蒼き夢の果てに
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第6章 流されて異界
第140話 蛇神顕現
前書き
第140話を更新します。
次回更新は、
5月4日。 『蒼き夢の果てに』第141話。
タイトルは、『迦楼羅の炎』です。
その時、粘ついた冷たい空気が揺れた。
そう、風が吹いていたのだ。闇と死臭さえ含むその風が、冬枯れの枝を震わせ、硬い樹皮に覆われた幹を凍えさせ――
そして、蒼く変わって終った俺の前髪を揺らした。
「我、木行を以て――」
叫ぶように、謳い上げるように、独特の韻を踏みながら紡ぐ呪。
乱れる呼気を無理に沈め、荒れ狂う動悸も仙術の基本で抑え込む。それで無くても光を失った暗闇から感じるのは冷たく、妙に湿った大気。ぬめぬめとした何か得体の知れないモノが表皮の上を這いまわっているかのような、非常に気味の悪い状態。
しかし、同時に心の片隅に別の疑問も思い浮かべる。
曰く、弓月さんの心遣いが、彼女の優しさだけから発した物ならば問題ない、……と。
無償の行為。彼女自身に何の考えもなく、自然と俺の手助けをしてくれた。その可能性の方が高いと考えながら、それでも、別の可能性を考えて仕舞う自分に軽く自己嫌悪。
正にその瞬間!
強い眩暈にも似た感覚により一瞬、姿勢が揺らぐ。それに、まるで空気自体が震動するかのような微かな耳鳴り。視覚を奪われる事により、普段以上に研ぎ澄まされた感覚がこの異常事態をいち早く伝えて来る。
これは――
「失われし肢を再生せん。生えよ!」
先ずは左腕。その後、再生した左腕で導印を結び、より完成度の高い右腕を再生する。
そう、この異常な気配は間違いなく地下から発生する何か。いや、当然、現実世界の地下と言う訳ではない。それは象徴的な意味での地下と言う事。
高坂の中央公園に植えられた樹木。その木に綺麗な筋肉の断面を見せているはずの両の腕を当てて居る俺。
爪先に感じるのは太く張った根。其処で足場を固めるかのように両方の足に力を入れ、裂帛の気合いの元――
強いイメージ。太い幹から腕を引き抜く。本来、存在していないはずの斬り跳ばされた部分から先の腕を強くイメージしながら。
その瞬間!
「始まったようですね」
這い寄る混沌の分霊が短く呟く。その言葉と同時に目の前の樹木から引き抜かれる仮の左腕。
そして――
引き抜いた腕の勢いに負け、そのまま尻もちを搗く俺。いや、原因はソレばかりではなかった。
上空を覆って居た闇。月や星の光を遮り、等間隔で並ぶ人工の灯りさえも穢し続けていた闇が、その瞬間――
――崩れた。
そう、正に崩れた。そのように表現する事しか出来ない事態。高く層を織りなすように存在していた闇が崩れ、その結果、低空域でより密度を増した闇が、螺旋を描くように徐々に一か所へと集束して行く。
そして、同時に感じる地鳴り。まるで地下の深い、深い場所から響いて来るかのような不気味な地鳴りが全身を駆け巡り、空気自体が震えるような耳鳴りも続いている。
ぞわぞわとした何かが大きく立ち上がり――
「それでは皆さん、後の事はお任せしました」
「貪狼・巨門・禄存……」
非常に無責任な言葉を残し、消える強い闇の気配。この時、俺たちの傍らに存在したひとつの脅威が消え去り、それ以上の新たな危機が発生する。そして、ヤツの言葉に重なるさつきの声。
……と言うか、もう色々とヤバい!
「弓月さん!」
俺の右側に立つ少女に強く呼び掛ける俺。同時に未だ再生出来ていない右腕を彼女の居る……と感じられる場所へと伸ばす。
「はい、この腕を樹木に押し当てれば良いのですね?」
伸ばした右腕を掴み、そのまま目の前にある樹木へと押し当ててくれる弓月さん。俺の体勢は樹木に右腕を当てた状態での膝立ち。視力が回復しない以上、身体の安定を考えるのなら、この体勢が一番でしょう。
しかし――
「そのまま右腕をしっかり掴んではなさないでくれ!」
我、木行を以て――
本来の声を掛けた目的とは違う。が、しかし、それでも彼女が俺の身体に触れていて、更に俺自身が大木に触れているのなら問題はない!
