銀河英雄伝説~新たなる潮流(エーリッヒ・ヴァレンシュタイン伝)
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第二百九十一話 産みの苦しみ
帝国暦 490年 10月 31日 オーディン 宇宙艦隊司令部 エーリッヒ・ヴァレンシュタイン
「大使の仕事は大変だと思いますが健康に気を付けて頑張ってください」
「有難うございます、閣下。身に余る大任、心して努めます」
新任の大使、ユリウス・エルスハイマーが穏やかな表情で軽く頭を下げた。いや、そんなに感謝されても困るんだ。新婚の奥さん連れてハイネセンなんて俺なら絶対に嫌だな。もしかすると奥さんが乗り気なのかな。民生品は同盟の方が品質は良い。ファッションも帝国よりも多様性に富むだろう。
「大使の役割は非常に重要です。これから三十年、同盟政府を帝国に協力させつつ併合へと持って行かなければならない」
「はい、混乱させずにですね」
「そう、そして強制では無く納得させながらです」
エルスハイマーが表情を厳しくして頷いた。難しい役だ、だが誰かがやらなくてはならない。エルスハイマーは理性的で同時に胆力も有る。適任だろう。
「大使に軍人では無く文官である卿を選んだのもそれが理由です。軍人という人種はどうしても武断的になりがちですからね」
「そうかもしれません」
エルスハイマーが苦笑を浮かべた。
「でもそれでは拙いのです。大使館が相手にするのは政府だけでは有りません、百三十億の同盟市民もその対象です。彼らは必ずしも理性的ではない。何気ない発言の一つが彼らを憤激させ暴発させる事も有る。十分に注意して下さい」
「はい」
エルスハイマーが緊張している。脅かしのつもりじゃない、俺は本気で言っている。ラインハルトの行った人事でレンネンカンプを高等弁務官にした事は失敗だった、適任者では無かったと言うのがその評価だ。だが俺に言わせれば軍人を選んだ、その時点で失敗だったと思う。軍は上意下達だ。そして判断は武断的になり易い。理由は簡単、軍は軍隊という力を使うからだ。そして人間は使い慣れた方法を好む。文官が弁務官ならあんな混乱は無かっただろう。
ついでに言えばロイエンタールを新領土総督に任命したのも拙かった。結果的にじゃない、最初から間違っていたと思う。理由はレンネンカンプの場合と同じだ。多分軍人をトップにした方が万一同盟内で大規模な反帝国運動が起きても対処し易いと思ったのだろうが新領土総督には文官を任命しその下に治安維持軍として二個艦隊も配備した方が良かった。あんな帝国軍同士で相撃つような反乱騒ぎはならなかった筈だ。
「大使館には護衛は有りますが軍事力は有りません。ウルヴァシーの帝国軍に出動の要請は出来ますが命令は出来ない。ハイネセンに赴く前にウルヴァシーでルッツ提督、ワーレン提督と十分に話し合って下さい」
「分かりました」
「幸運を祈ります」
「有難うございます、閣下」
エルスハイマーが一礼して司令長官室を出て行った。安心しろ、エルスハイマー。お前の安全は誰よりも同盟政府が確保するために努力するだろう。帝国は同盟との和合を望んではいるが殴られて黙っているような事はしない。お前に万一の事が有った場合、そのペナルティは同盟政府の背骨を圧し折る程の物にしてやる。その事は既に同盟政府には通達済みだ。
この時期に出立となるとハイネセンに着くのは年が明けてからになるな。向こうに着いたら確認してもらう事は沢山ある。軍の縮小に伴う艦船の廃棄、それに来年度の予算編成方針、税収の見込み等だ。特に税収の見込みは国債の発行にも関係する。エルスハイマーは忙しい日々を送る事になるだろう。
エルスハイマーには十分なスタッフを付けたが大丈夫かな。参事官、駐在武官、書記官、理事官、外務書記、翻訳官、警備対策官、調査員。いろんな名目で人を出した。軍は当然だが財務、民生、内務からも人を出している。上手くやってくれれば良いが……。二月くらいに一度確認だな。
「閣下、そろそろお時間です」
ヴァレリーが俺を見ている。時間? 何の時間だった?
「軍務省で尚書閣下、統帥本部長閣下と御約束です」
「分かりました」
そうだった、軍務省で帝国軍三長官会議だ。イゼルローン要塞とガイエスブルク要塞の事を決めないと。それにイゼルローン回廊の清掃の件も有る。……ヴァレリー、そんな咎めるような目で俺を見るな。予定を忘れる事だってあるさ。そのために君が居るんだろう。準備をするか。資料は……。アレ、何処に行った?
