危険か。優先すべきは民主共和政の存続……。
「分かった、直ぐに議会を説得して新しい暦を受け入れる」
『それだけじゃ駄目だ。同盟政府から決定の遅延を謝罪し来年からの施行を希望するんだ』
「そこまで……」
『やるんだ、ホアン』
抗議しようとしたホアンをトリューニヒトが抑えた。
『一度はっきりと同盟市民にも理解させた方が良い。帝国からの要求は基本的に受け入れるべき物なんだ。詰まらない感情論で反対出来るものではないとね』
「……」
『帝国は三十年後の統一を目指して着々と進んでいる。同盟もその動きに合わせるべきだ。そうでなければ同盟を見る帝国の視線は徐々に厳しくなっていくぞ』
そして民主共和政を見る目も徐々に厳しくなっていく……。
「分かった、トリューニヒト。君の言う通りにする。ヴァレンシュタイン元帥に伝えてくれ、ジョアン・レベロがこれまでの非礼を詫びていたとね。そして改めて同盟政府から新暦の受け入れと来年からの施行を正式にお願いするだろうと」
私の言葉にトリューニヒトが“分かった”と頷いた。
トリューニヒトからの通信が切れると執務室には重苦しい空気が漂った。
「ホアン、自由惑星同盟は帝国の保護国か……。厳しい現実だな」
「ここに居ると忘れがちだがトリューニヒトは帝国に居る。嫌でもその事を認識せざるを得ないのだろう」
「そうだな、辛いのは奴も一緒、いや辛さは我々以上か」
そんな中でトリューニヒトは民主共和政存続のために戦っている。彼にとって我々の行動は歯痒く見えるのだろう。思わず溜息が出た。気が付けばホアンも溜息を吐いていた。
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