「――場所を移動せん。運べ!」
怖かったら目を瞑っていろ!
かなり強い命令口調で叫ぶ俺。今はそんな細かい事に気を回す余裕などない。
そう、普段はこのような七面倒臭い術など使用せずとも、素直にシルフの瞬間移動を行使するタイミング。しかし、視力を失っている今、有視界に移動する術の行使自体が危険。
イメージ。俺の仙術の行使の際に重要なのは、如何に精確にイメージが出来るかどうか。
同時に目的の樹木を探す術も行使。危険なのは背後――虚無を湛えていた池。おそらくあの場所が、蛇神アラハバキが現界して来る場所。そちらの方向に近付くのは非常に危険と考えられる。
ならば――
顕われる相手の能力が不明である以上、確実に安全だと言える距離など分かる訳はない。まして、ここに辿り着くまでに準備して置いた防御用の陣が機能するかも、今となっては微妙。
あの這い寄る混沌がここに現われた以上、こちらの小細工など既に無効化している……ぐらいなら未だマシで、其処に罠を仕掛けて待ち構えている可能性も否定出来ない。流石にそのような危険な場所に対して瞬間移動を使って跳び込む訳には行かないでしょう。
重力を操る、と言う生来の能力を発動させた時と同じ宙に浮く感覚の後、前方に無限に落ちて行く感覚が続く。平衡感覚が揺らぎ、自らが上と思って居る方向が確実に上なのか。前だと思って居る方向が、実は下……重力が作用している方向なのではないか、と不安になる時間を体験。
無限に続くかと思われた落下の時間。しかし、それも実は一瞬の出来事。直ぐに自らの足のある方向に体重を感じ……。
この時、本当に生来の能力を発動。二人の体勢を崩さないように軟着陸を試みる。
同時に周囲の危険の有無のサーチ。陰陽の気を見鬼の才にて見定める術の行使。罠や何モノかの待ち伏せなどの有無はこれでかなり分かるはず。
そして、しっかりとした大地の感触を足と膝に感じた瞬間には、既に周辺の危険度の調査は終了していた。
「弓月さん、周囲の状況は?」
陰陽の気に危険な兆候は感じられず。周囲に存在するのは背後に移動を行うのに使用した樹木。足元には冬枯れの……。しかし、その中には春に芽吹く為の新しい命を宿した芝生。そして無機質な石や土の気配以外存在せず。
「先ほどの場所から五十メートルほどの距離――」
樹木から樹木へと瞬間移動を行うと言う、木行に属するかなり特殊な移動用の術式を予告もなく体験させられた弓月さん。しかし、それでも失調状態に陥る事などなく、現状の認識を行おうとした。
有希や万結が持つ精神の安定に近い物を彼女……弓月桜からも感じる。これは、それだけ彼女が優秀な術者であると言う事の証だと思う。
精神の安定を欠けば、其処に隙が生じる。術を行使する人間は、常に自分が安定した状態で術を使用出来る精神状態を維持しなければならない。簡単に狼狽えたり、激高したりする人間では安定した術の行使など出来る訳がないから。
正にそう考えた瞬間。
世界を軋ませる轟音が鳴り響く。
大地の奥深くから、何か致命的な物が砕けたような叫び。それに続き、上空へと立ち昇る赤い光輝。但し、未だ俺の視力は回復していない。つまり、この光は見鬼の才が捉えた神霊的な光輝と言う事。
そして――
突如、世界自体が身震いした。
傲然たる響き。古の城が築かれた山がすべて崩れ去るかと思われるほどの地鳴り。
大地自体が、まるで時化の海に漕ぎ出した小舟の如き様相を呈し始める。いや、それは現実に大地が揺れている訳ではない……と思う。ただ、精神に強く働き掛ける眩暈のような物を感じ、それがすべての生命体の平衡感覚を狂わしている、そう言う事。
まるで酷い乗り物酔い。既に真っ直ぐに座る事さえ難しく――
ええい、このままでは準備が追い付かない!