フェザーン遷都が正式に発表された。特に混乱は無かった。まあ発表以前に同盟には伝えていたしフェザーンでもある程度噂にはなっていたから驚きは無かったようだ。公然の秘密が秘密ではなくなった、そんなところだ。フェザーンには六月中に移動し七月一日に新帝国成立宣言を行う。
新しい暦もその時から使いたいんだが未だ同盟側と調整中だ。新暦の使用は再来年からだな。但し新暦の元年は来年という事にしよう。ちょっと変則だが仕方がない。……同盟は相変わらず立場が分かっていない。皇帝誕生日が嫌だとかルドルフ大帝生誕記念日が嫌だとか馬鹿な事ばかり言っている。自由惑星同盟の建国記念日を祝日として入れるんだ、そのあたりを考えて欲しいよ。新帝国は同盟を否定しないという事を意味していると何故理解しない。……資料は机には無いな。何処にしまった? 落ち着け、ヴァレリーが妙な眼で俺を見ている。
これからも同盟の歴史、政治史、社会史、経済の変遷を学問として研究しても全然構わないと言っているんだ。民主共和政も研究してもらって結構だ。その上で何故帝国が民主共和政を否定したか、主権在民を否定したかも研究して貰えば更に結構だ。ルドルフの研究をしても全然構わない。公式の場では敬意を払ってもらう。間違ってもルドルフの糞野郎とは言わせない。しかし学問の対象としては批判しても構わない。ルドルフは賢くなかったと言って貰って構わないんだ。
フリードリヒ四世は劣悪遺伝子排除法を廃法にした。治安維持局は廃止されかつて不当に逮捕され罪人にされた人達の名誉回復も行われている。つまりルドルフは間違っていたと帝国は認めたんだ。帝国は古い殻を脱ぎ捨て新しい国家に生まれ変わろうとしている。新しい皮に古い酒を入れるんじゃない、新しい酒を入れようというんだ。そこには自由惑星同盟という酒精分も入れると言っているんだが……。何で見つからない? 溜息が出そうだ。
やっぱり原作と違って王朝交代が無いから新帝国という概念が浸透しないのかな。ゴールデンバウム王朝の始祖はルドルフだ。ゴールデンバウム王朝が続く限りどうしても神聖視せざるを得ない部分は有る。しかし旧帝国と新帝国は別物と考えるべきだ。王朝交代なき国家の交代。ルドルフは旧帝国の始祖であり新帝国の始祖ではない。新帝国の始祖はフリードリヒ四世だ。そこを理解させる必要が有る。……有った、有った。資料はカバンの中だった。入れたのを忘れていた。
「さて、行きましょうか?」
「はい」
俺が席を立つとヴァレリーが後に続いた。廊下を歩いているとヴァレリーが“閣下”と話しかけてきた。何だ? さっきの件か?
「帝国では将官になると研修が有るのですか?」
「ああ、それですか。そう言えば有りましたね」
ヴァレリーが妙な表情をした。
「閣下がそのような研修を受けられたような記憶は無いのですが……」
そうか、ヴァレリーが副官になったのは俺が准将になった時だったな。そのヴァレリーが今は准将か。月日が流れるのは速いな。
「私は免除されました。当時宇宙艦隊司令部の作戦参謀でしたからね。出兵も迫っていた。任務優先で許されたのですよ」
「なるほど」
ウンウンと頷いている。
「研修、頑張ってください」
「はい、有難うございます」
安心しろ。宇宙艦隊司令長官の副官を落とす様な阿呆は居ないよ。ごく普通の成績を取れば問題は無い、合格する。それにしても俺って将官の研修は受けてないし艦隊司令官の研修も受けていない。特例中の特例だな。あんまり嬉しくない。気分を切り替えよう。
やはり新帝国設立宣言だな。その中で新帝国は旧帝国とは別物で始祖はフリードリヒ四世であると強調する必要が有る。或いはルドルフの愚行を否定し謝罪するという手も有るな。難しいかな? ゴールデンバウム王朝の始祖の否定、一つ間違えると王朝そのものの否定になりかねん。そこまで同盟に配慮する必要が有るのかという批判が出るのは間違いない……。
ルドルフに代わる権威を作り出すのが先か。フリードリヒ四世を新たに始祖とする新ゴールデンバウム王朝の成立を宣言する。これまでの王朝を旧ゴールデンバウム王朝と名付け決別を宣言するわけだ。そしてフリードリヒ四世を新たな王朝の始祖とし大帝と呼んで尊崇する。いわば新王朝成立、或いは王朝交代宣言だな。
となると来年、新年の祝賀に会わせて新王朝成立を宣言するのがベストか。暦を来年から新しくする事の根拠にもなる。その半年後にフェザーン遷都で新帝国成立宣言を行う。始祖であるフリードリヒ四世の引退は当分無理だな。リヒテンラーデ侯に相談してみるか。フリードリヒ四世、皇女方にも話す必要が有る。如何なるかな、頭が痛いわ……。
帝国暦 490年 10月 31日 オーディン 新無憂宮 エリザベート・フォン・ゴールデンバウム
「心配していました。何時かは会える日が来るとは思っていましたが」
「御心配をおかけしました事、御詫び申し上げます。そして何の御役に立てずにブラウンシュバイク公、リッテンハイム侯を皆様から奪う事なってしまいました。申し訳ありません」