「我、木行を以て槍と為す、突き立て!」
「え?」
時間が足りない!
現状の確認の前に防備を高める事を優先。先ず、生来の能力を発揮。右側にいる弓月さんを自らの腕の内側に引き寄せ、二人の身体のバランスの確保と、弓月さんの精神の安定を優先させる。
その際に彼女が発した驚きや、その他をない交ぜにした感情は無視。彼女なら直ぐに状況を理解してくれる。
彼女にどれほどの実戦経験があるのか不明。しかし、次に起きる事態は間違いなく邪神の降臨。これは普通の人間の精神では絶対に正常な状態を保つ事が出来なくなる事は経験上、確認済み。流石に、その瞬間……この世界に奴が顕われる瞬間を、彼女の瞳に直接焼き付けさせる訳には行かない。
人の心音。それに、体温は心を落ち着かせる作用がある。更に、彼女の体温や生命の鼓動は、俺に強い覚悟をもたらせる物ともなる。
自分がここに存在している事を自覚し、未だ自分が立ち上がる事が出来る事を再確認する為に。失ってはならない物を……今ここで俺が倒れて仕舞ったら、俺の後ろには誰も居ないと言う現実を強く理解し、自らの覚悟を完了させる為に必要な存在として。
耳に痛いほど高まっていた心音が、少しずつ納まって行く。同時に、人間としてなら正常な感覚と言える、異界の存在に対する畏れから発生する肌が粟立つような感覚も、それ以上に恐れを抱いている彼女に対する責任から薄れて行った。
大丈夫、俺は未だやれる。未だ膝を屈する訳には行かない!
次に仙術を発動。背後の樹木の枝を槍に変化させ、周囲に放つ!
一瞬の内に、次々に大地に突き立つ槍。但し、これは攻撃を意図した物ではない。その槍に対して、俺の生成した龍気を注いで行く。形は五芒星と、それを囲む円の形に。
そして、その大地に尽き立てられた槍を触媒として、
「我、世の理を知りて地に砦を描く!」
俺と弓月さんを中心とした半径三メートルの陣――霊的な砦を構築。
最後に、飛び道具。これは当然、魔法による攻撃も同時に防ぐ防矢陣で砦を覆い――
既に俺の処理能力の限界が近い。……が、しかし、そんな事を言っていられる状況でもない。ここから更に次なる事態に対処する。急造の砦の霊的な防御力をこれ以上、向上させてもあまり意味はない。ならば――
そう考えた時、何かが起きた。
それは――――
それは凄まじい爆発――だったのかも知れない。
それは天地を貫く雷――だったのかも知れない。
それは耳を劈く轟音――だったのかも知れない。
今、この瞬間に起きた出来事を完全に五感で確認する事は出来なかった。おそらく俺を含む、その場に居る誰にも。それは現実に存在するありとあらゆる感覚であり、そしてまた同時に存在しない感覚でもあったのだ。
そう、おそらくソレは五感を超越した感覚。魔法と言う、現実とは少し違う世界に生きる俺に取っても未知の感覚であった事は間違いない。
世界の破壊と創造。それを一瞬の内に何度も経験させられた気分。それまで氷空を覆って居た闇が一瞬の内に押し流され、しかし、結果としてそれが清浄な気をもたらせる訳でもなく、ただそれまで以上に穢され、腐敗させられて行く。
そう言う、危機感が更に募っただけ。
そう、その場に顕われて居たのは――
吹き荒れる暴虐。更に、まるで千の弓矢が一斉に放たれたかのような轟音が続き、急ごしらえの霊的な砦を氷空からの水滴が濡らした。
そして、その俺の見つめる……現実の視力を失った俺が見鬼の才で感知している先に存在していたのは、巨大な赤い影。地上にへばり付くように存在している俺たちを見下すような巨大な畏れを纏った存在。
但し、生命の躍動を示すその色から俺が感じたのは……。
――死、そのものであった。
ええい、アイツが顕われてから、事態が一気に進み過ぎる!
対処する時間が足りない! かなりの焦りを押さえつつ、次の事態に対処する為に導印を結ぶ俺。今は防御力の強化よりも、砦内に存在する気を正常に保つ為の術式の起動を優先したのだ。当然これは、邪神の顕現が引き起こす精神汚染に対処する為の処置。
タバサや有希が正常だったからと言って、弓月さんが無事だとは限らないから。
「その眼は赤酸漿の如くして、身ひとつにして八頭八尾あり……」
その俺から解放され、視線を上げる事の出来るようになった彼女が、呆然とした雰囲気で小さく呟く。
その赤い巨大な影から立ち昇るのは瘴気。先ほどまでこの地を覆っていた気配が、すべてこの時の序章であった、そう感じさせるに相応しい状況。これは、通常の神が纏う神気と言うべき代物ではない。
これは――
「忍さん。……あれが、アラハバキなのですか。あれではまるで……」
八岐大蛇――
最後まで言葉にせず、そう問い掛けて来る彼女。ただ、一瞬、彼女が誰に話し掛けたのか分からなかった俺。それぐらい、何の前振りもない唐突な呼び掛けであったのだ。
但し、それも一瞬の事。こんな場所、更に戦闘中にこのような妙に甘酸っぱく、面映ゆいような思いに囚われている訳には行かない。
それに――
それに、皆まで語らずとも彼女の言いたい事は分かる心算。
何故ならば、先ほど弓月さんが漏らした言葉は――
「一九九九年に俺が出会った八岐大蛇は黄金龍だったから、素戔嗚尊や櫛名田比売が戦った多頭龍と言うのは、本来、アイツの事だったのかも知れないな」
――古事記内の非常に有名な一節。これを知らなければ日本の術者とは言えない、と言うレベルの内容。
その俺の言葉に重なるように上空で爆発する炎の霊気。……って、マズイ!
「長々と説明している暇はない。当初の計画に平行して、さつきの援護を頼む!」
一気に終末へと進み行く事態に強く舌打ち。
あの馬鹿、俺がまるで死に急いでいるような事を言っていたが、自分の方が余程危険な事をしているやないか。……と、続けて心の中でのみ悪態をひとつ。さつきには、未だ物理や魔法を反射する仙術を行使していない、と言うのに。
現実の目で確認する事は未だ出来ない。見鬼で感じる巨大な瘴気の狭間……上空に感じて居る巨大な炎の気は七つ。おそらく、そのすべてがさつき本人。
俺や弓月さんが後方へと退避、防御用の拠点を構築している間に、さつきは自らの戦闘の準備を整えた。そう言う事なのでしょうが……。
そう、あの貪狼、巨門……と言う呪文は、彼女が分身を作り出す時に使用する呪文。おそらく、平将門に六人の影武者が存在していた、と言う伝説に繋がる術だと思う。その本体も含め七人それぞれが独自に攻撃、術の行使も出来ると言う強力な術だったと記憶している。
但し、確かこの術には俺の飛霊と同じ弱点も持って居たと思う。
曰く、分身が受けたダメージすべてが本体の方にフィードバックされて仕舞う、と言う弱点。つまり、分身の一体が右腕を失い、更に別の分身が左脚を負傷したとすると、本体の方は右腕を失い、同時に左脚を負傷して仕舞うと言うかなりのリスクを伴う術。
あの時。前世でモンマルトルの丘が崩壊した夜に、確か妖精女王は居なかった……と記憶している。その時、……タバサが術を編むまでの時間を稼ぐ為にあいつが使用した術――
本来、あり得ない記憶。現実の俺が経験した経緯とは明らかに起きた時期と、関わった人員が違う赤い風車の事件。妄想の類と決めつけたとしても何の不思議もない内容なのですが、その時の崇拝される者ブリギッドが使用した術が、先ほどさつきが使用した術とまったく同じ術であった。
一瞬、何故か躊躇いの気を発する弓月さん。ただ、良く分からない間の後、
「すみません、武神さん。少し、向こうを向いていてくれませんか?」
そう話し掛けて来る。ただ、この言葉も意味不明。まるで昔話の中の見るなのタブーのような願いなのですが。ただ、そもそも現状の俺が視力を失っている事を彼女は知っているはずなのに……。それに、良く考えると、先ほどは確かに忍さんと話し掛けて来たのに、今は元の武神さんに戻って居る。
おそらく、先ほどは彼女がそれだけ失調状態であったと言う事なのでしょうが……。