グライフス大将が頭を下げるとお母様、叔母様も首を横に振った。
「そんな事は有りません。大将には感謝しています。貴方が逃げてくれたから娘もエリザベートも無事でした。ブラウンシュバイク公からの依頼とはいえ苦しかったでしょう」
「妹の言う通りです。夫は貴方に詫びておいて欲しいと皆に頼んだそうです。本当に感謝しています」
お母様達、そして私とサビーネがグライフス大将に謝意を述べると今度は大将が首を横に振った。
「とんでもありません。小官は貴族連合軍の総司令官にしていただきながら勝つ事が出来ませんでした。御信頼に応えられなかった私に唯一出来る事を命じて頂いた事、公には感謝しております」
あの内乱の事は今でも夢に見る事が有る。叔父上が戦死した時の混乱、お父様の“来てはならん”の言葉、そして去ってゆく後ろ姿……。二度とお父様を見る事は無かった。あれが最後の姿……。
「そして今こうして皆様にお会いしてあの時の公の御命令が正しかったのだと改めて確信しました。ブラウンシュバイク公、リッテンハイム侯の墓前で良い報告が出来ます」
グライフス大将の口調はしみじみとしたものだった。私達を優しそうな目で見ている。胸が暖かくなった。お母様も叔母様もそしてサビーネも眼が潤んでいる。
「この後は如何なさるのです。決まっているのですか?」
叔母様が問い掛けるとグライフス大将がちょっと困った様な表情をした。
「侍従武官は如何かとヴァレンシュタイン元帥から打診を受けています。ただ私の様な反乱に加わった者が宮中奥深くに居ても良いものか……。正直迷っております」
お母様と叔母様が顔を見合わせ頷いた。
「受けて頂けませんか?」
「アマーリエ様……」
「実は陛下が退位を考えていらっしゃいます」
「なんと……」
「そして後を私にと」
「それは……」
グライフス大将が驚いている。お母様は元はブラウンシュバイク公爵夫人、反逆者の配偶者だった。本来なら皇位等という話は有り得ない。私も未だに信じられずにいる。
「本当なのですな?」
「ええ、本当です」
大将が深々と息を吐いた。
「来年、フェザーンに遷都しますがその後、退位されお姉様に皇位をというのが陛下のお考えでした。聞いたのは私達姉妹とリヒテンラーデ侯です。その場では結論は出ませんでした。陛下はヴァレンシュタイン元帥にも相談するようにと……」
皇位継承問題に元帥を加える。御爺様のヴァレンシュタイン元帥に対する信頼は非常に厚い。
「それで、元帥は?」
「時期尚早……。最低でも憲法発布までは退位は為されるべきではないと。リヒテンラーデ侯も同意見でした」
叔母様の答にグライフス大将が頷いた。
「そうですね、これからしばらくは同盟領内で混乱が生じるでしょう。帝国にも影響が出る筈です。時期尚早というのは間違っていないと小官も思います。御不満ですか?」
「いいえ、そんな事は有りません」
お母様が首を横に振って否定すると大将が安心したように小さく息を吐いた。もしかするとお母様が皇位を望んでいる、現状を不満に思っていると危惧したのかもしれない。でもそれは無い、お母様も叔母様も権力の恐ろしさをあの内乱で嫌という程理解した。それは私とサビーネも同じ。
「ですが立太子は避けられません。帝国の政治に関わらざるを得ないと考えています」
「なるほど。……小官に侍従武官を勧めるのはアマーリエ様を助けよと?」
「そうです。迷惑かもしれませんが受けて欲しいのです」
「信じられませんか? 今の政治家達が?」
大将の問い掛けにお母様と叔母様が顔を見合わせた。
「そうでは有りません。ただ……」
「……ただ?」
お母様が溜息を吐いた。
「私達は一度反逆者になりました。その事は忘れる事は出来ません。そうでしょう、クリスティーネ」
「ええ、私達は二度と間違う事は出来ない。信頼出来る人物に傍にいて欲しいと思います」
お母様と叔母様の表情は暗い。私達は父と叔父の事を恥じてはいない。それでも父と叔父が反逆者、私達はその家族という過去は重く圧し掛かっている。
「他に信頼出来る方は居ないのですか? アンスバッハ、シュトライト、フェルナーは如何しました? ブラウラー、ガームリヒは?」
「皆、それぞれ場所を得て仕事をしています。何かと私達を気遣ってくれますが……、常に傍にいるという訳では有りません」
グライフス大将が“なるほど”と頷いた。
「元帥が小官に侍従武官をと言ったのは皆様方の事を考えての事かもしれませんね。……私の役割は皆様方の相談役になる事。そして政府の方々と皆様方の潤滑油になる事。それで宜しいでしょうか?」
「勿論です。そうでしょう、お姉様」
「ええ。有難うございます、大将」
お母様と叔母様が喜ぶとグライフス大将がちょっと困った様な表情をした。
「どれほどお役にたてるか。ですが誠心誠意、務めさせていただきます」
お母様、叔母様が顔を見合わせて嬉しそうに頷いた。良かった。本当に良かった。
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