偽名とは言え、異性から名前を呼ばれると言う事に、多少面映ゆいながらも、悪い気はしなかった。故に、今の気分は――
但し、これは自分が蒔いた種。弓月さんが求めている俺は、今の俺ではないかつての彼女を知って居た俺。何時かは思い出すかも知れませんが、今の俺には名前で呼ばれる資格はない。
少し苦い思いを噛みしめながらも、後ろを向き、右腕を木に当てる俺。この時間を無駄には出来ない。
「我、木行を以て――」
精神を集中。更に、再生された左手で導印を結ぶ事により術の完成度を高める。現在の体勢は膝立ち。故に、左腕を再生した時よりも身体の安定度は上。イメージは水に浸けた腕を引き抜くイメージ。
先ほど実行した時よりもスムーズに引き抜ける右腕。流石に短時間での再試行と、片手とは言え導印を結べるのは大きい。
弓月さんは……。背後、少し離れた場所に居る。どうやら、何等かの術を行使する為に俺の造り出した霊的な砦から離れたらしい。
流石に彼女の許しが出ない限り振り返るのは無理。ならば――
素早く導印を結び、口訣を唱える俺。有希と万結の元に残して来た飛霊の数は二。少なくとも後二体は呼び出せる。
上空からは激しい戦闘の気配が伝わって来ていた。俺の感知能力が捉えた戦況は、七体のさつきがその速度を武器に、数の上では有利な相手に一撃離脱を繰り返している。
さつきの能力。平将門の鉄身――刀も槍も通じなかったと言う伝説を利用した精霊の護りの強化と、俺が渡した如意宝珠製の黒のコートの防御能力だけが頼りの状態。おそらく、現代の科学的な攻撃ならば鉄身を貫く事は不可能でしょう。その上に仙人が造り出した宝貝の如意宝珠。それも、他者を護る時に最大の能力を発揮出来る『護』の文字が浮かぶ如意宝珠製のコートを貫ける攻撃は生半可な威力では難しい。
但し、相手は堕ちたとは言っても神。それも、おそらく主神クラス。更に、多頭龍の場合、その霊格は首の多さで決まる。眼が見えないので確かな事は言えないが、それでも、この地に顕われた龍の首は分身したさつきの数よりは多いように感じているので……。
自分が最前線で戦えない事がこれだけもどかしさを大きくさせる物なのか。
俺の周りの人間が、戦場に立つ俺を見てどう感じているのか。その事を改めて思い知らされたようで、少し反省する。但し、飽くまでも少しだ。
そう考えながら、その場に現われた二人の俺に軽く首肯いて見せる。こいつ等は俺自身。つまり、これから先に何をすれば良いのかは分かって居ると言う事。
こいつ等にわざわざ指示などする必要はない。
その首肯きを合図に、それぞれが、先ほど俺が行使した移動用の術式でこの場から消える飛霊。但し、あいつらも今の俺と同じ状況。木製で急ごしらえの腕と、視力は失われた状態。これでは牽制ぐらいの役にしか立たないでしょう。
最後は――
少しの決意と共に、自らの髪の毛を強く引き抜こうとした俺。用意してあった剪紙鬼兵符は上着と共に焼失。仕方がないので、伝承に従いより高度な方法での大量に投入出来る兵士の作成を考えたのですが、その時――
ガチャガチャガチャガチャ……。
金属と金属がこすれ合うような異様な音……まるで鎧を着込んだ武者たちが複数其処に佇んで居るような、そんな不穏な雰囲気を感じる。しかし、それは何故か聞き覚えのある物音。そして雰囲気に相応しい、巨大な、悪意のある陰の気配。
更に、弓月さんを取り囲むような負の感情――
この気配は覚えがある。これは――
「弓月さん、あんたは――」
蟲使い。
直接、相対すのは多分初めて。但し、蟲と戦った事はある。それは今年の二月、ハルヒと別れた後に訪れた学校。今にして思えば、あの夜に訪れた学校が今、俺が通っている北高校であった事が分かる。
そこに現われた化け百足。あれが蠱毒によって作り出された蟲と戦った最初だと思う。
「もうこちらを向いても大丈夫ですよ、武神さん」
その結界の中に居る限り、あなたがこの子たちに襲われる事はありませんから。
まるで何事もなかったかのような雰囲気で話し掛けて来る弓月さん。
……成るほど、彼女がハルケギニアの妖精女王に転生したのか、妖精女王からこちらに転生したのか、その辺りについては未だ定かではありませんが、魂の部分では異世界同位体などではなく、同一の存在である可能性の方が高い事は理解出来ました。
何故ならば今回の生命で彼女が、蟲を使って俺たちを守ってくれた事がありましたから。その時は蟲も支配する妖精の女王であるが故に、そのような術の行使も可能なのだろうと漠然と考えたのですが、あの能力はむしろ彼女が魂に刻み込んだ能力だった……と言う事なのでしょう。
振り返った俺。その事に因って、既に、後ろを向いて居た段階で気配では感じていた存在を更に強く感じるように成る。
大地を這う巨大な気配。鎧を着込んだ武者の如き不穏な音を発しているのは、間違いなく化け百足。視力を失っている為に確実とは言えませんが、それでも大きさは、十メートルクラスはあるように感じる。
そして、彼女の周囲をゆらり、ゆらりと覆うような陰の気の気配。それは彼女の周囲を飛び交う陰火のように感じて居るモノ。こちらは小さく、大きさもそれぞれが五センチ程度。多分、蝶か蛾のような蟲だと思われる。
但し、こちらは数が多い。おそらく、数千以上。少なくとも、今、弓月さんの気配を直接感じる事は出来ないぐらいに、彼女の周囲を取り巻いている事は間違いない。
彼女……今の弓月桜を、現実の瞳で見つめる事が出来ない事を少し感謝する俺。
しかし――
「蟲たちと感覚の共有。具体的には、此方の意志を遠方の人間に伝える事は出来るのか?」
しかし、感傷は一瞬。今はそんな事に費やす時間はない。
おそらく、彼女の絶望に近い諦めはこの蟲たちに起因する物なのでしょう。蟲を飼っている壺やヒョウタンの類を身に着けていない彼女が、今、この場所に蟲を召喚して見せた。更に、その召喚の現場を俺に見ないでくれと頼み込んだ上で。
俺の知識の中に存在している蟲使いの中には、自らの体内に――
但し、その事を哀しみ、傷をなめ合ってどうにか成る物でもない。魔法に――。世界の裏側に関わるようになってから俺に失った物があるように、彼女にも同じように失った物がある。ただそれだけの事。ならば、その能力もすべて含めて彼女なら、それも受け入れて……役に立てるしかない。
合理的に。此の世に存在して居る物にはすべて意味がある。その考えに基づいて。
「可能です」
小さいながらも、はっきりとした声でそう答えてくれる弓月さん。何故か、その声に重なる鈴の響きと……微かな衣擦れの音。
そして、一瞬の空白。見鬼が捉えたのは何かが動く気配。おそらく、彼女が首肯いたのだと思う。
「彼女に次の策。大祓いの祝詞を唱えられるのなら、唱えてくれ、……と伝えれば良いのですね?」
答えと同時に彼女に纏わり付くかのように周囲を舞っていた炎の蝶たちが、氷空高くに舞い上がって行く。微かな鱗粉……火の粉を撒き散らせながら。そして、足元に蟠っていた百足は、俺の施した結界の周囲を護衛するかのように動き回り始めた。
龍に取って百足が天敵ならば、蛇に取って百足も難敵である。流石に首だけで有に五十メートルはあろうかと言う巨大な多頭龍を相手に正面から挑むのは無理があるにしても、この砦の護衛役としてならば、弓月さんが召喚した化け百足でも十分に能力を発揮してくれるでしょう。
後は彼らと砦が健在の内に、あの蛇神を再封印すれば今回の事件も終了と言う事。
……と至極簡単な事のように、そう結論付ける俺。もっとも、そんな事が簡単に為せる実力があるのなら、そもそもこのような事態には至っていない。その事実は軽く無視。
そして――
「高天原に神留まり坐す、皇親神漏岐神漏美の命以ちて、八百万神等を神集へに集へ賜ひ――」
今までの事件の際と比べると、格段に安全な場所から祝詞を唱え始める俺。但し、安全だからと言って、心が穏やかであった訳ではない。
その俺の声に、比較的近い位置から少女の声で唱和が行われ……、
「神議りに議り賜ひて、我が皇御孫命は豊葦原瑞穂国を安国と平けく知ろし食せと――」
その声に重なる軽やかな鈴の音。続く弦の響き。
刹那、上空。今と成っては全体の五割を赤系統の光で埋め尽くされている其処で、異常に接近しつつ有った強い紅と巨大な赤い呪力の塊が再び引き離される。
そして一瞬の後、大音声。音自体に威力が籠められたかのような叫びが発せられた。
やれる!
流石に一矢で致命傷には至らない。しかし、そうかと言ってまったく歯が立たない訳でもない。弓月さんの放った鳴弦の一撃は、確かに赤い呪力の塊を貫いた。
アラハバキが現実界に顕現させられたのは未だ首のみ。おそらく、あの虚無を湛えた池に開いた次元孔の向こう側には、その首に相応しい巨体が控えているのでしょうが、それを現界させられないと言う事は、奴を封じている封印や、反魂封じの呪は未だ完全に破られた訳ではない、と言う事だと考えられる。
犬神使いの青年を殺させず、封印に成功した事が影響している、と考えても良いでしょう。
矢張り、かなりの深手を負っても尚、封印に拘ったのは間違いではなかった。そう考えながら、アラハバキの首の経過を観察する俺。鳴弦が貫いた場所からどくどくと流れ出る呪力。それは普通の生命体が、傷口から血液を噴き出す様に良く似ていた。
しかし――
しかし、俺の見ている目の前で其処に集まる巨大な呪力。周囲に撒き散らされた呪力を集め、更に異世界から供給される呪力により、鳴弦が貫いた個所から漏れ出ていた呪力を簡単に塞いで仕舞う。
もし、目が見えていたのなら、まるで映像を逆回しにした時のように回復して行く様をまざまざと見せ付けられた事でしょう。
但し……。現実に首を少し横に振って陰気に染まりつつあった心を、もう一度奮い立たせる。
そう、それがどうした、と言う気分。確かに、これほどの回復力を目にするのが初めてならば、絶望に心を満たされたかも知れない。どうやれば、あれほどの回復力を有する相手を倒す事が出来るのかと。
しかし、何度も言う。それがどうした、だ。今まで俺が相対して来た敵に、このレベルの回復力を持たなかった奴はいない。これは神と呼ばれる連中からすれば標準装備の能力に過ぎない。これだけで、あの赤い巨大な影を大きな脅威と取る必要はない。
「天の八重雲を伊頭の千別きに千別きて、天降し依さし奉りき此く依さし奉りし四方の国中と――」
今の回復する様を見鬼で視る事が出来たのは大きい。何故ならば、これで相手の弱点が見えたような気がしたから。
アラハバキは未だこの世界に完全に定着した訳ではない。この世界の地脈から、大気から、自然から気を吸い上げて自らの糧へとしている訳ではなく、未だ奴の潜んで居た異界より供給される呪力に多くを頼っている状態。
大祓いの祝詞で異界との接点と成って居る次元孔を封じて仕舞えば、あの驚異的な回復力を封じる事が出来、後は残滓を倒せば終わる。
罪、穢れの一切を祓う祝詞。少なくとも、この祝詞にも日本の歴史と言う強い存在の力がある。
アラハバキが信仰を失ってから久しい日本の現代社会であるならば、この十二月の末日に唱えられて来た祝詞が絶大な効果を発揮する事でしょう。
そう考えた刹那――
後書き
それでは次回タイトルは『迦楼羅の炎』です。
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